Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

母VS叔母、娘自慢対決!

父の兄(父の兄弟の三男。父のいた会社の社長。私の叔父でもある)の家には私と同い歳の従姉妹とその兄(私たちより4歳年上)がいる。兄同士は歳が違うので比較されることは殆ど無かったが、従姉妹と私は同じ歳というだけでいつも何かと比較され、叔母も母もお互いの娘が優位になるように必死だった。その結果、高校受験から就職、結婚の時期まで全て比較されることになる。もちろん他にも父方のいとこはいるが、この従姉妹以外とは比べられたことは無い。母方の従姉妹(私より1歳年上であり、住んでいる地域も違うため)とも比べられることは無かった。

そんな中で中学2年の中盤頃から出てくるもの、それは「高校受験」。前記のとおり私は高校受験をせず美容専門学校へ行くつもりでいた。だが母は何としてでも私を市内一の進学校へ入れたいと躍起になっていた。(この辺の話は「女帝の夢」でも書いているため、ここでは省略)

 

従姉妹は同じ市内に住み、歳も同じということもあって小さい頃から何かと比べられて、高校受験も例外ではなく中学に入った頃からは母や叔母からいつも学校の成績を比べられていた。従姉妹と私は同じ市内に住んでいても学区も住む場所も違うため、正直比較されても困るものであった。だが母も叔母も私と従姉妹を比べてはお互いに負けないようにと必死になっていた。正直それは私にとってはただ鬱陶しくて迷惑そのものでしかなかった。従姉妹とは小学生まではお互いの家を行き来したり買い物に出かけたり、泊まりに行ったりするなど、普通に仲が良かった。それが母と叔母の娘自慢のせいで私も従姉妹も嫌な思いをしてしまうとは、小さな頃の私たちには想像できるはずもなかったのだ。

 

これまでにいろいろと比べられてはいたものの、表立ったものは少なく私と従姉妹は本当に仲良しだった。だが、母や叔母による比較が異常なまでになったのは私が小学校6年生の頃に従姉妹と同じ英語塾に通い始めたこと。この塾は英語のほかに小学生(5、6年生が対象)には国語と算数も教えてくれていた。従姉妹や兄が通っていることもあり、私も~という運びになったのだ。私は周りの影響もあってか英語を習ってみたいと思っていた。説得をして私が何を言っても両親が「今は必要ない」と言ってなかなかそれを許してくれなかったが、兄が通っていることで何とか通わせてもらえた。私はすぐにそこの教室に馴染んで楽しく英語を勉強していた。だが、目に見えた母と叔母の競争はここからきっと始まっていたに違いない。

そこから月日が過ぎて私たちは中学に入り、学校は別々だが塾はまた同じところに通うことになった。中学からは5教科が対象ということもあり私はそのままそこに通うのもいいと思っていたのだが、そこの塾は週に5回も授業があり、それだけではなく兄のクラスでも私のクラスでも頻繁に授業終了の時刻になっても授業が終わらず1時間も遅く終わることも普通だった。両親はそれに不満を持って私たち兄妹を辞めさせた。兄は予備校系の塾へ通い始めて、私は暫く塾へは通わなかった。この時私は中学校1年生の1学期の後半。その後私は通信教育を始めて一度落ちた成績は再び学年390人中100番前後まで戻した。その間も従姉妹は以前と同じ塾に通い、中学卒業までその塾に通っていた。

中学1年も終わりに近づいたある日、突然叔母が我が家にやってきた。叔母にお茶を出す私、学校の宿題や入る予定の部活で使う楽譜のチェックがあったのでその日は叔母と母の席には同席せず自室に戻った。が、宿題の途中で自室の隣であるキッチンにお茶を淹れに行ったとき、母と叔母の会話が聞こえてきたので私はキッチンで立ち止まってしばらくその会話に聞き入っていた。叔母は母に「うちの子、あの塾にずっと通っているけど・・・成績は上がらなくてむしろ下がっている気がするの。本人にも話したんだけど、次の中間テストで今以上に悪い成績になったら今の塾を辞めて学区内の進学塾に入れるって言ったのよ。そしたら辞めたくないって泣きついてきて、将来に関わるのに・・・」と言ったのだ。

母は従姉妹の通う塾を良く思っておらずその塾の悪口を言いたい放題。そして母は私が「今は通信教育で勉強している」ということを叔母に伝えた。無論それで成績が上がったことも。私は別に塾を辞めて通信教育にしたから成績が上がったとは思っていなかった、というのも塾に通うよりも通信教育のシステムが大好きだったから。毎月テキストに付属しているテスト問題を解いて出版社へ送付すると赤ペンでちゃんと添削をしてくれて、おまけに添削をしてくれた先生からのちょっとしたメッセージや手紙が添えられていたり、そういういうところや同じくテキストと一緒に付いてくる楽しい授業のカセットテープを聞くのがいつも楽しみだったから。それは実際に塾に通うものと何ら変わらない、自分に合った勉強のスタイルだと私は自信を持てた。母もそれはよく知っていたはず。別に塾へ行って先生や他の生徒と顔を合わせて勉強をするだけが全てじゃないと思っていたこともある。他の生徒に変に気を遣わない、誰も勉強の邪魔をしない、先生の好き嫌いなどそういうものもなく、自分のペースで自分がやりやすい方法で勉強・・・、それが通信教育だっただけ。だが母の本心としては私にはちゃんと優秀な生徒を輩出しているような塾に行って欲しいというものだったようだ。だが私は塾には行きたくない、塾に行ったからといって必ず成績が上がるわけでもない。そんなものはいくら中学1年生とはいえ理解できていることだ。無論いくら評判の良い塾に通ったからと言ってもそこで自分に合った学習法を見つけられなければ意味が無い。だから通信教育で合っているのであればそれでいいはず。実際に母にこう言われたこともあった、「本当はちゃんと目の前に先生がいる状態で他の生徒とも一緒に授業を受けられる環境にいてほしい」と。やはり塾に行ってほしいという思いだったのだろう。だが母は叔母に私は通信教育に変えてから成績が上がったと強調していた。明らかに矛盾している・・・

そして叔母は塾に通わせているのに成績が叔母の思うように上がらないことに対して焦っていたのだろう。その後も叔母はしばらく従姉妹の成績の話しばかりしていた。

 

母は叔母が帰宅した後、私に叔母との話をし始めた。

「従姉妹ちゃん成績が上がらないんだってね、それでもしかしたらあの塾を辞めるかもしれないのよ」

と。正直そんな事は私にとって関係無いことだ。だから話をされたところでどうリアクションをすればいいのか悩むだけだった。そこで私は「母も叔母も私と従姉妹を比べている」と悟った。そして私は母に

「・・・、じゃあ従姉妹ちゃんも通信教育にすればいいんじゃないの?」

と伝えた。通信教育に変えてからの成績の上がり具合は学校の担任の先生からも驚かれて褒められたほどだった。私もこうして目に見えて分かるものに対しては素直に喜んだ。兄も私の成績を聞いて喜んでくれていた。だからぜひ卒業まで通信教育で、と思ってしまったぐらい。

その後中学二年になってもやはり叔母と母が会うたびに話題に上がるもの、必ず私と従姉妹の成績のこと。そして母は私の通信教育を勝手に解約してしまい、学区外の進学塾に私を無理矢理入れたのだ。母曰くここは進学校への合格実績が高いところだと。私としては通信教育のままでいいと思っており、何度も通信教育を続けたいと説得したが結局やめさせられてしまったのだ。どうやら母は私の現在の成績がいくら以前よりも上がったとはいえ気に入らなかったうえに、叔母に負けたくない気持ちで一杯だったのだろう。そしてたどり着いた先は進学塾。私はとりあえず通うことにした。

塾に入って思ったこと、進学塾と聞くけれど授業中常に他の生徒の私語でうるさく、不良の生徒も多い。授業中に先生がその生徒に対して何度も注意をするが、そのうるさい生徒たちは聞く耳を持たず私語はエスカレートするばかり。私は勉強に来ているのにそんな馬鹿な生徒たちの妨害ともいえる雑談に邪魔をされたくない、そう思いある授業中に「静かに!」と言い放った。それよりも前、塾に通い始めた頃の私は母に「授業がうるさすぎて集中できない。通信教育に戻りたい」と話していたのだ。だが母は「塾に行くことがいい!塾に行かなきゃ意味が無い!」と何としてでも私を塾に通わせようと必死だった。そして通信教育に戻ることも許されず、うるさいままのその塾に止む無く通って数週間でその「静かに!」と他の生徒に注意をすることになってしまった。そしてその日の授業が終わって塾を出ようとしたとき、私は雑談でうるさくしていた男子生徒数名から暴力を受けてしまったのだ。どうやら私の行動が気に入らなかったのが動機になったようだ。私は蹴られた弾みで塾の出入り口の階段に膝をぶつけてしまい、ケガをしてしまった。これを機に塾に行かなくてよくなるかな、という期待はその後脆くも消え去ったが・・・。そしてその日迎えに来ていた母が逃げてきた私から事情を聞くとすぐさま塾の建物に入り塾長に事の経緯を話したのだ。そして翌日、塾長から我が家に電話がかかってきて母が話を聞いた。電話に出たのは私で、塾長は開口一番に私に前日の一件を謝罪していた。正直私はどう答えたらいいのか分からずただ受話器を持って佇む他無かった。そして母に電話を変わり、母が話を聞いた。普通だったら「うちの娘をそんな危険な子がいるところに通わせられません」となるだろう。それが、塾側で私に暴力を振るった生徒を辞めさせたことで解決することになったようだ。母は電話口で「主人とも話をしたが、娘をこれからもそちらに通わせたい」と塾長に話していた。父とも話をしていたのか・・・、私はそれを見ていないが。そして電話を切った母が塾長の話していたことを私に伝えてくれた。対象の生徒は退校処分となり、今後はこのようなことが起こらないようにすると約束してくれた。ちなみにその主犯格の生徒は在籍する中学校でも評判が悪い不良だったらしい。言うまでもなく学校でも問題を起こしてばかりで後に聞いた話では学校外で暴力事件を起こして警察のお世話になり、その後少年院に送られたそうだ。

母はもうこんな問題児がいなくなったのだから引き続き同じ塾に通ってほしいと私に懇願してきた。だが私は塾になんて通いたくない気持ちが既に出ており、それに母の態度も正直気に入らなかった。というのも私自身は暴力を振るわれてケガをして、怖くて怯えて泣いていたのに母はそんな私に向かって「泣いてんじゃねぇ!いつまでも泣くな!」と怒鳴りつけて励ましもしなかった。母はきっと悔しかったのだろう、しかしそれは母がどんなに悔しい思い、悲しい思いをしていても決して子供にぶつける感情ではないと思う。そんなこんなで私の新しい塾生活が始まって母はさぞかし満足だった。私は満足していなかったけれど。

 

 塾通いも半年を過ぎたあたりから、また授業が「授業妨害か!」と言うほどに塾の教室内がうるさくなってしまったのだ。既に授業妨害を通り越して学級崩壊・・・それに近いレベルとも思った。それも毎回同じ生徒が「どんちゃん騒ぎか?!」と思えるレベルの大騒ぎをして授業を妨げてしまうのだ。ここでも私は理由を話して母に塾を辞めたいと申し出ているが却下されている。そこで私が取った行動は「塾へ通うことを拒否」するものだった。塾の時間になっても部屋から出ることなく、ひたすら塾へは行きたくないと連呼していたのだ。母も困り果てて兄もそれを見て「このままじゃ成績が上がらないし高校にも行けない」とまで言い出した。私はそこでも「授業に集中できない。それこそ授業妨害だ!そんなところには行きたくない」と主張し続けたが、それが数週間続いたある日、私は母に無理矢理塾に連れて行かれた。それから授業妨害の生徒がいる中でも必死に授業を聞くようにした。実はこの時も母は従姉妹を引き合いに出して私を説得してきたのだ。やはりここでも出たのは「従姉妹ちゃんに負けたくないでしょ?」だ。負けるも勝つも、その個人に合った勉強法でないと意味が無いのだが。それこそ母の望む「良い学校」になんて入れないし、実際に入学してからも勉強についていけないなど、問題が起きてしまうだろう。それを母はどう思ったのか分からないが、ひとつ言えることはやはり母は私の希望というよりも従姉妹や叔母に負けたくない一心だったのだ。

 更に時は過ぎて中学校3年になると、母による比較は度を越えるものとなった。そこで判明したのだが、叔母は従姉妹を高専に入れたがっているようだった。一方母は相変わらず私を市内一の進学校に入れたがっていた。だが私の成績では正直入れる自身は無かった。そこで母は推薦を狙う!と私に発破をかけてきたのだ。母は私が市内の私立高校受験の学校推薦を受けることになったことを叔母に話してしまった。推薦の種類は学業推薦。中学3年当時私は常に成績は学年約390人中50~70番ほどだったので実は担任から県立高校(中堅の進学校。ここも評判は悪くない)への推薦の話もあったが、母が望む市内一の進学校は県立でも推薦枠を設けていないために推薦を受けられなかった。そこで私立高校の推薦を受けることになったのだ。学業だけではなく、部活での成績も優秀であった。県大会やその他のコンクールへの出場実績もあり私は入部からずっとレギュラーメンバーであった為だ。その他学級委員や学級の役員(会計)なども勤めたこともあり、内申書で決して悪いといわれるようなものでもないはず。事実内申書については担任の先生も書かなければいけない悪いものが見つからないと面談で言っていたぐらいだから。ちなみに私の通う学校では受験する高校への推薦を希望する生徒は最終的には学校の判断に委ねることにはなるが、先生に推薦希望を申し出ることは可能だった。例えば部活動などの推薦であったり、受験する学校に入って学業を頑張りたいなど。反対に従姉妹の通う学校では保護者や生徒からの要請での推薦が出来ないことになっており、従姉妹本人の成績も中の下ほどであり、部活(バレーボール部)も殆ど幽霊部員でありその学校のバレーボール部も大きな大会に出たような実績など皆無だったので本来なら学業でも部活でも推薦が貰えないはずだったのだが、叔母が学校に頼み込んで従姉妹は何とか推薦してもらえることになり、私は従姉妹と同じ学校を受験することになった。それを母から聞いた私は正直叔母に対して「ずるい」という思いよりも「気持ち悪い」という思いを抱いたものだ。

受験の結果、従姉妹よりも成績優秀であるはずの私が不合格、従姉妹が合格する結果になった。叔母は万々歳だっただろう。恐らく無理矢理推薦を受けて受験して合格した時点で、これで浪人せずに済んだとでも思っていたのかもしれない。私は暫く叔母にも従姉妹にも会いたくなかった。この推薦受験のおかげで従姉妹とは険悪な仲になりかけた。余談だが周囲ではこの年の翌年に県内で国体があったので、「国体に出る選手を輩出するためにテストの成績が良くても所属する部活が文化部よりも運動部の方が有利」などという噂も実はあった。特に私立高校の場合はそれが合否に関係していたのではとも言われていた。実際私と同じ学校からの受験で推薦入試にて合格したのはスポーツ推薦の生徒のみであり、学業推薦組は全滅してしまった。学業推薦組も実は成績は上から中の上ぐらいの子ばかりだった。私は家に帰って不合格だったことを私は両親に伝えた。だが両親ともに「世の中そんなに甘くない」と言い、母に限っては「あんな学校も受からないの?本当にみじめだわ!恥ずかしいわ!」と暴言を吐く始末。結局私は誰のために受験したのだろう、とまで思ってしまった。この後隣県にあるキリスト教系の学校を受験しないかと担任から話をされて推薦だったら入れることも伝えられ、願書を持って帰宅したが、これは猛反対されてしまい受験しないことになってしまった。

その後従姉妹はしばらく「私と同じ高校に通いたかった」と嘆いていたが、私はそれを素直に聞いてあげられずにいた。むしろ従姉妹が私に対して私立高校に合格したことを自慢していると思っていた。そもそも受験して合格していたのは私の方なのに・・・、それが何だか従姉妹はズルして合格したような感じにも受け取れたから。叔母が本来なら推薦の申し出が出来ないはずなのに無理矢理学校に頼み込んだというところで悪意さえ感じたからだ。それに対して叔母は鼻高々だったのは言うまでも無い。

その後私は県立の商業高校の情報処理科に合格した。周りからは「受かるはずが無い!」とまで言われていたが、普通に合格したのだ。ここでもすったもんだの末、なのだろう。前記のとおり母の勝手な奇行に巻き込まれた形にはなったが、母の望む従姉妹の通う学校よりも偏差値の高い学校であり、当時は市内一の進学校並みのレベルであったので、結果オーライだった。だが、私は合格したとはいえ本当はその学校に行きたくなかった。自分が学びたいものを学べないことを知っていたからだった。母曰く高偏差値で将来使える資格もたくさん取れるとの事、だがそれは当時の私にとってはどうでもよかった。芸術や英語の勉強が出来ない・・・と心の中ではずっと嘆いてたのだ。

 

ちょうどこの頃、長く闘病していた父方の祖父が亡くなり、私の県立高校の合格発表の日にお通夜が行われることになったのだ。そこで出てくるもの、それは葬儀に着て行く服だった。私はその時点では一応中学校の卒業式を終えてはいたが、3月末日までは一応中学生という立場という認識で中学の制服を着て参列することにしたのだが、従姉妹は進学する高校の制服を着てそこに参列していた。私はそれを見て何とも言えない複雑な気持ちになり、正直「自慢でもしているの?」という気持ちになった。その高校の制服を着ていても実はまだ中学生、明らかに自慢にしか思えないだろう。そして今風に言えば「痛い人」。同時にこれは叔母がけしかけたのだろうか?とまで勘繰った。そしてそれを見て母が私に言ったのは、「あんたはもっといい学校に入るんだから、それでいいでしょ?」と。だが私は母に「学校の制服だけで人を比較するなんて馬鹿みたい。マジくっだらない!」と一蹴したのだ。無論葬儀の時点では受験した学校には合格していたのだ。

その後高校生活を送る中で私は挫折を繰り返しながら、1年生のうちに卒業するのに必要な資格をすべて取得した。そんな中、私があらゆる検定に合格するたびに母は従姉妹や叔母にそれを得意げに自慢していた。ここでも母や叔母の娘自慢が続いていた。それを見るたびに本当に情けない気持ちになる私、これだけが勝負じゃないのにと思うしかなかった。これ以外にもやはり高校生活の中で自慢できるものを探しては母は私と従姉妹を比較していた。

 

従姉妹とは受験だけじゃなく、結婚するまであらゆることを比べられることとなった。当の本人たちにとっては本当に迷惑なのに。そして私たちが高校3年生になると、今度は就職やら大学進学やらで比べられる始末。私は事の成り行きで仕方なく無理矢理縁故で保険会社に就職することになったのだが、高校三年の冬休みになっても縁故就職先からなかなか内定がもらえなかった。母はそんな私を「一家の恥」「不良債権」だと貶した。その年に従姉妹の家が新築したこともあり、一家で新築祝いに呼ばれたが母は私を本当はその場に連れて行きたくなかったと私の前で話した。母曰く「あっちは短大への進学が決まっているのに、こっちは何も決まっていない。比べられてこっちが恥をかく」と。そして私は母にこう聞かれた。「比べられて悔しくないの?」と。私はその一言に腹が立った。じゃあ私がたとえ一流企業に就職したとしても、名の知れた大学に進学して国家試験に合格したとしても、それは私の将来を喜ぶのではなく母の見栄のためだったのか?母は口では「あなたの将来のため」と言っていても実際は両親のため?そういう思いで一杯になって私はその場で取り乱した。そして母に「悔しいよ、けれど・・・お前らみんな殺したいぐらい憎らしいわ!今すぐにでも消えてほしい!何がしたいんだよ、人のことを利用しやがってこの馬鹿親が!こんなの前から知ってたわ、お前らにとって私なんて単なる人形なんだろう?どの学校に入ってってのが、お前らの誇りなんだろう?私の人生なんて関係ないんだろう?」と母に怒鳴りつけていたのだ。母はその一言が悔しかったのだろう、私に応戦するように「人を殺したいだ?私はお前をそんな子供に育てた覚えは無い!」と手当たり次第私に物をぶつけてきた。私も半狂乱の状態で「じゃあ何で嘘ついてまで履歴書にあんな馬鹿みたいなこと書いて保険会社に入れようとしてるんだ(後記)?私はそんなこと望まない!いつも私の行く道を塞いでいたのはお前らだろうが!今すぐ死ねや!お前らがまともな親だったら私は死ねなんて言わねぇよ!」と母に怒鳴り続けた。

そう、ここで気づいてしまった。私は両親に利用されていた、全ては両親の名誉や見栄のため。だから無理にでも親族の誰よりもいい学校に入れていい会社に入れるのが自分たちのステータスになるのだと。だからこそ、余計に腹が立った、腸が煮えくり返った。

兄も両親も私の望む将来は全て否定し続けた。美容師の夢も、芸術や英語の勉強をすることも、留学をすることも、大好きな音楽を続けることも、好きなアイドルやバンドを好きになることも、バンドでギターを弾くことも、部屋にポスターを貼ることも、絵を描くことも。それらを捨ててひたすら勉強することだけを私に要求してきたのだ。無論恋愛なんて絶対にあってはならないとまで(こちらに関しては内緒で恋愛していたときもあった)。好きなもの、好きなこと、やりたいこと全てを禁止されてずっと勉強しろ勉強しろと罵られる。みんな勝手に私の道を決めて大騒ぎをして、やりたくないものまで押し付ける。時には人格まで否定され・・・。しまいには履歴書に嘘まで書かせて私を一流の保険会社に入社させようとしている・・・。母と怒鳴り合いをしたその後、母は私に対して「お前なんて産まなければよかった!出て行け!」と怒鳴りつけてきた。そこで私は泣きながら家を出た。

家を出て行き着いたところは地元のターミナル駅。親に怒鳴られて家を出たのはいいけれど、正直行くところが無い。しばらく駅周辺をうろうろしていたが、さすがにこのままではと思って進学校に通う男友達(以下アキラ)に私は駅前の公衆電話からポケベルを打った。アキラは私をすごく心配してくれて、私のポケベルに「イマスグイクヨ」「ドコニイル?」とメッセージをくれて暫くして私の元に来てくれた。彼は単なる男友達であり、私と境遇がほぼ同じという人だった。そして彼は自宅へ私を連れて行ってくれて、暫く匿うと言ってくれた。アキラとはお互いに好意などは無く、本当に気の許せる仲だった。実はアキラも親の言うとおりに勉強漬けの生活をさせられており、将来の夢も何度も踏みにじられており、受験した大学も親が決めたところだった。そして将来は国家公務員や官僚になれと言われ、そうせられると嘆いていた。無論アキラも表面上はそのような言うことを聞く「優等生」だったが、裏では気に入らない人をリンチしたりなどの悪さをしていた。そう、彼は私と同じ裏番仲間だった。私も高校2年の終わりごろからその仲間になっていたのだ。私も高校2年で将来や家族に絶望し、ちょうどその頃に出会ったアキラと話したり会ったりしているうちに裏でリンチをするようになっていった。無論私も表では優等生のいい子を装っていたが、裏では下級生や仲間を使ってリンチなど悪事を仕切るようになっていた。そして学校でも気に入らないクラスメイトに悪態をついたり暴言を吐くなどもしていた。

そんな付き合いもあったせいか、彼は私を理解してくれたのだろう。彼の両親に見つかることなく、私はその日彼の部屋に泊まった。次の日に母が不在であることを確認して帰宅して自室に閉じこもった。私が家に戻っていると知って母は自室にノックもせずに入り込んだかと思ったら、母は私に半分笑ったように謝罪してきた。それも「昨日はごめんね~、言い過ぎちゃった」というようにまるで反省をしていないような感じだった。私はそれをみて心底呆れ返った。それ以前に昨日どこに泊まったのか?などとは一切聞かれることは無かったのが救われたが、本当はそこを聞いて欲しかった。恐らくこの時母は私のことなど心配もしていなかったのだろう、だからあんなにヘラヘラした謝罪になったのだろう。それから1週間ほど私は両親とはろくに顔を合わせず口も聞かなかった。

 

家出から戻って数日後、私の元に就職試験を受けていた保険会社から内定の知らせが届いた。両親はとても喜んでいた。私はそれを見て正直「私のことを喜んでいるのではない」と思った。その後すぐに親戚中に私が保険会社に内定したことを両親によって広げられた。母も勝ち誇った顔だった。無論叔母にもその話が伝わった。それもあって母は勝ち誇った顔をしていたのだろう。その後母はずっと私が名の知れた保険会社にいることを従姉妹や叔母の前では鼻にかけて自慢をしていた。

 

実は私のこの就職には考えられない話があった。私自身学生のうちに普通に就活をしたことが無いのだ、むしろその機会を与えられていなかった。本当はずっと大学へ進学することを望んでいたが、高校2年の終わりに突然両親の知人を「親族(叔母)」だと偽ってその人が見張る中で履歴書を書かされたうえ、大手企業へ縁故入社させようと根回しされてしまったのだ。加えてちょうどこのあたりから突然母からブランド品の服(但しこれは自分好みではない)などを買い与えられるようになり、外食に連れ出される機会が増えた。行く場所は高級な料亭や会社の社長が接待で使うような個室付きの焼肉屋。それから付き合いなのか興味のない売れない歌手のディナーショーにも何度か連れて行かれた。ここでいうブランド品や外食はそのための見栄とも思われる。その企業に私派は入社するが、私はやる気を見せなかったうえに、何故ここに自分はいるんだろう?という疑問がずっとついて回った。知人を叔母と呼ぶようにとも言われた。

 

ちなみに従姉妹はあまり名前を聞かないような東京の短大に進学した。従姉妹本人曰く本当は四年制大学へ行きたかったらしいのだが、不合格となって今の短大にしたのだという。無理矢理就職させられた一流企業と、ほぼ無名の短大へ進学・・・。どちらが勝ちなのかは判断しかねる。そして母と叔母の比べ合いはここではまだ終わらない。

就職してからだが、従姉妹の家に行く時や従姉妹と会う時には、母から「ブランド物で身を固めるように」と言われていた。そして車も自分で運転して従姉妹の家に行くように言われていた。当時従姉妹は車の免許を持っていなかったうえに学生の立場。母親は恐らく「一流企業に入ってブランド物を持って車も自分で運転しているのよ!」と自慢してこいとでも思っていたのだろう。正直これも私にとっては本当にあほらしいとしか言い様が無い。

 

そして私の就職から2年が過ぎた頃、従姉妹が短大を卒業した。母は従姉妹は短大を卒業したが就職が決まらずオーストラリアに留学することになったと叔母から話があったというのだ。そこで母は私がいる前で「就職が決まらなくて留学って、現実から逃げているとしか思えない。あなたはいい会社に就職出来てよかったね~」とここでも従姉妹を馬鹿にしたような発言をした。私はそれを聞いて本当に母も叔母も哀れだとしか思えなかった。留学であろうが大学に編入しようが就職しようが、それは個人の自由なわけで誰かに言われたからするものでもないと思ったからだ。それに留学も就職も、その人には何か目標ややりたいと思うことがあってするものなんだから・・・。その後2年ほどしてから従姉妹が帰国して、就職活動の末に派遣社員として営業の仕事に就いたときにも「名の知れない短大を出て就職できなかったから留学・・・、それじゃろくな職にも就けるはずがないね」とここでも従姉妹を馬鹿にする発言。一流の会社で勤めていた私の立場を引き合いに出して優位に立とうと必死になる。そんな中私もその後偶然にも従姉妹と同じ派遣会社に所属して同じ派遣先となる(部署は違うが)。そこからまた小学生の頃のように従姉妹とは仲が良くなった。ここまではまだ良かったのだが、高校受験、大学、就職となれば・・・母も叔母も比べることといえば、それは「結婚」の時期。実際私が結婚するまで叔母や私の家族が私たちの婚期を比べるだろうとはさすがに思いもしなかった。というのも私が28歳の時に母とは死別していたからだ。叔母もさすがに今更こんなこと・・・と私はそう思っていた。

 

だが、私の思いとは裏腹に今度は父と兄が私の婚期について従姉妹と比べだしたのだ。「母が既に亡くなって叔母ともそう会う機会が多いわけでもないのに、それでも比較されるものなのか・・・」とまたここでも何とも言えない気持ちになった。母が亡くなって数ヵ月後に旦那と出会い付き合って遠距離恋愛を経て、母が亡くなった翌年の年末に私は結婚をした。そこで兄と父に「従姉妹より先に結婚出来て良かったな。20代で結婚出来てよかっただろう、小さい頃はいろいろ比べられたからね」と従姉妹と比べていた。特に兄は私が幼少の頃から両親や叔母から従姉妹と比べられては劣勢にいたことをかわいそうに思っていたのだろう。それもあってこの発言となったのだと思う。だが言われた本人からすれば決して嬉しいとは思えない。別に何歳で結婚しても構わないのだから。それに結婚してもその結婚が上手く行かずに離婚となればそっちの方が・・・となる場合もあるだろう。私たちはそうではないが・・・。

ちなみに従姉妹は私たちの結婚から約3年後に結婚した。私自身彼女が結婚をしたときは本当に嬉しかった。そういう彼女を支えて人生を共に歩んでいく伴侶が見つかったのだと・・・。

 

さすがに子供を儲けた時期について比べられることは無かったが、周りがここでも私と従姉妹を比べていたら私もさすがに父や兄を軽蔑していたかもしれない。父や兄だけじゃなく、私たちを比べた者をすべて軽蔑していただろう。そういう事については周りは確かに比べたがるものだろうが、当の本人たちにとってみれば本人がどの道に進もうがいつ結婚しようが、それは知ったことじゃないのでは?と思う。

 

従姉妹は幼い頃から両親である叔父叔母から(私から見た感じでは)蝶よ花よと育てられていた。やはり両親の立場もあったのだろうと今となればそう理解することができる。そのせいなのか、それともいつも着飾った叔母の影響もあるのか、従姉妹と従姉妹の兄は小学生から高価なブランド物の服を着ていた。大人になった今でもそこそこ高いブランド物が好き。だが従姉妹については社会人になったあたりからファストファッションも好む。基本的に古着やヴィンテージジーンズを好む私とは正反対である。私はブランド物はそんなに好まない。むしろ自分でカスタマイズした小物だったり、古着屋やセレクトショップで買った服などに手を加えて自分好みにアレンジして服を着たりすることが好きなのだ。それはやはり幼少の頃の冷遇が影響しているのだろうと考える。

そして従姉妹はそういう私に対して彼女は「古着を着るのが信じられない、古着よりもブランドの服の方がいいよ~」などとブランドを勧めていたこともあった。ちなみに彼女は私がブランド物をあまり好まないことを知っている。ここに書いたとおり従姉妹と私ではあらゆるものの好みは正反対である。たとえば従姉妹は酒好き。私は酒が飲めない。そして従姉妹がフリフリした女の子らしいものが好きであるなら、私は中性的なもの(男性寄りになることもある)を好むというように。

学校の勉強でも得意分野は正反対である。私は美術や音楽といった芸術系に長けているが(理系か文系か?と言われれば文系に寄る理系(情報系の出身のため)だが・・・)、反対に従姉妹は文系の科目を得意とする。それから彼女は本当に空気が読めないのか?と思う言動が非常に多く、私は幼少の頃からそれにうんざりすることも少なくなかった。言い換えれば「無神経」、本当にその人を思っての言動なのか?と思えてしまう。たとえば父方の年上の従姉妹に会って何かを買ってもらったとか、私がその場でそう言われてもただ羨むだろうことをそのまま話してしまったり、幼い私が描いた絵を「こんなもの無い」などと貶すなど。これも周りから注意をされても言い続ける。そしてすぐに自慢をするなど。本人に悪気は無いのは分かるが、幼い私でも「従姉妹ちゃん家は何だかな~」と思えてしまった。従姉妹だけじゃなく従姉妹の兄も何だかいつもお高く止まって気取っていると思えてしまっていたのだ。恐らくこちらも両親の影響なのだろう。

 

そんな中思うこと、それは従姉妹と私は正反対な部分が多いこともあり、そのふたりを比較するのは本当に「くだらない」の一言に尽きる.

 

ただ、私も従姉妹に負けたくない!という思いが無かったといえば嘘になる。やはり母と叔母による比較から始まって、いつの間にか本人たちを差し置いての比較になってしまったことから私は負けたくないと必死になっていたこともあった。高校に入ってからの勉強も頑張った。そして1年生のうちに学校の卒業資格である全経簿記の2級、情報処理検定2級、商業英検3級を取得したり、他にも形に残るものを取得しようと本当に必死だった。志願して勉強を重ねて情報処理技術者(言うまでもなく国家資格)の受験もしたが、こちらは残念ながら不合格だったが。従姉妹の通う学校は普通科、そして私の通う学校は商業高校の情報処理科。そもそもここで全てを比較するには無理があるのは解っていた、だが私も比較されて負けるぐらいならと必死になっていたのだ。その後も努力を重ねてワープロ検定などの資格を取得するなど、努力を惜しまなかった。これに対して従姉妹は「はる香ちゃんは社会で使える資格をいろいろ持っていて羨ましい。私もそういう学校の方が良かったと本気で思っている。それにその資格を活かして仕事をすることが出来ているはる香ちゃんが本当に羨ましいよ。たとえ仕事を辞めたって次の仕事に繋げることも出来るし・・・」と私に言ってきたのだ。従姉妹曰く彼女の通う高校や短大でも簿記やワープロなどの資格取得は出来ないわけではなかった、だが彼女は大学へ行くことを目標にしていたうえに英語ばかりに固執していたせいか、英語以外に活かせるものが無いというのだ。無論国家資格はおろか民間資格なども取得していない、彼女の持つものは英語関連の資格のみだ。

 

私から見ても従姉妹に対して羨ましいと思うことは多々ある。自分の好きなように人生を歩ませてもらえていたこと、それと幼少の頃からブランド服やブランドの小物に囲まれる生活、そして私が受験した学校に合格したこと、学生のうちに留学、東京の学校に進学させてもらえたこと。そしてオーストラリアへの長期留学も。本当に羨ましいと何度も思った。だが、そんな従姉妹も私を実は羨んでいた・・・。それを知ったときには本当に複雑だった。私も私なりに・・・となるところだが、実は従姉妹も私が知らないところで私を羨ましいと思って、そういう気持ちでいたなんてと考えると本当に辛くなる。叔母同士の比べっことはいえ、比べられた当人同士は決して気分のよくないものだと改めて実感したものだ。

恐怖政治

 

ここまでこのエッセイを書いていて、父の話が殆ど出てきていないことにお気づきだろう。実は私は未だに父の存在に恐怖を感じてしまうことも事実であり、今からここに書くことを読むことで読者様がお気を悪くしてしまうことも充分に想定できる。それだけ自身の経験を文章にすることが辛く苦しいことであるということをご理解いただければ幸いです。

 我が家は「恐怖政治」の家だった。無論その政治の中心は父、母はそんな父に黙って付いて行くタイプだったために何を言っても聞いてくれるはずもなく・・・。父は私がある程度大きくなってからの教育問題には無関心、ただ「いい学校に入ればいい!そしてそこで1番の成績であればいい」という中身の無いことしか考えていなかったようだ。ついでに言うなら「学校で一番の成績じゃないとうちの子じゃない!」というとんでもな事まで・・・。

そう、すべて肩書きだけが良ければいいという考えだったのだろう。たとえば高校は市内一の進学校、そして大学もみんなが知っている名前の大学、そして就職先も一流のみという。これらの肩書き・・・何と言う中身の無さ、ということに逆に感心してしまうほどだ。そんな父も学歴にコンプレックスでもあるのだろう、それは未だに分からない。ただひとつ分かっているのは、やはり自身の「世間体、および自身らの体裁を保つため」であろう。今思うと私も兄も母もそんな父の体裁を保つだけの単なるアクセサリーだったのだと思う。

良妻賢母の妻、成績優秀で容姿端麗な子供たち、それが父の理想でもあり母の理想でもあったのだろう。いい加減そんなものは両親の思い描く単なる絵空事だということに気づけばいいだけだ。と今となればそう思う。

 

父は今の実家に引っ越すまでは子供に厳しいながらも父親らしいことはしてくれていた、と今でもそう思う。だが引越した後からそのような本当の父親らしい姿からは程遠くなっていった。体裁を異常に気にする、長男信仰、見栄っ張り、男尊女卑から始まって自分が気に入らなければ暴言暴力当たり前というようなものだった。

私は父にたくさん躾の名の元の暴力を加えられ、今でも心にはその時の傷が残る。時には顔が腫れるぐらい殴られた。家から追い出されたこともあった。いくら私が悪いことをして怒られたとしても、今考えてもやはり父のやり方には納得がいかない。現にこうして30過ぎた私の心の中には当時の傷がたくさん残って今でも苦しむ部分がたくさんあるのだから。

そのような躾の中でも最も心に残るものがある、それは私が4歳頃のある日、本気で父を鬼、悪魔だと思った。さすがに何が起こってそうなったのかまでは覚えていないが、私は突然父に浴室に連れて行かれて服を着たまま水を張った浴槽に無理矢理沈められたのだ。浴室に着いて父は浴槽の蓋を開け、私をそこに投げ入れて蓋を閉めようとした。私はその中でおぼれかけたことを今でも覚えている。母はそれを見てそんな父を止めることもなくただ見ているだけ。その後母に体を拭いてもらい着替えもしたのだが、そこで母が私に言ったのは「あんたがお父さんにわがままを言ったからこうなった」と。子供は正直わがままを言ったなら、親はそれを窘める。だが、窘める方法なんて他になんぼも方法があるはず。それなのにいきなり浴槽に沈めるなんてどう考えても子供にとっては恐怖でしかない。

母は母で父が私たちにする行き過ぎた躾を決して止めることも無くいつも傍でただ見ているだけ。そして「お父さんのすることは間違っていない。あなたたち(兄と私)が言うことを聞かないからそうなる」といつもお決まりの台詞を言い放つのみだった。父の暴力の後に何もフォローしない母、本当に今考えても何故そんな事が出来るのか信じられない。たとえ私たちがそれでケガをしたとしてもフォローもせず私たちが悪いからそうなるとだけ言うのだ。加えて私たちがどんなにケガをしても嫌な思いをしても「お父さんは悪くない」「お父さんのすることは間違っていない」と、父を常に擁護するのだ。

兄も何度も殴られ、時には唇を切るケガをしている。後に兄も「うちは恐怖政治」と言っていたぐらいだ。母も何度も発狂しては私たちに殴りかかる、暴言を吐く、ということを起こしている。だが父と違うのはヘラヘラしながらではあるが謝罪があるということ。けれど前記のとおりヘラヘラしながら「あの時はごめんね~」というように心の篭っていない謝罪だけに私は信用ならないといつも思っていた。本当にバカみたいだと・・・思うしかない。未だに父のしてきたこと、母が父を擁護したこと、許す気にはなれない。寧ろあの世に行ってから地獄で閻魔様や邪鬼たちから鞭を打たれてたんと痛い仕置きをされるがいい!と思うぐらいだ。

父は本当に忙しい人だった。だからこそ今思う、家庭に安息が欲しかったのだろう。だが家に帰れば私たち幼子がいて、それで自身も仕事で疲れているのに・・・となっていたのかもしれない。だがそれも父の勝手な言い訳。さすがに仕事のストレスは私たちには何の関係も無い。だからそれを言い訳に子供に八つ当たりなんて、と普通ならそう思うはずだが父は違った。機嫌が悪いと子供達にすぐ八つ当たり、暴力、暴言や人格否定も。そして自分が気に入らないとなればすぐにヘソを曲げ、母が私たちに折れるように説得をする始末。はっきり言って父も大人気ないし母もみっともない。必死に父を立てようとする母も本当に哀れである。母が亡くなった後に母の友人から聞いた話だが、母は毎日毎朝父の靴下を履かせるようなタイプであり、父に相当尽くしていて父の言うことは絶対という考えだったとのこと。自分の意思を持っていなかったのか?と思ってしまったぐらいだ。

 

暴力以外にも父は本当に自己中心主義であった。私たちが買ったものでも父自身がそれを気に入れば強引に奪い取るなども普通にあったし、泥酔すると決まって私や兄に抱きつくのだ。酒に酔った父もそれは恐怖だった。私が幼い頃、たぶん幼稚園児か小学校低学年の頃だったと思う。父は私が寝る時間になって寝床で寝ていた時に無理矢理抱きつくこともあった。恐らくだが本人は構って欲しくてふざけていたようだが、私にとっては体をベタベタ触る、すごい力で抱きつかれるなど父のその抱きつき行為には愛情など感じられず、むしろ恐怖でしかなかった。寝ている時に抱きつく以外にも普通にすごい力で幼い私に抱きついたこともあった。その時もそれは恐怖でしかなかったと記憶している。時は流れて私が高校生の頃にもそのような父の失態はあったのだ。ある日親戚の家に行き、祖父の77歳のお祝いをしていた。その時父も相当な量の酒を飲んで泥酔して当時高校生だった私に対して抱きつき、体をベタベタ触ったのだ。正直実の親でも気持ち悪く怖くなった。そのおかげか私は酔っ払いというものが嫌いになる。酒を飲んでも飲まれるな、と父は大人になった兄に話していたのを見たことがあるが、何の説得力も無いと感じた。自分は散々酒に飲まれたくせにあり得ないとまで・・・。

私の私物もそんな父によく狙われた。まずビーズクッション。中学校2年生の頃にずっと欲しかったビーズクッションをためていたお小遣いで買った。だがそれを見た父が私のものなのに勝手に気に入ってしまい、突然私の部屋から勝手に持ち出して茶の間で使っていて私はとても驚いた。そして「それは私の物でしょう?」と問いただすと、俺が欲しいから持って来た。2000円で売ってくれと言い出して私に2000円を渡してクッションを強奪したのだ。母もそれに加勢し、「お父さんが欲しいって言ってるんだからあげなさいよ。それにまた買えばいいでしょ?」と。母は父の味方しかしなかった。当時中学2年生の私、働くことなんて出来ないうえにお小遣いだって限られた金額でしかない。だからまた買えばいいなんて言われてもそう簡単に買えるわけでもない。その辺について両親はどう考えていたのだろう、本当にそれが欲しいのなら自分でホームセンターにでも行って気に入ったものを買えばいいだけ。そんな子供でも分かるようなことも出来ない両親を心底恥じた。

それ以外にも社会人になって私は隣県で働くようになり、私は自身の勤める土地の地名などが分からず困ってしまい、仕事にも支障が出始めていたこともあり仕事の帰りに会社近くの本屋でその県全域の地図帳を買った。私はその後仕事中も仕事以外の時間もその地図を見て地名を頭に叩き込んでいった。当時私の勤めていた支社はその県北部から中部のエリアを担当していた。加えて市町村の合併も始まっていたこともあり、同じ市内でも管轄の営業所が違うなどということもしばしば。管轄の営業所云々以前に地名を知っておかなければ本当に仕事にならない。顧客の住所を見て管轄の営業所に仕事を振ることだって決して間違ってはならない。だから仕事中もお客様の住所と地図を照らし合わせてという作業も何度もしていた。この姿勢は上司からも仕事熱心だと褒められたぐらい。だからその地図は私にとっては本当に仕事上必要だから、地名を覚えてある程度の土地勘を身につけないと仕事にならないからという理由で本当に必要なものだったのに、その地図を持っていることが母に知れてしまったのだ。母は最初は「仕事で使ってるんだね」と理解は示してくれていた。

だがそんな母がある日「父が○○県の地図帳を貸して欲しいって言っている」と言い半ば強引に私の元からその地図帳を持って行き、父はそれを私に返さず会社のものにしてしまったのだ。数日後、私は「地図帳を返して欲しい。仕事で使うから1冊3000円もするのに買ったものだ。それが無いと仕事にならない」と話すと、父は「俺はお前に10000円払ったはずだ、だから俺のものになった。そんなに欲しければまた買えばいいだろう?」と言い出した。私は父から地図を譲ってくれとも言われていないし、父が言うお金も受け取っていない。ほぼ強引に母に持っていかれたということだけだった。母には地図を渡すときにすぐに返すように伝えてあったのに、それがまた父のものになってしまった。私は本当に悔しくてたまらなかった。その地図はドライブに出かけるとかの遊びのためでもなく、かといってほんの数日の旅行のためとかに買ったのではない、自分の生まれ育った場所ではない県庁所在地へ赴いて仕事をして、その中で担当するエリアの土地勘が無ければ到底仕事にならないことを実感し、これ以上土地勘が無いのなら仕事が出来ない!という切実な理由で、仕事以外の空き時間に少しでも勉強したくて買ったものなのに、母はそれを知っているのにそんな簡単に奪っていけるの?「貸して」と言われたうえに「すぐに返してほしい」とも言ったのに、だから数日で戻るものだと思っていたのに、いつの間にか父のものにされているし・・・。それに最初に「貸して」と相手に言ったんだったら相手に「返す」のが普通だろう。そんな当たり前のことも出来ない両親に心底呆れた瞬間だった。父自身がそんなにその地域の地図が欲しい、会社で使いたいというんだったら自分たちで書店に足を運んで欲しい地図を買えばいいだけの話だろう。それなのに身近にいる私がそれを持っていたからという理由で奪っていくなどという心理は今でも理解できない。ただ親にとって「私が地図を持っていたこと」は便利だったってだけ?たとえそれが実子のものでも、親が欲しいのであれば何もいわずに譲るべきとでも考えていたのだろうと思う。あまりにも自分勝手である。母にも抗議した。だがやはりここでも「お父さんが欲しいって、本当に緊急だったんだから勘弁してあげて」と。こっちも緊急だったうえに仕事でそれが無いと困るのに!

ビーズクッションや地図、それだけではない。自分は何もしないくせに私には何でも頼ろうとする姿勢にも何度も腹が立った。たとえ私がどれだけ忙しく自分の時間を満喫していようとお構いなしで。

その事件当時私は派遣社員の傍ら、ビーズアクセサリーを作って委託販売に出す仕事もしていた。そのために帰宅してからは食事をとって自室でアクセサリーを作る日々を送っていた。売れ行きもそれなりによかったし、私自身も物を作ることが楽しくてたまらず、アクセサリーを毎日作っていた。委託販売に出す以外にも会社の先輩から頼まれたアクセサリーを作るなどもしており、帰宅してからも決して暇ではなかった。アクセサリー作り以外では英会話スクールの宿題をやったりレポートを書いたり、更には英検の勉強をしていることもあり、父のわがままに付き合う暇はほとんど無いのが現状だった。そんな中父から面倒なお願いをされることがしばしば。父は旅行をするのが好きである。だが手元にあるのは古い地図帳だけである。それは別に構わない。だが旅行に行くのは自分たちの勝手なのに決まって私に「○○の情報をパソコンで調べてプリントしてほしい」と言うのだ。正直そんなことをする暇が無い。私も帰宅してからは上記のとおり忙しい。だからそんな事は自分でやれば?と思ったので、自分たちが旅行へ行くのに私がなぜそんな事をする必要があるのか?それに私も自分の時間があるし忙しい。家にいるからといって暇ではない。と言うと、父は決まってヘソを曲げてプリプリ怒り出すのだ。「家にいさせてやっている」だの「金を貰うとき(貰ってない)だけ調子がいい」だのあること無いことを言い出す始末。そしてそれを見ている母はいつも決まって私に「あんたがやってくれないからお父さんが怒ってるじゃない!今からでもお父さんに謝ってプリントしてあげて!」と私に泣きながら言ってくる。泣いてでも父をかばう母にも常識が無いのだろうかと思えてしまった。私はその度「自分たちの勝手な都合を私に押し付けないでほしい。家にいるからと言っても私も暇じゃないんだから」「委託販売のこととか、英語の件とか、お母さん知ってるでしょ?知っていてそれを平気で頼んでくるなんてそれは私に対しての嫌がらせ?」と言うが、自分らの都合が最優先とでも思っているのか私の言い分には聞く耳を持ってくれないのだ。母はここでも決まって「お父さんがいるからここにあんたもいられるの!これぐらいやってあげなさいよ!」などと父の味方をするのだ。私は自分の時間の方が大事だし、自分たちで出来ることをして情報を集めるのが筋だと思ったので、そこはもう手を貸さないと決めていた。

それに両親がそんなに自分たちで旅行をしたいのなら自分たちでその旅先の情報を調べるのは当たり前の事だ。だがそれをまたしても便利だという理由で私を使ってくる、本当に情けない両親である。

そもそもパソコンを使え!と言ったところで、「出来ないから」と言うのはもう見えている、だったら勉強しろ!と私が言うと「覚えられない」とまた私に頼ろうとする。母もパソコンなんて覚えたくない!と言い出す始末。その言い訳に本当に「子供かよ!」と思ってしまう。

こんな他力本願で厚かましい両親、要らないと本気で思えていた。便利だから使うというのも、人をこき使うのではなく自分たちで便利だと思うものを探してそれでその便利だと思う物を使うのが筋だろう。たとえば旅行ガイドブックを買うなど。それなのに便利だと思う対象はいつも決まって私。本当に頼るものが間違っているとしか言いようが無い。欲しいものを私が持っていれば「寄越せ!」、能力を持っていれば「やれ!」など。そして必ず付いてくるのが「お金を払えばいいでしょ?」とか「親のためにやって当たり前」「家にいさせてやってる」など、くだらない寝言は寝てから言って欲しいものだ。非常に馬鹿らしい。そもそも利便性だけで私を手元に置くこと自体間違っているだろう。

 

時は過ぎ、私の買った新品のラップトップパソコンも父に狙われた。留学や英語学習や委託販売の仕事のために買ったパソコンであり、買うまでにも何軒も電気屋やパソコンショップを歩いて実物を見て自分に合ったものを選んで買ったこともあり、当然ながら簡単に父には譲りたくなかった。加えてパソコンを手にして私はメモリ拡張や必要なソフトをインストールしたりキーボードの設定を変えたりして自分仕様に環境を設定していたこともあり、父からパソコンを譲れといわれても渡したくない。それに父はいつも私に面倒なことを押し付けてくることもあり、このパソコンを仮に父に譲ったとしてもあれやってこれやってとなることが目に見えていた、無論渡したくもない。

当時私はパソコンを2台所有していた。1台はデスクトップでもう一台はラップトップ。普段はデスクトップを使っていたが、英会話関連(提出するレポートや宿題など)や仕事関連はラップトップを使っていた。そんなある日父は私に「パソコン2台もいらないだろう?余ってる分(ラップトップの事)俺によこせ」と強引に奪おうとしていた。こちらも「自分に合うものを探して買ったわけだし使っていないわけでもないし、事実これも無いと困る。だから渡せない」と断ったところ、ここでも「家にいさせてやっているのは俺だからそれぐらいしても当たり前だろう?感謝の気持ちだろう?」などと引き下がらなかった。そこで「仕事やレポート作成に支障が出る、だから同等のノートパソコン1台、そうだなぁ。マッキントッシュの最新型のノート1台と交換するのなら考える。それとこのパソコン、自分用に環境を設定済みだからきっと使いづらいだろうし、初期化をするからそれに必要な経費も払ってもらう!さすがに全て初期化するとなればタダってわけはないでしょう。」と条件をつけたが、父は「それは無理、無料で今すぐ俺にそのパソコンをよこせ」と引き下がらず、(どうしても譲るわけにはいかないので)「いつもそうやって私からあなたは物を奪い平気な顔をしている。そのおかげでこっちは本当に嫌な思いをしている。それに今回のようなことは一度や二度ではない、これ以上繰り返して人から強奪するような真似をするなら(そんな気は毛頭無いが)弁護士にでも相談しようか?それに勝手に私の私物を持って行こうものなら、話は警察で聞くようになるけどいい?」と話すとしぶしぶ引き下がった。

この件については偶然その場にいた兄も呆れていた。「たとえ親父がパソコンを譲ってもらったってあれやれこれやれと何かとやらされるのはお前なんだし」と。ついでに「そんなに欲しいのなら自分で努力して買え!そして人の力を借りずに操作方法を覚えろ!金を詰まれても協力などするものか!」と、私は父にそう言い放った。

いくら親でもやっていいことと悪いことの区別も付かないのか?そしていくら自身の娘のものだとしても人様のものを欲しがるなど、どんな躾をされていたんだ?と疑問に思えてしまうぐらいだ。ここでも「俺はいちばん偉い、だから文句を言わずに寄越せ」だったら余計に腹が立つ。人様のものを強引に奪ってまで自分の欲を満たしたいのか、今考えても心底気分が悪い。

ここで母が生きていたら恐らく父に味方をしてどんなことをしてでも私のパソコンを奪ってやろうということになっていただろう。母はいつも父の味方だったので簡単に想像が付く。正直このやりとりが母がいないところで起きた事に感謝する。

そもそもパソコンを寄越せなんて、どれだけリスキーな事なのかをこの親が知ることなのか?個人情報だってそう、たくさんの秘密が入るものであるのにそれを易々と他人に渡すなど、到底考えられない。貸すことすら考えられない。無論貸したものなら危険なウイルス感染などのリスクも無いわけではないからだ。

 

「パソコン譲れ事件」から暫くして私はトロントへ留学をして、帰国後は当時彼氏だった今の旦那とアパートを借りて同棲を始めてその後結婚したのでこの件について父からまた言われるということは無かった。無論パソコンは実家ではなく新居に置いた。

 

ここまで書いていて思ったこと、「お前のものは俺のもの」というジャイアニズム精神は身近にあったのだと痛感した。それが父であったということも。私が婆になっても息子には絶対このような事はしない、したくない。そもそもそんな発想すら無い。息子にも人様のものを欲しがるような卑しい真似はするなと教えていくつもりだ、父を反面教師にして。

 

そんな父だが、とりあえず表面上では良い父を演じていた気がする。たとえば子供の運動会などにはビデオカメラを持って参加していたり、親子競技には普通に参加していた。だが家にいるときの父は本当に恐怖政治の中心であり、私たち子供は毎日おびえて生活をしていた。表面上は良い父ということもあり、家の中で何が起きているのかは誰も想像付かないだろう。

決して外からは見えない「我が家」というひとつの区切られた空間で行われた「父という名の独裁政治および恐怖政治」なのだ。母はその独裁者を崇拝、兄と私は恐怖に怯える。

 

母もやはり父と同じ思考だったのだろう。父のわがままに振り回される私をかばうことなど無かったのだ。そしてそこに兄が絡むと余計に厄介になった。「両親や兄にとっては私という存在は便利なもの」という感覚だったのかな?と思えてしまう。

こちらも社会人になってからの出来事だが、兄が当時名古屋の建築会社に勤めていたときのこと。家と会社は名古屋にあるのだが、仕事現場が横浜にあり、そこでの任務を終えて名古屋に戻ろうというとき、兄は横浜から名古屋までどうやって引越しをすればいいのだろう、自身の所有する車もスポーツカーだし荷物は全部載せられない。それにひとりで作業をするにしても何往復もしなくてはいけないし、お金もかかる。と母に相談をした。すると母は「だったらうちのワゴン車を使えばいい!」と何も考えずに兄に言ってしまったのだ。これは私のいないところでのやりとりだった。そしてその日の夜、母は何の躊躇も無く「ねぇ、今度の週末からうちのワゴン車をお兄ちゃんに貸すことになったから、貸している間あんたの車、家用に貸してくれない?だってあんたは実家から仕事に行っているんだし、何も問題ないでしょ?」と。最初は何を言っているんだ?と思った。そして私はなぜそんな風になったのかを母に問いただすと前記のとおりの説明をしてくれた。だが兄は未成年でもなければ稼ぎの無い学生でもないし、ニートでもない。すでに成人している、社会人何年目?という年齢なのに何故この歳になって親の力を借りようとするのか、そして母もそんな歳の兄になぜ自ら手を貸そうとしているのか?私には到底理解しがたいものだった。

私は言うまでも無くその申し出を断った。私は確かに実家に住んで、そこから会社へ通勤している。だがそんな私にもプライベートというものがある。会社の帰りには買い物をしたり、友達と会って食事をしたり、英会話やスポーツジムに通ったりもしている。納品のために少し離れた委託販売先にも立ち寄る。だから私は決して「ただ会社に行って家に帰って寝るだけ」という生活ではない。英会話やスポーツジムだって定期的に通っているものであり、そんな親の都合で簡単に休めるものでもない。無論月謝や月会費もちゃんと払っているのだから。そのような事情もあるわけで私は母に「私の車は貸せない!」と話した。すると母は「だって家から通ってるんだし、お母さんが毎日あんたを会社まで送り迎えするんだから、ね。それにお母さんだって車が無いと困るの。だからお願い・・・」と泣きついてきた。だが駄目なものは駄目、社会人で毎日会社まで親の送り迎えだなんて恥ずかしくて耐えられない。そしてそんな家族のわがままに付き合うためにプライベートは犠牲に出来ない、母もそんなことも分からないのだろう。こんな母に心底情けないと思った。母曰くこの件は父も大いに賛成しているとのこと。当事者である私を差し置いて勝手に物事を決められそうになり非常に迷惑な話である。それにこちらも私には全く無関係である。兄も成人していて仕事もしているんだから自分の尻ぐらい自分で拭えと言いたいところだ。母に何を言っても「でも、だって・・・」、「お兄ちゃんがかわいそう」、「あんたは恵まれている、だからお兄ちゃんに協力すべき。お兄ちゃんは家から離れてひとりで暮らしてるの。だから助けてほしいって言われたら協力するのが普通じゃないの?」などと兄を擁護。そこで私は「あのさぁ、この世の中には引っ越しセンターというものだってレンタカーというものだってあるんだよ?ただお金がもったいない、時間がもったいないっていう理由だけで成人している男が親にすがるってどういう神経してるの?両親であるあんたたちだって兄に一体どんな躾をしたんだい?私には理解できない。それに私をこれ以上厄介なことに巻き込まないでくれないか?家の車を兄に貸すのは構わないが、それについて私は無関係。だから私の車は貸しません!自分らの足が無くなって困るならそういう約束はしないで。そんなに兄に車を貸したければお前らが今すぐレンタカーでも借りて来い!で、勝手に私の車を奪って行ったらそれこそ警察に通報だな・・・。だってそれは泥棒でしょ?子供でも分かるよねぇ?」と母に言った。母はまたしても「だってレンタカーなんて他人から借りるものだから何かあったら困る・・・、そうなっても私は何もしたくないから」と。何と自己中心的な考え、結局は私を都合よく使いたいとでも考えたのだろう。私もさすがにキレて「知らんわ、そんなもの!勝手に決めやがって。自分のケツぐらい自分で拭きやがれ馬鹿野郎!!」と言い放ち、自室に篭った。これ以上何を言われても一切答えないことを決めた。車の鍵も勝手に盗られないようにいつも手元に置いておいた。寝るときは枕の下に置くなど鍵の管理を徹底していた。

車社会の田舎での生活、ここで車を取り上げられて勝手に乗り回されてなど本当に理解しがたい。万が一事故を起こした場合はどうするつもりだったのか、本当に恐ろしいものだ。ましてや私は社会人で会社勤めもしている。それなのに唯一の足である車を取り上げられてしまっては本当に八方塞がりである。それに普通の生活を身勝手な人たちのために制限されてはたまったものじゃない。車には走行距離だってある、それが短期間で異常に延びていたなどとなれば査定価格や車検での部品交換にだって影響する。無論この人たちに「全部修理して返せ!」と言っても絶対にしてくれない、ガソリンだって満タンにして返したこともないのに。過去に母は私の車の鍵を私のカバンから抜き出して車を無断で乗り回してガス欠寸前で私の元に戻しておきながら言い訳タラタラだったこともある。だから余計に信用できない。

 

母は兄を高校から下宿生活をさせたことを寂しく思っていた。その寂しい気持ちを払拭するために私を何かと支配しようと必死だった。中学あたりから「恋愛禁止、学校が終わったらすぐに帰宅しろ、いい子でいなさい」など、自分にとって都合のいい条件を私に押し付けてきていた。加えて高校に入ったあたりからは「学校以外でも化粧は禁止、私の言うとおりにしなさい」など。そして社会人になれば「女は一人暮らしをしてはいけない。親の面倒は必ず見る」など、本当に両親のためだけに勝手な取り決めをしていたのだろう。正直私は大学も県外の大学に行きたかったし、就職も県外にしたかった。というのも両親から離れたかったからだ。その方がお互いにとって良いことは日を見るより明らかだったから。私も両親もお互いに甘えることがないから。だが、その裏で両親は・・・特に母は私を絶対に手放すものか!と必死になっていた。その中で私は何度も実家からの独立を試みていた。一人暮らしするために何が必要かと考えては行動に移していた。自分の食費は自分で賄い食事は自分で用意をして、洗濯なども自分の分だけ別にして会社の帰りにコインランドリーで洗うようにしたり。そして「家賃」も家に入れていた。だが母は私が実家を出ようとしていることを察したのか「仕事で疲れているんだから家に帰ってからはこんなことしなくてもいい」とか、それでも私は家事をしていると「もうこんなことしなくてもいいから・・・」と私を止めた。当時車のガソリン代も父のカードで払っていたが、それも成人してからは断るようにしていた。ほぼ無理矢理そうするように言われて父のカードでガソリン代を払っていたのだが、実家を出るのにはそれもちゃんと自分の稼ぎでやっていくべきと考えてのことだった。私が自分でガソリン代や車に関わる費用も払っていると分かると決まって母は「父に甘えていいんだから」と言い、私がガソリン代を払うことを嫌がった。そしてそれだけじゃなく、私の使うお金に関しても口出しをするようになってきたのだ。ある日基礎化粧品を買った私、それを見た母が「お母さんに内緒でそんなもの、買うんじゃないの!高いんでしょ?ったく無駄遣いばっかりして」と言ってきた。無駄遣い?私は決してそうではないと思っていた。基礎化粧は本当に必需品だし、これをサボると風呂上りに肌が乾燥したり化粧の乗りが悪くなるなど支障が出る。それに基礎化粧だって身だしなみである上に私はアレルギー持ちであるために、肌に合うものを選んで買っているわけだ。だからさすがに私もこれには「私が私自身で自分に合うものを選んで買って何が悪い!」と反論。母は「どうせ実家にいるんだからお母さんのを使えばいいでしょ?」と更に返してくる。この人は本当に何を考えているんだか、今考えても理解に苦しむ。化粧をするにしても「色気づいて気持ち悪い」「そんな事をするからニキビが治らない!」「テレビに出て馬鹿やってるギャルみたい」などといちいち難癖をつけては私の行動を監視する。

化粧するからニキビが治らない?寧ろ私のニキビを気にするぐらいだったら私を皮膚科に連れて行けばいいことだ。それをしようともせず、母の勝手な判断でイオウ成分の強い市販薬を買ってきては「これは効くから!ほら塗ってあげるから!!」などと言い無理矢理薬を塗られる始末、本当に鬱陶しい。ところで私はイオウ成分が多いものも肌に合わず、いつも母の買う薬を無理矢理塗られては肌がかぶれたりただれるなどのトラブルが毎回起こる。それなのに母は「こんなのすぐに治るから!」などとまた能天気なことを言って私の肌トラブルとは絶対に向き合わない。母は私がそうなったことを知っているはず・・・。母は医者でもなければ看護師でもない。それなのにどうしてここまで強要出来るのだろう、しかもここで勧めるものは肌に塗る薬。それこそ美容にも精神衛生にもよくない。そして必ず最後は私自身で皮膚科へ行くことになり、余計な医療費を払うこととなる。本当に厄介である。

母による民間療法的なものは他にもあった。正直いって被験者にされる私は迷惑以外他ならない。ニキビ治療のイオウ成分だけではなく、風邪を引いて喉が痛いとなればどこからかルゴール液(の○のーるスプレーの中身のようなもの)を持ち出して無理やり私を押さえつけては喉にその薬を塗り込む。母曰く「お母さん、誰かをいじめるの大好きなの~!」と。非常にふざけている。そしてその後はきまって「どう?よくなったでしょ?」と。私からすればそれは果たして実の親子であってもしてもいいことなのか・・・?たとえしてもいいことであっても無理矢理押さえつけてまでやるなどは本当に異常としか思えない。むしろこれは違法ではないか?とまで考えてしまう。医療行為にあたるのか。そしてこれを拒否したらしたで母からは暴言を吐かれるのだ。そして機嫌が悪くなれば今度は暴れ出す。無論母からルゴール液を塗られた後の私の喉はいつも痛みが半端なく、常に腫れた状態になってしまう。最悪なことに何度か腫れあがった扁桃腺に液体を塗られてしまってとんでもない痛みに悶絶していたこともあった。その後病院へ行くと先生は「そんなもの必要ない。塗ることで症状が悪くなるだけで声もでなくなっちゃうから」と仰っていた。

母に物申すなら「看護師ごっこは一人でやってくれ」。

お金にまつわる話

子供にとって年1回のお楽しみ、それは「お年玉」。小学生になってお金の使い方や金額も分かってくると余計に嬉しくなるものだ。

そして貰ったお年玉で普段出来ないようなお買い物をする。大人になってからそれを見ても「ああ、子供のお小遣い程度で買うものだもの」と思っても子供にとっては本当にぜいたく品である。だが、全ては大抵使わない。じゃあ残ったお年玉は?というと・・・それも大抵親に「貯金をするから。将来のためだから」という名目で強制的に没収されてしまうのである。我が家も例外ではなかった。本当に「将来のために預金」してくれていて将来返してくれたのなら嬉しいものであり、当事者である私たちも親に心から感謝できるものである。だが、全てそうではなかった。そもそも子供名義のお金である以上、親であっても子供の許可を得ずに勝手に使うなど言語道断だ。

実はそんな事件が我が家でも起きていたのだ。小学校1、2年生ごろまでは特に「貯金する」という話は無かったのだが、3年生の正月にもらったお年玉は手元に5千円残すのみで残額は母が郵便局に貯金すると言い私と兄から奪ってそれを貯金したのだ。郵便局に作った通帳の名義は私のものと兄のもののふたつ。ここまでなら何の問題も無いのだが、問題はこの先。小学校6年生の頃のお年玉まで母に預けていたのを覚えている。結構な額の貯金があったと思われる。そして母は「中学に入ったらお金もかかるから、必要なものがあればここから下ろして使うようにする」と宣言。表面上はもっともらしいことを言っていると思う。だが、いざ私がお金が必要になった時に母に自分名義の口座からお金を下ろして欲しいと懇願しても「あれはあんたの金じゃない。あたしが貯めてやってるやつだ!だからお前にあげる必要は無い!」と言い出す始末。無論私もそれはわざわざ私たち兄妹を郵便局に連れて行って口座を作ったものだろう。そして預金したものも小学生の頃にもらったお年玉だろう!と言うが、母は決まって「そんなもの無い!」とシラを切る始末だ。本気で認知症にでもなったのか?と思えてしまったぐらいだ。そして母はその話になるといつも必死に「お年玉なんて知らない!あんたたち名義の口座は私が勝手に作っただけだ!」と言い訳をするのだ。明らかに怪しい・・・、幼い私でもそう思わないはずが無い。

その口座の話は結局私が社会人になる少し前ぐらいまで続いた。私が社会人になる少し前に母にこの口座のことを問いただしたのだ。すると母は「大きくなったら渡すなんて言ってない!あの口座はお母さん自身のためにはる香の名義を借りて口座を作っただけでお年玉を預かった覚えは無い」と平気で言い放ったのだ。私がどれだけ抗議しても預けたお年玉は返ってくることは無かった。

高校の頃のバイト代についても厳しくチェックされたものだ。母からはしきりに「えぇと、時給は600円で一日○時間、今月は○日働いたから・・・、これぐらいは貰ってるでしょ?」と私に言うのだ。あくまでバイト代はお小遣い稼ぎのためにやっていたこともあり、そこまで母の干渉の範囲ではないと私は考えていたため、バイト代については特に触れるつもりもなかったし、母にいちいち報告する気もなかった。だが母は私がきちんと答えるまで問いただす。母にそれが「無駄遣い」と判断されればそこから説教をされるというものだった。正直うんざりだった。両親から満足にお小遣いももらえないという不満からバイトをしていただけであり、そこで稼いだお金のことまで触れて欲しくなかったからだ。個人的にはバイトをして私自身が稼いだものである以上、小遣い帳をつけるなりして自身の稼ぎを管理するのが筋だと考えていた。だがそこにも母からの干渉が入る。そして

「使いすぎ、無駄遣い!」

「これから修学旅行のお金だってかかるのに、また無駄遣いしやがって!」

などと難癖をつけてくる。確かに修学旅行で使うお小遣いを稼ぐ子もいるだろう。だが私はそれ以前に友人と同じような環境になりたいと願っていたこともあった。事実両親は兄の願いは何でも聞くという変なスタンスであったため、私はいつも後回しにするか私の分は無し。良くても兄は性能もよく値段も高いものだったりブランド物で、私は安物だったりセール品。無論ブランドなんて無かったり。だからそのような親のスタンスに賛同出来ずバイトを無理矢理始めたこともあったから余計に母に干渉されたくなかった。バイトで稼いだお金は友人との交際費や好きな服を買うために使った。だが、ここからがまた地獄、修学旅行のお小遣いは1万円しか渡されなかったのだ。母曰く「お兄ちゃんは一人で暮らしているからもちろん多く渡した。けどあんたは実家にいるんだし、そんなに苦労してないんだから1万円で充分でしょ?それにバイト代だって無駄遣いしているんだから!そんな子にはお金は渡せない」と。ここでももっともらしいことを言っているが、やはり納得できない。

普段私は友人と同じような生活を送れていない、買ってもらえる服や靴だっていつもセール品や時代遅れのもの、そして満足なお小遣いも貰えない、その中で楽しい生活をするために自分で稼いだお金を欲しいものにつぎ込んで何が悪い!それが私の言い分だった。お小遣いが足りないという理由で友達と遊びに行くことや合コンへの参加も何度も断っていた。はっきり言って苦痛だった。そんな状況を知ってか知らぬか両親揃っていつも

「お兄ちゃんを引き合いに出すなんてお前は甘えている!お兄ちゃんは一人暮らしをしているから生活費をあげている。だけどお前は実家にいるんだからそんなに小遣いはいらない!世の中を舐めるな!」

などと理不尽なことを言い出す始末。別に平等にしろとは言わない。せめて両親が兄との差を付けないようにしていればこんな風にならなかったと今でも思う。

 

今だから言う、「お前らみたいな両親のもとに産まれて冷遇されているんだから自分の力で何とかしようと動いて何が悪い!」。

 

社会人になってからも母からお金についての干渉が止むことは無かった。むしろ恥ずかしいぐらいに酷くなった。自慢するわけではないが、私は20歳にして150万円近い貯蓄があった。高卒の一般企業勤めでよくやったと感心する・・・、いや感心するには程遠いが。実はその裏側は母親が半ば私の稼ぎ(月収および賞与)から預金金額を勝手に決めてむしり取るようにして搾取、そして母名義の貯蓄に回していたという事情もあった。口座の名義人は母名義。一般論で考えてもここで既に可笑しい・・・。母は考えなかったのだろうか。自身の身に万が一の事態が起きた場合、それが私の稼ぎであっても口座が母名義である以上私の手元には預金額の全額が戻らないということを(たとえその口座が私名義であっても母が管理をしていればそうなってしまうけど)。法律上その口座が私名義であっても実際に管理をしているのが母であれば母の財産とみなされて、財産分与の対象になってしまうのである。

私が就職をして預金を始めた時点で既に「稼ぐのは私であり、貯めるのは母」という奇妙な構図が出来上がっていた。無論私は納得できるはずもなく、母に何度も「会社の社内預金に預けるから今まで渡した分を返して欲しい。仕事をして稼いでいるのは私なんだから口座を自分で作って自分で貯める」と言っていたのだが、母は「あんたの将来を思って貯めてあげているんだから返せない。それに私はあんたを信用できないから」などと言って搾取した分は返してくれることは無かった。前記のとおり前科もあるので実際私から受け取った金額すべてを貯蓄していたのか、それすら分からない。恐らく自身のお金の都合が悪くなれば私の預金に手をつけていたとも思われる。というのも、私がある日帰宅したときに母が「あ、きょうね、あんたの口座から○○万円借りたから。そのうち返しておくね」などという信じられない事後報告が何度かあったのだ。おまけに通帳の内容も見せてもらえなかった。それなのに当時の私は本当に世間知らずのバカだったのか、借用書を作ってすべて管理するということもせずにいた。今思えばいくら私の預金を母が管理していたとはいえせめて借用書ぐらい作っておくべきだったと思う。母が勝手に私の口座に手をつけた分が本当にそのまま口座に戻ったのかも、今となればそれも非常に疑わしい。そもそも母に言われるがままにお金を渡していたこと事態、間違いだった。この時点で私の衣食住、そして財産まで母親に握られてしまったのだ。一人暮らしは禁止、実家に住まわせてやる、三食は出してやる、などといった上から目線。そこに今度は搾取も加わる。そこまでして両親(特に母)は私を自身の手元に置いておきたかったのだろう。

それだけではなく母は私のお金の管理方法や使用用途については異常にうるさかった。時には銀行のATMにまで着いて来た。そして私にあれこれと指示を出したかと思えば、母に渡す分を増やすように言われたりと。言うまでも無くこの母の行動を気持ち悪く思えてきた。しまいには社内預金分や財形貯蓄分も母の管理下に置きたかったのか、それらの分も解約をして毎月家に入れろという始末でもあった。さすがにこれだけは私も引き下がることはなかった。実は私の方も母に内緒で毎月の給与や賞与から社内預金や財形貯蓄に回していた分はあり、物入りの時にはそちらを切り崩していた。というのも母に「いついつまでに○○円が必要だから口座から下ろしてほしい」と言っても母は自身の管理する私の口座からお金を引き出すことを許さなかったからだ。わざわざ使用用途を確認しては、あれはダメ、これはダメと繰り返し、母が気に入らなければお金を用意してくれない。うんざりだったからだ。

 

私名義のお金の全て、この時点でもしかしたら母のものになっていたのかもしれない・・・、そう言ってもおかしくない。母の干渉の対象になるのは私の稼ぎだけではなかったからだ。たとえば成人式。私は最初から成人式をやるつもりが無かったので、ずっと頑なに「やらない」と言っていた。というのも両親が兄の時にはお金もかけて盛大にやっていたのにいざ私の番になってみたら「やるんだったら勝手にどうぞ。こっちはお金も出さないしお祝いもしない」と言っていた為である。だから私は成人式をやると決まる前まで「成人式のたった一日のために多額のお金を使うなら・・・以前から興味のあったスキューバダイビングのライセンスを取るためにグアムへ旅行しよう」と思っていたのだ。

だがある日突然母が「成人式は親戚の顔もあるからやってほしい。他の子はやっててあんただけやらないとなると・・・」とお願いしてきた。私はここでも「やらない」とつっぱねた。だが母も必死で「衣装代とかはこっちで全部出すから」と言ってきた。結果本当はやりたくなかったのだが、仕方なく成人式をやることにした。

私はここで母に条件を出した。「着物はレンタルでいいけれど振袖は着ない。着物は私が一から全部選ぶ、それが出来ないならやりません」と。母はその条件を飲んでくれた。結局中振袖と袴をレンタルし、美容院で髪型も決めてセットしてもらい、地元の成人式に出ることになった。親戚たちからの祝儀も私宛に届いたのだ。だが母は私が貰ったご祝儀は全て私から取り上げたうえに、その中から衣装代(家計から払うと言っていたくせに)も支払っていたうえに内祝も勝手に決めて買って親戚に配っていた。内祝についても勤務先近くの百貨店に一括で頼もうかと考えていたのだが、それを母に話したところ「あんたには任せるわけにいかない。親戚にやるものなのに!あんたが選んだらろくなものしか選ばないに決まっている!」と半ば決め付けで猛反対されてしまった。祝儀からは袴に合わせるために買った編み上げブーツ代として1万円しかもらえなかった、それも母から投げるように渡されて。ちなみに私が買ったブーツは25,000円だった。肝心な祝儀の残金は両親が勝手に遊興費として使っていたことが後に発覚。収支報告も無く、それを聞いたときにはさすがに呆れて何も言えなかった。ちなみに兄の時には数十万円するブランド物のスーツを買い与えた上に兄宛のご祝儀は本人に全て渡していた。母親曰く「兄は一人暮らしでお金がかかるから仕方ない」。私個人の考えではもう成人しているわけなので、祝儀の管理およびお返しは貰った本人がするものである。そして私もそのつもりだったため、自分で手配をしようと百貨店に掛け合ったり職場の先輩に相談したりしていたのだ。それが母がしゃしゃり出てきて面倒なことになったのだ。

 

成人式から数ヶ月後、私は最初に勤めていた会社を辞めて地元に就職をした。再就職をした先は正社員でブライダル業の事務員。収入も安定していたし、特に不自由は無かった。だがそんなある日、突然母にあることを告げられたのだ。

 

「お父さんの知っている人にお金を貸すことになったの。それでね、あんたの口座からも100万円貸してほしいの。返ってきたらちゃんと5万円つけて返すから」

 

私は耳を疑った。なぜ私のお金から?そして父の知人って誰?私その人に会ったことも無いし・・・。それに父は一体いくら貸すというのだ?金額も100万円・・・。決して安い金額でもなく、「あげるつもりで貸す」ことなんて簡単に出来る金額じゃない!

さすがにそれには私も冷静になり「そんな全く私とは関係のない、見たことも会ったこともない人にそんな高額なお金は貸せない。いくらお母さんが私のお金を管理しているからといっても納得なんて出来ない」とお金を貸すことを拒否した。だが母は「お父さんの面子もあるんだからそこを何とか・・・」と食い下がり、それでも拒否をする私に対して「100万円だけなんだから、ほんの数日貸すだけなんだから何とかしてよ」とまた食い下がる。本当に嫌になった。前に勤めていたところの所長がよく言っていた「金が絡むと、どんなに良い人でも人格が変わる」、まさか私自身の肉親にそんな人がいたとは・・・と本気で思えてしまった。結局母は父の面子や体裁を守るために私を利用したのだ。そこで私は母に「こんな事ならもう私のお金の管理はしなくて結構!うちの会社の取引先の銀行にすべてを任せる。そこには私の知人だっている!だからそっちの方が信用できる。今まで渡したお金を全額すぐに返しなさい!」と言ったが、母は「そんなことは出来ない!誰のおかげで飯が食えていると思っているの?お父さんが一生懸命働いているからあなたたちは教育も受けられて、そしてこうして家に住めているんじゃないの?だから100万円ぐらいいいでしょ?」など理不尽な持論を展開する始末。それでも私はその借金を断り続けた。だが話はここで終わらなかった。翌日、会社に出勤していつもどおり仕事をしていると、携帯に着信があった。母からだった。出てみると、開口一番に「100万円の件、いまから銀行に行って下ろしてくる!あんたに言っても無駄だからお金は下ろしてお父さんに渡すからね!」と。私は待つように言ったが、母はほぼ発狂した状態で「お父さんを困らせるの?家族でしょう?これはお父さんの仕事が絡んでるの!それでもあんたはお金を貸してくれないの?別に100万円くれって言っているわけじゃないのに、ちゃんと返すときは5万円つけてあげるって言ってるんだから貸しなさいよ!今貸さないって言うんだったらお母さんはあんたを一生恨む!今すぐにでもアンタを殺す!」と私に要求してくるのだ。母の要求は半ば狂言染みた物言い、いや、もはや私に対する脅迫になっていた精神的にもさすがに追い詰められて正常な判断が出来なくなってしまったのか、私は母に従うことになってしまったのだ。仕事中にこのような電話をもらって私も迷惑だった。実際この時、来客対応をしていた最中だった。この出来事を目撃した上司には不審に思われる、先輩にはこの件で「勤務中に私用の電話は慎め!」と怒られるわで本当に凹んだ。

 

その日帰宅しても母はこの100万円のことは自分から何も言おうとしなかった。そこで私は「100万円、下ろしたの?」と母に訊ねた。すると母は「下ろしたよ!ありがとねー!」などと申し訳無いという気持ちは一切無いような能天気な返事が返ってきて私はとても落胆した。

 私は父の稼ぎが良いことを知っていた。兄も当時奨学金などにたよらず親のお金で理系の私立大学に通っていたぐらいだから我が家は「娘に頼らないと生きていけない」ような台所事情ではなかったはずだ。事実兄には惜しみなくお金を使っている。アパートでの一人暮らしだってさせている。当時の最先端の家電や新品の自転車だって高校入学時に買い与えて、車も携帯も大学入学時に買い与えている。極めつけは両親揃って「あんたもレベルを気にしなければ大学に行かせるぐらい、出来たのにね。私立なら馬鹿でも入れる学校なんてなんぼでもあったのに、お金さえ積めば入れたのにねー、アハハ!」と何度もしつこいぐらいに私に言っていた。家にはお金はあることを匂わせる発言、兄には惜しみなくお金をかける、それなのに娘の預金にまで手をつける?しかも高額な金額を・・・。それも全ては両親の都合。すでに成人している私はそんな両親の都合に振り回される必要があったのだろうか。恐らく両親は「もしここで素直に家の預金からお金を貸して返ってこなかったらどうしよう。だったら100万円だけでも娘に肩代わりしてもらえばいい!」とでも思ったのだろう、今更事の真相を両親に確認するつもりも無いが・・・。自分たちの始末は自分たちでしてもらいたいものだ。両親揃って無いものは無い!と言うことも出来たはず・・・。時にはそのような勇気も必要だ。それに本当に自分らの娘のことを思うなら娘にお金を貸して!などと言えるはずもないだろう。社会人になって自分でお金を稼いでいるのだから迷惑はかけられないというのが本当の愛情だと私は思う。

この借金騒動は1度だけでは終わらなかった。その数週間後にまた同じように母は私に「100万円貸して!」と言ってきたのだ、悪びれる様子も申し訳無いという様子も無く当たり前のように。実は前回のお金が戻ってきたかどうかもこの時点でははっきりしていない。母もこの時点で私にそのような報告もしていない。本当に100万円に5万円を足した金額がそのまま私の口座に入ったのかも不明であった。それに自分たちの事情なのに私がなぜ関与しなければいけないのか、そういうはっきりした理由も明かしてくれないこともあって今回は絶対に貸さない!と意思表示をした。加えて「もし勝手に引き出そうものなら、詐欺罪で警察に突き出す!」と母に言い放った。だがここでも母はすんなり受け入れてくれるはずもなく、「ここで貸してくれないと家が破産する!」だの「会社が不渡りを出さなきゃいけなくなる」だの言い始め、更には「前と同じ人に貸すだけなの!この間だってちゃんと返してくれたから今回も」と言うのだ。私は驚いたというか、驚きと怒りを通り越して母にも父にもその父に知人にも呆れた。なぜノンバンクとも言えない一般の知人からお金を借りようとするのか?恐らくその父の知人とやらは銀行や消費者金融から金を借りられない状態なのだろう・・・と簡単に想像は付いた。そんな人に普通大金を貸すものだろうか、さすがにこれはあり得ない。無論銀行や消費者金融からも貸してもらえないような人が借りた金をすんなり返してくれるとも思わない。もうこの時点で既に母のしていることは今で言う「振り込め詐欺」のようなものだろう。私は「自分たちで何とかして」と静かに言いはなったのだが、母は「そうか、家が破産してもお父さんの会社が潰れてもあんたは平気で警察に私たちを突き出せるんだ」とヘラヘラして言い返してくる。「100万円貸してお父さんの面子が守れるんだからそれでいいじゃない!」とも言ってきた。それでも私は頑なに断るが「あんた、親を見捨てるの?育ててやってるのに」「実家にいさせてやってるのに(そもそも実家にいろと強要してるのはあなたたちでしょ?)」と散々恩着せがましい事を言って催促してくるのだ。だが今回は無視することに。

しかし翌日になって母は「あ、100万円おろしたから!」と悪びれずに言ってきたのだ。強行されてしまった、さすがにこうなればもう実母でも犯罪は犯罪。警察に突き出すしかないと思い、私は母に「じゃあ警察に行こうか!前にも言ったよね?『勝手に引き出そうものなら詐欺罪で警察に突き出す』ってね!」と言い母の手を引いて玄関に移動しようとすると、母は突然泣き喚き「お母さんは何も悪くない!あんたがお金貸してくれないからこうなるんでしょ!素直に貸してくれればこんな事にならなかったのに!お金を何も言わずに貸してくれないあんたが悪いの!」と開き直って叫びだした。そして暴れて私の手を振りほどいて私を突き飛ばしてリビングに逃げたのだ。この後どうなったのかは怒りのせいなのか私もあまり覚えていないが、相当揉めたことだけははっきりしている。

後日、私は母に

「あの時はどうしてもお金を貸したくなかった。お母さんは100万円貸してって簡単に言ったけど実際100万円稼いで貯めるのにどれだけの労力が必要なのか、あなたにはそれが分からないから軽々しく「100万円貸して!」と言えたんだよね?そもそも銀行とか消費者金融からお金を借りられないから父に頼ってきた人でしょ?そんな人にホイホイ貸しちゃうってあり得ない。私さぁ、この一件で私はお母さんにお金を管理してもらうのが怖くなったし、信用できなくなった。だから口座を今すぐ解約して私が毎月渡していたお金も返して欲しい」

と言った。すると母は

「あんたはお父さんのこともお母さんのことも信用してないんだね。お金だってちゃんと返したのに、5万円もつけたのにさぁ。それでも信用してくれないんだ」

「こっちだって言われるがままにホイホイ貸したわけじゃない!」

から始まって最後は

「お父さんがいるからこそ、こうしてあなたたちは生きていけているのに・・・」

とまで。

私個人の意見としては「自分の尻ぐらい自分で拭え!たとえそれが家族でも」というのは妥当であると考える。それに実際にお金を貸してほしいと申し出を受けたのも父自身である。借金したいと申し出た人間も私は全く知らない、面識の無い人間である。それなのによく関係のない私を巻き込めるものだな、と思えてしまったぐらいだ。今思えば母も本当に愚かである。「一家の長である父が言うことは絶対」という昔ながらの考えをそのまま引きずって現代を生きていたのだ。無論その考えの向く方向が母と父だけならまだいい、私を巻き込むことを当たり前だと思う母の思考が私には考えられない。時代が変われば考えも変わる、昔の考えや習慣すべてが「古き良きもの」でもない。女に学は必要ない、女の稼ぎは全て家に入れろ、女の稼ぎは親が管理などと言うこと、そんなものは言語道断(加えて言うなら結婚まで実家住まい、恋愛禁止、親の決めた相手でなければ結婚させないなども)。女性たりとも仕事をして生活をしていかなくてはならない、仕事をしなければ生活なんて出来ない。学がなければ仕事も出来ないわけで、その先は言うまでもない。無論稼ぐだけじゃなく貯蓄をすることも大事である。今回はその貯蓄を牛耳られ、勝手に利用されてしまったのだ。娘自身の人生だけじゃなく娘自身が働いて稼いだお金を牛耳り、自身の手元にあることをいい事に「使っても返せばいい」という身勝手な考えでいること事態、本当に哀れでならない。そんな好き勝手ばかりする両親が私の両親だということを心底情けなく思う。

 

この後もずっと母は私の稼ぎを牛耳ろうと必死だった。口座も未だに返してもらっていない。何としてでも私の稼ぎの一部は自分の懐に入れておきたかったのだろう・・・「将来の娘のために貯蓄してやってるの!そんなお母さんって偉い!」という自己満足だけで。

この借金騒動の時に勤めていた会社は、その後自主廃業してしまった。そこで再就職先を探す私が医療事務の資格を取ろうと勉強をし始めたのだ。学校にも通い、受講料も8万円ほど母の管理する口座からなんとか下ろしてもらい支払った。そこで父が一言私にこう言った。

「医療事務の資格、一発で合格したら受講料は出してやるぞ!」と。母もそれを聞いていた。

私はその後一発合格をした。だが父も母も受講料分のお金は私にくれなかった。そこで私は

「そういえば、一発合格したら受講料は払ってくれるって言ってたよね?」

と両親に訊ねた。すると母が

「その間こっちはあんたの生活費全部出してあげたんだから、払わないでいいでしょ?」

と信じられないことを言い出したのだ。私は明らかに約束が違うと言い「約束は約束でしょ?」と母を問い詰めると、

「だってこっちだってそれなりの金額出しているんだからおあいこ!」

とまたわけの分からない言い訳をする。おあいこもへったくれも無いだろう・・・呆気にとられるしかなかった私。別に私は両親に受講料を出してほしかったわけではないが、私にした約束事をそんな簡単に破るという両親に絶望した。私は両親にとってその程度の人間でしかないのか、と。お金が絡むと人間変わってしまう・・・、私の両親の事だろう。フレネミーという造語があるが、ここではペアレミー(ペアレントとエネミーを足した)という造語がぴったりなのかもしれない。

そもそも医療事務の資格を取ることも、母は最初は猛反対していた。すぐにでも正社員で高給取りの仕事を私にして欲しかった。加えて公務員試験を受けろと再三にわたって私に干渉してきたのだ。私は公務員には興味を示さず、事務以外に出来る仕事のスキルを何かつけようとバイトをしながら勉強をしたいと考えていた。それが母にとって気に入らなかったのだろう、バイトは許可できない!バイトなんてしたら正社員で仕事しなくなるでしょ!とのたまい、勉強するといっても「その間の生活はどうするの?」としつこく食い下がる。勉強する間の生活費はそれはバイトで稼ごうかと考えていたので、私が母にそう言っても母の反対から始まって「言うことが聞けないなら出て行け!」となり、いざ出て行こうとすると「出て行かないで!あんたみたいな甘ったれは外で生活できるわけがない」などと意味不明なことを言い出して振り出しにもどるという悪循環がしばらく続いたのだ。そこで私は母に「じゃあどうすればいいの?」と問いかける。すると母は「公務員受けるだけ受けなさい、それでダメなら考えてあげる」と母自身のレールに私を乗せようと必死になっているのだ。暫くその繰り返しだったが、ある日突然母が「医療事務の勉強だったらしてもいい!」と言い出したのだ。本当に突然の出来事だった。そこで何があってこうなったのかを母に訊ねた。すると母の知人の娘さんがある医療事務の学校に勤めているから、と言うのだ。結局私を常に監視下におきたかったのだろう。そして自分だけではなく知人の監視下でも監視が出来る、と思っていたのだろう。母からは勉強するならそこ以外の学校に入ることは許されず、母の知人からも勧誘の電話がしばらく続いたのだ。私も「資格が取れるなら」とそこの学校に入ることになった。そこで前記の両親による受講料の問題が起きたのだ。結局両親は私を裏切り、まさに「口を出すが金は出さない」という態度を見せてくれたのだ。自分の言動に責任を持たない大人が身近にいることが私にとってどれだけ良き反面教師となることだろう。

 

母が亡くなった後に母名義の口座が見つかっている、だがどれが私の稼ぎを貯めていたものなのか分からず、財産分与も無くすべて父の懐に入ってしまった。父も本当にがめついとしか思えない。

 

母は預金や保険が大好きな人だった。お金も好きだった。銀行や郵便局にどれだけ口座を持っていたのだろうと思ってしまうぐらい、口座を持っていた。そして生命保険もなんだかんだで何件もかけていた。そして家にはよく保険の外交員のおばちゃんが出入りしていたものだ。そして気が付いたら保険の証券など何通あるのか、というレベルであった。母曰く「契約しては解約しての繰り返し」だった。母の契約した保険で無事に満期を迎えたもの、恐らく1件も無かったと思われる。

いじめ パート2

小学校6年生の頃、私のクラスにひとりの女児が北日本から転校してきた。朝子という。見た目は決して可愛いわけでもなく、身長が低く体格がよく丸顔で濃い顔つき、更に色黒で真ん中で分けた肩まで伸びた黒い髪が特徴。第一印象は「大仁田厚(プロレスラー)」に激似、という感じだった。彼女は転校してきてすぐに則子たちと仲良しになった。一方私は朝子には特に興味も示さず、幼馴染の恵理(通称エリ)とこちらも幼稚園からの幼馴染の明子(通称あっこちゃん)といつも一緒に遊んでいた。エリもあっこちゃんも私を良く知る存在で、喧嘩をしたりもするけれどいつもお互いに助け合うような仲だった。だから彼女ら以外に目を向けることも無かったのだ。

エリとあっこちゃんは学校のブラスバンド部に所属しており、私は彼女らのブラスバンドが無い日は家も近所ということもあってかよく一緒に家に集まって遊んでいた。エリには歳の離れた弟がいる。両親は共働きでじじばばっ子だった。私とは別の幼稚園に通っていたが、お互いの家がすごく近くその頃から仲良しだった。彼女はたまにわがままを言って私を困らせることもあったけれど、親切なところもあって今でも付き合いはある。あっこちゃんとは幼稚園も一緒で、小学校に入っても仲良くしていた。私は彼女のことは大好きだった。体が弱い子だったけれど、誰の前でもお姉さんのような優しさを持ち合わせていたからだった。彼女の家は私が小学校5年生になる頃に隣の住宅街から私の住む住宅街に引っ越してきた。そして家が近くなったこともあってお互いの時間の都合が合う時にはよく一緒に遊んでいた。そんなこともあり、学校でもエリとあっこちゃんとはずっと一緒にいた。

だが同時期に則子からの私へのストーカーとも言える行動が始まった。エリもあっこちゃんも部活でいない時は隣のクラスのアスカとその友達といつも下校していた。そしてアスカと帰宅する際にいつもよく話をしていたのは

「きょうの放課後、街にお買い物へ行こう!」

という事だったり、

「放課後狐坂公園(アスカの家の近くにあった公園)で一緒に遊ぼう」

という話だった。私はアスカと遊ぶのは大好きだった。習い事の無い日によく街に遊びに行っては買い物もしていた。買い物に行かない日には狐坂公園でよく一緒に遊んでいた。だからこの日も当たり前のように私とアスカは遊ぶ約束をしていたのだ。が、いつもその話は何故か則子たちの耳に入っていたのだ。私やアスカは則子を心底嫌っていたこともあり、いちいち則子に街に遊びに行くことを宣言するということはまず無い。だったらなぜこれを知ってるの?と疑問に思っていたある日、その真相を知ることに。則子は私たちが下校する時、後ろや近くにわざとくっ付いて話を聞いていたのだ。そしてその脇には朝子もいた。朝子も面白半分で私たちの話を盗み聞きしていたのだ。そして彼女らは何も無かったかのように私たちに近づいて

「ねーねー、街に行くの?だったら私たちも一緒に行きたいんだけど?連れてってくれない?」

などと無理矢理付いてこようとするのだ。私がアスカ以外の友達と下校している際もやはりこのような話を嗅ぎつけては「連れてって!」だの「付いて行く!」だのが始まる。そこで私も則子たちが付いてくるのは本当に嫌なので

「ごめん、きょうは別の友達も一緒だから無理」

とか

「塾の帰りに遊ぶから・・・」

などと言うが、決まってその後は則子の嘘泣きが始まり、私たちへの罵倒も含まれるので実に厄介なのだ。

なぜ自分が好きじゃないクラスメイトを自分らの娯楽に混ぜてあげなければいけないのか?そもそも気が合うわけでもないのに、と考えていた。則子だけじゃなく、朝子も同じように私に付きまとい、街に出かける、放課後に遊ぶなどの話に割って入ってきては「私も一緒に遊ぶ!」だの「連れてって!」だのが始まるのだ。朝子も則子同様に嘘泣きをし始めるというタチの悪さも持ち合わせるので本当にこちらも厄介である。実は一度則子らと街に出かけたのだが、これはこれで面倒だった。道中ワガママのオンパレード。私も買い物がしたいのだが、それはお構いなしで勝手な行動をする、私におごってもらおうと必死になるなど。一度一緒に出かけたらあとはもう行きたくないとなるパターンであった。だから彼女らからどんなにお願いされても放課後は一緒に遊びたくないのが本音であった。だからその一件以来彼女らと街に出かけることは無かった。

買い物だけじゃなかった。則子はある日私とアスカが少し離れた場所にあるスケートリンクへスケートに行くということを聞きつけて、ここでも一緒に行きたいと騒ぎ出した。無論私もアスカも連れて行きたくないし一緒に行くなんてとんでもない!と考えていた。そこでアスカが思いついたこと、それは「はる香ちゃんが親戚の家に行くことになったから中止になった」とアスカが則子に伝えるというもの。そして私もいるところでアスカが則子にそのことを伝えると、

「うそ!そんな事ない!絶対にないし」

と嘘泣きを始めた。本当に呆れるしかなかったし、私たちが則子を嫌っていることをそろそろ察してほしいとも思った。私がアスカと一緒にいずに、エリとあっこちゃんと一緒にいても同じようなことをされていた。無論エリたちも則子のその行動にうんざりしていた。

 

そんなこんなを繰り返していたある日、則子と朝子は自称クラスのアイドルのマミの取り巻きになっていたのだ。そして気に入らないとなればマミも加わって私に攻撃をするのだ。マミはいつも自分がいちばん可愛いと思い込んでいたのだが、ある日私が隣のクラスの理恵ちゃん(こちらはこちらでまた可愛いのだ。背も高く顔立ちも整っており、性格もとても温厚でクラスで人気者だった。本人は決してそれを自慢するなどしなかった)を可愛いと言ったことをどこかで聞いたことがきっかけで私を敵視するようになっていった。

マミは誰が何を言おうが自分はクラスでも学年でもいちばん可愛い、特にクラスのアイドルだという考えを強く持っていた。私もそれは知っていたが、そういう彼女があほらしく見えていたので正直その考えには賛同しなかった。クラスの他の女児たちもマミに賛同する人しない人で別れていた。

そんな中、マミがあまりにも「あたしって可愛いでしょう?」と私たちの前で言うものなのでそれすら本当にくだらなく思えた私が「バカみたい」とボソリと一言発したところ、クラスを巻き込んだ喧嘩に発展してしまった。マミを可愛いと思う子たちとマミをそう思わない子たちで別れての大喧嘩。その後担任の耳にその情報が入り、マミはタチが悪いことに担任から事情を聞かれた際に「あたしははる香ちゃんにいじめられたの!」などと言って先生を味方に付けてしまったのだ。他にもマミはいかにも自分は被害者だというような被害妄想も入ったような言い分を先生にしたおかげで先生がその気になってしまって私が自動的に悪者になってしまった。その後もマミからはたくさんの嫌がらせを受けたり、下級生にある事無いことを吹き込まれたりもした。

今思うとマミの家庭は相当複雑だった。歳の離れた兄と姉がいるのだが、姉はよく彼女に年齢不相応な服のお下がり(ボディコンみたいなものなど)をあげているようだが、基本どちらもマミにはほぼ無関心であった。兄はとりあえず優秀(彼女曰く市内一の進学校に在籍。後に旧帝大に進学)らしいが姉は高校にも行かずに歳をごまかして夜の歓楽街で水商売をしていた。両親についてはよく分からず、両親共働きで母親は不在がちだというのだ。時にはマミと姉を残して会社の慰安旅行で海外に出かけたりもしたとのこと。父親は一応いるようなのだがあまり話題に上がらない。これらを総合してもやはり彼女の家は相当複雑な家庭であるのは確かである。そんな複雑な家庭で育てば、そりゃ彼女だって学校では何か悪いことでもしないと落ち着かないのだろう。加えて学校ではお姫様でいたいものなのだろう。寧ろこんな家庭環境でいて学校で何も悪いことをせずおとなしく過ごしているほうがおかしい。

マミとは中学も2年までは学校が一緒だったが、彼女が中学校2年の時の担任と衝突をしたことを機に学校に顔を見せなくなった。後に分かったことだが、マミ自身実はずいぶん前から精神分裂症(現・統合失調症)を患っており、病院通いが欠かせないということもあり大病院のある場所から目と鼻の先にある別の学区の中学校に転校したというのだ。そんなマミは電車で中学校まで通っていたこともあり、地元の駅で彼女とよく遭遇した。高校生になってからも何度か彼女を見かけたが、その時の彼女は市外の私立女子高の制服を着て不良仲間とよく一緒にいた。その後間もなく彼女は高校を辞めて働くことに・・・。

 

中学に入っても私はいじめに遭っていた。

正直「さすがに中学に入ればいじめも無くなるだろう」と考えていたが、同じ小学校出身の子数名が私についてある事無い事を無関係の生徒たちに言い触らしてしまったようで、それが噂として広がり、しまいにはいじめに発展してしまったのだ。中学校に入って1ヶ月ほどしたある日、同じクラスになったある男子からいきなり「お前、小学校の頃いじめられていたんだろう?調子こくな!」などといきなり因縁をつけられてこちらも対応に困るという一幕があった。私は「知らん!」となるべく相手にしないようにしていたが、彼は休み時間のたびに私の元に来ては「いじめられていたんだろう?」としつこく詰め寄ってきたのだ。そんなある日のこと、私もあまりのしつこさにうんざりしていたところで彼はいきなり私の頭を掴んで髪を思いっきり引っ張った。あまりの痛さに手を払いのけようとしたところ、私は思いっきり殴られてその場にうずくまった。その日から奴からのいじめが始まったのだ。見かけるたびに暴力を振るわれ、嫌がらせをされ時には大怪我をしそうな場面も多々あり。たとえば階段から突き落とされたり、いきなり教室にあった箒で殴りかかられたり。そして彼もタチが悪く、別の仲間も誘い最終的に関わった人間の数は2桁になっていた。

日々続く暴力で体中に痣が出来てストレスで胃が痛い日々が続いて何も食べられない日も続き、勉強も手につかなくなり、中の上ほどあった成績も次第に中の下ぐらいに下がっていった。何度も親に「いじめられている。だから学校に行きたくない」と訴えたが母は事情を聞くのみで私を学校へ行かせた。父に関してはほぼ無関心。母は世間体を気にして私を学校に行かせていたのだと思う。今思うと世間体云々よりもわが子の安全を優先すべきじゃないのか?と思うのだが、母はそれよりも世間体を取ったのだと思う。正直この頃の私はクラス全員からいじめられていたような状態だったから。昨日まで仲の良かったクラスメイトの女子も「あんたと関わっていると、私もいじめに遭うから」とひとりひとりと離れて行き、目の前で私がいじめられていても何もせずただ見ているだけ。

そして私が部活に入っていなかったこともあり面倒なことは全て私に任せようとしていたのだ。たとえば文化祭の実行委員や生徒会関係の人選など。その場合は必ずといっていいほど誰かは私を推薦し、理由は「野良部(当時部活に入っていない生徒をそう呼んでいた)だからどうで暇でしょ?」「私たちは部活で忙しいから」などと身勝手な理由をつけて私に押し付けようとしたのだ。私も黙って引き受ける気は起きなかった、というのも理由が身勝手というのもあるが、ただ部活に入っていないというだけでこうして雑用を引き受けなければとなるのはいかがなものかと疑問だったからだ。だから決まっても辞退の申し出をしたのだ。しかし担任もバカであり「多数決で決まったんだからやるべきだろう!」と強く言うのだが、私は到底納得がいかない。何が多数決だ?ただ面倒だから押し付けてしまえという腐った根性が私は気に入らない。

そして担任も「決まったんだからそれでおしまい」ってわけか?担任すら敵に見えた瞬間だった。私は迷わず「だったら部活に入っていれば面倒なことはしなくていいって決まりでもあるの?そんなのおかしいよね?こっちだって好きで部活に入っていないわけじゃねぇし。中には事情があって部活に入れない人間がいるのも知らないの?部活に入っていないからっていうのを理由に面倒なことを押し付けることを許すのか。そんなの勝手に押し付けられた奴が怒るのも無理ないだろう。それで納得いかないっていうなら校長に言いつけようか?それとも教育委員会に全部話そうか?」

と私は担任に強く言った。帰宅して母にもこの話をした。すると「あんたにはそんなの無理でしょう」とすぐさま学校に抗議をしてくれたのだ。だがこれも決して正しい方法ではないと今になって思えてくる。本音を言えば担任が能無しという事だった。それを母には言いたかった。担任もダメならクラスもダメ、面倒なことを部活に入っていないという理由だけで押し付けるなんて本当に腹が立つ。社会に出れば仕事で忙しいから法律なんて守りません!とでも言うのか?こんなクラスなら私は学校に行きたくない。とも母に話した。だがここでも母は学校に行きたくない要求は聞いてくれなかった。母に言う言わない以前に私は本当に学校には心底絶望していたので一日でも早く不登校になりたかったのだ。転校となるのなら別だが・・・

翌日私のクラスでは再度文化祭の実行委員を選ぶことになった。担任も部活に入っていないだけで押し付けられるということに学校側も疑問を持ったのだろう。結局生徒会関係も文化祭の実行委員も別のクラスメイトに決まった。こうなった以上、後味が悪いとしかいい様が無いが・・・

 

学校生活に関して実は母が口を挟む、手を出すことも少なくなかった。たとえば私の学校の指定する下着の色が不満(アンダーは白黒紺と決まっていたが、白に近い薄いピンクは本当にダメなのかと私に問い詰めてひとりでキレた)だったのか、それについて「うちには薄いピンクしかない!」と学校へ抗議に行ったり、冬になって寒いからとジャージの長ズボンを膝上まで切って裾を処理して、それをスカートの下に履かせたりもした。ジャージの件はクラスメイトからスカートをめくられたり(この行動自体が大人気なくみっともないが)もした。無論翌日から履いていかなかった。

それから発育が良かった私のためにと母は勝手にスポブラを買ってきて翌日私に学校に着けていくように命じた。私も「まぁ今は恥ずかしい気持ちもあるけれど、いずれはみんなするものだし・・・」と自分に言い聞かせてその日はそのスポブラを着けて学校へ行った。その日の午後、クラスメイトに私がスポブラを着けているということがバレてしまい、教室移動の際などにわざと私の後ろを歩いては指で背中をさすることをする女子が多数いて気持ち悪くなってしまったのだ。クラスメイトの女子が次から次へと私の背中を触れるものだから本当に気持ちが悪い。しかも

「高坂さんスポブラしてるの~?」

「胸大きいからね~」

などという薄気味悪い笑い声も付いて。思春期真っ只中な女子にとっては同じ悩みのはずなのに、女子ならいずれはするだろう当たり前のことをしただけでこうしてからかいの対象になるなんてと本当にその日は居心地が悪く、翌日はこのせいで体調を崩して熱を出して学校を休んだ。母には「もうスポブラなんて着けていきたくない!そんなものいらない!」と抗議した。だが母はそんな私に対して「あら~、みんな珍しかったんだね~」ぐらいしか言ってくれず、本当に悔しい思いをした。せめて親身になって悩みのひとつぐらい聞いてくれたらよかったのに、という思いはあった。そして母は「せっかく買ってきたのに・・・」と落胆していた。が、落胆したからといってまた学校に着けて行って嫌な思いはしたくないというのは当時の私の本音だった。

このような母が買ってきたもの、作ったものを身につけたことによってクラスメイトからのからかいの対象になってしまうというものが死ぬほど嫌だった。時には母は私にいじめられて来いと言っているのか?と勘ぐってしまうほどだった。

 

皆が必ずいつか向き合う性の問題も、私に関わればそれもからかいの対象になるというのも普通だった。生理になった時にトイレまで後を付けてくるクラスメイトもいたぐらい。本当に気持ち悪くてたまらなかった。それだけじゃなくカバンの中を物色された事もあった、きまって生理の日に。スポブラにしても生理にしても女として産まれればどこかで向き合わなければいけない問題なわけであり、それがただ早いか遅いかの差だろう。それが少しでも早い、クラスでも生理が来ない女子がいればそうネタにされてもおかしくないのか?そもそもネタにしていた女子は今それをどう思うのだろう。わが子にも当たり前のように、武勇伝のように「ママはねぇー、こういうクラスメイトがいてある日スポブラしてきたんだけど、背中をこうしてあげてたの!」とでも語るのか。そう考えると失笑ものだ。恐らくだが彼女らは誰かに恥ずかしい思いをしてもらうことが実は自分にとって照れ隠しになる場合や私もいつかそうなるの?という不安感を和らげるものなのだろう。たとえそうであっても恥ずかしい思いをした側からすればただただ迷惑でしかない。ブラなんざいつかはするものである、だからこればっかりは不可抗力。それをこうしてからかいの対象にするとは本当に迷惑であり人権侵害であると今でも考える。

このような性に対しての嫌がらせは女子からだけではなく、男子からもあったのだ。ある放課後にその事件は起きた。自分をいじめていた主犯格の男(クラスメイト)に放課後の教室に一人でいるところ狙われて脅された挙句、(最初は制服の上からだったが)制服の下に手を入れられて胸を揉まれた。それだけじゃなく、奴は事もあろうか私を押し倒してきた。奴は私の口を手で押さえようとしたが、そこで恐怖のあまり私が声をあげたところで奴は逃げた。奴が逃げた後私はしばらく放心状態だった。一体何が起こったのだろう?今のは現実?一体何をしたかったの?本当に混乱した。そしてしばらくして状況が読めてきた、奴は私にいかがわしい事をしようとした!そう思えた私は気分が悪くなり、着衣も乱れたままその場で暫く泣いていた。それから私は長期に渡って異性を極端に嫌がるようになった、男そのものが気持ち悪いとも思っていた。教室で同じ空気を吸うことすら嫌悪感があった。しばらくは男子とは話をしても決して目を合わせることもなかった。とりあえずその時は体を触られただけで済んだが、心の傷はしばらく癒えずにいた。

実はこの主犯格の男、この事件の前から私を舐めるように全身を見ては「お前、胸でかいなぁ~」などと言ってきてはしばらく人の胸ばかりを見るなどの異常な行動があったのだ。胸をずっと見ていたことも、押し倒されたこともさすがにこればっかりは恥ずかしくて誰にも相談出来ないし言えない・・・、たとえ母親でも親友でも!どうしたらいいの?!とそればっかりが頭の中をグルグルしていたことを覚えている。しばらくフラッシュバックに苦しんでいた。

 

この後しばらくしてクラスメイトのある男子が同じクラス内でのいじめを原因とする不登校となった。担任は毎日のようにその男子の家を家庭訪問するが暫く学校に来ることは無かった。そんな中、私も男子からの暴力に耐えられなくなり、とうとう母に傷跡を見せることに。太ももや背中に数十箇所の痣が出来ていた。ずっとそれを隠していたが、この日初めてそれを見せたのだ。いつもなら「お前が悪い!バカだからどこに行ってもいじめられる」などと理不尽なことを言う母だがこの日ばかりは「一体どこの誰が・・・」と怒り心頭だった。

帰宅後、兄も含めて事情を聞かれる。そしてその後母が学校へ電話をして担任と話をしたのだ。そしていじめの首謀者の名前を言い、私が今どんな状態なのかも話をした。ここでも私は「もう本当に学校に行きたくない!転校したい!」と言っていたが、母は不登校を認めてはくれなかった。ただ、学校との話し合いの席では「転校も考える」ことは担任に伝えた。当時の私の中学ではいじめはそんなに重大な問題として扱わなかったのか、話し合いも担任と母が電話でというものだった。そして翌日、学校に行くと担任が私を別室に呼び出して事情聴取を始めた。前記の「野良部だから係や雑用をやるのは当たり前」のような態度は無く親身になって話を聞いてくれたことは今でも覚えている。いじめの経緯や誰が何をしたのかなど、詳しく話を聞いてはノートにそれを書き込んでいた。そして私はここでも

「もう学校に来たくない。明日からでも学校やめたい(義務教育だから退学は無理だが)。いじめが無くならなければ学校になんて行かない!」

と担任に伝えた。だが担任は「高坂さん、君まで不登校になっては困る」と言った。それはどういう意味なのだろう、恐らく当時既に1人の不登校がクラスで出ていたこともあり、2人になったら先生の立場も危うくなる、という感じだったのだろう。先生の立場からすればクラスで2人も不登校が出ればというものはあったのではないか、だがそんなものは私には全く無関係。むしろそれをいじめ無くして「不登校になんてならないで」だったら本当に腹が立つ。そのようにも取れるが、私が望んでいたのはいじめがなくなってくれればそれでいいというものだった。だがそれも一筋縄ではいかないものだった。完全にいじめは無くなりはしなかったが、中学2年、3年になっても私をいじめていた奴らが私を見つけては誹謗中傷などは普通に続いた。それがクラスが違う人間であっても。

中学2年になってからは、同じクラスのある男子からしょっちゅうちょっかいを出されるようになり、心底気持ち悪いと思ったこともあった。そんな中学校2年生のある日、私はクラスの友人と日本史の宿題の話をしていて友人が分からないところを教えていた。教科書を開いてそして自身が板書したノートを友人に見せながら説明をしていた。ちょうどその時、同じクラスの不良の男子がいきなり私の髪を掴んで私を席から引き摺り下ろしたと思ったら、いきなり無言で私の右側の脛を思いっきり数回蹴り上げたのだ。私はあまりの激痛でその場にうずくまってしまい、その後のことはあまり覚えていないが友人数名がその加害者である不良男子を取り押さえていた。そして奴は職員室に連れて行かれ、私は別の友人に保健室に連れて行かれた。蹴られた場所は赤く腫れ上がっており、脚を動かすたびに激痛が走っていた。保健室の先生は病院に行くことを私に勧めてくれたが、私はそれを頑なに拒否した。というのもここでこれが両親に知れたらまた面倒なことになるだろうと思ったからだった。私も怒られるし(怒られなくとも両親の怒り狂う顔を見たくなかった)、それよりも母親が学校に怒鳴り込んでくることも想定できたから。ただ今思うと加害者は当時既に14歳だった。だから少年法を適用することも出来たはず、だったら当時の法律でも刑事事件として立件も可能だっただろう。警察に被害届を出さなかったことを今でも後悔している。この時私が親に全部話して警察に被害届を出していれば、加害者は間違いなく審判にかけられていただろう。そして場合によっては塀の中に。なのに私が選んだもの・・・「周囲が怖いから泣き寝入り」という情けないもの。

後にこの時の激痛は、実は陥没骨折だったことが判明する。それが自然治癒して私の骨には骨折の痕として残っていた。

 

成人してから膝を傷めて整形外科へ行った時の検査で判明したことだった。先生より

「骨折の痕がありますけど・・・、過去に骨折してますよね?」

と私に確認してきた。そして私は骨折して病院にかかったことは無いが、中学二年の時に・・・と前記の話をしたのだ。すると先生は

「なぜそんな事をされているのに相手を警察に突き出さなかったのか?立派な暴力事件だろう・・・。それにすぐに病院で治療しなかったことが信じられない。ずっと痛かったでしょう?」

と言っていた。先生は続けて私の脛のその凹んだ部分を指して

「ここを触ると・・・ほら、凹んでいるでしょう。これが陥没した部分」

と説明してくれた。無論今でもその患部はきれいに凹んでおり、外から触っただけでもすぐに分かるのだ。

加えてその加害者は私に以前からいろいろとしてきていたのだ。たとえば体育などで教室を離れた時に机の中のものを全部取り出してそこに教室の前の水道にあったクレンザーをかけて更に筆箱の中にクレンザーを大量に入れていたなど、本当に人間性を疑うことばかり。この件では一度学級で話し合いを持った。あまりにもひどい現状に私はもう耐えられなかったから。それと同じクラスの仲の良かった友人や他のクラスにいた私の友人たちが担任にちゃんと学級で話し合いをするべきと掛け合ってくれたのだ。その学級での話し合いは学級裁判のような状態になった。加害者であるその不良男子は「あいつ(私のこと)は演技をしている!今までも演技をしているくせに、人を悪く言いやがってむかつく」などと意味のわからない言い訳をしてきたのだ。挙句、私が奴に蹴られてケガをしたことも、机の中のものにいたずらされたことも自作自演だとでも言いたいのか、それすら演技だと言い放ったのだ。本当に腸が煮えくり返る思いだった。だが本当に奴は哀れだとしか言い様が無い。いかにも「喧嘩が強い奴が本当に強い」とでも思っている本当に弱い人間なんだな、と思えてきた。

 その後も面倒なことは多々あったが、友人の助けもあって何とか耐えられた。馬鹿は馬鹿だと割り切った。それに「部活に行きたいから学校へ行く」と考えるようにしたところ、不登校にならずに済んだ。

 

高校に入学してからはいじめは無かった。ただ、ほぼ女子高(私の在籍していたクラス43人中男子は10人のみ)ということもあり、自然と女子生徒の中にスクールカーストのような構図が出来上がり正直それすら面倒だと思っていた。さすがにいじめとは言いがたいものではあったが、クラスメイトの誰かが浮名を流そうものなら同クラスのスクールカースト上位の女子たちから寄ってたかって根掘り葉掘り話を訊かれ、彼女らからマスコミのように連日追い回されるという本当に面倒なことが付いて回ったものだ。私も何度も狙われた。高校2年のある日、同じ英会話スクールに通う進学校の男子と一緒にいたところを目撃されていたのだ。私はそんな事も露知らず翌日学校へ行って友達を何気ない話をしていたり、マンガの貸し借りをしていたところで、その一件を目撃したという女子数名が私の周りに集まってきて「高坂ー!あのさぁ、昨日○○高校の男子と一緒にいたでしょ?見ちゃったんだ・・・、っていうかアンタ達どんな関係?」「もしかして、付き合っているの?」など、本当に芸能人を追い回すマスコミのように私へ質問攻めをするのだ。当時私は彼とは付き合っているわけではなく、ただその日は英会話スクールで資格試験があったこともあり、偶然居合わせた彼と試験後にバッタリ会ったことも重なってスクール近くのカフェで試験の感想を話したり、スクールの宿題や課題の話をしていただけだった。それに私は彼に好意があったわけでもなく、信頼できる同期や同僚みたいな関係だと思っていた。ただ一緒にいただけで普通に噂になる、その噂に尾ひれが付いて出回る、勝手に私たちの関係が進展してしまうなど、本当に面倒だった。この彼とは後に付き合うことになるが、それはそれで私たち当事者同士よりも周りが面倒だった。付き合った途端にそれは周りが勝手に盛り上がる、行動を監視される、跡をつけられたこともあった。月曜日に学校へ行くと必ずと言っていいほどスクールカースト上位のクラスメイトたちから「週末は会っていたのか?」などというインタビューまで受ける始末。それからもっとひどいのが、他の学校の知り合いにまで話をもって行っては騒ぎ立てるなど、当の本人たちからすれば本当に迷惑極まりないものだった。結局彼とはこの周りの騒ぎの酷さにうんざりして別れることになってしまった。

恋愛話での周りの勝手な盛り上がりは決していじめではないだろうということを頭では理解できても、その話が過熱してしまい本人の知らないところで有りもしないような話に発展して冷やかされてしつこく追い回されることは結局いじめにも繋がりかねないだろうと私は未だにそう思う。

 

恋愛話に関しては本当に迷惑なものが続いていた。特に中学の頃は。

私は中学生当時親から既に恋愛禁止令を敷かれていた、理由は「恋愛ばかりしていたら受験に響くから(この理由自体問題だが・・・)」。恋愛禁止令をしかれなくても正直同じ中学に心を許すような男はいなかった。むしろ私にとっては恋愛対象外だった、というのも周りを見渡せば下品な男、ウ○コだのチ○コだのを連呼するような下劣でバカな男、しつこく女子に付きまとうしつこい不気味な男、自分たちと何かが違うとすぐに悪口を叩く女々しいバカ男、自分にただ酔っているだけのナルシスト、それ以外は不良ばかりだった。そんな周囲にげんなりする以前に「くだらない」とも思える。そんな男ばかりじゃ正直こちらも恋愛する気なんて起きない。むしろ付き合おうものなら自身の品位が下がるだろうと思ったぐらいだ。だから恋愛対象の男など本当に皆無、そんな私にある日突然色恋話が出てきてしまったのだ。

友人のアスカ(「友達選びは全てご自身の責任で行いましょう」参照)から突然「あのさー、私ちゃんって○組の○○と付き合ってるんだって?」と突然訊かれたのだ。私はそのアスカの言う男子のことは中学校1年の頃に同じクラスだった為に当然知っていたが、正直私の中では「嫌い」のカテゴリに分類されていた奴だった。それに親しく話しもしたことは無い。そんな関係なのになぜ色恋話に発展するのか?とわけが分からない状態になっていた。が、その翌日、アスカが勝手に学年中にその話を広げてしまったのだ。その後は暫く毎日が憂鬱だった。それに追い討ちをかけるようにアスカは「私が話を広めると、すぐに学年中に広がって面白い!」と人を小ばかにしたように話をするのだった。おかげで部活でも私生活でも私は本当にその場に居づらかった。そうこうしているうちにその噂もすぐに無くなったが、今度は同じクラスのある男子が私のことを好きだとアスカが勝手に話を広めてしまった。この男子は私に事あるごとにちょっかいを出してくるという面倒な男だったうえに顔も対してかっこいいわけでもないので眼中に無かった。それなのに、ちょっかいを出されていることをいいことにアスカは勝手に話を作り上げて噂話として広めてしまった。これはこれで本当に厄介だった。なぜ事実と違う話がこうして出来上がって勝手に広がる・・・、今考えても本当に不快である。当時のアスカは私という存在が本当に気に入らなかったのだろう。同じ部活に入部してきて顧問の先生や先輩に気に入られて、おまけに入部間もなくピアノの楽譜めくり(ピアノ伴奏は部長)という大役を任されたことやいきなりのオーディションでコンクールのレギュラーメンバーの座を勝ち取り、レギュラーメンバーに選出されたことへの嫉妬は少なからずともあったのだろう。だが嫉妬も時にはいじめに繋がる、その時そう感じた。

 

【参考】

いじめであっても場合により以下のような犯罪となりうることがある。

暴力をふるってケガを負わせた場合 → 傷害罪

暴力をふるった場合 → 暴行罪

怖がらせて言うことをきかせたり、金品を強要 →脅迫、強要、強要未遂罪

相手を脅して金品をせしめる、せしめようとする → 恐喝、恐喝未遂罪

人のものを奪ったり隠す → 窃盗罪および器物損壊罪

人前で馬鹿にする、侮辱する → 侮辱罪

相手に対してわいせつな行為をしたり、しようとする → 強制わいせつ、強制わいせつ未遂罪

相手を誹謗中傷して相手の名誉を傷つけた → 名誉毀損

相手を陥れるために嘘の告訴をした場合 → 虚偽告訴の罪

いじめ行為でPTSDになるまで精神的に追い込んだ場合 → 傷害罪が適用される可能性

上記の他暴力などにより人を殺せば殺人罪も適用される。

綿飴屋ごっこでケガをした話と心配をかけた話、そして微笑ましい話

本当に毎日平和な長屋生活をしていた2歳の時、私は家の脇の砂利道で三輪車ごと転んでしまい、唇を切るケガをしてしまった。この日も裏の家の友達兄妹と三輪車や自転車で遊んでいた。兄も一緒に自転車に乗って遊んでいたのだが、しばらくすると自転車に乗って遊ぶのに飽きてしまい、みんなで三輪車をひっくり返してペダルを手に持ってグルグル回して遊ぶのに夢中になっていた。後に他の地方出身の友人に聞いた話によると、それはどこでも普通にやっていた遊びであり、呼び名も「芋屋(福島県会津地方)」とか「焼き芋屋(宇都宮周辺)」、「石焼き芋」、「わたあめ屋」、「カキ氷屋」などバラバラではあるが普通に存在していた全国的な遊びのようだ。

(注:この遊びについて後にネットで確認したところ、昭和30年代から40年代あたりに登場した模様であり、呼び名もバラバラ。だが遊び方は基本的に同じである)

ちなみに私たちの周辺でこの遊びは「わたあめ屋」が主な呼び名だった。そしていつも三輪車を持って子供たちが集まっては三輪車をひっくり返してペダルを持ってグルグル・・・と当たり前のように遊んでいた。

 

そんなある日の出来事、わたあめ屋遊びをしていた私と兄がバランスを崩してペダルを持ったまま前方に転んでしまったのだ。転んだ途端、私たち兄妹は唇から出血をして大泣きをしていた。泣き声を聞いてすぐさま母が駆け寄ってそのまま近所の外科医院に連れて行かれた。病院に到着して麻酔を打たずに傷口は縫合された。三輪車で転んだ瞬間はなぜか覚えている。その後のことは後に母から聞いた話であるが、実に痛い話である。それを裏付けるように私の下唇には今でも当時の傷跡がクッキリ残っている。幸い唇の裏側を切ったので、顔側に傷跡は無い。

 

これ以外にもケガをしても楽しく遊んでいた記憶はたくさんある。大家さんの家の庭や長屋の通路の砂利道をレース場のようにして子供たちが三輪車や自転車で暴走する、子供たちによるマラソン大会なども日常茶飯事であった。そして大家さんの家の庭だけでは足りず、近くの沼や田んぼにザリガニ取りに行ったものの、兄が泥濘にはまってしまい長靴が脱げてしまい、田んぼに足を突っ込んで泥だらけの足のまま家に帰って母に怒られていたこともあった。

時には熱を出していても家を抜け出してみんなと一緒に遊んでいた子もいたぐらい。そして母親に見つかって怒られて家に強制送還される。それから今思うと危険なことだが、水疱瘡や風疹になった子供が一緒に遊んでいたこともあった。こちらも言うまでもなく見つかって強制送還。とにかくこの頃の私たちの遊びは本当に楽しいものばかりであった。風疹といえば、我が家で父以外全員風疹に罹患してしまい父を置いて母の実家に行っていたこともあった。

 

そんな中、当時3歳だった私は警察のお世話になったそうだ。ある日母や兄と近所の子供たちで自宅から少し離れた公園へ遊びに行った。砂場も遊具もある広い公園で、私たち子供は本当に楽しく遊んでいたものだった。帰りの時間になってもなかなか帰ろうともせず、母が無理矢理手を引いて家に連れ帰ったぐらいである。

それから数日後、私が自宅からいなくなった。靴も無い、庭にあったはずのスコップも無い、自宅周辺を探し回ってもどこにもいない、そこにちょうどパトカーが通りかかってそれを見た母が警察官に私がいなくなったと伝えた。そして警察も巻き込んで捜索開始。警察官は前記の公園付近も見てくれたそうだ。その後例の公園の砂場でひとり遊んでいるところを無事に発見されたというのだ。

この結果、私は大きくなっても母にずっと

「あんたはねぇ、公園にひとりでスコップを持って遊びに行っちゃっておまわりさんのお世話になったのよ」

と言われ続けた。さすがに3歳頃の私が起こした騒動なので全く覚えていない。母の口からこの話が出るたびに私は母の前で笑うしかなかったのだ。ちなみに自宅と公園の距離は2~300メートルほどでそう遠いわけではないが、大きな道路を渡らないといけない場所であるため、自宅からそこまで何も無く着いたことは今でも本当に信じられない。

 

その数日後、今度は近所の子供たちと一緒に私はまたやらかしたのだ。この日はとても暖かい晴れた日だった。いつものように私たち兄妹と近所の子供たちは家の外で元気に遊んでいた。砂遊びをしたり、三輪車を走らせたり、わたあめ屋遊びをしたりと何一つ変わらないものだった。そして裏の家に住む兄妹の兄の方が同じ団地内の近くの家の縁側で子供に授乳させているそこの家の母親を発見したのだ。彼の家もそこの家とは普通に親交があったので、またそこの赤ちゃんと遊ぼうと思っていたと私は感じた。事実いつもそこの家の赤ちゃんがいれば普通に遊びに行っていた。

だが、この日の彼は赤ちゃんと遊ぼうというものではなく赤ちゃんに授乳する母親、いや赤ちゃんが何を飲んでいるのかが気になったようで授乳中のお母さんに近づいて何か話をしていた。そしてそれに続いて彼の妹や私たち兄妹、近所の子供数名がぞろぞろとそこに続いて赤ちゃんに授乳するお母さんの元に行った。そこで何を思ったのか、子供たちは列を作ってそのお母さんのおっぱいを吸い始めたのだ。私もそこにいた。そしてみんなで

「○○さんちのお母さんのおっぱい、カルピスの味がするー!」

などと無邪気にはしゃいでいたところで私の母に発見されて全員我が家に強制送還されたのだ。その後母からこってり油を絞られたことは言うまでもない。母から見ればそれは本当に奇妙な光景だっただろう。わが子に授乳するはずが、何故に近所の子供たちにも?という・・・。冷静に考えれば幼稚園児や幼稚園に入るか入らないかの小さい子供が子供に授乳している姿を見れば、赤ん坊が何を飲んでいるのか気になる、ぼくたちもそれを・・・となっても何ら不自然ではない。子供なら気になるのが当然だろう。だがそれを見たうちの母は本当に驚いたことだろう。その後母はそこの家のお母さんに一生懸命謝罪していたのを覚えている。

 

それから同じく私が3歳の頃に、母の運転する車のドアから転げ落ちたことがある。この日は普段バス登園の兄を幼稚園に迎えに行くというので私は母が運転をする車に一緒に乗り、兄の幼稚園に向かった。当時母が乗っていた車はお世辞にもきれいな車とは言えないものであり、後部座席の床の一部には穴が開いていたぐらいだった。軽自動車ではないものの、本当に小さな車だった。今思うとそのような車に子供が数名乗ってということが信じられない。そもそもチャイルドシートも義務化されていない時代だったので、後部座席に子供が数名なんて普通によく見かけたものだった。

そして母の車が幼稚園に到着、兄と近所の子供数名を車に乗せて帰宅することになった。前記のとおりチャイルドシートが義務化されていない時代だっただけに、後部座席はすし詰め状態に。兄は助手席に座り、近所の子供たち数名が後部座席に座っていた。もちろんシートベルトもしないで。そして座れなくなった私は左側の後部座席ドア付近に立って乗ることに。そして幼稚園を出発、ご近所に車を止めて母はそこに住む子供を車から降ろし、ドアを閉めて自宅のあるあたりに向かったのだ。車にはまだ子供が乗っていた。そして裏の家近くに車がさしかかったところで、私のいたところのドアがいきなり開いて私は車から転げ落ちた。誰かがドアを開けたわけでもなく、そのドアがいきなり開いて私は砂利道を転がって行った。幸い母の運転する車のタイヤの下には転がり込まず、逆に転がって行ったおかげで車に轢かれることは無かった。

友達選びは全てご自身の責任で行いましょう

友達はたくさんいる・・・と言いたいところだが、実はそうでもない。

正直幼馴染と言える友達はたくさんいても、胸を張って「小さい頃からずっと仲良しです!」と言える友達は片手で数える程度である。大きくなればライフスタイルも変わるわけで、付き合う友人も変わるのが自然だと私は考える。

そんな中、母は常に私の交友関係も把握したがり、私と仲良くしている子を見ては常に「どんな子なの?」と私に尋問するのである。優等生でお勉強の出来る子と私が仲良くすることを望んでおり、無理にでも「優等生」と呼ばれるような子と私をくっ付けようと躍起になっていた。だが私はそんなものは望まず、とりあえず気の合うクラスメイトを友人とすればいいと考えていたが、母はそれを気に入ることはなかった。たとえば相手の家柄や相手の親と母自身との仲が良いか、勉強が出来る子かなど・・・。母自身の中にそのようなチェック項目がありそのチェック項目に該当するものが多いクラスメイトほど私の友人として相応しいという結果になっていた。反対にチェック項目に該当するものが少ない場合は「娘の友達として相応しくない」という結果になり、私がその子たちと付き合いがあろうものなら「あの子とは付き合っちゃだめ。あの子はね、家が貧乏で・・・」「家柄がよくないから」などから始まって、「親が外国人だから」「暗い性格だから」付き合っちゃだめなどと耳を疑うような理由が付いてくるのである。こちらも成人してからも続くのであった。

言うまでも無くいくらクラスの中で「お勉強の出来る子」と認定されているような子であっても私と気が合うかといえば、みんなそうではない。こればっかりは相性の問題である、当たり前だが。しかし母にはその当たり前の理論が通じない。優秀な子とお友達、ウチの娘は優秀♪とでもなっていたのだろう。

 

幼稚園の頃の話。とりあえず気の合う友人は何人かいた。その中にひとりだけ男友達(以下ミツル君)もいた。ミツル君の母親は大手生命保険会社の外交員をしていたこともあり、母もそこの保険に入っていたため彼女は何度も我が家に来ていた。そこでいつも一緒に来ていたのがミツル君。私が幼稚園で他の男児から意地悪されていても何故かミツル君だけはいつも私に優しかった、そして家に彼が来た時もよく一緒に遊んでいた。一緒におやつを食べたり、庭や近くの空き地や公園で遊んだり、親同士が保険の話や世間話をしている間はそんな楽しい時間が過ぎていったものだ。母はミツル君のことは気に入っていた、恐らく親同士の付き合いもあるからだろう。彼のお母さんはとても頭もよく、物腰の柔らかい人だった。それもあってか私の母のチェック項目に該当するものも多かったのだろう、今となればそう思う。我が家に来ていた幼稚園時代の友人は他にもおり、一度だけミツル君家と一緒にもうひとり別の男の子(以下キミアキ君)が彼のお母さんと一緒に我が家にやってきた。だが、私はキミアキ君とはそんなに仲が良いわけではない。理由もなくキミアキ君は私を避けて意地悪をしてからかうからだ。キミアキ君とは小学校、中学校と同じだったが一度も仲が良かったことが無い。が、私の母から見ればキミアキ君も聡明な子であった為に私の友達として相応しいと思っていたようだ。だが実際はそんなに仲が良いわけでもない。母はしきりに「キミアキ君とも仲良くしなさいよ!」と私によく注文を付けてきた。だが母の思いとは裏腹に、私とキミアキ君が仲良くなることは無かった。一方ミツル君とは小学校4年生まで一緒だった。幼稚園の頃から親同士が仲が良いこともあってか、私たちも仲良しだったことも相まって親公認の仲になっていた。だがやはり私とミツル君は男児と女児、小学校に入れば自然と男の子は男の子グループ、女の子は女の子グループに別れるもので、幼稚園の頃と比べて一緒に遊ぶ回数は減っていた。だがやはり親同士が保険関係でつながりがあることもあり、学校が終わった後にミツル君は我が家にお母さんと一緒に来ることがよくあり、その度に遊んでいた。反対に私がミツル君の家に遊びに行くこともあった。家は少し離れていたが、なぜかよく遊んでいた。学校でも休み時間になって外に遊びに行った際に彼に会うと一緒に遊んでいた。だが私たちが小学校4年生の頃、彼が同じ市内ではあるが、違う学区に転校してしまったのだ。

それから幼稚園の頃から高校までずっと一緒だった幸子(「いじめ」の項にも出てきた子)も、母から見れば「私の友人に相応しい」子だった。とても優秀な子で、幼稚園の頃から書道、ピアノ等の習い事をずっとしており、母の目から見れば「この子と仲良しになってほしい」となったのだろう。彼女ともよく一緒に遊んだ。お互いの家を行き来したり、幼稚園でもよく一緒にいた。だが母の思う幸子は後に私にとんでもないことをしてくるなんて思いもしなかっただろう。小学校に入り、幸子と私は1、2年生の頃はクラスが別だったが、3年生から6年生までクラスが一緒になった。小学校に入って母もPTAの役員をよく引き受けており、幸子の母親もPTA役員だった。そこで親同士がお互いに意気投合したのか、そこでも勝手にお友達に認定されてしまったのだ。小学校に入って同じクラスになってから思ったことだが、幸子は実はあまり性格のいい子ではなかった。自分よりも弱い立場の子を見つければすぐに扱き下ろしたり、使いっパシリにしたりするので、周りに幸子に対していい印象を持つ子はあまりいなかった。それなのに親同士が仲良しなだけで私たちも勝手に仲良しになってしまっており、私は苦痛でしかなかった。確かに幸子は優秀ではあった、成績は。だが、性格があまり良くない。そこで私は全く別の友達と仲良くしていた。仲良しグループも幸子と私は別だった。私は3年生の頃から同じクラスになった別の女の子や、その年に新潟から転校してきた女の子と出席番号も近くて席が近いこともあってか仲がよくなった。このグループ内でよく交換日記をしたり、休み時間になると校庭に行って鉄棒をしたり、教室の中で絵を描いて遊んでいた。幸子たちも幸子たちで彼女らのグループ内で遊んでいた。

だがある参観日の日、私が幸子とは別の友達と仲良くしているところを母に目撃されてしまい、帰宅するとすぐに「なぜ幸子ちゃんと遊ばないの?仲良しでしょ?」から始まり、「お母さんは幸子ちゃんの方が好きだな~。だってお勉強もピアノも出来て、字もお上手だから!」と幸子を褒め称える言葉が出て、その次になって「今仲良くしている子、お母さんあの子知らないから仲良くしないで!あの子たちのお母さんの事だって知らないんだから」と私の友達を貶す言葉まで出てくる。母は確かに幸子がお気に入り、だけど私は幸子が好きじゃない。事件はその後私が小学校6年生の頃に起きたのだ。

4年生の終わりごろから幸子は私に急接近してきた。その頃から幸子は友達を脅したりするようになり、教室ではいつもお姫様状態になっていたのだ。クラス内で班を作った時にはいつも仕切る、気に入らないとすぐ脅す、拗ねるなど、元々あまり性格がいいとは思っていなかったが4年生になってからますますひどくなり私は幸子が嫌いになった。前記のミツル君も幸子のことが好きではなかった。後年彼と再会したときにも「俺さぁ、石川さん(幸子の苗字)苦手なんだよね。何ていうか、その・・・。すぐに威張るところとか・・・。はる香ちゃん、あんな石川さんとよく一緒にいたよねぇ」と言っていたぐらいだ。周りにも幸子が苦手という子がちらほら出始まっていた。そんな中、ちょうどそろばん塾に通うことになった私。そろばんを習うと仲良しの友達に話をしたところ、幸子がそれを聞きつけて「え?私ちゃんそろばん習うの?私もやってる!それでさぁ、私紹介してあげるから入ろうよ!」と私を突然勧誘してきたのだ。幸子のそのいきなりな行動に私は戸惑った。間髪要れず幸子は「だってねぇ、友達を紹介すると私ご褒美がもらえるんだー!やったー!!」などとひとりで舞い上がっている。その後親が勝手に契約をしてそろばん塾通いが始まった。同時に幸子が私をそろばん塾に紹介するということで。無論幸子を気に入っている母は大喜び。やはり幸子と私が一緒にいることが母にとって嬉しいのだろう。

そんなある日のこと、幸子は私に「あのね、学校に飴を持ってきちゃいけないって知ってるよね?けど、私そろばんの日に飴食べたいの。だって帰るの遅くなるし。だからはる香ちゃん、持ってきてくれない?ずっと友達でしょ?」と私に飴を持ってくるように持ちかけた。実は私たちの通うそろばん塾は学校が終わってそのままそろばん塾に直行する児童がほとんどであり、そろばん塾の道具を学校に持っていくのは普通だった。それを知ってか、飴を持ってこいなどと言い出す幸子・・・。

その翌週、私は飴を持っていかなかった。すぐに幸子にそれを知られ

「ちょっと!何で嘘つくのよ!私ちゃん来週飴持ってくるって言ってたでしょ?最低!もう口聞いてあげないんだから!」

と彼女に怒られた。私はそんな約束などしていない。それなのに勝手に約束をされたことになっている。無論それを否定すると彼女は

「じゃあ『はる香ちゃんは嘘つき』だってクラス中に言いふらしてやる!」

と今度は私を脅し始めたのだ。仕方なく翌週私はそろばん塾に飴を持って行き、幸子に渡した。飴を受け取った彼女は

「やったー!嬉しいんだけど!このことは内緒にしておいてあげるね!だって私たち、幼稚園の頃からの友達でしょ?」

などと友達アピールをしながら恩着せがましいことを言い始めたのだ。それから毎週のように幸子からは飴を催促された。だがある日1日だけ私が飴を忘れただけで、幸子はクラス中に私が学校に飴を持ってきていると言いふらしてしまい、私は先生に怒られ家には先生から連絡が行ってしまった。私は当然のことながら両親にも先生にも幸子に脅されたことを言ったのだが、誰一人信用してくれず母に至っては

「まぁ!幸子ちゃんのせいにするの?あの子は頭の良い子でそんな事をするはずがない!」

と言い出す始末。挙句

「幸子ちゃんがお勉強できるのが嫌なの?それとも幸子ちゃんじゃない子と仲良くしたいの?だからって嘘をつくなんて、お母さんはる香のこと嫌い!」

と。母から見たら娘はどっちなの?と頭を抱えてしまったぐらいだった。担任の先生も先生で私の言い分など何も聞かず、幸子を擁護する。やはり担任の先生も

「お勉強できる子はそんな事するはずがない。はる香ちゃんはお勉強も出来ないし、クラスにいても特に目立たないし、だからそういうことをしても分からないと思ったの?」

と思い描いていたとおりの発言をした。

 

これだけではなく彼女とは小学校5年生6年生とクラスが同じになってしまった。そんな中恐れていたことが起きてしまったのだ。幸子は6年生になってからも私に物をせびり、断られると脅すようになった。ある日彼女は私に自身の誕生日プレゼントをせびるようになった。私はあげたくなかったが、彼女はお約束どおり

「ねぇはる香ちゃん。私たちお友達でしょ?だからもちろん私の誕生日プレゼントくれるよね?くれなかったらどうなるか分かってるよね?」

と友達アピールと脅しをセットでしてくるのだ。本当にタチの悪いものである。

私は散々悩んだが仕方なく安物のタオルをプレゼントしてあげた。

だがそのタオル、実は誕生日プレゼントをせびられた数日後の土曜日に従姉妹と偶然行った学区外のスーパーで買った見切り品(微妙なシミの付いたもので通常価格で売れないために値下げされてワゴンに乗せられて売られていたもの)のタオルである。ここから私の無言の仕返しが始まった。私はそのタオルを状態の良い使い古しの包装紙で包んで幸子に渡してあげた。心の中では

「うふふ・・・これでもプレゼント、私たちお友達だもん!だから心を込めて包んであげようっと♪(ここで言う「心を込めて」というのは今までの恨み辛みのどす黒い思いをたっぷり込めてという意味)」

と呟きながら私は使い古しの包装紙でプレゼント用に買ったタオルを包んでいった。それは本当に面白く、復讐をしている気分で心底「幸子って本当に可哀想~」と思いながら微笑を浮かべていたものだ。

そして彼女の誕生日。私は彼女にその恨み辛みの篭ったプレゼントを手渡す。彼女は私のどす黒い思いに全く気づくことも無く「やったー!はる香ちゃん本当にありがとー!!」などと滑稽に見えてしまうぐらいに喜んでいた。その姿を見て私は心の中で

「汚れのついた激安品でもお誕生日プレゼントだよ。お友達だもんね~♪あ、包装紙も中古品だから!愛情が篭っていればいいでしょ?だってお友達だもんね~、アハハ・・・」

とそのプレゼントを受け取って喜ぶ幸子の後ろ姿に呟いた。散々人を振り回した彼女にした最初で最後の心の篭った仕返しだった。帰宅して私は母に幸子にプレゼントを渡したと報告した。母は私のどす黒い思惑の事など露知らず

「あら~、お誕生日にプレゼントあげたの?はる香って本当に偉いねー!」

などと、こちらもまた滑稽な展開となった。母の後姿にも私は

「値下がり品の汚れのついたタオルで包装紙も中古だけどね・・・」

と母の後ろ姿に呟く。ここで分かったことは、母も学校の先生も勉強できるイコール頭がいい、頭が良い子は悪いことなんてせず、みんなとお友達ということだった。母に関してはどんなに悪いことをする子でも頭が良い子とお友達になればいいというものだ。子供にとってそんなものは正直迷惑である。

実は小学校5年生の後半から、私は隣のクラスの女児(以下アスカ)とひょんな事から友人関係となった。アスカは小学校5年生の中盤に私の通う小学校に転校してきた。アスカと仲良しになったきっかけはあまりよく覚えていないが、6年生になったら本当に同じクラスの仲間のように仲良しになっていた。休み時間のたびに「あら~、隣の奥様」などと言って奥様ごっこ(奥様ごっこと言ってもご近所の奥様方が井戸端会議をするような感じで話すなど)をしていたり、クラブ活動も同じものに入ろうね!と言っていたりもした。委員会は同じ委員会に所属し、1年間楽しく過ごした。中学に入ってからもよく一緒に遊んだ。

そんな中学1年のある日、私はアスカを家に招待して一緒に遊んでいた。母も最初はアスカを気に入ってくれていた。だが、何度か我が家に彼女が遊びに来ていたある日、部屋で私の財布が無くなったのだ。ほぼ同時期、同じ地区に住む友人(こちらはアスカと同じクラスの女子)の家でも財布が無くなったというのだ。彼女曰くアスカが家に遊びに来た後に財布が部屋から消えていたというのだ。私はアスカを疑うつもりなどなかったが、その同じ地区の友人は真っ先にアスカを疑い、絶縁してしまったのだ。幸いその日は別の財布にお金を入れていたので無くした財布には何も入っていなかったのだ。だが、それを聞いた母は

「まさか、アスカちゃんが盗んだとか・・・?絶対に盗んでる!昨日来ててあんたの部屋に入って遊んでたでしょ?」

と。真っ先に母はアスカを疑ったのだ。そして

「あの子をもう家に呼ばないで!」

とまで。正直私はアスカを疑う気にもならなかった。なぜならアスカが私の財布を盗った証拠もないし、犯行現場を見ていたわけでもない。だから疑うのは筋違いなのでは?と思ったから。それに人を疑うことに疑問を持っていたからだった。

母が何と言おうと私はアスカのことは大切な友達だと思っていた。というのも中学2年生になるときに合唱部に入ることに決めたのだが、それを反対する母を説得するのを手伝ってくれたこともあったからだ。それでも母は

「アスカちゃんとは付き合わないでほしい」

と私にずっと言い続けていた。その後部活に入った私は入部間もなく顧問の先生や先輩からピアノ伴奏中の楽譜めくりなどを任されるようになった。それが気に入らなかったのか、アスカは私をいじめ始めた。それを知った母はそこでも

「ほらやっぱりあの子はよくないよ!だから部活も辞めてあの子とも付き合わない方がいい!あんたもその方がいいでしょ?」

と私に言ってきたのだ。私はその時はアスカが同じ部活にいるから変に意識するわけでもなく、かといって部活内では部員である以上お互いパートは違えどライバル。だからアスカにいじめられるから、裏切られたからなどという理由で部活を辞めるつもりなんて無かった。音楽が好きで歌うことが楽しいと心から思っていたからだ。このあたりから母は事ある毎にしつこくアスカと付き合うことを止めるように言ってくるようになった。やはりここで母は私に前記のとおりの理由をつけて付き合いを止めるように言ってくるのだった。母曰く

「アスカちゃん家は市営住宅住まいでうちよりも貧乏だから」

「前にあんたの財布を盗んでおいて、それで今もあんたをいじめるくせに友達だって?」

「また泥棒するんでしょ?だからあんな子とは付き合わないで!」

「あの子は不良になる」

とのこと。私が誰と付き合おうと勝手だし、その頃には同じクラスにも親しい友人は何人もいたので、私は母が心配するほどでもないと考えていた。たとえ今後アスカと縁を切っても。母はまたしきりに同じクラスの友人を引き合いにだしてアスカと付き合うな!友達をやめろ!と言っていたのだ。ここまでくると、私も心底母にうんざりしていた。母を黙らせる方法、それは私がアスカと縁を切って部活も辞めればいいのかと思うようになってしまった。現にアスカは私と最初は仲良しだったが、同じ部活に入ってからは私をいじめるようになっていった。それにパートが違うのに

「声がでかい」

「そんなダミ声で歌っているあんたがレギュラーメンバーなんて納得いかない」

ジャイアンリサイタル

「とっとと部活を辞めろ!」

「2年から入部したくせに生意気!1年と同じことをやっていろ!」

「新米部員なんて2年でも1年と同じ。だからレギュラーと練習するな!課題曲講習会にも出るな!」

などといちいちいちゃもんをつけてくる。部活以外でもカバンを盗む、私物をゴミ箱に捨てる、悪口を言うなどの嫌がらせをしてくる。それは全て今思うと彼女の嫉妬だったのだろう、私は小学校低学年でピアノを辞めてからも独学でピアノを練習して腕もあげていたうえに、事実部活に入ることを決めたきっかけもアスカから声をかけられたからではなく、偶然通りがかった放課後の音楽室でピアノを弾いていたら合唱部顧問の先生が声をかけてくれたことだった。先生に見つかったときはさすがに「あ、やばい!怒られる!」と思ったが、その先生は笑顔で

「今の曲、もう一回弾いてもらえないかな?」

とやさしく言ってくれた。そして私はもう一度その曲を弾き始めた。ピアノを弾き終わると先生は私に

「あなた確か部活に入っていないんだっけ?そんなにピアノが弾けるのにもったいない・・・」

と言って続けて

「私、合唱部の顧問をしているんだけど、もしよかったら合唱部に入ってみない?・・・、って実は部員が少ないんだけど」

と。最初は部活に入ることをあまり考えていなかったが、そのうちに考えるようになっていったのだった。そしてアスカが合唱部にいることを知り彼女からの誘いもあって入部となった。

それでもアスカの嫉妬や怒りが収まることはなかった。だったら私はもう、部活も辞めてしまってアスカとも縁を切ろう・・・と考え始めたそんなある日、突然アスカがこれまでのことを謝罪してきたのだ。

当然のことながら私は彼女の謝罪を受け入れなかった。だがその後何度も謝罪するアスカ、何度も謝罪していた彼女を私は彼女を許すことにした。ただすぐに仲直りというわけではなかったが、とりあえず暫くは部活だけの付き合いにしようと決めていた。母はこれにも納得がいかずまたしても

「あんな形だけの謝罪、そんなものを易々と受け入れたあんたはバカだ」

などと私に文句を言う。そしてアスカとは紆余曲折あったものの高校、社会人、そして現在でも良き友人としてもライバルとしても関係を続けている。

一方、母は私が社会人になってもアスカとの付き合いがあることを良く思わなかったようだ。時には「あの女!ウチの娘に悪いことを吹き込んで」なとど妄想に満ちたことまで私に言う始末。本当にタチが悪い。母にとって私の友人というのは母の理想の友人でないといけなかったのか、今でもそれはよく分からない。私が高校の頃にも私の友達付き合いの件で何度も揉めている。クラスで仲良くしていた友達がいたのだが、参観日の時にその友人を見るや

「あの子は根暗そうだから付き合うのを止めて!アンタまで根暗になるから」

などと何の根拠があるの?という妄言をしてきたくらい。社会人になったらなったで今度は

「(保険屋に就職したばかりの頃)結婚相手はこの職場で見つけなさい」

などとも言ってきた。

 

ただ、私も母も気に入らない。寧ろ大嫌いという子が実はひとりだけいたのだ。それは則子(「いじめ」参照)という少女だった。彼女とは小学校3年生から6年生までは同じクラス、そして中学、高校と同じ学校だった。家は米屋を営んでいた。則子は周囲の大人から充分に構ってもらえていなかったのか、私にやたら嫌がらせをしたりするようになっていったのだ。小学校3年生で同じクラスになった頃はそうでもなかった。席も近くだったせいか休み時間などに宿題の答え合わせを一緒にしたり校庭で会ったら一緒に遊んだりもしていた。だがどこで則子はそんな歪んだ感情を私にぶつけてくるようになったのか、今でもよく分からない。少なくとも小学校4年生の中盤頃からそうなっていたのだろう。私が自身の友人とどこかにお出かけをしようと言うと、則子がその話を聞きつけては「私も一緒に行く!ね、いいでしょ?」と言い無理矢理私たちに着いて来ようとしたり、教室移動の時にもわざと付きまとってくるなどのむちゃくちゃな行動から始まり、それを嫌がる私たちに対して暴言を吐いたり嫌がらせをすることから始まった。最終的にはその嫌がらせの標的は私だけになってしまい、事あるごとに則子は私の私物を盗んで行っては隠す、秘密を無理矢理聞き出そうとしたりするようにもなった。それを問い詰めたり拒否をすると、今度はわざと私の傍に寄ってきて悪口を言うなどもしてきた。相手が則子ひとりだったら放置すれば済む問題だっただろう、だが則子にもいつの間にか味方が出来てしまい面倒になっていった。則子は平気で嘘をつく、人の悪口を言う、人によって態度を変える、自分よりも強いと思った人にはごまをするなど、本当にタチが悪い。そんな中、小学校6年生の頃のあるお昼休みに私は彼女にある復讐をした。

その日は給食が無く弁当の日だった。私は母に作ってもらった弁当を友人と食べていた。その時則子は彼女の友人数名と共に私のもとにやってきて、何も言わずに弁当箱の中の海苔巻きに手を伸ばした。私もとっさのことで驚いて

「ちょっと、何するの?」

と声をあげた。すると則子は

「だって美味しそうだったんだもん。ね、1個ちょうだい!くれるよね?私は特別だもん!」

と言ってまた海苔巻きに手を伸ばした。私は則子に向かって

「どんだけお前は無神経なんだよ!」

と彼女の手を掴んで応戦、彼女は私の手を振りほどいていきなり

「はる香ちゃん何するのよ!だってあんたが食べていいって言うから(そんな事一言も言っていませんが・・・)貰おうとしたんじゃない!」

と声を上げたのだ。

そこで私は則子が嘘を言ったことに腹を立てて自身の弁当箱から海苔巻きを一切れ手にとって彼女に差し出すように持つと、それをわざと床に落とした。そして、床に落とした海苔巻きを指して

「ほら食えよ則子。お前がこれを欲しいって言った。だからくれてやったんだ、ハハハ・・・感謝して食え!」

と彼女にそれを食べるように冷たく言い放ったのだ。彼女は最初はオロオロしていたが、彼女の傍にいた彼女の友人が私に

「ちょっと!はる香ちゃん何考えてんの?床に落としたものを食えって、則子のことをバカにしてるの?ひどい!」

と言うが、私は構わず

「人の弁当、勝手に取ろうとしてそれか?呆れるねぇ・・・。自分のもちゃんとあるのにね、ああ卑しいわぁ!気持ち悪いねぇ」

と静かに彼女たちに言い放つ。そして私は続けて則子の目を見て

「おい、食わねぇのか?あんなに欲しがってたくせに。・・・どうしてだろうね~」

と笑顔で言うのだ。すると則子は泣き出して廊下に駆け出したのだ。後に聞いた話だが、その一部始終を見ていたある男子数名が

「高坂の行動にびっくりした。お前があんなことをするような子だと思わなかった」

と言っていたそうだ。そしてその数分後に担任が来て私が怒られたのだ。当たり前だが「食べ物を床にわざと落とすなんて」と。

この件に関しては正直自分でもやりすぎた感じはあった。だが、私の行動は人の弁当を黙って盗ろうとするような卑しい彼女にはいい薬だと思っていたのだ。そもそも小学校高学年にもなって人のものを平気で奪って食べるなど怪しからん!以ての外だ!親のしつけは一体何なんだと思ってしまったぐらいだ。ついでに言うならモラルが無いのか?とも。この一件に関しては担任から私の母にも連絡が行き(あくまで被害者は私という風に先生は私の味方はしてくれていたらしい)、私は帰宅してから母にこっぴどく怒られた。だが母は則子のしたことの方が腹が立つと珍しく私の味方もしてくれた。母の言い分は

「いくら他の子のお弁当が美味しそうだからといっても、それを黙って盗るのはよくない。せめてお互いが納得する形でおかずを交換するとかそういうのだったらまだ理解できる。けれど、それを床に落として食えって脅すのもどうかと思うよ」

とのこと。加えて

「則子ちゃんは普段からそういうことをするのか?」

と私に訊いてきて、私がそうだと言うと

「あの子、何が面白くなくてうちの子にそういう嫌なことをするんだか」

と怒り出したのだ。

 

この一件以来、則子の私への嫌がらせはエスカレートした。私のランドセルに付けていたあるアニメのキャラクターのキーホルダー数個も彼女がある日盗んでゴミ箱に捨ててしまったのだ。私はその日帰宅しようとランドセルを背負おうとしたところでキーホルダーが無いことに気づいた。そのキーホルダー、本当に気に入って従姉妹と一緒に買い物に行ったときにお揃いで買ったものだったから無くなったということが余計に悲しかった。そこで私は帰り道で偶然会った則子とその友人に「ねー、私のランドセルに着いていた○○のキーホルダー、見かけなかった?ちゃんとランドセルに付けていたんだけど無くなっちゃって。あれ、従姉妹とお揃いで買ったやつだから・・・」と尋ねてみた。すると彼女と友人たちは口を揃えて「知らない」と。その数日後、音楽室のゴミ箱から汚れた状態でそれが発見されたのだ。しかも事もあろうか発見したのは則子だった。本当に腹が立った、実は私のキーホルダーを盗んだのは則子であったのだ。実は無くなった翌日、別の友人から「則子がはる香のキーホルダーを盗ってゴミ箱に捨ててやった!」と自慢していたと聞いたから犯人は則子だということが分かったのだった。すかさず発見されて私の手元に戻ってきたところで則子を問い詰めたが、則子はシラを切り続ける。

「私知らないよ~?だってここにあったの見つけただけだもん」

とか

「私盗んでないもん!」

などと言うばかり。だが則子がそれを盗んだと言っていたと証言した友人は嘘をつくような子ではなかった。寧ろクラスのまとめ役のようなしっかりした性格の子だったから。だから私は則子に「いつまでも嘘ついてんじゃねーよ、ブス!」と怒鳴りつけたのだ。すると則子は今度は嘘泣きし始めてはる香ちゃんがいじめたと喚きだしたが、他の目撃者のクラスメイトは真相を知っているだけに、ただただ呆れてそれを見るだけだった。

私は思う、物を盗むのはもちろんよくない。同時に持ち主はその物をどんな気持ちで手に入れて、そして持っていたのかを盗む人はどう考えたのだろうか・・・。きっと誰かから貰った大切なものだったかもしれない、お誕生日プレゼントだったかもしれない。お小遣いをためて買ったものかもしれない、どんなものであってもそれなりに感情が篭ったものだということを考えないのかな。そう考えると本当に腹が立った。

 

それから数日後の出来事。ここでも則子はやってくれた。学校が終わってそろばん塾に行った私は教室が開くのを外で待っていた。そこへ則子らがやって来て、私を見るやいきなり叩いてきたり悪口を言ってきたり、さらには石を投げつけたりしてきたのだ。その日は学校が終わってから私は歯医者に寄って、その足でそろばん塾に行くことになっており、歯医者に連れて行ってくれた母が車で塾まで乗せて行ってくれたのだ。そして駐車場を出ようとした母がその一部始終を目撃していたのだ。そこで母が車から降りてきて則子らを問い詰めた。だがここでも彼女らは往生際が悪く

「だってはる香ちゃんが悪口をいきなり言ってきたから怒って、それで・・・」

と若干しどろもどろ気味に母に言い訳をしていたのだ。私は則子たちに悪口を言って喧嘩を売った覚えなど無い。石を投げてきたことについては「遊んでいたら、転んでそこで飛んだ石がはる香ちゃんに当たった」などと白々しい言い訳をしていた。

私はむしろ則子たちが来ても知らん顔をしていたぐらいだった、相手にしたくなかったから。それに彼女たちは私を見るやいきなり

「はる香ちゃんがいるー。うわぁ汚い・・・。私たち塾の中に入れないじゃん!」

などと言ってきて、更に彼女の仲間の子が「どっか行けよバイ菌!」と言って私を殴ってきたところから則子らも加勢して事が大きくなってしまったのだ。

「子供の喧嘩に口を出すべきじゃない」とは言うが、私はこの時の母の気持ちは分からなくもない。恐らく私もわが子が一方的にそうされたなら、母と同じく行動にでていただろう、そう思う。事実彼女らのぶつけた石が顔に当たって痣になったぐらいだから。それも運が悪く目のすぐ下だったから本当に許せない。目の下にはしばらく痣が残った。そして母は則子らに説教を始めて、その後教室にやってきた先生に事の経緯を話していた。その日は彼女らは教室に入れてもらえず、そのまま帰っていったようだった。

その日から母は則子を「危険人物」扱いするようになり、私にも

「あの子と遊んじゃだめ!教室で声をかけられても無視しなさい」

と言うようになっていった。私も絶対に彼女らには関わりたくなかったので、そればっかりは母と同じ答えだった。さすがにここまでされて母からいつもの「仲良くしなさい!」は無かった。無論則子には友達として付き合っていても自慢できるようなメリットは何もなかったから。

その後母は則子の実家の店で米を買うのを止めたのだ。偶然にも私の通う空手道場の師範に米屋を経営する人がいたこともあり、それからずっと母はその師範のいる店で米を買っていた。そういえば、前記の弁当事件の海苔巻きも恐らく則子の実家の米屋で買った米で作っていたのだろう。そうだったら本当に皮肉な結果だ。

女帝の夢

前記のとおり幼い頃から・・・特に母にとって私は単なる人形だった。

前回は「着せ替え人形」というところに要点を絞って書いたが、今回はそれ以外のものを書いていきたい。

まず、私は念願の女の子だったらしい。だが現実はとても矛盾しているもので、兄は長男だからと家族から常にちやほやされてもてはやされ、私は女だからと見下される毎日。持ち物も兄よりいいものは持たせてもらえない、学校に必要なものは殆ど兄からのお下がり、何かと兄と比較される日々。それのどこが念願なんだか、と首をかしげてしまうほどだ。

母はそんな私の前では「女帝」だったのだろう。私の言うことは何でもお聞き!と言わんばかりに私に異常なまでの干渉をしてきたものだ。それは成人してからもずっと続き、私の人生を台無しにした。二十歳すぎた娘にまで「言うことを聞きなさい」などと、本当に異常だった。

 

母は常に私をお人形のように飾り立てて幼稚園に通わせ、そのあたりから習い事三昧な日々を送らせた・・・、それ以外にも母は私に常日頃から自身の理想を押し付けるようになっていった。

母の理想の私、体型はモデル体型、学校ではいつも成績優秀で人気者、自分好みのファッション、将来は市内一の進学校へ通い一流大学を出て一流企業に就職、それか公務員。結婚まで実家住まい、結婚まで純潔、親の理想のお見合い結婚など。

どうしたらこういう未来予想図を描けるのだろう、しかも母自身ではなく私に。そもそもモデル体型というところで無理だろう、私自身成人しても身長は155センチしかないのだ。体重は除いても身長だけでもショーを歩くモデルとは程遠い。今は読者モデルなどモデルといってもたくさんのジャンルはあるけれど、私が過ごした青春時代のモデルといえば160センチ以上が最低条件であったのだ。それに当てはめても私の身長では無理。我が家は長身の家系ではないことも影響しないはずがない。だからモデル体型を求めるのは私にとっては非常に迷惑な話である。私も今現在までモデルになるなんて考えたことすらない。むしろ私は幼い頃からもっと現実的な考えを持っていたのだろう、幼稚園児の頃から中学まで美容師になりたいと本気で思っていたぐらいだ。それ以外では母はやはり私には母自身の好みの服装をさせるべく必死だった。それも小学校高学年あたりから・・・。小学校中学年あたりまでは前章でも書いたとおり常に誰かからのお下がりばかり。母の押し付けもあって、私の夢はいつの間にか公務員になってしまっていた。私は私で別の夢があっても、結局は母の理想は公務員でしかなかったのだ。そして結婚までは実家住まいをして母のお気に入りの人とお見合い結婚という、「いつの時代ですか?」と聞きたくなるような母の未来予想図。そしてそれがダメならと代替案を次から次へと持ってくる。そしてそれを否定する私に対していつも母は自身の過去の話を持ってきては私を何とか説得しようかと必死になってくるのである。同時に私の同級生、それも成績がいい子に限定してその子たちと比較したり、近所の子と比較するなど、何をしたいのか正直分からなくなるようなことも平気でしていたのだ。

 

母は市内のある普通科高校を卒業後、東京の幼稚園教諭養成所へ行き幼稚園教諭の資格を取得後に横浜の幼稚園で3年ほど勤務していた。その後退職をして生まれ故郷である現住所の市内へ戻り、地元でも幼稚園教諭として働きたかったそうだが、募集には年齢制限があって母がそこで働くことは叶わなかったそうだ。その後幼稚園教諭とは関係の無い仕事をしていたようだが、やはり幼稚園教諭には未練があったようだ。そして父と見合い結婚をして私たち兄妹を産んだ。父はその当時にはすでに曽祖父の代から続く会社で働いていた。

母は私の進路の話になると決まってこの話をしてきた。もう何十回も聞かされた。母曰く「後悔の無い生き方をして欲しい」、だがそれは間違った方向に進んでいたことは言うまでもない。母も死ぬまで気づかなかっただろう。母は私には苦労をさせたくないと思っていたからこそ、家庭内では「女帝」となり常に干渉をし続けていたのだろう。だが過干渉ほど迷惑なものは無い、私にとっては。干渉を続ければ続けるほど私の人生は狂っていった。

 

結局母は私を母の理想どおりの人形に育て上げたかったとしか言いようが無い。

 

母は常日頃から私を誰かと比較することが多かった。学校の友人、近所の友人、従姉妹、母親自身とも。そして誰よりも優秀で自分好みのキャラクターになるように、いつもコントロールをする。私はそれが嫌だった。モデル体型になれというような無理な要望から始まって少しでも私が太ると「太ったね~、痩せるのにダイエットさせなきゃ!」と躍起になることもあった。それは私が小学校低学年の頃でも普通だった。それだけではなく成人してからも少しでも私が太ったと思えば容赦無く「痩せろ痩せろ」と聞こえるように言ってきた。食事の内容にも口を挟み、一日3食豆腐だけという日もあった。それから効果があるのか分からない高価なサプリメントを買わせられたりもした。それでも痩せないとなれば今度はスポーツジムに行けとしきりに言い出し、しまいには「こっちでお金は出すからジムに行け!」とまで言い出す始末。小学校高学年の頃、一度だけ雑誌に載っていた痩身エステの広告を母に見せて私は

「痩せろというんだったらここに連れて行って!ここだったら痩せられるかもしれないでしょ?」

と母に提案したのだ。だが母はそれを見て

「こんなの無駄。楽して痩せようなんて考えないで!それにお金もかかるでしょう?」

と却下したのだ。痩せろと人に言うくせに矛盾した対応だ。

母は自分が太っている(身長145センチで体重は76キロ)くせに、私には常日頃「痩せろ」と言う。自分は痩せる気が無いらしく、私は一度

「自分も太っているでしょ。それなのに人に痩せろだと?痩せる気もないような人に言われても何の説得力もないから。それから痩せるも太るも私の勝手だと思うけど?」

と言ったことがある。それに対して母は

「ちょっと!何で50代の私と比べるのよ、あなたとは全然違うの!あなたはいちばん綺麗でいなきゃいけない時にそんな太って醜い姿で・・・私は情けない」

などと泣き落とそうとする始末。要は自分はよくて人はダメという思考。ちなみにこの頃の私、BMIは正常値だった。

私に対して太った太らないの事だけではなかった。母はしきりに私に「補正下着を買いなさい!」と言ってきたものだ。私は締め付けられるのがこの頃でもすでに苦手で補正下着も付ける気が無いので、それを伝えたら

「いいのいいの、少しでもスタイルよく見られるからつけるべきなの!」

と強引に私に押し付ける。そして自身は高額な補正下着を買ってきた。それでこれ見よがしに「これを着けたらね~、私も少し細くなったの!」と私の前でわざと言うのだ。正直母の見た目は変化が無い。どう見ても胴体部分はドラえもんのようだった。それを見た私は「あーはいはい、興味ありませんけどね~」と流すようにしていた。だが、それだけで済むわけもなく、母は私を無理矢理下着屋に連れていき、店員にサイズを測らせて補正下着を私に買わせようとしていた。結局私は母を店に置いて逃げて事なきを得た。その後帰宅して母に

「恥をかかされた!あんたのことを思ってやってやったのに!親不孝者!」

と思いっきり怒鳴られた。そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった。けれど私はそれに後悔は無い。

母の理想、それはモデル体型だけではなかった。将来の夢も結婚も全て・・・。

 

母は父とは見合い結婚をした。それだけに見合い結婚が自身の中で一番なのだろう。そのせいか私にもしきりに見合い結婚を勧めていた。それも私が小学生の頃から。母の理想の見合い結婚、私と見合いする相手が自分たちの知っている人間のご子息であれば安泰とでも思っていたのだろう。だが私はしきりに見合い結婚を勧める母をずっと見ていたせいか、逆に見合いなんて糞食らえ!と思うようになっていった。同時に結婚まで親に決められるなんて私の人権を無視してる!とも・・・

見合い結婚をした母だが、母は学生時代に交際していた相手はいたようだ。その相手は警察官。なかなか上手く関係は続いていたそうだ。だがある日、母が横浜から実家に帰省したときに実家に母も知らない女性から電話がかかってきたというのだ。その電話の内容は「私は○○(名前を名乗ったそうだ)、あのね、あなたとお付き合いされている○○(母の当時の交際相手)との子供、私、最近堕胎したの!」というものだった。母も気が動転したようだ。無論その相手とは別れてしまったようだが、おそらくこの一件から母は見合い万歳!という考えになったのだろう。別に恋愛結婚がいい、見合い結婚の方がもっといいと思うのは個人の都合だが自分の娘にまでそういう考えを押し付けて欲しくなかった。実はこの話、私には何度もその話をしてきたのだ。それも決まって私に交際相手がいると分かっているときに。

そして中学からずっと私に恋愛禁止令を敷いていた。母曰く「悪い虫が寄ってきたら受験に響くから」と。何としてでも私には見合い結婚で自分の知る相手と結婚して欲しかったのだろう。結果的には私は見合いをすることは無かった。母が亡くなってから自分で自分にふさわしい相手を見つけ、その人と結婚したから。

 

見合い結婚の押し付け以外にもいろいろと将来のことは母に勝手に決められた。将来の夢なんて何度もぶち壊された。

私はずっと美容師になりたかった。美容師になりたいと思ったきっかけは、5歳の七五三の時に近所の美容院で美容師さんにすごくきれいにしてもらったこと。着物を着付けてもらって髪もきれいに結ってもらいきれいなかんざしをさして、メイクもしてもらった。そして美容師さんもとても優しいお姉さん。その姿を見て私もこうして人をきれいにしたい!と考えたから。小学校に入っても中学にあがってもこの考えが変わることは無かったのだ。小学校低学年の頃、母親も私が美容師になりたいと思っていたことは知っていた。だが恐らくこのあたりではまだ「大きくなったら何になりたい?」くらいにしか考えていなかったのだろう。そして私が小学校中学年の頃にある漫画に出会い、漫画家にもなりたいと思うようになった。けれど美容師の夢を捨てたわけでもなく、その頃は「どちらかになりたい」と思っていた。小学校時代の作文にも美容師か漫画家になりたいと書いていたぐらいだった。だが中学に入り、当時通っていた学習塾から進路のアンケート(記名式)が届いた。そこで行きたい学校や将来の夢など書く欄があり、私は美容師と書いた。得意科目の欄には「国語、英語、社会」、進学したい学校の欄には「第一希望・美容専門学校」と書き、将来の夢の欄には「美容師」とはっきり私が書き込んだ。だが、それを見た母は激高して

「何なのこれ!得意科目が英語でなりたい職業が美容師?!バカなの、あんた?これちょっと問題だから学校と将来の夢はこっちで書き直すから!美容師で英語なんて話さないでしょ?」

と私からアンケート用紙を取り上げてすかさず書き直しをしてしまったのだ。そこに書かれていたものに、私は愕然とした。進学したい学校「○○女子高校(市内一の女子高。進学校)」将来の夢「英語の先生、公務員」と書き直されていた、しかもボールペンでデカデカと。それを見て本当にショックだった。将来の夢まで親に決められるなんて・・・、と。母曰く

「公務員だったら将来が保障されてるんだよ、だって役所はつぶれないし。それにお給料だって安定よ。そして公立の学校の先生だったら得意科目が活かせるし」

と、まるで自分がその職業になりたいかのように私に押し付けたのだった。

だが、私は美容師になる夢は中学校3年までずっと捨てなかった。何としてでも美容師になってやる!と本気で思ったぐらい。しかしこのあたりになって漫画家も捨てがたいと思うようにもなっていた。そこで思いついたこと・・・、それは「美容師にはなるが絵を描きながら美容師をやる。そしてお店の外観や内装も自分好みにして自分の描いた絵を店内に張り出して。自分のお店を持ちたい」と考え出した。今で言うプロデュースに近いものがあった。だから表面では進学校に進学したいと思わせておいて実は高校へは進学せず美容学校に進学して美容師になろうと裏では動いていた。だが、それも失敗に終わる。中学二年の終わりに学校で個別進路指導というものがあったのだ。親が同席して先生と進路相談をするというものだった。私はひたすら「美容師になる」と主張していた。だが、母は「違います、この子はずっと学校の先生になりたいって言っていました。だから将来は学校の先生になりたいから○○女子高校に進学してそして地元の大学に進んで・・・」と勝手に話を進めてしまった。しまいには私を嘘つき呼ばわりまでして。そして進路指導が終わって帰宅、そこで母からのお説教が始まった。美容師になりたい私に対して母は

「あんたはバカなの?私に恥をかかせるの?美容師は中卒のバカでもなれるからあなたはちゃんと大学へ行って先生とか公務員になりなさい」

「うちでは中卒は認めない」

など、私の夢を全否定するような話がずっと続いた。おかげで私は意気消沈してしまい、美容師の夢を諦めざるを得なくなったのだ。結局私は母のわがままのおかげで自分の首を絞めた。今でもその悔しさは忘れていない。

そして「学校ではいつも成績優秀」、これについて私の成績は中学校3年生の時点で学年390人中常に50番から70番程度にいた。悪くても120番ほどだった。私はそれでもいいと思っていた。現状でも十分に中堅レベルの高校に行ける偏差値はあったからだ。美容師の夢をなくした私だが、最初は絶望していたものの「中堅ぐらいの学校に進んでおけば親も何も言ってこないだろう」と考えるようにもなっていた。そしていざ受験する学校を決めるとき、市内の私立女子高の専願推薦を受けないかと学校から持ちかけられた。親もそれを望んでいたらしく、そこの学校を受験することを即決した。私は「とりあえずそこに受かれば文句は言われないか」くらいに考えていた。別に本気になるわけでもなく・・・、そう考えたのも、その時までは。結局そこの私立高校は不合格だった。そこで私は結果を聞いて担任の先生に相談、そして次は隣の県にあるキリスト教系の高校の推薦を受けてみないか?と持ちかけられたのだ。私自身もそこの学校には少しの憧れがあり、自宅からも通える(電車で1時間弱ほど)距離であることもあり、ぜひとも推薦を受けたいと先生から願書をもらってその日は親に相談すると言って帰宅した。だが両親に相談したところ、猛反対をされてしまい残念ながら諦める結果となった。親が猛反対した理由というのは

キリスト教の学校なんてキリスト教徒が行く学校だ!」

「家から電車で1時間もかかる、そんなところに通うことなんて出来るはずがない。途中で近所の○○ちゃんみたいに学校に行かなくなるだろう」

「そんなところに行くんだったら勘当する!」

と。実は兄はこのキリスト教系の学校を滑り止めで受験していたのだった。またここでも兄はよくて私はダメという理論になったのだ。

そして結果的には県立高校を滑り止めなしで受験することに。そこでも母がまたしゃしゃり出て面倒なことになったのだ。やはり母はここでも私を母自身の思い描くレールに乗せようと必死だったのだ。最初の出願先を私に無断で変更してしまったのだ。理由は

普通科高校に行くよりも高校で手に職をつけたほうが将来に有利だから!」

と息巻いて、出願先変更の締め切りぎりぎりになって勝手に出願先を変更した。それについて抗議をしたが、母は私の言い分を全く聞かず上記の持論を展開するばかり。挙句の果てに「お前はバカだからそっち(元の出願先)は落ちるに決まっている!だからこれでいいんだ!」などと私に自身の責任を転嫁する始末。あまりのお粗末な事態に私は母の変更した出願先の学校を受験せざるを得なくなった。ただ、私はそこへは行きたくなかった。だからと言ってわざと面接で落ちるような演技をしたり、試験を白紙で提出して不合格となればまた何を言われるか・・・、そちらの方が怖くて仕方がなかった。それに中学浪人となれば母から何を言われるかはもう想像がついていたからだ。

母の望む進学先に進まなければいけない、中学浪人も出来ない、まさに八方塞がりだった。面接での受け答えも母がシナリオを準備してそれを私がただ話すようなものとなってしまった。家でも面接の練習を何度もさせられて苦痛だった。とりあえず無理矢理出願先変更をした学校には合格した。母は自分のことのように喜んでいた。だが私は正直嬉しくも何とも無かった。嬉しくなかったけれど、合格通知を受け取り、その日は帰宅。だが帰宅する道中で母は私にまた信じられない一言を言ったのだ。

「あんたが受かった学校って情報系だけど市内一の進学校並みの成績じゃないと入れないのよね、だから従姉妹に勝てた!お母さん嬉しいの!自慢できるわぁ~!」

何のための受験だったんだろう・・・。私の中で更にモヤモヤな気持ちが出てきた。結局は母の思う壺?それとも私は母のために生きているの?と。

母の夢をかなえるべく私は完全に母の操り人形と化してしまったのだ。高校受験もその一部でしかない。