Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

友達選びは全てご自身の責任で行いましょう

友達はたくさんいる・・・と言いたいところだが、実はそうでもない。

正直幼馴染と言える友達はたくさんいても、胸を張って「小さい頃からずっと仲良しです!」と言える友達は片手で数える程度である。大きくなればライフスタイルも変わるわけで、付き合う友人も変わるのが自然だと私は考える。

そんな中、母は常に私の交友関係も把握したがり、私と仲良くしている子を見ては常に「どんな子なの?」と私に尋問するのである。優等生でお勉強の出来る子と私が仲良くすることを望んでおり、無理にでも「優等生」と呼ばれるような子と私をくっ付けようと躍起になっていた。だが私はそんなものは望まず、とりあえず気の合うクラスメイトを友人とすればいいと考えていたが、母はそれを気に入ることはなかった。たとえば相手の家柄や相手の親と母自身との仲が良いか、勉強が出来る子かなど・・・。母自身の中にそのようなチェック項目がありそのチェック項目に該当するものが多いクラスメイトほど私の友人として相応しいという結果になっていた。反対にチェック項目に該当するものが少ない場合は「娘の友達として相応しくない」という結果になり、私がその子たちと付き合いがあろうものなら「あの子とは付き合っちゃだめ。あの子はね、家が貧乏で・・・」「家柄がよくないから」などから始まって、「親が外国人だから」「暗い性格だから」付き合っちゃだめなどと耳を疑うような理由が付いてくるのである。こちらも成人してからも続くのであった。

言うまでも無くいくらクラスの中で「お勉強の出来る子」と認定されているような子であっても私と気が合うかといえば、みんなそうではない。こればっかりは相性の問題である、当たり前だが。しかし母にはその当たり前の理論が通じない。優秀な子とお友達、ウチの娘は優秀♪とでもなっていたのだろう。

 

幼稚園の頃の話。とりあえず気の合う友人は何人かいた。その中にひとりだけ男友達(以下ミツル君)もいた。ミツル君の母親は大手生命保険会社の外交員をしていたこともあり、母もそこの保険に入っていたため彼女は何度も我が家に来ていた。そこでいつも一緒に来ていたのがミツル君。私が幼稚園で他の男児から意地悪されていても何故かミツル君だけはいつも私に優しかった、そして家に彼が来た時もよく一緒に遊んでいた。一緒におやつを食べたり、庭や近くの空き地や公園で遊んだり、親同士が保険の話や世間話をしている間はそんな楽しい時間が過ぎていったものだ。母はミツル君のことは気に入っていた、恐らく親同士の付き合いもあるからだろう。彼のお母さんはとても頭もよく、物腰の柔らかい人だった。それもあってか私の母のチェック項目に該当するものも多かったのだろう、今となればそう思う。我が家に来ていた幼稚園時代の友人は他にもおり、一度だけミツル君家と一緒にもうひとり別の男の子(以下キミアキ君)が彼のお母さんと一緒に我が家にやってきた。だが、私はキミアキ君とはそんなに仲が良いわけではない。理由もなくキミアキ君は私を避けて意地悪をしてからかうからだ。キミアキ君とは小学校、中学校と同じだったが一度も仲が良かったことが無い。が、私の母から見ればキミアキ君も聡明な子であった為に私の友達として相応しいと思っていたようだ。だが実際はそんなに仲が良いわけでもない。母はしきりに「キミアキ君とも仲良くしなさいよ!」と私によく注文を付けてきた。だが母の思いとは裏腹に、私とキミアキ君が仲良くなることは無かった。一方ミツル君とは小学校4年生まで一緒だった。幼稚園の頃から親同士が仲が良いこともあってか、私たちも仲良しだったことも相まって親公認の仲になっていた。だがやはり私とミツル君は男児と女児、小学校に入れば自然と男の子は男の子グループ、女の子は女の子グループに別れるもので、幼稚園の頃と比べて一緒に遊ぶ回数は減っていた。だがやはり親同士が保険関係でつながりがあることもあり、学校が終わった後にミツル君は我が家にお母さんと一緒に来ることがよくあり、その度に遊んでいた。反対に私がミツル君の家に遊びに行くこともあった。家は少し離れていたが、なぜかよく遊んでいた。学校でも休み時間になって外に遊びに行った際に彼に会うと一緒に遊んでいた。だが私たちが小学校4年生の頃、彼が同じ市内ではあるが、違う学区に転校してしまったのだ。

それから幼稚園の頃から高校までずっと一緒だった幸子(「いじめ」の項にも出てきた子)も、母から見れば「私の友人に相応しい」子だった。とても優秀な子で、幼稚園の頃から書道、ピアノ等の習い事をずっとしており、母の目から見れば「この子と仲良しになってほしい」となったのだろう。彼女ともよく一緒に遊んだ。お互いの家を行き来したり、幼稚園でもよく一緒にいた。だが母の思う幸子は後に私にとんでもないことをしてくるなんて思いもしなかっただろう。小学校に入り、幸子と私は1、2年生の頃はクラスが別だったが、3年生から6年生までクラスが一緒になった。小学校に入って母もPTAの役員をよく引き受けており、幸子の母親もPTA役員だった。そこで親同士がお互いに意気投合したのか、そこでも勝手にお友達に認定されてしまったのだ。小学校に入って同じクラスになってから思ったことだが、幸子は実はあまり性格のいい子ではなかった。自分よりも弱い立場の子を見つければすぐに扱き下ろしたり、使いっパシリにしたりするので、周りに幸子に対していい印象を持つ子はあまりいなかった。それなのに親同士が仲良しなだけで私たちも勝手に仲良しになってしまっており、私は苦痛でしかなかった。確かに幸子は優秀ではあった、成績は。だが、性格があまり良くない。そこで私は全く別の友達と仲良くしていた。仲良しグループも幸子と私は別だった。私は3年生の頃から同じクラスになった別の女の子や、その年に新潟から転校してきた女の子と出席番号も近くて席が近いこともあってか仲がよくなった。このグループ内でよく交換日記をしたり、休み時間になると校庭に行って鉄棒をしたり、教室の中で絵を描いて遊んでいた。幸子たちも幸子たちで彼女らのグループ内で遊んでいた。

だがある参観日の日、私が幸子とは別の友達と仲良くしているところを母に目撃されてしまい、帰宅するとすぐに「なぜ幸子ちゃんと遊ばないの?仲良しでしょ?」から始まり、「お母さんは幸子ちゃんの方が好きだな~。だってお勉強もピアノも出来て、字もお上手だから!」と幸子を褒め称える言葉が出て、その次になって「今仲良くしている子、お母さんあの子知らないから仲良くしないで!あの子たちのお母さんの事だって知らないんだから」と私の友達を貶す言葉まで出てくる。母は確かに幸子がお気に入り、だけど私は幸子が好きじゃない。事件はその後私が小学校6年生の頃に起きたのだ。

4年生の終わりごろから幸子は私に急接近してきた。その頃から幸子は友達を脅したりするようになり、教室ではいつもお姫様状態になっていたのだ。クラス内で班を作った時にはいつも仕切る、気に入らないとすぐ脅す、拗ねるなど、元々あまり性格がいいとは思っていなかったが4年生になってからますますひどくなり私は幸子が嫌いになった。前記のミツル君も幸子のことが好きではなかった。後年彼と再会したときにも「俺さぁ、石川さん(幸子の苗字)苦手なんだよね。何ていうか、その・・・。すぐに威張るところとか・・・。はる香ちゃん、あんな石川さんとよく一緒にいたよねぇ」と言っていたぐらいだ。周りにも幸子が苦手という子がちらほら出始まっていた。そんな中、ちょうどそろばん塾に通うことになった私。そろばんを習うと仲良しの友達に話をしたところ、幸子がそれを聞きつけて「え?私ちゃんそろばん習うの?私もやってる!それでさぁ、私紹介してあげるから入ろうよ!」と私を突然勧誘してきたのだ。幸子のそのいきなりな行動に私は戸惑った。間髪要れず幸子は「だってねぇ、友達を紹介すると私ご褒美がもらえるんだー!やったー!!」などとひとりで舞い上がっている。その後親が勝手に契約をしてそろばん塾通いが始まった。同時に幸子が私をそろばん塾に紹介するということで。無論幸子を気に入っている母は大喜び。やはり幸子と私が一緒にいることが母にとって嬉しいのだろう。

そんなある日のこと、幸子は私に「あのね、学校に飴を持ってきちゃいけないって知ってるよね?けど、私そろばんの日に飴食べたいの。だって帰るの遅くなるし。だからはる香ちゃん、持ってきてくれない?ずっと友達でしょ?」と私に飴を持ってくるように持ちかけた。実は私たちの通うそろばん塾は学校が終わってそのままそろばん塾に直行する児童がほとんどであり、そろばん塾の道具を学校に持っていくのは普通だった。それを知ってか、飴を持ってこいなどと言い出す幸子・・・。

その翌週、私は飴を持っていかなかった。すぐに幸子にそれを知られ

「ちょっと!何で嘘つくのよ!私ちゃん来週飴持ってくるって言ってたでしょ?最低!もう口聞いてあげないんだから!」

と彼女に怒られた。私はそんな約束などしていない。それなのに勝手に約束をされたことになっている。無論それを否定すると彼女は

「じゃあ『はる香ちゃんは嘘つき』だってクラス中に言いふらしてやる!」

と今度は私を脅し始めたのだ。仕方なく翌週私はそろばん塾に飴を持って行き、幸子に渡した。飴を受け取った彼女は

「やったー!嬉しいんだけど!このことは内緒にしておいてあげるね!だって私たち、幼稚園の頃からの友達でしょ?」

などと友達アピールをしながら恩着せがましいことを言い始めたのだ。それから毎週のように幸子からは飴を催促された。だがある日1日だけ私が飴を忘れただけで、幸子はクラス中に私が学校に飴を持ってきていると言いふらしてしまい、私は先生に怒られ家には先生から連絡が行ってしまった。私は当然のことながら両親にも先生にも幸子に脅されたことを言ったのだが、誰一人信用してくれず母に至っては

「まぁ!幸子ちゃんのせいにするの?あの子は頭の良い子でそんな事をするはずがない!」

と言い出す始末。挙句

「幸子ちゃんがお勉強できるのが嫌なの?それとも幸子ちゃんじゃない子と仲良くしたいの?だからって嘘をつくなんて、お母さんはる香のこと嫌い!」

と。母から見たら娘はどっちなの?と頭を抱えてしまったぐらいだった。担任の先生も先生で私の言い分など何も聞かず、幸子を擁護する。やはり担任の先生も

「お勉強できる子はそんな事するはずがない。はる香ちゃんはお勉強も出来ないし、クラスにいても特に目立たないし、だからそういうことをしても分からないと思ったの?」

と思い描いていたとおりの発言をした。

 

これだけではなく彼女とは小学校5年生6年生とクラスが同じになってしまった。そんな中恐れていたことが起きてしまったのだ。幸子は6年生になってからも私に物をせびり、断られると脅すようになった。ある日彼女は私に自身の誕生日プレゼントをせびるようになった。私はあげたくなかったが、彼女はお約束どおり

「ねぇはる香ちゃん。私たちお友達でしょ?だからもちろん私の誕生日プレゼントくれるよね?くれなかったらどうなるか分かってるよね?」

と友達アピールと脅しをセットでしてくるのだ。本当にタチの悪いものである。

私は散々悩んだが仕方なく安物のタオルをプレゼントしてあげた。

だがそのタオル、実は誕生日プレゼントをせびられた数日後の土曜日に従姉妹と偶然行った学区外のスーパーで買った見切り品(微妙なシミの付いたもので通常価格で売れないために値下げされてワゴンに乗せられて売られていたもの)のタオルである。ここから私の無言の仕返しが始まった。私はそのタオルを状態の良い使い古しの包装紙で包んで幸子に渡してあげた。心の中では

「うふふ・・・これでもプレゼント、私たちお友達だもん!だから心を込めて包んであげようっと♪(ここで言う「心を込めて」というのは今までの恨み辛みのどす黒い思いをたっぷり込めてという意味)」

と呟きながら私は使い古しの包装紙でプレゼント用に買ったタオルを包んでいった。それは本当に面白く、復讐をしている気分で心底「幸子って本当に可哀想~」と思いながら微笑を浮かべていたものだ。

そして彼女の誕生日。私は彼女にその恨み辛みの篭ったプレゼントを手渡す。彼女は私のどす黒い思いに全く気づくことも無く「やったー!はる香ちゃん本当にありがとー!!」などと滑稽に見えてしまうぐらいに喜んでいた。その姿を見て私は心の中で

「汚れのついた激安品でもお誕生日プレゼントだよ。お友達だもんね~♪あ、包装紙も中古品だから!愛情が篭っていればいいでしょ?だってお友達だもんね~、アハハ・・・」

とそのプレゼントを受け取って喜ぶ幸子の後ろ姿に呟いた。散々人を振り回した彼女にした最初で最後の心の篭った仕返しだった。帰宅して私は母に幸子にプレゼントを渡したと報告した。母は私のどす黒い思惑の事など露知らず

「あら~、お誕生日にプレゼントあげたの?はる香って本当に偉いねー!」

などと、こちらもまた滑稽な展開となった。母の後姿にも私は

「値下がり品の汚れのついたタオルで包装紙も中古だけどね・・・」

と母の後ろ姿に呟く。ここで分かったことは、母も学校の先生も勉強できるイコール頭がいい、頭が良い子は悪いことなんてせず、みんなとお友達ということだった。母に関してはどんなに悪いことをする子でも頭が良い子とお友達になればいいというものだ。子供にとってそんなものは正直迷惑である。

実は小学校5年生の後半から、私は隣のクラスの女児(以下アスカ)とひょんな事から友人関係となった。アスカは小学校5年生の中盤に私の通う小学校に転校してきた。アスカと仲良しになったきっかけはあまりよく覚えていないが、6年生になったら本当に同じクラスの仲間のように仲良しになっていた。休み時間のたびに「あら~、隣の奥様」などと言って奥様ごっこ(奥様ごっこと言ってもご近所の奥様方が井戸端会議をするような感じで話すなど)をしていたり、クラブ活動も同じものに入ろうね!と言っていたりもした。委員会は同じ委員会に所属し、1年間楽しく過ごした。中学に入ってからもよく一緒に遊んだ。

そんな中学1年のある日、私はアスカを家に招待して一緒に遊んでいた。母も最初はアスカを気に入ってくれていた。だが、何度か我が家に彼女が遊びに来ていたある日、部屋で私の財布が無くなったのだ。ほぼ同時期、同じ地区に住む友人(こちらはアスカと同じクラスの女子)の家でも財布が無くなったというのだ。彼女曰くアスカが家に遊びに来た後に財布が部屋から消えていたというのだ。私はアスカを疑うつもりなどなかったが、その同じ地区の友人は真っ先にアスカを疑い、絶縁してしまったのだ。幸いその日は別の財布にお金を入れていたので無くした財布には何も入っていなかったのだ。だが、それを聞いた母は

「まさか、アスカちゃんが盗んだとか・・・?絶対に盗んでる!昨日来ててあんたの部屋に入って遊んでたでしょ?」

と。真っ先に母はアスカを疑ったのだ。そして

「あの子をもう家に呼ばないで!」

とまで。正直私はアスカを疑う気にもならなかった。なぜならアスカが私の財布を盗った証拠もないし、犯行現場を見ていたわけでもない。だから疑うのは筋違いなのでは?と思ったから。それに人を疑うことに疑問を持っていたからだった。

母が何と言おうと私はアスカのことは大切な友達だと思っていた。というのも中学2年生になるときに合唱部に入ることに決めたのだが、それを反対する母を説得するのを手伝ってくれたこともあったからだ。それでも母は

「アスカちゃんとは付き合わないでほしい」

と私にずっと言い続けていた。その後部活に入った私は入部間もなく顧問の先生や先輩からピアノ伴奏中の楽譜めくりなどを任されるようになった。それが気に入らなかったのか、アスカは私をいじめ始めた。それを知った母はそこでも

「ほらやっぱりあの子はよくないよ!だから部活も辞めてあの子とも付き合わない方がいい!あんたもその方がいいでしょ?」

と私に言ってきたのだ。私はその時はアスカが同じ部活にいるから変に意識するわけでもなく、かといって部活内では部員である以上お互いパートは違えどライバル。だからアスカにいじめられるから、裏切られたからなどという理由で部活を辞めるつもりなんて無かった。音楽が好きで歌うことが楽しいと心から思っていたからだ。このあたりから母は事ある毎にしつこくアスカと付き合うことを止めるように言ってくるようになった。やはりここで母は私に前記のとおりの理由をつけて付き合いを止めるように言ってくるのだった。母曰く

「アスカちゃん家は市営住宅住まいでうちよりも貧乏だから」

「前にあんたの財布を盗んでおいて、それで今もあんたをいじめるくせに友達だって?」

「また泥棒するんでしょ?だからあんな子とは付き合わないで!」

「あの子は不良になる」

とのこと。私が誰と付き合おうと勝手だし、その頃には同じクラスにも親しい友人は何人もいたので、私は母が心配するほどでもないと考えていた。たとえ今後アスカと縁を切っても。母はまたしきりに同じクラスの友人を引き合いにだしてアスカと付き合うな!友達をやめろ!と言っていたのだ。ここまでくると、私も心底母にうんざりしていた。母を黙らせる方法、それは私がアスカと縁を切って部活も辞めればいいのかと思うようになってしまった。現にアスカは私と最初は仲良しだったが、同じ部活に入ってからは私をいじめるようになっていった。それにパートが違うのに

「声がでかい」

「そんなダミ声で歌っているあんたがレギュラーメンバーなんて納得いかない」

ジャイアンリサイタル

「とっとと部活を辞めろ!」

「2年から入部したくせに生意気!1年と同じことをやっていろ!」

「新米部員なんて2年でも1年と同じ。だからレギュラーと練習するな!課題曲講習会にも出るな!」

などといちいちいちゃもんをつけてくる。部活以外でもカバンを盗む、私物をゴミ箱に捨てる、悪口を言うなどの嫌がらせをしてくる。それは全て今思うと彼女の嫉妬だったのだろう、私は小学校低学年でピアノを辞めてからも独学でピアノを練習して腕もあげていたうえに、事実部活に入ることを決めたきっかけもアスカから声をかけられたからではなく、偶然通りがかった放課後の音楽室でピアノを弾いていたら合唱部顧問の先生が声をかけてくれたことだった。先生に見つかったときはさすがに「あ、やばい!怒られる!」と思ったが、その先生は笑顔で

「今の曲、もう一回弾いてもらえないかな?」

とやさしく言ってくれた。そして私はもう一度その曲を弾き始めた。ピアノを弾き終わると先生は私に

「あなた確か部活に入っていないんだっけ?そんなにピアノが弾けるのにもったいない・・・」

と言って続けて

「私、合唱部の顧問をしているんだけど、もしよかったら合唱部に入ってみない?・・・、って実は部員が少ないんだけど」

と。最初は部活に入ることをあまり考えていなかったが、そのうちに考えるようになっていったのだった。そしてアスカが合唱部にいることを知り彼女からの誘いもあって入部となった。

それでもアスカの嫉妬や怒りが収まることはなかった。だったら私はもう、部活も辞めてしまってアスカとも縁を切ろう・・・と考え始めたそんなある日、突然アスカがこれまでのことを謝罪してきたのだ。

当然のことながら私は彼女の謝罪を受け入れなかった。だがその後何度も謝罪するアスカ、何度も謝罪していた彼女を私は彼女を許すことにした。ただすぐに仲直りというわけではなかったが、とりあえず暫くは部活だけの付き合いにしようと決めていた。母はこれにも納得がいかずまたしても

「あんな形だけの謝罪、そんなものを易々と受け入れたあんたはバカだ」

などと私に文句を言う。そしてアスカとは紆余曲折あったものの高校、社会人、そして現在でも良き友人としてもライバルとしても関係を続けている。

一方、母は私が社会人になってもアスカとの付き合いがあることを良く思わなかったようだ。時には「あの女!ウチの娘に悪いことを吹き込んで」なとど妄想に満ちたことまで私に言う始末。本当にタチが悪い。母にとって私の友人というのは母の理想の友人でないといけなかったのか、今でもそれはよく分からない。私が高校の頃にも私の友達付き合いの件で何度も揉めている。クラスで仲良くしていた友達がいたのだが、参観日の時にその友人を見るや

「あの子は根暗そうだから付き合うのを止めて!アンタまで根暗になるから」

などと何の根拠があるの?という妄言をしてきたくらい。社会人になったらなったで今度は

「(保険屋に就職したばかりの頃)結婚相手はこの職場で見つけなさい」

などとも言ってきた。

 

ただ、私も母も気に入らない。寧ろ大嫌いという子が実はひとりだけいたのだ。それは則子(「いじめ」参照)という少女だった。彼女とは小学校3年生から6年生までは同じクラス、そして中学、高校と同じ学校だった。家は米屋を営んでいた。則子は周囲の大人から充分に構ってもらえていなかったのか、私にやたら嫌がらせをしたりするようになっていったのだ。小学校3年生で同じクラスになった頃はそうでもなかった。席も近くだったせいか休み時間などに宿題の答え合わせを一緒にしたり校庭で会ったら一緒に遊んだりもしていた。だがどこで則子はそんな歪んだ感情を私にぶつけてくるようになったのか、今でもよく分からない。少なくとも小学校4年生の中盤頃からそうなっていたのだろう。私が自身の友人とどこかにお出かけをしようと言うと、則子がその話を聞きつけては「私も一緒に行く!ね、いいでしょ?」と言い無理矢理私たちに着いて来ようとしたり、教室移動の時にもわざと付きまとってくるなどのむちゃくちゃな行動から始まり、それを嫌がる私たちに対して暴言を吐いたり嫌がらせをすることから始まった。最終的にはその嫌がらせの標的は私だけになってしまい、事あるごとに則子は私の私物を盗んで行っては隠す、秘密を無理矢理聞き出そうとしたりするようにもなった。それを問い詰めたり拒否をすると、今度はわざと私の傍に寄ってきて悪口を言うなどもしてきた。相手が則子ひとりだったら放置すれば済む問題だっただろう、だが則子にもいつの間にか味方が出来てしまい面倒になっていった。則子は平気で嘘をつく、人の悪口を言う、人によって態度を変える、自分よりも強いと思った人にはごまをするなど、本当にタチが悪い。そんな中、小学校6年生の頃のあるお昼休みに私は彼女にある復讐をした。

その日は給食が無く弁当の日だった。私は母に作ってもらった弁当を友人と食べていた。その時則子は彼女の友人数名と共に私のもとにやってきて、何も言わずに弁当箱の中の海苔巻きに手を伸ばした。私もとっさのことで驚いて

「ちょっと、何するの?」

と声をあげた。すると則子は

「だって美味しそうだったんだもん。ね、1個ちょうだい!くれるよね?私は特別だもん!」

と言ってまた海苔巻きに手を伸ばした。私は則子に向かって

「どんだけお前は無神経なんだよ!」

と彼女の手を掴んで応戦、彼女は私の手を振りほどいていきなり

「はる香ちゃん何するのよ!だってあんたが食べていいって言うから(そんな事一言も言っていませんが・・・)貰おうとしたんじゃない!」

と声を上げたのだ。

そこで私は則子が嘘を言ったことに腹を立てて自身の弁当箱から海苔巻きを一切れ手にとって彼女に差し出すように持つと、それをわざと床に落とした。そして、床に落とした海苔巻きを指して

「ほら食えよ則子。お前がこれを欲しいって言った。だからくれてやったんだ、ハハハ・・・感謝して食え!」

と彼女にそれを食べるように冷たく言い放ったのだ。彼女は最初はオロオロしていたが、彼女の傍にいた彼女の友人が私に

「ちょっと!はる香ちゃん何考えてんの?床に落としたものを食えって、則子のことをバカにしてるの?ひどい!」

と言うが、私は構わず

「人の弁当、勝手に取ろうとしてそれか?呆れるねぇ・・・。自分のもちゃんとあるのにね、ああ卑しいわぁ!気持ち悪いねぇ」

と静かに彼女たちに言い放つ。そして私は続けて則子の目を見て

「おい、食わねぇのか?あんなに欲しがってたくせに。・・・どうしてだろうね~」

と笑顔で言うのだ。すると則子は泣き出して廊下に駆け出したのだ。後に聞いた話だが、その一部始終を見ていたある男子数名が

「高坂の行動にびっくりした。お前があんなことをするような子だと思わなかった」

と言っていたそうだ。そしてその数分後に担任が来て私が怒られたのだ。当たり前だが「食べ物を床にわざと落とすなんて」と。

この件に関しては正直自分でもやりすぎた感じはあった。だが、私の行動は人の弁当を黙って盗ろうとするような卑しい彼女にはいい薬だと思っていたのだ。そもそも小学校高学年にもなって人のものを平気で奪って食べるなど怪しからん!以ての外だ!親のしつけは一体何なんだと思ってしまったぐらいだ。ついでに言うならモラルが無いのか?とも。この一件に関しては担任から私の母にも連絡が行き(あくまで被害者は私という風に先生は私の味方はしてくれていたらしい)、私は帰宅してから母にこっぴどく怒られた。だが母は則子のしたことの方が腹が立つと珍しく私の味方もしてくれた。母の言い分は

「いくら他の子のお弁当が美味しそうだからといっても、それを黙って盗るのはよくない。せめてお互いが納得する形でおかずを交換するとかそういうのだったらまだ理解できる。けれど、それを床に落として食えって脅すのもどうかと思うよ」

とのこと。加えて

「則子ちゃんは普段からそういうことをするのか?」

と私に訊いてきて、私がそうだと言うと

「あの子、何が面白くなくてうちの子にそういう嫌なことをするんだか」

と怒り出したのだ。

 

この一件以来、則子の私への嫌がらせはエスカレートした。私のランドセルに付けていたあるアニメのキャラクターのキーホルダー数個も彼女がある日盗んでゴミ箱に捨ててしまったのだ。私はその日帰宅しようとランドセルを背負おうとしたところでキーホルダーが無いことに気づいた。そのキーホルダー、本当に気に入って従姉妹と一緒に買い物に行ったときにお揃いで買ったものだったから無くなったということが余計に悲しかった。そこで私は帰り道で偶然会った則子とその友人に「ねー、私のランドセルに着いていた○○のキーホルダー、見かけなかった?ちゃんとランドセルに付けていたんだけど無くなっちゃって。あれ、従姉妹とお揃いで買ったやつだから・・・」と尋ねてみた。すると彼女と友人たちは口を揃えて「知らない」と。その数日後、音楽室のゴミ箱から汚れた状態でそれが発見されたのだ。しかも事もあろうか発見したのは則子だった。本当に腹が立った、実は私のキーホルダーを盗んだのは則子であったのだ。実は無くなった翌日、別の友人から「則子がはる香のキーホルダーを盗ってゴミ箱に捨ててやった!」と自慢していたと聞いたから犯人は則子だということが分かったのだった。すかさず発見されて私の手元に戻ってきたところで則子を問い詰めたが、則子はシラを切り続ける。

「私知らないよ~?だってここにあったの見つけただけだもん」

とか

「私盗んでないもん!」

などと言うばかり。だが則子がそれを盗んだと言っていたと証言した友人は嘘をつくような子ではなかった。寧ろクラスのまとめ役のようなしっかりした性格の子だったから。だから私は則子に「いつまでも嘘ついてんじゃねーよ、ブス!」と怒鳴りつけたのだ。すると則子は今度は嘘泣きし始めてはる香ちゃんがいじめたと喚きだしたが、他の目撃者のクラスメイトは真相を知っているだけに、ただただ呆れてそれを見るだけだった。

私は思う、物を盗むのはもちろんよくない。同時に持ち主はその物をどんな気持ちで手に入れて、そして持っていたのかを盗む人はどう考えたのだろうか・・・。きっと誰かから貰った大切なものだったかもしれない、お誕生日プレゼントだったかもしれない。お小遣いをためて買ったものかもしれない、どんなものであってもそれなりに感情が篭ったものだということを考えないのかな。そう考えると本当に腹が立った。

 

それから数日後の出来事。ここでも則子はやってくれた。学校が終わってそろばん塾に行った私は教室が開くのを外で待っていた。そこへ則子らがやって来て、私を見るやいきなり叩いてきたり悪口を言ってきたり、さらには石を投げつけたりしてきたのだ。その日は学校が終わってから私は歯医者に寄って、その足でそろばん塾に行くことになっており、歯医者に連れて行ってくれた母が車で塾まで乗せて行ってくれたのだ。そして駐車場を出ようとした母がその一部始終を目撃していたのだ。そこで母が車から降りてきて則子らを問い詰めた。だがここでも彼女らは往生際が悪く

「だってはる香ちゃんが悪口をいきなり言ってきたから怒って、それで・・・」

と若干しどろもどろ気味に母に言い訳をしていたのだ。私は則子たちに悪口を言って喧嘩を売った覚えなど無い。石を投げてきたことについては「遊んでいたら、転んでそこで飛んだ石がはる香ちゃんに当たった」などと白々しい言い訳をしていた。

私はむしろ則子たちが来ても知らん顔をしていたぐらいだった、相手にしたくなかったから。それに彼女たちは私を見るやいきなり

「はる香ちゃんがいるー。うわぁ汚い・・・。私たち塾の中に入れないじゃん!」

などと言ってきて、更に彼女の仲間の子が「どっか行けよバイ菌!」と言って私を殴ってきたところから則子らも加勢して事が大きくなってしまったのだ。

「子供の喧嘩に口を出すべきじゃない」とは言うが、私はこの時の母の気持ちは分からなくもない。恐らく私もわが子が一方的にそうされたなら、母と同じく行動にでていただろう、そう思う。事実彼女らのぶつけた石が顔に当たって痣になったぐらいだから。それも運が悪く目のすぐ下だったから本当に許せない。目の下にはしばらく痣が残った。そして母は則子らに説教を始めて、その後教室にやってきた先生に事の経緯を話していた。その日は彼女らは教室に入れてもらえず、そのまま帰っていったようだった。

その日から母は則子を「危険人物」扱いするようになり、私にも

「あの子と遊んじゃだめ!教室で声をかけられても無視しなさい」

と言うようになっていった。私も絶対に彼女らには関わりたくなかったので、そればっかりは母と同じ答えだった。さすがにここまでされて母からいつもの「仲良くしなさい!」は無かった。無論則子には友達として付き合っていても自慢できるようなメリットは何もなかったから。

その後母は則子の実家の店で米を買うのを止めたのだ。偶然にも私の通う空手道場の師範に米屋を経営する人がいたこともあり、それからずっと母はその師範のいる店で米を買っていた。そういえば、前記の弁当事件の海苔巻きも恐らく則子の実家の米屋で買った米で作っていたのだろう。そうだったら本当に皮肉な結果だ。

女帝の夢

前記のとおり幼い頃から・・・特に母にとって私は単なる人形だった。

前回は「着せ替え人形」というところに要点を絞って書いたが、今回はそれ以外のものを書いていきたい。

まず、私は念願の女の子だったらしい。だが現実はとても矛盾しているもので、兄は長男だからと家族から常にちやほやされてもてはやされ、私は女だからと見下される毎日。持ち物も兄よりいいものは持たせてもらえない、学校に必要なものは殆ど兄からのお下がり、何かと兄と比較される日々。それのどこが念願なんだか、と首をかしげてしまうほどだ。

母はそんな私の前では「女帝」だったのだろう。私の言うことは何でもお聞き!と言わんばかりに私に異常なまでの干渉をしてきたものだ。それは成人してからもずっと続き、私の人生を台無しにした。二十歳すぎた娘にまで「言うことを聞きなさい」などと、本当に異常だった。

 

母は常に私をお人形のように飾り立てて幼稚園に通わせ、そのあたりから習い事三昧な日々を送らせた・・・、それ以外にも母は私に常日頃から自身の理想を押し付けるようになっていった。

母の理想の私、体型はモデル体型、学校ではいつも成績優秀で人気者、自分好みのファッション、将来は市内一の進学校へ通い一流大学を出て一流企業に就職、それか公務員。結婚まで実家住まい、結婚まで純潔、親の理想のお見合い結婚など。

どうしたらこういう未来予想図を描けるのだろう、しかも母自身ではなく私に。そもそもモデル体型というところで無理だろう、私自身成人しても身長は155センチしかないのだ。体重は除いても身長だけでもショーを歩くモデルとは程遠い。今は読者モデルなどモデルといってもたくさんのジャンルはあるけれど、私が過ごした青春時代のモデルといえば160センチ以上が最低条件であったのだ。それに当てはめても私の身長では無理。我が家は長身の家系ではないことも影響しないはずがない。だからモデル体型を求めるのは私にとっては非常に迷惑な話である。私も今現在までモデルになるなんて考えたことすらない。むしろ私は幼い頃からもっと現実的な考えを持っていたのだろう、幼稚園児の頃から中学まで美容師になりたいと本気で思っていたぐらいだ。それ以外では母はやはり私には母自身の好みの服装をさせるべく必死だった。それも小学校高学年あたりから・・・。小学校中学年あたりまでは前章でも書いたとおり常に誰かからのお下がりばかり。母の押し付けもあって、私の夢はいつの間にか公務員になってしまっていた。私は私で別の夢があっても、結局は母の理想は公務員でしかなかったのだ。そして結婚までは実家住まいをして母のお気に入りの人とお見合い結婚という、「いつの時代ですか?」と聞きたくなるような母の未来予想図。そしてそれがダメならと代替案を次から次へと持ってくる。そしてそれを否定する私に対していつも母は自身の過去の話を持ってきては私を何とか説得しようかと必死になってくるのである。同時に私の同級生、それも成績がいい子に限定してその子たちと比較したり、近所の子と比較するなど、何をしたいのか正直分からなくなるようなことも平気でしていたのだ。

 

母は市内のある普通科高校を卒業後、東京の幼稚園教諭養成所へ行き幼稚園教諭の資格を取得後に横浜の幼稚園で3年ほど勤務していた。その後退職をして生まれ故郷である現住所の市内へ戻り、地元でも幼稚園教諭として働きたかったそうだが、募集には年齢制限があって母がそこで働くことは叶わなかったそうだ。その後幼稚園教諭とは関係の無い仕事をしていたようだが、やはり幼稚園教諭には未練があったようだ。そして父と見合い結婚をして私たち兄妹を産んだ。父はその当時にはすでに曽祖父の代から続く会社で働いていた。

母は私の進路の話になると決まってこの話をしてきた。もう何十回も聞かされた。母曰く「後悔の無い生き方をして欲しい」、だがそれは間違った方向に進んでいたことは言うまでもない。母も死ぬまで気づかなかっただろう。母は私には苦労をさせたくないと思っていたからこそ、家庭内では「女帝」となり常に干渉をし続けていたのだろう。だが過干渉ほど迷惑なものは無い、私にとっては。干渉を続ければ続けるほど私の人生は狂っていった。

 

結局母は私を母の理想どおりの人形に育て上げたかったとしか言いようが無い。

 

母は常日頃から私を誰かと比較することが多かった。学校の友人、近所の友人、従姉妹、母親自身とも。そして誰よりも優秀で自分好みのキャラクターになるように、いつもコントロールをする。私はそれが嫌だった。モデル体型になれというような無理な要望から始まって少しでも私が太ると「太ったね~、痩せるのにダイエットさせなきゃ!」と躍起になることもあった。それは私が小学校低学年の頃でも普通だった。それだけではなく成人してからも少しでも私が太ったと思えば容赦無く「痩せろ痩せろ」と聞こえるように言ってきた。食事の内容にも口を挟み、一日3食豆腐だけという日もあった。それから効果があるのか分からない高価なサプリメントを買わせられたりもした。それでも痩せないとなれば今度はスポーツジムに行けとしきりに言い出し、しまいには「こっちでお金は出すからジムに行け!」とまで言い出す始末。小学校高学年の頃、一度だけ雑誌に載っていた痩身エステの広告を母に見せて私は

「痩せろというんだったらここに連れて行って!ここだったら痩せられるかもしれないでしょ?」

と母に提案したのだ。だが母はそれを見て

「こんなの無駄。楽して痩せようなんて考えないで!それにお金もかかるでしょう?」

と却下したのだ。痩せろと人に言うくせに矛盾した対応だ。

母は自分が太っている(身長145センチで体重は76キロ)くせに、私には常日頃「痩せろ」と言う。自分は痩せる気が無いらしく、私は一度

「自分も太っているでしょ。それなのに人に痩せろだと?痩せる気もないような人に言われても何の説得力もないから。それから痩せるも太るも私の勝手だと思うけど?」

と言ったことがある。それに対して母は

「ちょっと!何で50代の私と比べるのよ、あなたとは全然違うの!あなたはいちばん綺麗でいなきゃいけない時にそんな太って醜い姿で・・・私は情けない」

などと泣き落とそうとする始末。要は自分はよくて人はダメという思考。ちなみにこの頃の私、BMIは正常値だった。

私に対して太った太らないの事だけではなかった。母はしきりに私に「補正下着を買いなさい!」と言ってきたものだ。私は締め付けられるのがこの頃でもすでに苦手で補正下着も付ける気が無いので、それを伝えたら

「いいのいいの、少しでもスタイルよく見られるからつけるべきなの!」

と強引に私に押し付ける。そして自身は高額な補正下着を買ってきた。それでこれ見よがしに「これを着けたらね~、私も少し細くなったの!」と私の前でわざと言うのだ。正直母の見た目は変化が無い。どう見ても胴体部分はドラえもんのようだった。それを見た私は「あーはいはい、興味ありませんけどね~」と流すようにしていた。だが、それだけで済むわけもなく、母は私を無理矢理下着屋に連れていき、店員にサイズを測らせて補正下着を私に買わせようとしていた。結局私は母を店に置いて逃げて事なきを得た。その後帰宅して母に

「恥をかかされた!あんたのことを思ってやってやったのに!親不孝者!」

と思いっきり怒鳴られた。そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった。けれど私はそれに後悔は無い。

母の理想、それはモデル体型だけではなかった。将来の夢も結婚も全て・・・。

 

母は父とは見合い結婚をした。それだけに見合い結婚が自身の中で一番なのだろう。そのせいか私にもしきりに見合い結婚を勧めていた。それも私が小学生の頃から。母の理想の見合い結婚、私と見合いする相手が自分たちの知っている人間のご子息であれば安泰とでも思っていたのだろう。だが私はしきりに見合い結婚を勧める母をずっと見ていたせいか、逆に見合いなんて糞食らえ!と思うようになっていった。同時に結婚まで親に決められるなんて私の人権を無視してる!とも・・・

見合い結婚をした母だが、母は学生時代に交際していた相手はいたようだ。その相手は警察官。なかなか上手く関係は続いていたそうだ。だがある日、母が横浜から実家に帰省したときに実家に母も知らない女性から電話がかかってきたというのだ。その電話の内容は「私は○○(名前を名乗ったそうだ)、あのね、あなたとお付き合いされている○○(母の当時の交際相手)との子供、私、最近堕胎したの!」というものだった。母も気が動転したようだ。無論その相手とは別れてしまったようだが、おそらくこの一件から母は見合い万歳!という考えになったのだろう。別に恋愛結婚がいい、見合い結婚の方がもっといいと思うのは個人の都合だが自分の娘にまでそういう考えを押し付けて欲しくなかった。実はこの話、私には何度もその話をしてきたのだ。それも決まって私に交際相手がいると分かっているときに。

そして中学からずっと私に恋愛禁止令を敷いていた。母曰く「悪い虫が寄ってきたら受験に響くから」と。何としてでも私には見合い結婚で自分の知る相手と結婚して欲しかったのだろう。結果的には私は見合いをすることは無かった。母が亡くなってから自分で自分にふさわしい相手を見つけ、その人と結婚したから。

 

見合い結婚の押し付け以外にもいろいろと将来のことは母に勝手に決められた。将来の夢なんて何度もぶち壊された。

私はずっと美容師になりたかった。美容師になりたいと思ったきっかけは、5歳の七五三の時に近所の美容院で美容師さんにすごくきれいにしてもらったこと。着物を着付けてもらって髪もきれいに結ってもらいきれいなかんざしをさして、メイクもしてもらった。そして美容師さんもとても優しいお姉さん。その姿を見て私もこうして人をきれいにしたい!と考えたから。小学校に入っても中学にあがってもこの考えが変わることは無かったのだ。小学校低学年の頃、母親も私が美容師になりたいと思っていたことは知っていた。だが恐らくこのあたりではまだ「大きくなったら何になりたい?」くらいにしか考えていなかったのだろう。そして私が小学校中学年の頃にある漫画に出会い、漫画家にもなりたいと思うようになった。けれど美容師の夢を捨てたわけでもなく、その頃は「どちらかになりたい」と思っていた。小学校時代の作文にも美容師か漫画家になりたいと書いていたぐらいだった。だが中学に入り、当時通っていた学習塾から進路のアンケート(記名式)が届いた。そこで行きたい学校や将来の夢など書く欄があり、私は美容師と書いた。得意科目の欄には「国語、英語、社会」、進学したい学校の欄には「第一希望・美容専門学校」と書き、将来の夢の欄には「美容師」とはっきり私が書き込んだ。だが、それを見た母は激高して

「何なのこれ!得意科目が英語でなりたい職業が美容師?!バカなの、あんた?これちょっと問題だから学校と将来の夢はこっちで書き直すから!美容師で英語なんて話さないでしょ?」

と私からアンケート用紙を取り上げてすかさず書き直しをしてしまったのだ。そこに書かれていたものに、私は愕然とした。進学したい学校「○○女子高校(市内一の女子高。進学校)」将来の夢「英語の先生、公務員」と書き直されていた、しかもボールペンでデカデカと。それを見て本当にショックだった。将来の夢まで親に決められるなんて・・・、と。母曰く

「公務員だったら将来が保障されてるんだよ、だって役所はつぶれないし。それにお給料だって安定よ。そして公立の学校の先生だったら得意科目が活かせるし」

と、まるで自分がその職業になりたいかのように私に押し付けたのだった。

だが、私は美容師になる夢は中学校3年までずっと捨てなかった。何としてでも美容師になってやる!と本気で思ったぐらい。しかしこのあたりになって漫画家も捨てがたいと思うようにもなっていた。そこで思いついたこと・・・、それは「美容師にはなるが絵を描きながら美容師をやる。そしてお店の外観や内装も自分好みにして自分の描いた絵を店内に張り出して。自分のお店を持ちたい」と考え出した。今で言うプロデュースに近いものがあった。だから表面では進学校に進学したいと思わせておいて実は高校へは進学せず美容学校に進学して美容師になろうと裏では動いていた。だが、それも失敗に終わる。中学二年の終わりに学校で個別進路指導というものがあったのだ。親が同席して先生と進路相談をするというものだった。私はひたすら「美容師になる」と主張していた。だが、母は「違います、この子はずっと学校の先生になりたいって言っていました。だから将来は学校の先生になりたいから○○女子高校に進学してそして地元の大学に進んで・・・」と勝手に話を進めてしまった。しまいには私を嘘つき呼ばわりまでして。そして進路指導が終わって帰宅、そこで母からのお説教が始まった。美容師になりたい私に対して母は

「あんたはバカなの?私に恥をかかせるの?美容師は中卒のバカでもなれるからあなたはちゃんと大学へ行って先生とか公務員になりなさい」

「うちでは中卒は認めない」

など、私の夢を全否定するような話がずっと続いた。おかげで私は意気消沈してしまい、美容師の夢を諦めざるを得なくなったのだ。結局私は母のわがままのおかげで自分の首を絞めた。今でもその悔しさは忘れていない。

そして「学校ではいつも成績優秀」、これについて私の成績は中学校3年生の時点で学年390人中常に50番から70番程度にいた。悪くても120番ほどだった。私はそれでもいいと思っていた。現状でも十分に中堅レベルの高校に行ける偏差値はあったからだ。美容師の夢をなくした私だが、最初は絶望していたものの「中堅ぐらいの学校に進んでおけば親も何も言ってこないだろう」と考えるようにもなっていた。そしていざ受験する学校を決めるとき、市内の私立女子高の専願推薦を受けないかと学校から持ちかけられた。親もそれを望んでいたらしく、そこの学校を受験することを即決した。私は「とりあえずそこに受かれば文句は言われないか」くらいに考えていた。別に本気になるわけでもなく・・・、そう考えたのも、その時までは。結局そこの私立高校は不合格だった。そこで私は結果を聞いて担任の先生に相談、そして次は隣の県にあるキリスト教系の高校の推薦を受けてみないか?と持ちかけられたのだ。私自身もそこの学校には少しの憧れがあり、自宅からも通える(電車で1時間弱ほど)距離であることもあり、ぜひとも推薦を受けたいと先生から願書をもらってその日は親に相談すると言って帰宅した。だが両親に相談したところ、猛反対をされてしまい残念ながら諦める結果となった。親が猛反対した理由というのは

キリスト教の学校なんてキリスト教徒が行く学校だ!」

「家から電車で1時間もかかる、そんなところに通うことなんて出来るはずがない。途中で近所の○○ちゃんみたいに学校に行かなくなるだろう」

「そんなところに行くんだったら勘当する!」

と。実は兄はこのキリスト教系の学校を滑り止めで受験していたのだった。またここでも兄はよくて私はダメという理論になったのだ。

そして結果的には県立高校を滑り止めなしで受験することに。そこでも母がまたしゃしゃり出て面倒なことになったのだ。やはり母はここでも私を母自身の思い描くレールに乗せようと必死だったのだ。最初の出願先を私に無断で変更してしまったのだ。理由は

普通科高校に行くよりも高校で手に職をつけたほうが将来に有利だから!」

と息巻いて、出願先変更の締め切りぎりぎりになって勝手に出願先を変更した。それについて抗議をしたが、母は私の言い分を全く聞かず上記の持論を展開するばかり。挙句の果てに「お前はバカだからそっち(元の出願先)は落ちるに決まっている!だからこれでいいんだ!」などと私に自身の責任を転嫁する始末。あまりのお粗末な事態に私は母の変更した出願先の学校を受験せざるを得なくなった。ただ、私はそこへは行きたくなかった。だからと言ってわざと面接で落ちるような演技をしたり、試験を白紙で提出して不合格となればまた何を言われるか・・・、そちらの方が怖くて仕方がなかった。それに中学浪人となれば母から何を言われるかはもう想像がついていたからだ。

母の望む進学先に進まなければいけない、中学浪人も出来ない、まさに八方塞がりだった。面接での受け答えも母がシナリオを準備してそれを私がただ話すようなものとなってしまった。家でも面接の練習を何度もさせられて苦痛だった。とりあえず無理矢理出願先変更をした学校には合格した。母は自分のことのように喜んでいた。だが私は正直嬉しくも何とも無かった。嬉しくなかったけれど、合格通知を受け取り、その日は帰宅。だが帰宅する道中で母は私にまた信じられない一言を言ったのだ。

「あんたが受かった学校って情報系だけど市内一の進学校並みの成績じゃないと入れないのよね、だから従姉妹に勝てた!お母さん嬉しいの!自慢できるわぁ~!」

何のための受験だったんだろう・・・。私の中で更にモヤモヤな気持ちが出てきた。結局は母の思う壺?それとも私は母のために生きているの?と。

母の夢をかなえるべく私は完全に母の操り人形と化してしまったのだ。高校受験もその一部でしかない。

いじめ

今思うと幼い私に安息の場は無かった、家も学校も常に居づらい場所でしかなかった。

小学校に入り、私はいじめに遭うようになった。物を隠される、壊される、悪口や暴力、そういうものは日常茶飯事。学校も助けてくれなかった。特に小学校1、2年生の頃の担任は本当に酷いものだった。ひとりだけ先生お気に入りの女児、優花(仮名)がいた。私は優花からいつもいじめられていた。仲間はずれにされたり、悪口を言われたり、そして周りの子たちもいじめられたくないからついつい優花の仲間になる。彼女は先生や大人の前ではいつも良い子ぶっており、裏では誰か弱そうな子を見つけては嫌がらせをしたりパシリに使ったりするなどを普通にするような子だった。それだけではなく平気で周りを脅して自分の味方にしてしまうというたちの悪い女児だった。

ある日優花の嘘で私は思いっきり恥をかくことになった。その日の朝の会で優花が「うちの妹ははる香ちゃんに昨日ブサイクと言われたと言ってた!それで泣いていた」と言い出した。私は彼女の言うこの日の前日に彼女の妹には会っていないし、それ以外の日に会ったことはあってもブサイクと言った覚えもない。それを聞いて先生は「またお前か」と言わんばかりに私の言い分を聞かず私を怒鳴りつける。私が身の潔白を主張しても先生は信じてくれず、挙句クラス全員に「はる香ちゃんがブサイクと言ったと思う人~!手挙げてー!」と多数決を取りはじめた。やはりクラスメイトは皆優花はクラスのボスだと認識していたため、逆らうと今度は自分がいじめに遭うのも知っていた為そこではクラス全員が手を挙げたのだ。おかげで私は悪者に仕立て上げられた上に、しばらくそれを理由にいじめの対象になったのだ。周りも私をいじめてもいいという認識になっていき、私はクラス内での居場所をなくしたのだ。

それだけではなかった。私は小学校低学年の頃から空手を習っており、二年生になったある日、優花も空手を習い始めた。正直言ってそこでもまた憂鬱だった。そしてここでも事件が起きてしまうのだった。ある放課後、私はその日は習い事があるので学校が終わってすぐに帰宅をしようと教室を出て昇降口に向かっていた。そこへ彼女と仲間数名が私を取り囲んで「今から遊ぼう!」と言ってきた。だが私は「きょうは習い事があるか遊べない。帰らなきゃいけない」と言って帰ろうとしたが、彼女たちは私を取り囲んで帰らせてくれない。私はそれでも習い事があるから、そこをどいて欲しいと言ったがどいてくれず、しまいに彼女が私の腕を思いっきり掴んで教室の方に連れて行こうとしたので、私はその腕を振り払って逃げるようにして学校を後にした。そしてその次の日、彼女はまたしても朝の会で「昨日の帰りに、はる香ちゃんが私(優花)と○○ちゃんと○○ちゃんに空手技を使ってきた!」と先生に言いつけたのだ。もちろんそんな事を私はしていない、ただ私は彼女の腕を振り払っただけなのに・・・。先生はまた私の言い分など聞かずに一方的に私を怒鳴りつける。そしてクラスのみんなも私が悪いなどと言い始めて、私はとうとう泣いてしまった。そして先生や他のクラスメイトたちから無実であるのにつるし上げられた私はその場にいるのも辛くなり、「もうみんななんて嫌いだ!」と声を上げて教室から飛び出してしまった。その後はあまり覚えていないが、保健室で保護されていたことを覚えている。そして休み時間になって担任の先生が鬼の形相で私の元に来るや、何も言わずに私の手を引いて教室に連れ帰った。そしてそれだけでは済まず、教室に入るやまたしてもクラス全員でつるし上げを始めた。私もさすがにそこにいるのが辛くなって先生に「どうして信じてくれないの?私はやってないのに・・・。もう先生も嫌いだ!」と先生の腕を振り払ったところ、今度は先生は「お前今何て言った?!」と私に言ってきて、教室から私を追い出した。そして途方にくれていたところ、今度は教頭先生に声をかけられてまた保健室に護送された。その日は昼前に母が学校に迎えに来て家に帰った。

母は私が家に帰ってから優花を思いっきり褒め称えた挙句私はバカだからこうしていじめられると私を罵った。加えて優花ちゃんは頭もいいからみんな大好きなんだよ、と。私は決してそうじゃないと言ったが母は信じてくれなかったのだ。それだけ彼女は周りを取り込むある意味天才的な才能があったのだろう。この話はそれだけでは済まず、彼女は私が空手技を使ったと事もあろうか空手の師範に言いつけたのだ。そのおかげで私は空手を破門になりかけた。優花のタチの悪さはみんな知っていた。無論その女児にいじめられたくないからと普段は彼女の味方をしていた。だがその中にもいくら優花でも悪いことは悪いと思う子もいたわけで、運よくこの騒動の顛末を知っていた私と同じクラスにいた別の児童が空手の師範にこっそり私の潔白を主張したのだ。そのおかげで私は空手を破門にならずに済み、優花は空手を辞めていった。それ以来彼女からのいじめは減ったが、たまに面倒な用事を押し付けられることもあったので、私は極力彼女を無視していた。だが学年が変わっても彼女は私に何かと突っかかってくるというタチの悪さは相変わらずだった。平気で意地悪をする、私物を取り上げるなど。そして周りには良い子を見せ付けるというのも健在で。

ついでに今の時代にこんな対応をした先生はきっとマスコミの格好の餌食になるだろう。そして教育委員会も黙ってはいない、本当に今考えても胸糞が悪い。

 

この騒動以外にもなぜか私はいじめの標的になることが多かった。そしていじめに遭うたびに出てくるのが私の母だった。母は私がいじめに遭うと普通に学校に乗り込んでクレームをつけるような人だった。今で言うモンスターペアレントのようなことも普通にしていた。抗議の対象は学校だけではなく、いじめた相手の家も普通だった。親心だったのだろう、わが子をいじめから守りたいと考えていたのだろうと思うが、結局それも全て行き過ぎた行為になってしまって、その恨みが私に向かっていたこともあったのだと思う。ただ、母は相手によってクレームをつける場合とそうではなくいじめた相手に対して「お母さんあなたのことが好きだから、うちの子をいじめないで」などと言う場合と2パターンあったのだ。母が気に入らない相手だと前者であり、母が気に入っている相手だと後者である。時には相手の家に電話で抗議するだけではなく先生の家に電話をする、相手の家に突撃するなども普通だった。正直その翌日が私にとっては憂鬱だった、やはり当事者からの報復が怖かったから。報復は何度も受けた。理由もなく放課後居残りさせられたり、いきなり階段から突き落とされてケガをさせられたり、悪口を何度も言われたり。自殺しなかったのが不思議なぐらいだった。

母の行動がクラスで話題にあがっていたのは言うまでもない。そして私はいつも肩身の狭い思いをしていた。「また私ちゃんのお母さんが怒鳴り込んできた」など、クラスの中で何度も聞いていた。その度にいじめがひどくなることもしばしば。両親に何度も転校したいと言ったが、近所の目があるなど世間体の事ばかりを気にして結局転校はさせてもらえなかった。学校でいじめにあっても周りがいじめに遭った側の心のケアをして、突撃して怒鳴りつけるなどせず、他のやり方でいじめをなくすように動くことをしていれば私はこんなにも苦しむこともなかったと思う。

小学校5年生の終わり頃からそれまで仲良くしていたクラスメイトの女児(以下則子)から執拗にいじめられるようになった。則子の家は米屋を営んでおり、両親共に多忙であり彼女は両親から構ってもらえないような子だった。性格もわがまま、自分が気に入らなければすぐに意地悪をするなど。そのせいか、私の元に来ては散々嫌がらせをするようになった。悪口から始まり、こちらもタチが悪く私の私物やお金を要求するようになる。そして何度も「おごっておごって」と私に要求をするようになった。たとえば私が学校の購売部で学用品を買っているのを目撃すると、

「あら、きょうお金持ってるの?だったら帰りにおごってよ!お釣りあるでしょ?」

としつこく言ってくる。それで私が断ると

「何よ!いいからおごりなさいよ!あんたの家、お金持ちなんだからそれぐらいいいでしょ?」

と更にしつこくなるのであった。則子は自分ひとりで私を苛め抜けないと判断したのか、そこに今度は「自分はクラスのアイドル」だと自称するクラスメイトの女児(以下マミ)と北日本から転校してきたばかりの女児(以下朝子。マミの取り巻き。則子も実はマミの取り巻きではあるが)、そして幼馴染の優等生の女児(以下幸子。私と則子の幼馴染)も私へのいじめに加わったのだ。そして勝手に「私家は金持ち」だと決め付けて私にそう言わせては金品を奪ったり、お小遣いを持っていたりすればそれを見つけて「おごってもらおう」などということになり、最悪なことにお金を持っていない日には「じゃあ、親に持ってきてもらおう!今すぐ親呼び出せよ!」などとなったりもした。さすがにそれは断った。断ると「じゃあもう友達じゃないね!ばいばーい!」などとふざけた態度をとるのだ。

因果応報なのだろう、私をここでいじめていた則子をはじめマミ、朝子、幸子共に現在は傍から見て人もうらやむ人生を歩んでいるものは誰もいない。則子に関しては高校卒業後に行方不明、マミは市外にあるGランクの高校入学後すぐに学校を退学、歳をごまかしてスナックで働き17歳で妊娠が発覚して結婚。出産するもすぐに離婚。その後何度も出来ちゃった結婚と離婚を繰り返しており複数人の子供の母親に。ちなみに子供の父親は全て違う。朝子は堂々と名前を言うことも出来ないような低い偏差値の高校に入学、その後は就職できず、アルバイトのみで生計をたてていたがニートの男と出来ちゃった結婚。幸子は私と同じ高校に主席で入学するが、入学後に拒食症になりギャルへ変貌。高校卒業後すぐに出来ちゃった婚をして安い給料のパートをしながら実家近くのアパートで暮らしている。のちに地元のスーパーで彼女を見たが、汚い言葉遣いで子供を怒鳴りつけていた。見た目も田舎のヤンキー風になっていた。実は幸子も見た目は優等生であったが親が教育ママ、彼女は相当期待されていたが親の期待に添えなくなった途端にどんどんグレていったのだ。彼女には弟もいたが、中学入学とともにヤンキーと化してしまい、市内の低偏差値の学校に通うこととなった。

 

それ以外にもクラスメイトからいじめられることはしばしばだった。男子なんて本当にひどいもので、私をいつからかばい菌扱いするようになり、私に触るとカビが生えるだの腐るだの・・・そういう科学的根拠も無く、根も葉もないバカな理論で私を避けるようになった。それだけじゃなくいきなり罵倒したり、暴力をふるってケガを負わせても謝罪もしないなど。これには母も憤慨して学校に乗り込んだ。

担任の先生に事の顛末を話して、翌日先生から「こういう事はしてはいけない、そのようにクラスメイトを仲間はずれにしても後に自分たちが苦しむだけ」と言われて私をばい菌扱いした人たちが謝ってきたものの、結局それも一定期間だけ。その期間がすぎるとまた元の通りいじめ始めるのだ。そのたび母は学校に出向いて「いじめをなくして欲しい」と訴えたが効果はほとんど無く、それに業を煮やしたのか今度はいじめっこの家に電話をしていじめっ子本人に説教をし始めた。おかげで「言いつけただろう!」となって余計にいじめられることになってしまったのだ。

母のした行動は確かに分からなくもない、わが子を守れるのは親だけだというのも分かる。だが他に方法はなんぼでもあったのではないか?と私は思う。それ以前に母親が学校に乗り込むまではまだ理解できるが、相手の家に電話をして当事者や保護者に説教をするのはかえって逆効果な気もする。今それをやれば間違いなくモンスターペアレント認定だ。そしてモンスターペアレントの子供はいじめに遭う・・・そういう構図であろう。

いじめを無くす方法、それは今でも正直分からない。だが我が家は身内に警察官だっていたわけで、本当にどうしたらいいのか?となれば身内ではなくとも地域の警察に相談することだって可能だったはず。教育委員会に相談をして学校で今起きていることを明白にしてもらうことだって出来たはず。場合によっては親が当事者の家に怒鳴り込むようなことをしなくても解決できたかもしれない。私がどこか遠くの学校に転校することだって解決法だったのかもしれない。両親はやはり私を転校させたくなかったようだ。転校の手続きや新しい学校への転校準備や転校してからの送り迎えなど手間がかかるから。正直言うと母方の叔父の家から小学校、中学校、高校と通いたかったものだ。それか母方祖父の家から近い小学校に転校したかったぐらいだ。

母は言った。お前はバカだからどこに行ってもいじめられる!と。本当に原因が私にあるのなら児童相談所にでも行くだろう。賢い親ならそういう選択をするだろう。それすらしない親を私は哀れに思う。たとえ私に原因があるならそれぐらいのことをして欲しかった。そうもせずに被害者面ではそれでは家族全員嫌われる。

 

そのいじめは中学にあがってからも続いた。

男尊女卑

残念ながら我が両親、男尊女卑という考えがあった。

うちは長男、長女という2人兄妹である。それも例外なく親からは「兄は長男だから一番、私は女だから・・・」というような考えだった。兄にいたっては父の機嫌に振り回されたりもしたが、ほぼ自分の思い通りのことをさせてもらっていた。反対に私にいたっては、「そんなものは必要ない」などと私の要求など殆ど聞いてもらえない。明らかに兄妹間のえこひいきだった。

小さい頃から何かと兄には物を買い与える、それも新品のものばかり。たとえば学校の教材などもいつも新品。だけど私にはいつも兄のお古。そしてお古ばっかりで嫌と主張すると父も母も決まって「兄のパンツもお古ってわけじゃないんだからいいでしょ!」とお古万歳主義を貫いていた。

兄からのお古は本当にいろいろあった、学校の教材の大工道具、そろばん、裁縫セット、鍵盤ハーモニカなど。それから服も襟元の伸びたTシャツ、学校のジャージなど。百歩譲って学校のジャージはまだ許せるが、女子と男子では考えや動物的な心理も違うことを何も理解しないのか、兄に買い与えたものは全ていいものだからとでも思いたいのか、私には当たり前のように兄の使った中古品が「お古」として回ってくる。せめて性別が違うことだけでも理解して欲しかった。女子ならやはり女子らしく可愛いものを持ちたい、そう思うだろう。それなのにいつも母は「お兄ちゃんのがあるでしょ?だからこれでいいの!」と私が新しいものを持つことを許さなかった。

小学校4年生のある日、学校から授業で使うために必要な大工道具(かなづちとか折りたたみ式ののこぎりがひとつのバッグに入ったやつ)や裁縫セット(針と糸だけじゃなく鋏など家庭科の授業で必要なもの一式がセットになったやつ)の注文票をもらってきた。そこで大工道具も裁縫セットも新しいものが欲しいと両親にねだったのだ。しかし両親からの答えはノー。両親曰く

「少しだけしか使わないから。それに今それ買ったらお前は大工にでもなるのか?」

「新しくても古くてもどれも一緒なんだから気にしない気にしない!」

など親の目線でしか考えてくれない。それに裁縫セットもそうだが、裁縫箱も当時はすでに女子好みのデザインの物だったり男の子が持ってもおかしくないようなものが注文票には載っていた。そこで私が好きなキャラクターのものがあって両親に買って欲しいとねだるが、こちらも答えはノー。やはり大工道具と同じで兄のお下がりを使うようにと。兄の持っていたものは決して私好みのものではなかった。裁縫箱も小さくて蓋にひびが入っていたりとすごく貧相、色も私の好きな色でもデザインでもないし。道具も揃っていなくて、さすがに道具が不ぞろいなのはいけないと、それだけは母から何とか買ってもらえたが。だけど肝心な私の願いは何も聞いてくれない・・・そう思えてならなかったのだ。

そんな中いざ図工や家庭科の授業が始まり、他の友達は新しい道具を持っていた。中には私と同じように上の兄弟のお下がりという子もいたが、あくまでそれも同性のきょうだいの場合のみ。私と同じように上がお兄ちゃんで下(私の友達)が妹となれば、やはり新しく買い揃えてくれる家も少なくなかった。家庭科の時間にいたっては授業に出たくないほど嫌だった。貧相な道具を持って授業を受けるのが死ぬほど嫌だったから。だから家庭科の時間は保健室に仮病を使って篭っていたこともあった。あとは忘れたふりをして授業に出たり。周りはなんで自分好みのものを持って授業を受けられるのに、なんで私は?とその疑問が頭から抜けずにいた。図工の時間も憂鬱でならなかった。ここでも「貧乏」とからかわれる始末だった。

それから兄は親にレーシングカートを買ってもらったこともある。確か兄が小学校6年生か中学校1年生の頃。

最初はポケバイが欲しいと兄は両親にねだっていたが、ある日テレビで見たレーシングカートに一目ぼれしたらしく、兄のおねだりを受けて父はその次の週末にレーシングカートをポンとキャッシュで買っていたのだ。だが私は兄が実際にカートを運転する姿は見たこともなく、市内の山奥にあるレーシングカート用のサーキットにも兄は片手で数えるぐらいしか行っていない。そしてその肝心なカート本体も家には置けず、母方の祖父の家にある物置に保管することに。だが、そこからそのカートは日の目を見ることはなく、独活の大木ならぬただ場所をとる鉄の塊と化した。十数万円したものも、今現在どこにあるのかすら分からない。

兄はいつも欲しいものを普通に買ってもらえた、だけど私は何か理由をつけられては買ってもらえないことが多かった。

私は小学校4年の頃に一度管楽器が欲しいと言ったことがあった。この時は通販のカタログで憧れていた管楽器(フルート、サクソフォーン、トランペットなど)入門セットがあり、それを見て私も欲しいと両親にねだったのだ。だが母は

「アンタに吹けるはずがない。あんたが吹くのはホラだけでしょ?」

と。そして父にいたっては

「ファックスなら会社にあるからそれを持ってきてやる!」

などとつまらないギャグにもならないことを言い出す始末。無論買ってもらうことは無かった。

それ以外にも可愛い形をした収納ケース、自転車、流行の文具類なども・・・。結局買ってもらったのは自転車だけ。後に知ったことだが兄もちょうどその時期に自転車が欲しいと両親に言っていたらしく、それで兄がメインで私はついで・・・というような感じで何とか買ってもらうことが出来た。けれど実際に買ってもらったものを見ると兄の方が明らかに高価であり、私には選択の余地などなく、父が決めた格安のママチャリだった。父曰くちゃんとした家電メーカーのものだが、見た目も兄よりは劣るもので。

兄はとにかく何でも高価なものを希望どおり買ってもらっていた。高いブランドの服、ハイセンスなバッグ、有名ブランドのスキー板、スキーウェア、ナイキの靴、100万円もする学習教材、ゲームボーイなども。

ゲームボーイの時には兄にそれを買うために親が私をダシにしたのだ。当時発売されたばかりのゲームボーイを兄が欲しがっていた。同時期に空手の県大会もあった。そこで父は兄に「買ってあげるが、お前(兄)が県大会で優勝したら買う。だがそうじゃなかったら私に買う」と宣言したのだ。私はそれを特に欲しいとも思っていなかったが、なぜか親は私に買うと言い出した。まぁ買ってもらえるんだったら、と私はそれを了承した。

そして肝心な兄の空手の試合の結果は、1回戦敗退・・・。

父との約束どおりゲームボーイは私が買ってもらったのだ。しかし、買ってもらったその日、家に帰ってみると兄が母に見守られてそれを使って遊んでいる。そして私が「それは私が買ってもらったのに、何でお兄ちゃんが黙って使ってるの?」と言うと母が「お兄ちゃんだってやりたいって言うの、だから貸してあげて?」と目を潤ませて私に言うのだ。それを良いことに兄は私がやりたいと言っても無視、ずっとゲームで遊んでいてしばらく返してもらえなかった。

無論私は父にも不満を言った。父は「兄弟仲良く遊べば良い!」と言い出す始末。そういう問題ではなく、私はその時点で全くゲームボーイで遊べていなかったのだ。それにこれは私が買ってもらったはずなのに?と思い「それは私が買ってもらったもので、私のものじゃないの?」と言うと、「お兄ちゃんが最初に欲しいって言った!だからお兄ちゃんだってやる権利はある!だったらそれをお前がお兄ちゃんにあげればいい!」というわけの分からないことを言い出した。

 

そこで気づいた、私はダシにされたのだ、だまされたのだ、と。

ゲームボーイはそれから暫く兄の部屋に置かれた、というか兄が持ち出してそのままずっと持っていた。そして私が遊ぼうとしても兄が無理に強奪していき、私はそれに触ることも暫くできずにいた。試合に負けたくせに、優勝できなかったくせに優勝賞品を強奪して遊んでいる強欲な男にしか見えなかった。そして両親共に兄を絶対に咎めない・・・。欲しいものを全て手にして笑う兄を私はただ指を咥えて見ていることしか出来ないのだ。

 

兄は本当にわがままだ。そして自分勝手。それは小さい頃からよくあった。さすがに親も全部ではないが注意をすることがあっても、私のものを勝手に持ち出したなどということであればそこまで叱りつけることは無かった。

ただ、兄が嘘をついたり、暴言を吐いた場合などは父が兄を怒鳴りつけて殴るということはあった。それでも兄は私より甘やかされていた、特に母には。

母からは溺愛されていたと言った方がいいだろう。ゲームボーイ以外でも母は私の私物を兄にも譲って欲しいと懇願することが多かった。たとえば家庭科の授業でエプロンを作ることになって生地を選びに手芸店へ出向いてその生地を少しでも多めに買った(無論私の小遣いで)ものなら、母はすかさずその余った生地に目をつけて兄用の弁当入れなどを作り出すのだ。そしてそれを見つけた私が

「それは私の買った生地だから、私のものなの?」

と訊くが母は

「どうせ家庭科のエプロン作りの他に使わないでしょう?余った生地でしょう?だったらお兄ちゃんにも譲ってあげて・・・」

と兄に譲るように言い出すのだ。母が買ったものだったら私の許可は要らないだろう、だがこの生地は私の小遣いで買ったものである。だから当然それには納得がいくわけもない。母に強引に押し切られる形でいつも私は諦めるという構図が出来上がってしまっていた。

 

実は買ってもらうもらわないの話以外で今でも納得がいかないことがある。それは私が小学校4年の時、父の会社の取引先の招待旅行で兄をアメリカ旅行へ連れて行くと言われていた。反対に私は連れて行ってもらえなかった。勿論この結果に私は不満だった。そこで両親は私に「来年はオーストラリアに行くからそこには連れて行ってあげるから、お兄ちゃんに今回は譲ってあげて」と言ったのだ。

だがいざ翌年になっても肝心なオーストラリア行きの話すら出てこず、結局私はそのオーストラリア旅行にも連れて行ってもらえなかった、両親によるずるい後出しジャンケンだった。

いつまで経ってもそんなこと、到底納得がいかない。そこで私はどうしてそうなったのかを母に尋ねた。母は

「女の子は旅行中に生理になるから」

とか

「お父さんは飛行機が嫌いなの。だから連れていけない(父同伴の予定だった。ちなみに兄の時は父と一緒ではなく父の会社の社長だった父方の叔父と従兄弟も一緒に行った)」

などと両親自身のことしか考えない訳のわからないことを言いつづけていた。無論私は納得できるはずもなく、私の不満は募るばかりであったのでその不満を母にぶつけたら

「お父さんにぶっとばされなきゃ分からないの?」

と逆ギレする始末。それに「兄は招待された」などと意味不明なことを言い始めた。

私が思うにどちらか一方が旅行に招待となる場合は「断る」という選択肢もあったのではないか。それなのに結局は兄ひとりがいい思いをしたようになってしまったのだ。やはり両親にとって私は単なる将来の介護要員や未来のお手伝いさんでしかなかったのだろう。適当に育てられていたのだろう。将来婿を取らずに嫁に行くとしてもあんまりな結果だ。

そもそも父の飛行機嫌いは私たち子供には関係のないことであり、言うまでもなく父の都合である。それを黙って聞く母・・・。まさに『大人のわがままで子供が犠牲になる』・・・、小学校4年生にしてその言葉って本当にあるものだと実感した。

兄のアメリカ旅行前後は本当に両親は兄のことばかりを構うわけで、私には殆どノータッチで私は家にいても孤独だった。

たとえば家族でひとりだけとはいえ始めての海外旅行、だから準備するものもたくさんあったのか、日に日に兄のものが増えていく。兄も当然ながら家族でひとりだけアメリカに行けると決まって浮かれて私の前で威張り散らしていた。両親も兄のアメリカ旅行で気分がハイになっており、あれもこれも準備しなきゃ!と躍起になっていた。そして兄のパスポートを取りに行き、そこへ私も連れて行かれたが何もなくただむなしさだけが残った。

そして兄の帰国日は本当に最悪だった。学校から帰宅して家に入ろうとしても玄関には鍵をかけられており、鍵も預けられていなかったために、兄たちが帰ってくるまで私はずっと外で待っていた。兄たちが帰宅した時間も薄暗くなる時間だった。それまで私は外で一人で待ちぼうけ・・・、それを見た母は私に「ウチの鍵、渡すの忘れた」と言い放った。

兄はアメリカ旅行から帰っても暫くは私に威張り散らしていた。きっと兄の心の中では「俺はアメリカに行けた。けどお前はバカだから行けなかった!」というような思いがあったのだろう。私はその度に悔しい気持ちになっていった。兄は私に威張り散らすだけではなかった。兄は私にお土産だと言って買ってきてくれた10色のボールペンを突然返してほしいと言い出した。兄曰く「俺が欲しくなったから」。私は兄に

「一度人にあげたものを返すなんて出来ない」

と抵抗するが、乱暴に使ったのかもうすでに書けなくなっているボールペン(こちらもアメリカで買ったもの。兄曰く100年使えるというものだった)を私の元において私の手から10色ボールペンを奪って行ってしまったのだ。私もさすがに悔しくなり母にそのことを訴えた。母は兄を呼びつけて叱ってくれたが、ボールペンは暫く戻らなかった。数ヵ月後になってやっと私の手元にそれは戻った、多分飽きたからと私に戻してきたのだろう。しかも既に書けなくなっている色もあった・・・。

時同じくして私が小学校4年生の頃、今度は私が子供部屋を追い出された。父は兄が中学に進学することもあって子ども部屋(8畳一間)は兄の部屋にすると突然宣言。私のために祖父母が買ってくれた学習机も兄のものになり、私には兄の古い学習机が与えられ、部屋が無いという理由から茶の間脇の廊下(約2畳ほどの広さ)に兄の学習机と2段ベッドのひとつを置いただけの空間を部屋として与えられ、常に監視されて生活をしていた。当然のことながら本来はその場所は廊下であるためベッドの脇はガラス戸であり(一応金属製の雨戸は付いていたが、殆ど役割を果たしていない)冬はとても寒く、寒さで目覚めることもしばしば。これに対して

「お兄ちゃんばっかりどうして?私も部屋が欲しいのに、さすがにこれはおかしい」

と不満を両親にぶつけたが、

「だったらウチの車の中で寝るか?で、勉強する時だけ家に入ればいい」

と言ったと思えば

「庭の犬小屋で暮らせばいい、俺らが小さい頃は普通に犬小屋で寝ていた。飼い犬も一緒だから問題ないだろう?」

などと信じられない言葉を並べていた。母はその隣で私をバカにしてただ笑うだけ。このあたりから兄は「兄の部屋」に私を入れないようになった。兄もそれをいいことに日々私を

「部屋なし」

「廊下部屋」

と馬鹿にしていた。その頃の兄は学校でも実は嫌われていたようだ。通知表の連絡欄には担任の先生から

「女子から嫌われている」

「自分勝手である」

などと書かれていたのを見たことがあった。やはりこうして家で甘やかされていたせいもあってだろう。反対に私は

「情緒不安定気味」

「たまに落ち着きが無い」

などと書かれていた。

 

廊下に部屋が移ってからというもの、宿題をやる気も起きず、日々机に座ってぼーっと過ごすことが増えた。友達も家には呼びたくなかった、バカにされるから。小学校4年生にもなればどこの家も一人部屋もしくは子供部屋に自分がいるわけだから。それなのに私はひとりだけ家の隅っこの廊下。やはりクラスメイトからは廊下部屋を理由に

「貧乏」

「ボロ屋」

などと散々バカにされたのだ。両親にそれを言ってもうちには空き部屋がない、お前はバカだから常に俺ら(両親)が見ていないと宿題もやらないし、勉強だってしないから。お前みたいなバカにはこれがちょうどいい、俺らもお前のバカさに迷惑している!などと私に言い放ち、しまいには廊下でも部屋があるだけありがたいと思えと開き直る始末だった。これに加えて

「お前は女、お兄ちゃんは男。男の方が偉い!」

などと言い放った。おかげで兄は変に自信過剰で平気で暴言を吐いたり暴力を振るう心の弱い人間に育ってしまった。ついでにマザコン、わがまま、過干渉、自己中心主義という要らぬものまで付いてしまったのだ。過干渉なところは母親そっくりである。

廊下部屋は約2年ほど続いた。だがその間それは我が家の火種にもなっており、当時我が家にバイクの事故でケガをして療養に来ていた母方の祖父の一言もあり、小学校6年生頃に自宅北側の4畳半ほどの納屋を部屋として与えられたが、私の学習机も本来私のために祖父母に買って貰った家具も兄の物になってしまい手元に戻ることは無かった。この部屋も隙間風の入る寒い部屋であり、冬場は相変わらず寒い。

女というだけでここまで不遇な待遇をされるものなのだろうか。両親は兄には本当に甘かったとしか思えない。兄が欲しいといったものは何でも買い与える、兄が行きたいと言った場所には必ず連れて行く。私が行きたいと言っても適当な言い訳をつけて父は連れて行けないと言っていた。母は私に

「お父さんが行きたくないって言っているんだから、あきらめてほしい。あんたがあきらめれば丸く収まる」

と。私は別にすぐにアメリカに行きたいなどと無理を言っているわけではなかった。それなのに優先されるのは必ず兄。私は兄ばかりの要望を聞く父に一度ぐらい私の要望も聞いて欲しかったのだが、事もあろうかそれを却下して兄の要望を聞いていたことに私は腹を立てたのだ。そんな中、ある土曜日の夜に父は

「明日はお兄ちゃんを連れて某サーキットにレースを見に行く」

と言い出した。けど私も父に買い物に連れて行ってもらいたいという思いがあったので、そんな父に腹を立てて

「私がここに行きたいと言ってもお父さんはいつも連れて行ってくれないのに、何でいつもお兄ちゃんだけ?」

と聞いたところ、父は

「今回ばかりはお兄ちゃんもどうしてもサーキットに行きたいって言うし、明日行かないともうそのレースが観れなくなる。お前にはお小遣い5000円あげるからそれで我慢してくれ」

と。私はお金の問題じゃないと食いついたのだが、それでも父は兄の要望をかなえるべく必死だった。私はお金が欲しいわけじゃなく、両親に要望を受け入れてもらい楽しく過ごしたいだけなのに。某コマーシャルではないが、『お金で買えない思い出、プライスレス』のようなものが実は子供の心の中では重要である。それも分からないのか、この親は・・・そう悲しく思った。

私が親とどこかに行った思い出といえば、ほぼ全て親が決めた場所だけだった気がする。それも父の要望どおりで。私が全く興味の無い場所へただドライブに行くだけ、またまた私からすれば全く興味の無い田舎の観光地。遠くに旅行へ行くとなっても移動は車かフェリー。飛行機は父が嫌いという理由だけで飛行機を使う場所はいつも却下となる。そしてフェリーで移動となる場所は決まって北海道。母はそれを素直に受け入れていた。

母は父の後ろを歩くような女性だった。私たちが否定しても一言目は私たちを否定、二言目は「お父さんは、お父さんは」と続く。言い方を変えれば亭主関白家庭の妻。父の言うことがいちばんという考えであった。そして前記のとおり男尊女卑の考えだけに家の中での順番は決まって父が一番で兄が二番、そして母が三番でいつも私は最後。無論順番が最後であれば他の家族の言うことは絶対というような理不尽な構図になっていた。そして子供への接し方、常に兄には甘い。その結果兄は母そっくりな過干渉で短気な性格になっていった。中でもマザコン気質、正直言って気持ち悪いと思ったこともあった。たとえば母が私を悪く言うときには決まって一緒になって悪口を言う、否定するなど。まさに某アニメのジャイアンスネ夫のような関係だった。母がジャイアンであれば兄はスネ夫というように。一般論で女性が言われたら傷つくような発言も平気でしていたし、放っておいて欲しいと私が兄に主張しても強引に部屋に押し入って怒鳴りつける、そこで持論を展開して干渉してくるなど・・・殆ど母親をそのままコピーしたようなものである。

正直私は中学ぐらいから家にはいたくなかった。出来れば近い未来に家から出て行きたいとまで考えていたものだ。このような家庭環境が原因で小学校高学年で自殺を考えたこともあった。ただ、唯一救われたのは兄が進学した高校は自宅から車で2時間ほど離れた遠方の私立高校であり学校近くで下宿生活をしていたため、私が中学校2年生の時から普段家にいなかった。ただ、実家に戻ると過干渉が始まる。普段は両親からの過干渉、そして兄がいるときには兄からの過干渉で私はいつもストレスがたまった状態だった。まわりの家族もそれを知らないはずがないが、見て見ぬふり。無論母も父や兄は偉いと思っていたのか、兄からの過度な干渉を支持するぐらいだった。

 

父も今思うと「子供の前で本当に最低」だと思うような言動がたくさんあった。子供の心に深い傷が付くなんて考えなかったのだろうか。今でも忘れられない一言、我が家は決まって父が一番風呂に入る。私が小学校4年生のある日、私も一番風呂に入ってみたいという思いからその日は父より早く風呂場に到着、風呂に入ろうとしていたところ父が現れて

「俺は家の天皇陛下なんだからお前はどけ!」

と押しのけられてしまったのだ。うちには皇族なんていないはず。それなのに・・・、やはりどこかおかしな考えが我が家にはあったのだろう。今思う、独裁者と女帝が常に我が家には存在していた。そしてわがままな王子と灰被り姫・・・

 

その灰被り姫の私は、家にいてもただむなしい、寂しい、劣等感だけが心を支配するようになっていった。次第に悪いことをするようにもなっていった。近所に私より1歳上の女友達がいたのだが、その子とはよく一緒に遊んでいた。彼女も上に姉二人がいるのだが、我が家と同じく両親は上二人の姉ばかり可愛がるものだからその妹である友人はいつも蚊帳の外。小学校5年生にして悪いこと全てをしているのでは?というぐらいに酷かった。親の飲み残した酒を水のように飲んでいたり、友達に平気で嘘をつく。手癖が悪く友達の持ち物を平気で盗んだり店で万引きをしたり。そして休日にはなぜか学校のジャージを着ている。本人にそれを何故かと聞いたら「着る服が無い」と当たり前のように答えていた。

その友人も私の異常に気づいていたのか、よく家に呼んでくれたり一緒に遊んだりもしていた。そんなある日、その友人と近所の個人商店に買い物に出かけたのだが、事もあろうかその友人は手馴れた手つきで陳列棚にあった商品を次から次へとカバンに入れていった。そして何事もなかったかのように店を後にした。私はそれを見て驚き、その場を暫く動くことが出来なかった。彼女は万引きをしていたのだ。そして店を出た私、今あったことが本当に現実に起きているの?と思いながら彼女と歩く。そして店から離れたところで彼女は私に店から盗ったものを「これ、あげる」と私に差し出したのだ。私は喜ぶわけもなく、「あ、はぁ・・・」という感じでほぼ強引に渡されて受け取った。彼女は続けて万引きしたことについては「あ、これね。別に欲しいわけじゃないんだ。ただ盗ってるだけ」とも。

家に帰ってもしばらくその事が頭から離れなかった。「あの子が万引き・・・。万引きって泥棒じゃん!学校でもしちゃダメって言われているのに、どうして?」とずっとそんな事が頭の中をぐるぐるしていた。

そしてその数ヵ月後、私もその友人とともに万引きをするようになっていった。別に何かが欲しいわけでもない。万引きをすることが心の隙間を埋めてくれる、そんな気がしていたのだ。万引きをしたのもその物が欲しいわけでもなかった、だから盗ったものは気前よくいつも学校の友人にあげていた。無論盗んだことは伏せて。だが、それも長くは続かなかった。小学校5年生のある日、店員に万引きが見つかったのだ。結局店員さんに注意をされてその日は帰された。初犯ということもあり、店のご主人の一言で帰された。帰り道、そこで私は「私の万引きが親にバレたらこっちの言い分も聞かずにボコボコにして終わりだろう・・・。正直こんなことをしても嬉しくないのに。例えば私がこの先本当に万引きで捕まっても両親は私のことなんて微塵も考えないんだろうな。塀の向こうに入れられたとしてもきっと厄介払いが出来たぐらいにしか思わないんだろう」と思った。私は泥棒になってしまったのだ。だがこうして見つかるのも嫌、それに盗むのだって本当はしたくない、見つかってもボコボコにされるだけ、良いことなんてひとつも無い!もう二度とやるもんか!と心に誓い、それ以来盗みをすることは無くなった。

盗みをしなくなってからというもの、暫くは穏やかに過ごしていた。だが一人のクラスメイト(女児)に目をつけられてしまった。

着せ替え人形

「私は母にとって一体何だったのだろう・・・ただの着せ替え人形?」

 

母は私が物心付いたころには既に私の好みなどを無視して母好みの服を私に着せて喜んでいた。例えば一緒に服を買いに行っても母好みの服を選ばれて私が着たい服など着せてもらえないなど。幼少期なんて母の作った服しか着せてもらえなかったし。

そんなわけで小学生になった頃には完全に母の着せ替え人形と化していた。そんな中、私はやはり女子だけにスカートを履きたいと思っていた。だがある日母は出処が分からないお下がりのジャージの上下を持ってきて、私にそれを無理矢理着せたのだ。そしてそのジャージを無理矢理着せられた状態で私はそのまま母と兄と一緒に買い物に出かけ、出先で「そこのボク!」と見知らぬ男から男の子と間違えられたことにショックを受けた。それを見た母はひたすら爆笑するのみ。兄も笑う。

通学用の靴も兄とおそろいのかわいいとは言い難いものを勝手に買ってきて私に履かせたのだ。他の友達は赤やピンクのかわいいデザインのものを履いている、それなのに何でこんな男の子のようなデザインの・・・、履きたくない。そこで母に

「こんなの履きたくない!もっとかわいいのがいい!」

と訴えるも母は

「わがまま言うんじゃない!かっこいいんだから、これを履きなさい!」

と言うだけだった。それから兄のお下がりの服を着せるなど、私は到底世間一般の女の子が求めるものとはかけ離れた外見になっていった。スカートなんて履かせてくれない、いつも半ズボン止まり。そして学校へ行けば女子の友達に

「何ではる香ちゃんはそんな男っぽいものを着てるの?靴だって男の子のじゃない。可愛くないし」

と言われる始末。その都度泣きたくなるほど悲しくなったのは忘れない。無論その都度母に私は抗議する。だが聞いてくれない。いつも

「だってかっこいいじゃない?」

と言われるだけ。兄には好みの服を買い与えているのにどうして・・・?と子供心ながらにいつも考えていた。

 

母は私が小学校に入ってからは、幼稚園の頃のようなかわいい服を作ることもなくなった。幼稚園の頃にはしょっちゅうお姫様のようなフリフリしたかわいい服をよく作っては着せてくれた。それなのに今は私に服も作らなければ男の子のような格好をさせられて・・・。それだけじゃなく女の子のような格好をしたいならと、母は自身が若い頃に着ていた服を持ち出して私に着せ始めた。もちろんその服は時代遅れでださいデザインのものばかりで、とてもじゃないがこれもかわいいとは言い難いものだった。けれどここでも「嫌」といえば母が機嫌を損ねることは知っていたので、私は耐えることしか出来なかった。

 

ただ、全てが母や兄のお下がりばかりだったわけではない。たまに母方の親戚のお姉ちゃんからのお下がりで服を大量に貰うことがあった。だが殆どがサイズが合わない、私には大きすぎたのだった。それでも母は無理矢理私に着せようとしていた。私なりにも兄のお下がりを着るよりはまだいいと、大きいサイズのものでも無理に着ることも増えていた。正直、その親戚のお下がりですら私は嬉しかったわけではなかった。あくまでも「まだマシ」の分類だった。

私は私好みの服を着たい、ただそれだけだった。

それが毎度毎度兄や母のお下がりばかり、更には親戚のお下がりという・・・全てお下がりだけで間に合わせようとする母の心境を理解できずにいた。前記のとおり兄には兄好みのものや性別にあったものをちゃんと着せているのに、なぜ私だけ女なのに男の服を着せられて、更には母の時代遅れのお下がりばかり?本当に悲しくて仕方がなかった。買い物へ行ったときに同級生に会うのが嫌だった。それは「自分が好きな服を着られない」から。嫌々着ている服装で友達になんて会いたくない、こんな格好見られたくない、恥ずかしいとずっと思っていた。

だが母はお下がりを着る私を見ていつも「似合っている」と絶賛した。どれだけ母が絶賛しても私は嬉しくなかった。

 

そんなある日のこと。母と服を買いに行ったときに私はあるワンピースを見つけてそれを母におねだりした。白い柔らかい生地で出来たレースやリボンのついた女の子らしいかわいいワンピースだった。どうしてもそれが欲しかった・・・。

だが母は

「あんたになんて似合わない、こんなバカみたいなもの!試着してみなさいよ、どれだけおかしいか自分でも分かるはずだ」

と無理矢理試着をさせられた。私は無理矢理ではあったものの、実際に試着をしたそのワンピースを気に入ったのだ。だが、試着した姿を見た母はここでも

「ほら、似合わない!何だか服に着られちゃってる感じがするねぇ。それにこんなデブデブしたあんたがこんなもの着て歩いたら笑われるでしょ?豚がフリフリの服を無理矢理着たみたい、おかしいわ!それともチンドン屋?アハハ!」

と小ばかにしたように私に言い放った。それだけじゃなく、近くにいた私たちとは全くの無関係の買い物客や店員にも「ねー、コレ似合わないでしょう?」と同意を求めていたのだ。この日はショックで眠れなかったことを今でも覚えている。

これ以外にも学芸会などで女の子っぽい格好をしても「太ってきたからおかしい」や「ドレスを着たミニラみたいだ」などと散々バカにされ笑われた。

 

小学校の修学旅行やその他私服で行く学校の行事で着る服も母が勝手に選んで私に着せて行かされた。もちろんそんなもの嬉しくもない、他の友達はみんな自分で選んだものを着ているのに。そう思って服を買いに行く時にいつも「私が選ぶ!」と言っても母は聞く耳を持たず。勝手に陳列棚から母の好みの服を持ってきて買うというもの。それに納得できず抗議をしたこともあったが、私は母からいつも

「誰がお金を出していると思う?買ってもらってるくせに生意気!」

などと罵倒された。

 

そんな中、小学校6年生の頃の学習発表会にて私服を着る機会が出てきた。そこで自宅近くのスーパーへ行き、子供服売り場で服を探していた。だが、そこで買ってもらえたのはセール品。緑色の上下の服だったが、明らかに私が着たかったものとは全然違うものだった。そしてその緑色の服を着て翌日学校へ行ったら同じクラスの女児数名から

「あ、これ○○のスーパーで安売りされていたやつでしょ?」

「はる香ちゃんちは貧乏だから仕方ないか~」

などとバカにされた。

それだけではなく貧乏という単語が出てきた途端、今度は「家が小さいから貧乏」というところに結びついてしまい、貧乏一家とまで言われてしまう有様だった。周りの子たちは自分で選んだであろうかわいい服を着ていた。その中で私はセール品・・・、格好悪い。もう学校に行きたくない、バカにされるから。

それから母が好きな色は黄色。そこで私は黄色のものをよく身につけさせられていた。

「お母さん黄色って好きなの!」

としきりに話しながら・・・。その反動からか、今は黄色の服や小物は基本的に嫌いであり、あまり持ちたくないと思っている。無論身につけるのも嫌だ。

 

母がこだわっていたのは服装だけではない。実は私の髪型もいつもショートカットにさせられていた。実際に髪を伸ばすことを認められたのは高校入学後。それまでは無理にでもショート(刈り上げた髪型や虎刈り)にさせられた。

おかげで幼少期におしゃれな髪飾りをつけられなかった。ついでに前記の通り男子に間違えられて嫌な思いをするのだ。七五三が終わってからも私の意見など聞かずにすぐに髪はバッサリと切り落とされた。そして母のお気に入りのショートヘアにさせられた。周りの子たちは髪にリボンを着けていたりもしたが、私はそれも許されなかった。

少しでも伸びると「こっちに来なさい!」と無理矢理玄関に連れて行かれ、散髪用ケープをかけられて母が嬉しそうに髪を切るのだ。そして仕上がった髪型、ショートヘア。無論私は切って欲しくないと言ったのだが、母は

「あんたは髪の毛短いほうが似合うんだよね!髪が長い子を見てご覧よ、だらしないでしょ?ボサボサでお化けみたいで」

などと持論を私に聞かせて私を洗脳しようと必死になる。

 

「・・・私だって女の子だもん、お下げ頭だってしてみたいし、ひとつに結わえてポニーテールにだってしたい。それに可愛い髪飾りも・・・」

 

私は母に髪を切られるたびに泣いていた。ちなみに母はいつも坊主に近いショートヘアだった。母の髪の長さは長い時でも国会議員蓮舫ぐらいの長さだった。そして小学生の私の前でテレビを見ている母、いつも褒め称えるのは髪の短いタレントさんや女優さん。時には私を無理矢理美容院に連れて行って「荻野目洋子みたいにしてください!」と母が勝手に注文をつけて短くされたこともあった。だけど私は母とは反対に髪の長い女優さんやタレントさんが好きだった、中山美穂浅香唯、そして同年代の子役だったら間下このみちゃんやテンテンちゃん(80年代後半のキョンシー映画に出ていた台湾の子役)など。彼女たちみたいに長くきれいな髪になりたいとずっと願っていたのだ。それを両親に話したところ

「美人はみんな髪が短い。ブスだからみんな髪を伸ばすものだ」

などと訳の分からない持論を延々と私に話し続けるのであった。そんなある日、学校で髪を伸ばすことが流行り始めたのだ。クラスの女子はみんな可愛いヘアピンなどの髪飾りをしているが、私の髪にはそれは無かった。そう、髪が短かったから。周りからは「男女(おとこおんな)」などとからかわれることもしばしば。それだけじゃなく、和田アキ子だの東海林のり子(私は丸顔だったため)だのとまで言われる始末。少なくとも小学生女児からすればもっと若い人に例えられたいのだが。

それ以前に私はヘアアクセサリーというものには本当に強い憧れがあった。けれど髪が短く付けられないが、可愛いものが欲しいと思って安く売っているヘアアクセサリー類は少ないお小遣いで買っていた。だけど髪を伸ばすことも許されていなかったために着ける機会なんてそうあるわけもなく、結局は友人や従姉妹にあげてしまう。

そして従姉妹もいつも可愛いヘアアクセサリーを当たり前のように着けている。私はそれを見ていつも羨むばかりであった。何度も母に髪を切らないでほしい!と懇願したが母は私が髪を伸ばすことを許してくれることは無かった。

余談だが母は私が中学校2年の終わりから3年の前半頃に一度だけおかっぱ程度の長さに髪を伸ばした。だが正直言って似合わない・・・。本人は好きでそのヘアスタイルにしているのだろうが、どう見ても似合わないのだ。そこで私は今までの恨みもあって敢えて

「似合わない!」

「それってカツラ?」

「頼むからこの髪型で参観日に来ないで」と言ってやった。

ついでに母親に「沙悟八戒(髪型がおかっぱ、体型がブタということで孫悟空沙悟浄猪八戒を足した)」とあだ名まで付けた。実際に私は母に

「似合わないしどう見ても沙悟八戒だろ!」

と笑い飛ばしたら、母は真面目にキレ始めたのだ。

母が今まで私にしてきたことを考えればその「沙悟八戒」なんていうあだ名なんて数万分の一にしかならないだろう!それが当時の私の精一杯の仕返しだった。

「沙悟八戒」が功を奏したのか、母はその後間もなくして髪形を元の短い髪型に戻した。ついでにおかっぱだった母の髪が薄かったら恐らくその時付いたあだ名は「アルシンド」か「落ち武者」だっただろう。

 

靴も可愛い靴を相変わらず買ってもらうことは無かった。ボロボロになるまで履いて・・・しまいには兄のお下がりということも珍しく無かった。やはり周りを見ても女子らしい可愛いデザインのものばかり。私がここで買ってもらえた靴は、安売りになっていた緑色の女の子向けの靴。それと白い靴1足ずつ。

それでも嬉しかったが、私は本当はその時、あるメーカーの赤い運動靴がどうしても欲しかったのだ。だが母も私たちと一緒に靴を買いに行った兄も

「これはお前に似合わない」

などと言い始めて結局買ってもらえなかった。だが兄にはそれと同じメーカーの黒い靴を買ってあげていた。心の中では

「別に私はそれじゃなくても、自分で選ばせてくれてそれを買ってくれればいいのに。またお兄ちゃんだけ・・・」

と悲しくなった。

服も相変わらず母好みの服を買い与えられた。色も黄色とかそういうもので。その中で唯一私が選べたワンピースがあったのだ。私は気に入って着ていたのだが、母も兄も「安っぽい」「妊婦みたい」などとバカにするばかり。私は一体何なのだろう・・・。そういう気持ちになりながらファッション雑誌をみていた。そこで可愛い服が取り上げられていて母におねだりしても

「アンタには似合わない!こんな安っぽくて田舎くさい服。お母さんだったらもっと可愛いのを選んであげるのに」

と。そして母が選んだ服は到底可愛いと思えない時代遅れのものばかり。

 

ある小学校5年生の終わりに母方の親戚から大量のお下がり服を貰った。母は助かる!と大喜び。私にとっては好みのものも無い、母が喜ぶからとりあえず着るか・・・というような気持ちであった。

デザインも全て時代遅れで生地も古い。何度も洗濯をしているせいか色あせもありで。無論それらはブランド服でもない。小学校高学年にもなれば服や身につけるものは自分の好みがはっきりしてくるので自分で選ぶものだろう、それなのにそういう機会があっても母は決して私に服を選ばせる機会などくれなかった。

6年生になれば卒業アルバムの写真撮影もあるわけで、皆おしゃれをしてくる。中にはハイセンスなファッションセンスの姉がいる家の子だとそのハイセンスなお下がりを着ていたり、そうでなくてもアルバム撮影のために新しく服を買ってもらった子もいた。更にはヘアアクセサリーを仲良しの友達とおそろいにする子もいた。反対に私が着ていた服、それは親戚からのお下がりの時代遅れな服。ヨレヨレで色あせも普通にあり見るからに普通にお下がりだと分かる服をこういう大事な日に着せられてしまったのだ。無論教室に入って他の友達の服を見てすごく悲しい気持ちになった。

髪もカリメロみたいな変な髪形でヘアアクセサリーも付けられず・・・。私も可愛いヘアスタイルにしたかった。

 

この他にも母によって叔母が編み物の練習に編んだベスト(お世辞にも上手とはいえないシロモノ)や母の知り合いから貰ったセンスの悪いお下がり(小学校低学年の子が着るようなキャラクター物もあった)を何度も着せられた。その度にクラスメイトたちからはお下がりだとすぐにバレて

「貧乏」

こじき

などと呼ばれた。それだけじゃなく

「どこのゴミ捨て場から拾ってきたの?」

というような心無い言葉までかけられた。お下がりは中学校1年生ぐらいまで続くこととなった。中には生理用の下着まであったぐらい。しかもそれには油性ペンで元の持ち主の名前がデカデカと書いてあるというお粗末なもの・・・。人が見える場所に身につけるものではなくとも正直恥ずかしくて結局それは一度も身につけることなくこっそり廃棄処分となった。だいたい名前の書いてある下着などをお下がりとして誰かにあげようとする人の気持ちは今でも理解しがたい。

 

はぁ、もう完全に私は母の「着せ替え人形」・・・。小学生で既にこの気持ちは芽生えていた。

 

そんな小学生時代を過ごしていた私、さすがに少しは改善されるだろうと思っていたが、中学にあがっても高校に進学しても改善される見込みなどなかった。

兄にはナイキとかコスビーとかのブランド服をねだられた通りに買い与えるが、私には相変わらずワゴンセール品やバーゲン品。当時中高生の私にはその待遇だった。それについて母は

「お兄ちゃんは独り暮しをしているんだし、それだけにみすぼらしく見られては困るでしょ?」

と。それをいいことに兄は高価なものをおねだりするようになり、兄の周りはブランド物の小物や服、ナイキなどの高価なハイブランドの靴、それも履ききれない量の靴で当時兄の住んでいた下宿の部屋の入口の靴箱があふれかえっていた。一方私はブランド服が買えるほどの小遣いももらえず(月2~3000円ほど)。バイトをすることも許されなかった。

中高生ぐらいになればちょっとしたブランド物に憧れるでしょう、それなのに母はいつも私にはワゴンセール品やバーゲンで売られている安い服。私もブランド服への憧れもあってか仲の良い友人から安くブランドの古着を売ってもらうなどもした。

その友人も我が家の環境については理解していたのだ。そのせいか、度々

「ねーはる香、○○のカーディガンあるんだけど、買わない?」

などとよく持ちかけてきては安値で売ってくれた。その度にその友人には感謝していた。

 

ハイブランドの靴を履く兄とは反対に私の靴は穴が開くまで履いていたこともあった。そして買ってもらえたとしてもこちらも安売りされているものや、数年前のデザインであり今履くには既にダサいデザインに成り下がったものばかり。

バイトが出来るようになってから、やっと自分で学校のある地区の少しオシャレなお店で服や靴を買うようになったが、それも母に見つかると

「あんたにそんなもの似合うわけない!レシートある?お母さんそれ返品してくるから!」

と息巻いていたものだ。それだけではなく母からは私が選ぶもの買うものは全て「無駄遣い」認定されてしまい、バイトで稼いだお金も取り上げられそうにもなった。

 

社会人になってからも暫くは私が服を買うときに母は無理矢理付いてきては私が着たくない服を無理に選んで私に買わせていた。例えば少し高いブランドのスーツや紺地のブレザーにチェックの膝下スカートなど。靴もローヒールだったりローファーだったり。どう見ても「良家のお嬢様」にしか見えないようなもの。

母は「私は娘のスタイリスト」だと勘違いしていた。出かける際の服装や出勤時の服装をいちいちチェック。気に入らなければ「着替えてこい、これはダサい」などと出勤前でも無理やり着替えさせられることもしばしば。

いちばん困ったのはある出張の日の朝。スーツを着て出かけようとしていたところ、「このカバンはダサいし安っぽい。ブランド物に変えろ!髪形も田舎くさいから今すぐ結わえるか何とかしろ(当時ショートだったので、どう変えれば?となった。例えるなら韓国ドラマ「冬のソナタ」の成人したユジンぐらいの長さだった)!」と急いでいるのに無理やり呼び止めた。無論母は私がカバンや髪型を変えるまで玄関のドアの前から動かない。カバンも無理に小さい肩掛けのもの(母曰く「高級ブランドだから小さくても抵抗はない」)に変えさせられてA4の会議の資料が入らず困った。これについては会社に着いてから先輩に事情を説明してブリーフケースを借りることが出来て事なきを得た。そもそも母は出張の時の服装などについてはどう考えていたのだろう、仕事という以前にビジネスパートナーの会社に出向くわけでファッションショーに出るわけでもなければ雑誌の読者モデルになって撮影に出かけるわけでもない。当然遊びに行くわけでもないのでそれなりの服装は心がけていたつもりだったが、母からすれば出張も実はおしゃれして出かけるものだという認識だったのだろう。この時点で何か勘違いをしていたとしか思えない。

 

この反動なのか、私は社会人になってから一時期自分が稼いだお金は全てブランド服や靴や小物に費やすようになった。服を買うのはいつも決まってブランドのブティックやデパートのブランドのショップなど。18歳でシャネルのスーツを買って着ていた時もあった。高い買い物をしても私はそれを決して無駄遣いとも思わず、ただ母の言うとおりにしたくない一心で。

ただ、今となってはブランド服はあまり着ずファストファッションセレクトショップで服を買うようになった。ファッション雑誌も青文字系のものを好んでいる。そして着こなしやアレンジなど、自分で手を加えることも増え、周りからもおしゃれだと褒められることが多い。中にはどこで買ったのかを聞いてくる人も現れたぐらいである。

実はそのつもりは全く無かったが、夫にも服のコーディネートを任されるぐらいである。嬉しいことに夫は私が贈ったネクタイ、それから譲ったネクタイを出張のたびにずっと着けていてくれている。実はこれは私が自分で使うために買った某パンク系ブランドのメンズ物の紺色のネクタイと、同じブランドのゴールド系のネクタイだ。ある出張の前にネクタイの事で困っていた夫に「あまり使わなくなったから、もしよかったらこれを使う?」と譲ったものと父の日に贈ったものである。

 

さすがにもう私は誰の着せ替え人形でもない。息子を自身の着せ替え人形にするつもりも無い。息子が着るものはいつも息子に選ばせている。無論指図はしない。

彼はいつも私がよく行くファストファッションのお店やスーパーの衣料品売り場にあるような安くて良品なものだったりキャラクター物の服を選び、さらに少し可愛いデザインのものを選ぶが、それについても私は基本的に口出しをすることはしない。サイズさえ合っていれば良いと思っているから。靴にしても普段使いのものだってそう。幼稚園で使う小物類も本人に選ばせている。ネットで買う場合にも息子本人にちゃんとどういうものかを見せて、確認してから買うようにしている。

当然息子にも選択をする自由があり、息子にも好みがあるのだからそれを尊重していきたい。それは私と夫の希望でもある。

幼少期の体のトラブル、食生活

前章で書いたとおり、習い事地獄だった幼い頃・・・

そんな小学校1年生のある日に突然耳が痛くなり熱も出した。その日は風邪をこじらせた中でスイミングへ行き、それが原因と思われる中耳炎を起こしたのだ。

翌日に地域の総合病院の耳鼻科にかかり、即患部の切開をすることとなった。鼓膜を切開して中にたまった膿を出すこともあり、それはものすごい痛みで大泣きする私。そんな私を見て母は

「他のお友達だってみんなやってるんだから、我慢しなさい」

の一言のみであった。痛い処置を終えても痛さと恐怖から泣いている私を見て母からは

「痛いのによく頑張ったね」

の一言なんて無い。あったのは

「帰るわよ」

の一言だった。

その後も中耳炎などの耳のトラブルは続き、医師の助言もあってスイミングは小学校3年生に上がる前に一旦中止、そして小学校3年生の夏から再開することに。中耳炎は小学校1年生の頃に1回と、2年生の頃に1回、その間にも耳のトラブルは多々起こってしまい一時は難聴にもなった。

難聴になった時には常に学校のチャイムの音が半音上がった音で聞こえるなど、明らかに可笑しいことばかりが1ヶ月ほど続いていた。時には校内放送がほとんど聞こえないこともあった。度重なる耳のトラブルで学校は休みがちになった時期もあり、担任の先生も心配するほどだった。難聴は今でも度々起こる。やはり聞き取りづらい、音が半音上がった状態で聞こえるなど。

 

それだけじゃなく実は小学校1年生の頃に一度円形脱毛症にもなっている。

それは小学校1年生も終わりに近づいてきた頃、私がある日家でテレビを見ながら髪をいじっていたところ、突然髪が束になって抜けたのだ。母もそれを見て驚き、髪が抜けた箇所を見るときれいにそこだけが禿げていたのだ。母はあわてて私をかかりつけの病院へ連れて行き、円形脱毛症であることが発覚したのだ。残念ながら原因は未だに分かっていない。ただ周りからは『ストレスじゃないのか?』という声もあったそうだ。円形脱毛症、一度かかるとその後何かの拍子で再発することが多い、というわけで成人した現在まで数回再発している。

この時の脱毛症はかかりつけ医では原因が分からないということで、ここでも総合病院のお世話になることに。こちらは皮膚科にかかったのだが、ライトを頭に当てられたり、医者が私の頭をルーペで見たりと、正直奇妙な気持ちだった。それだけじゃなく、家に帰れば兄や父からは「ハゲ」と言われ笑われ、それを見ていた母から更に笑われる。さすがに学校へ行く時には髪を上に結び禿げている部分を隠していた。突然髪を結わえて登校したことから友達からはどうして?と理由を聞かれたが、からかわれるのがいやだったので円形脱毛症になったとは言わず「何だか、こうしてみたかったんだ」などとひたすら笑ってごまかした。

ただ、母から担任の先生へは円形脱毛症になったことは伝えられ、学年末の保護者面談のさいに先生に患部を見せたことは覚えている。先生も

「学校以外に忙しくて疲れているのでは?教室でも実は落ち着きが無いことがある。それとちょっとしたことで泣くことが多いのでずっと気になっていた」

と母に伝えたが、母にはちゃんと伝わっていなかったのだろう。私も正直習い事三昧な日々に嫌気がさしていた。もっと友達と遊びたい、自分がやりたいと言ったことだけをやりたい、好きなものでも母が付き添っての練習なんて嫌・・・。

 

体のトラブルは円形脱毛症や中耳炎だけでは済まなかった。アレルギー体質だけに鼻炎や気管支喘息にも幼少の頃から苦しめられていた。アレルギー性鼻炎になればいつも耳鼻科に連れて行かれ、喘息になれば病院行きは免れず幼稚園も学校も休みになってしまう。小学生になってからも喘息は出続けていた。

その中でいちばん酷かったのが小学校3年生の頃。気管支喘息の発作が酷くなり夜中に救急病院へ担ぎ込まれた。いろいろと医者に検査をされるが、それが幼い私にとって苦痛でしかなかった。その際私には何の説明も無くいきなり母と看護師がベッドに私の体を押さえつけて別の看護師が右手の甲に注射を打った。手の甲に注射を打つ、大人でも腕に刺される以上に痛い、それが子供となれば・・・、言うまでもないだろう。その注射の痛さにわんわん泣く私に対して母は「これやらないと治らないの!尿検査でプラスになってるんだから(何が?)」とただヒステリックに私に言うだけであった。

その後間もなくまた体を押さえつけられて今度は腕から血液を採ることに。だが血管が見つからないのか上手く注射針が刺さらず何度も刺されては痛さと恐怖でわんわん泣く私。母はまた「あんたが暴れてるから血を採れないの!痛いのなんて我慢しなさい!すぐ終わるはずなんだから!」とヒステリックに怒鳴りつけるだけ。とりあえず何とか採血は出来たものの、腕には痛々しい痣が残る。服にも血が付いていたのを覚えている。

この一件以来、大人になった今でも「注射」というものが嫌いであり、血も見ることが出来ない。血を見ると卒倒する事態である。息子の予防接種でも注射針が息子の腕に刺さっている間は息子の腕も注射針も見ることができないのだ。自身の血液検査の際も注射器や針、血を見ないように寝た状態で採ってもらうようにしている。予防接種のような上腕部に注射をするものですら恐怖でしかない。病院で看護助手のアルバイトをしていた時も検体の血液や注射針を見て卒倒した。

 

同時に私は小学校2年生の頃まで、給食を食べない子供だった。みんながどんなに美味しそうに食べていても、私は何だか食べたくない。たとえ大好物が給食で出たとしても、家では普通に食べるものが給食に出てもそれを何故か食べたくなかったのだ。

その時の私は「食事は楽しいもの」だと思っていなかった。食事は説教されて食べるものだと思っていた。というのも我が家の食事の環境にはいろいろと問題があったからだ。好き嫌いも多かったうえに、アレルギー体質でもあった。父も母も好き嫌いが多いというのは良くないと思っていただろう。だけど無理矢理食べさせればいつかは食べるようになるという考えだったのだ。それから特に母が私の体型を気にしていた。

小学校に入学してから母は私が少しでも太ると「また太ったね~。痩せないといけないね」と言い、食事も好きなものを食べさせてくれず、野菜サラダばかり食べさせられたこともあった。おやつも食べさせてもらえなかったこともある。酷いときには友達が遊びに来ている時に、その友達にはおやつをあげて私にはおやつをくれなかった。

そんな中で母はアレルギー体質の私に対して「1日に300グラムの生野菜を毎日食べればアレルギーは治る」というどこから聞いたのか分からない信憑性すら疑う話を信じて大量の生野菜を私に毎日食べさせていた。当然そんなものばかりでは飽きてしまう、そして私が食べなくなると

「アレルギーが治らないでしょ!こっちはねぇ、忙しいのにお金かけてやってやってるの!そんなのも分からないの?」

とヒステリーを起こしては無理矢理私に大量の野菜を食べさせようと必死になっていた。

 

父は父で私の好き嫌いの多さに悩んでいた。親であれば子供の好き嫌いを心配するという気持ちも理解できるが、「好き嫌いを直す!」と異常なまでに息巻く父に私は理解できずにいた。

父はよく私に

「好き嫌いばかりしているからバカになる」

など心無い言葉を浴びせたのだ。そして「好き嫌いをなくす」と言って嫌いなものを無理矢理食べさせる。それを食べないと好きなものを食べさせてくれない。たとえ嫌いなものを吐いてしまったとしても、それを食べろと強要。その繰り返しだった。

こんな事をされても私の好き嫌いは治るわけもなく、もっと嫌いになり、最終的には食事が楽しいと思わなくなるのが普通だろうと思うが。

それから父も母も兄も私の好き嫌いの多さに嫌気が差したのか、ある日食事の時間に私に「全員で体を押さえつけて嫌いなものを食べさせてやる!」と私に言い放った。この時点で既に家族との食事は大嫌いだった。もう家族団らんなんて言葉、「そんなものありません」と思っていた。

それから小学校3年生頃のある日、母が用意した食事が足りないという理由から私は食事なしという日があった。けれど母は兄には普通に食べさせていた。それに対して私がそのことを不満だと両親に言うと「気に入らないなら出て行け」と家の外に追い出されて1時間ほど寒空の下で過ごした。家族との食事の時間ほど嫌なものはなかった。

後に私は魚介類アレルギーであることが発覚。幼い頃から嫌いと思われていた生魚も実は幼少期に既にアレルギー反応が出ていた。それにも関わらず好き嫌いとだけ判断され、本当に苦しめられた。あの時もし私に強いアナフィラキシーが出て命に関わるようなことがあったなら、両親はどう思ったのだろう?今でも疑問である。事実蕁麻疹が出たこともあったが、母からは「虫にでも刺されたんでしょ?」と軽く対応されたものだ。

アレルギーばかりではなかった。小学校5年生の頃に初めてインフルエンザに罹患した時も理解に苦しむことばかりだった。その日は学校からの呼び出しで母が迎えに来てくれて病院へ行った。余談だが最初に母に連れて行かれた病院にて、病院の入り口に救急車が止まっていた。私も母も「救急車、誰か重篤な患者さんでもいるのかな?それかインフルエンザが流行っているから・・・きっとそうだよ」くらいにしか考えていなかった。

病院の建物に入って受付を済まそうと母が受付にいる女性に声をかけたところ、受付の女性が

「あ、あの・・・。先生、今・・・」

と何かを言おうとしていた。そこで母が

「どうしましたか?」

と言ったところ、その女性は

「先生、救急車で。先生、血圧で倒れて救急車でこれから大きな病院に搬送されますので・・・」

と。これでは診てもらうことが出来ないと、近くの別の病院へ行くことに。

別の病院に着いて診察をしてもらう。ここでは風邪との診断。吐き気もあったのでそこで吐き気止めを処方されたのだが、大人の分量で処方されていたのか指示通りに服用後、私は幻覚症状を起こした。その幻覚症状というのは頭を誰かにすごい力で掴まれて無理矢理首を回されるような感覚だった。それと同時に頬を片方向に引っ張られるような感覚も同時に襲ってきた。本当にそうされているかのような感覚で正直「私はもう死ぬのか・・・」とも思ったぐらい。幻覚で苦しむ私を見て父は兄と共に笑って見ていた。その後両親はさすがにただ事ではないと気づいて救急病院に連れて行ってくれたが、未だに事あるごとに「あの時のお前、とうとう頭がおかしくなったんじゃないかって本気で思ったけど、笑えたなぁ。『くぅ~びぃ~が~、まわる~』なんてねぇ!」と兄と共に笑いながら面白おかしく話すのだ。兄にいたってはそのときの私のモノマネを大げさにして笑いを取ろうとする始末。今考えても兄と父のその態度は許しがたい。人の苦しむ姿を見て笑うなんて真人間のすることじゃない!とその当時の私は早くもそう思った。

その後私は救急病院にて血液検査をしてもらい、インフルエンザにかかっていることが発覚した。この日は朝方まで点滴をしてもらっていた。おかげで幻覚も治まり、熱も下がっていった。

 

私は翌年もインフルエンザに罹患するも、ここでも母は初期症状を見落としたおかげで今度は悪化してしまったのだ。幻覚に初期症状見落とし・・・本当に運がないとしかいい様がない。

母は私の体にインフルエンザの初期症状の関節の痛みがあったのにもかかわらず、

「あーこれねぇ。大丈夫、成長痛だから!ほら、お兄ちゃんだって成長痛はよくあったからね!これから身長が伸びる証拠だから」

などと言っていたところ、今度は40度近い高熱と脱水症状が出て母はやっと事の重大さに気づく始末だった。この時は予想以上に症状が悪化してしまったため、かかった小児科の先生からは「どうしてこんなになるまで放っておいたのか?」と怒られ、点滴をして何とか事なきを得た。人生初の点滴だった。友人からの噂で聞いていたが、本当におとなしくしていればいいだけで初めての点滴注射は大して痛くなかったというのを覚えている。

引越し後の生活、そして習い事地獄

私が4歳になったばかりの頃に現在の実家のある場所に引っ越した。

後に父に聞いた話だが、私たちが暮らした長屋の部屋に兄の学習机が入らないことが分かり、急遽引越しが決まったのだ。1週間2週間ほどで父は長屋よりも広い4人家族が住むのに良さそうな条件の物件を探して、そこへ引っ越すことになった。これに伴い私は入園するはずの幼稚園も辞退し、新しい住所から近い公立の幼稚園に入園することにもなった。新しい場所で正直初めてのことばかりで今まで仲良しだった裏の家の兄妹や近所の友達はそこに居ない、幼稚園の入園式の時なんて本当に不安で落ち着きが無かった。入園式の時に撮った集合写真はなぜか私は上を向いて写っていたのだ。どこを向いても知っている友達なんていない、覚えているのは入園式でクラスメイトになったある男の子からいきなり髪を引っ張られたこと。ものすごく痛くて泣いていた。その後も幼稚園に行っても私はどこかそわそわしていて、気の強い女の子や男の子からすぐに意地悪の対象になっていったのだ。

 

このあたりから母は洋裁にはまりはじめた。近所に洋裁教室をしている兄の同級生のお母さんがいて、そこに通い出したからだった。

それからというもの、私の着る服は母親好みのものを着せられる。私が要求を出してもすべて無視、却下。いつも母親の手作りの服を着せられてお姫様のような格好をさせられて幼稚園へ登園させられていた。そして汚して帰ってくると怒られるという何とも理不尽な事が待っている。

幼稚園なんて本当に雨の日以外は外でめいっぱい遊んで泥や砂で汚してくることが分かっているのに、いつもフリフリな服を着せられて・・・。それを見たクラスメイトの男子たちや気の強い女子からは「ぶりっ子」「服が変」「頭がぐちゃぐちゃ(三つ編みを解いたウェーブをツインテールにしていった時)」と言われ、その他の女子たちからは反対に「お姫様みたい」などと言われていた。そういう格好と周りからはぶりっ子と言われるような性格であったせいなのか、年長さんの子達にもしょっちゅうちょっかいを出されては泣いていた。けれど母は服装や髪型を改めるわけでもなく、子供のしたことでしょ?と言わんばかりに何も対策など立てることは無かった。

兄についてもやはり新しい場所で落ち着きが無かったようだ。兄も気が弱かったせいか、やはり上級生たちからちょっかいを出されることもしばしば。酷い場合だと毎日のように近所のある上級生から暴力を振るわれていた。そんなある日、母がその現場を目撃して兄をいじめていた上級生を叱ったのだ。だが上級生本人は母のお叱りなど馬耳東風であり、母も相当悩み兄と一緒に泣いていたこともあった。その上級生は我が家からそんなに離れていない場所に住んでいた。彼の父親は医者であり、そのせいもあってか常に周りの子達の前で威張り散らしていたのだ。周りの子供たちはやはりいじめられたくないのか、その子に服従し兄の周辺では変な主従関係が出来上がっていたのだ。だが、そのような事態は長く続くはずも無かった。ある日兄をいじめていた上級生の家が破産してしまったのだ。そのせいもあってか上級生宅は我が家のエリアから夜逃げ同然の引越しをして突然いなくなってしまった。それ以来、主従関係も無くなり兄もいじめられなくなった。母もそれを知って「医者だからって威張りやがって。ふんっ、ざまぁみろ!と思っている」と言っていたぐらいであった。

 

父も引越し前の父とは明らかに違う父になっていた。

仕事から帰ってきて私たち兄妹の部屋の片付けが終わっていないなら、容赦なく幼い私たちを怒鳴りつける。大切にしていたおもちゃを私たちの目の前で壊す、気に入らなければ手を挙げるなどそういう異常な行動が目立ってきたのだ。引越し前のように私たちが父の元に駆け寄って遊んでもらうということも次第に減っていった。

それと同時期あたりから、私たちの住む家の周りにはいつも誰かがうろついていた。私たちの家の周辺は実は地元の財閥企業に勤める方々が住む地域でもあり、そんな地域の一角にある小さな平屋建ての我が家はその人たちから見たら貧しく奇妙にでも見えたのだろう。家を塀の外から覗かれたこともあった。私が外で遊んでいると突然近所の人に声をかけられることもしばしば。家を覗いていた人と目が合うことも少なくなかった。

そういう生活に父も我慢の限界だったのかストレスを発散するかのように家では子供である私や兄に怒鳴り散らすこともしばしば、ほかにも無理をして何度も新車を買うなどもした。その時買った新車も次の年にはまた別の新車に変わっていた。それもスカイラインなどの高価な車に・・・。

ほぼ同じ時期に父は後部座席の床が抜けて廃車寸前だった母のオンボロ車も廃車にして新車を買い与えていた。それから車以外の家財道具などの目に見えるものを高価なものに買い換えたりもしていた。休日には決まって私たち兄妹は両親に家具屋や車のディーラーへ連れて行かれ買い物に付き合わされた。両親はおそらくご近所から好奇の目で見られたくない・・・その一心で必死に見栄を張っていたのだろう。見栄を張り続けた結果、自分で自分の首を絞めてしまったのだと、今となってはそう思う。少なくとも私の目にはそう映った。

変わってしまったのは父だけではなかった。母も変わってしまった。今思えば母は同じ市内とはいえ知人もいない全く知らない土地に幼子ふたりがいる状態で引っ越してきて心に余裕がなかったのだろう。

 

私が幼稚園に入園して暫くした頃、母が突然私を車に乗せてある場所に連れて行った。

そこは家から車で20分ほどの場所にあるバレエ教室。母が勝手に申し込んだものだった。事前の見学も私への意思確認もなく、突然バレエ教室に連れて行かれ、私の意志など関係なく入会となった。

私はその次の週からそこのバレエ教室へ通うことに。バレエのある日は幼稚園が終わると家で着替えをしてスクールバッグにレオタードとタイツとバレエシューズを入れて母にバレエ教室へ送って行かれ、教室に置いていかれるのだ。無論その日は近所に出来た友達と遊ぶなんて許されなかった。遊んでいても「これからお出かけするから~」と母が一方的に友達を家に帰してしまうのだった。もちろん私の心の中ではもっと友達と遊んでいたい、レオタードやバレエシューズを身につけるのではなく普段着で泥だらけになって友達と毎日遊びたいというのが本音。それが強制的に着たくもないレオタードを着せられてバレエシューズを履かされ、そして母も友達もいない空間でひたすら踊らされる・・・。レオタードもバレエシューズもどんなにきれいなものであっても憧れなんて無かった。無論教室に置いていかれるときに私は寂しさとバレエをやりたくない思いからずっと泣いていた。

「もっとお母さんと一緒にいたいし、友達とも遊びたい。こんなことしたくない。こんな場所嫌い・・・。バレエなんて大嫌い」

何を言っても母は私の言い分なんて聞いてくれなかった。レッスン中ずっと泣いていたこともあった。曲がかかってみんなが踊っていても私は踊りたくない。「何かが違う」と自分の中で自問自答していた。

そしてレッスンの終了時間になって母が迎えに来る。母を見つけてすぐに駆け寄る私。だけど母は私が泣いていたことについて先生に謝る。私には「頑張ったね」の一言も無い。

帰りの車の中ではいつも母から

「どうして泣いてばかりなの?こっちは高いお金を払って通わせてあげているの、辞めたらお金がもったいないでしょ?もう少し頑張れないの?誰も泣いていないじゃない!」

といかにも私が望んで入会したかのような酷い言葉が並ぶお説教が続いた。私はバレエをやりたいなんて言った事はないのに・・・

 

母の決めた習い事はバレエだけじゃなかった。

小学校にあがるまでにエレクトーン、ピアノと加わっていった。そして小学校にあがると空手と水泳も習い始め、そこにガールスカウトへの参加も加わった。ただ空手だけは私が習いたいといって習わせてくれた。兄が小学校1年生の頃から空手を習っており、そこに母と一緒に兄を迎えに行ったときに仲の良いクラスメイトの女子数名がいたこともあって、私もやってみたいと思ったのだ。これだけは私が望んでいたものだった。

ガールスカウトへの参加は、母が親しくしていた近所の娘さん(私より3歳上)も参加しているということもあり、母が勝手に参加させようと決めてしまったのだ。これも訳も分からず参加させられた感が拭えない。隔週日曜の午前中に近くの公民館で集まりがあり、そこへ否応無く連れて行かれた。そして私はよく分からないままそこに参加・・・。母曰く「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」とのこと。まだ小学校1年生なのに・・・

この時点で習い事だけで5つ。加えてガールスカウト。学校も加われば休みなんて土曜日ぐらいしかない。はっきり言ってほとんど友達と遊ぶことも許されない状態だった。夏休みになれば訳も分からずガールスカウトのキャンプに参加させられた。無論家族とも離れ離れになる。そして夜になれば寂しくて泣く・・・。ガールスカウトがある日曜が正直憂鬱だった。

ガールスカウトへの参加が決まって暫くすると、そこへスイミングも加わった。こちらは火曜日と金曜日の週に2回。幼少の頃から患っていた小児喘息の改善を目的としていたが、母曰く「喘息も治るし、あんたが太ってきたから」とのこと。お得意の「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」というのが加わったことは言うまでもない。

私は何度も習い事を辞めたいと母に話した。しかし母は

「今やめたらお金がもったいない」と。

母はいつもお金の話しかしない。私が習いたいと言ったのは空手だけなのに、それなのに結局最後はお金でしかないのか、と幼いながらに絶望したこともあった。だが、バレエは小学校1年生の中盤で突然辞める事になる。後に分かったことだが発表会などのたびに教室がそこに通う生徒の父兄たちに高額な寄付金を募る、発表会に出るたびに高額な出演料を払う、公演のチケットをノルマ付きで売りさばかねばならないことが母にとっては不満だったようだ。そういう母の不満もあって辞めることになったくせに私には

「あんたがやる気が無いし練習もしないから!泣いてばかりでこっちが恥をかいた・・・」

と言うのだから呆れる。

今だから言えることは私にさせていた習い事なんて全て世間体を気にするばかりの母の馬鹿な見栄だったのかもしれない。バレエを習って身に付いたことは「母親に怒られないために自衛する術」だけだった。たとえばどんなに寂しい思いをしても我慢して泣かない、泣いたらまた母に怒られるからと。私が寂しくて泣くとお母さんが悲しむ、と。この時点で既に誤った方向に思考が動いていたのかもしれない。

 

同時に習っていたピアノとエレクトーンは、これもきっかけは近所に教室があるからという理由だった。一般の邸宅の一室で個人が某音楽教室の看板を掲げてピアノ教室を開いているというものであり、母もエレクトーンを弾くのが好きだったせいか私も気が付いたらそこに通うようになっていた。実は私の母はエレクトーン講師の民間免許を持っているらしく、看板さえあればいつでも教えられるような状態であった。

教室では私は先生と話をしたり、鍵盤に触れることは嫌いではなかった。だが、帰宅するとすぐに「きょう習ったことをおさらいするから!」と母は息巻いて私をエレクトーンのある部屋へ連れて行く。そしてエレクトーンの前に座らせて楽譜を広げてその日習ったことを復習させるということがずっと続いた。無論母の出す課題が出来なければ出来るまで何度もやり直しをさせられ、おやつも食べさせてもらえないこともあった。夕飯の時間が近くなってやっと復習と練習が終了。毎回エレクトーンとピアノのお稽古に通って帰宅をすれば今度は母からのマンツーマンのレッスンが続いた。正直言って家に帰っても息つく暇もなかった。ピアノの復習もエレクトーンを使ってのものだった。ただ楽譜が違うだけで母のレッスンはエレクトーンと同じものだった。

エレクトーンとピアノについては小学校2年生の中盤頃に教室が突然閉鎖してしまい、辞めざるを得なかった。ただ、後記にある中耳炎騒動もあったせいか他の教室に通ってまで再びエレクトーンを習うなどということは無かった。

後に両親から聞いた話では私の通っていたピアノ教室の先生がある日突然とある宗教に入信、出家してしまいそれに伴って教室を閉鎖してしまったのだ。うちの両親の事だから「自分たちの名誉を汚さないためのその場しのぎな発言か?」とも疑ったが、これは本当だった。私が成人してからのことだが私のピアノとエレクトーンの先生だった方の父親が亡くなった時の葬儀にて、娘であるその先生も遺族として葬儀に参列し祭壇の前に座っていたのだが、皆で合掌する際に先生と先生のご主人らしき男性は合掌をせず、線香もあげなかった。明らかに先生は自身が信仰しない宗教に関与してはならない宗教の信者であろうということだった。

 スイミングに関しては、レッスンが終わるまで母がガラス越しにプールサイドで私のレッスンをずっと見ている、まるでタレントスクールに子供を通わせるステージママのように。そして上手く泳げない場合はまたバレエの時と同じように「こっちは高いお金を払って通わせている」とまたお金の話を持ち出す。

私がある級に進級したての頃、本気でスイミングをやりたくないと思うようになってしまったことがあった。その級で習うことは10メートルを息継ぎなしで泳ぐというものだった。それが出来なければ上の進めないことは知っていたものの、当時6歳の私にとっては難しいものでありどうしても途中で息継ぎをしてしまう。その当時のコーチも指導が厳しいこともあって、私は辞めてしまいたいと思ったのだった。事実そのコーチの厳しさに耐えられずに辞めていく子供たちも多かったそうだ。私も辞めたいと母に言ったが、それに対して母は

「何言ってるの?それじゃお金をドブに捨てるようなものだ!やめるなんて許さない!」

と怒り出す始末。そこでもバレエで身に付けた「母親に怒られないために自衛する術」を実行、意地を張って無事に進級試験に合格して上の急に進むことが出来た。

幼稚園に入ってから小学校1年生、2年生の頃は日中は学校へ行き、家に帰ってからは習い事という日がほぼ毎日で、友達と遊んだ記憶は殆どない。それに「母に怒られないために自衛する術」も実は間違っていることもこの頃の私は知る由も無かった・・・

 

この異常なまでに多い習い事も、母なりの見栄や理想を私に押し付けた結果だったのかもしれない。そして習い事をたくさんさせること、母にとってはある意味ステータスでもあったのかもしれない。「わが子を落ちこぼれにさせてたまるか!」というようなどこかのドラマの中にいる教育ママのように・・・

 

ちなみに兄は小学校入学までの間に、スイミングしか習っていなかった。兄も小児喘息を患っていたこともあり、そのためだったと思われる。そして小学校入学から暫くして空手を習い始めた。私たちが通っていた空手教室は私たちの小学校の体育館で行われていたこともあり、そこの児童が多く通っていた。兄も同じ学年の友人と楽しそうに空手教室に通っていたのだ。

最初の頃こそ空手も楽しいものだったと記憶している。

だが、兄と同じ習い事ということもあってか空手が終わって家に帰れば常にお説教が待っているのだ。

兄や母からいつも言われていたこと・・・

「やる気が無い」

「型が下手くそ」

「組手なのに逃げ腰、あれじゃいつまで経っても勝てない!」

など。そして大会前になると必ずと言っていいほど「特訓」をされたのだ。両親や兄の見ている前で何度も型をさせられたのだ。そして腰が入っていないなどと何度も止められてそれが延々と何時間も続く。その間は学校の宿題も出来ないし、風呂にも入れず、無論寝る時間も遅くなる。結局それも兄や母が「兄弟揃って金メダル」という肩書きが欲しいだけのものだったのだろう。正直私は母や兄の熱血指導にはうんざりしていた。『楽しいの基準』なんて個々違うことだって分かっていたはずなのに。

ちなみに私たちは空手の大会では学年や熟練度に応じて型のみに出場するか、組手にも出場するかが決まる。私は殆ど型のみだった。型のみなら型のみでそれでいいと思っていた。自分の中では「熱血母と熱血兄がうるさいから、とりあえず試合に出られればいい」くらいにしか考えなくなっていたからだ。ただ、試合に出ないという選択肢もあったのだが、それを選ぶことはなかった。なぜなら試合に出ないと言ったところで私の意見など到底受け入れてくれるはずの無い母と兄だったから。母も兄も「試合では絶対に金メダル!金じゃなくてもメダルは取れ!」と私本人を差し置いて勝手に息巻く有様。幼いながらそれに従い、そして心の中だけで母と兄に呆れるしかなかった。というのも、兄は空手を心の底から楽しんでいたのだ。ただ楽しむ対象は私と逆であり、試合に勝ってメダルを取ることや表彰式で「第一位」といういちばんの順位が頭について名前を呼ばれることに楽しさを感じていた。楽しみの対象は別にどんなことでも構わない。ただ、自身の考えをたとえ兄妹であっても押し付けてよいものなのか・・・今でも疑問が残る。

ただ私自身も自分から「習いたい」と申し出ただけに意地でも辞めるとは言わなかった。教室での練習が厳しくても、兄や母からの「特訓」が厳しくても。

 

そして小学校1年生の頃に初めて出た試合。私は型の部小学校低学年に出場した。見たことのない別の道場に通う児童との対戦になった。だが結果は一回戦敗退。正直悔しいとも思わなかった。当時の私は「あー、これが試合なんだね」くらいしにしか捉えていなかったのだと思う。私は試合の結果はどうあれ負けたんだし仕方がないと思っていたのだが、兄も母もそれを許すはずがない。試合が終わってすぐに兄にも母にもねぎらいの言葉すら貰えず

「みっともない」

「馬鹿だから負けた」

などというような汚い言葉を浴びせられた。当時の私は試合に負けたことよりも試合に出たこと自体を褒める、ねぎらうなどそういう気持ちが母や兄には無いことを悲しく思った。ちなみに兄はこの試合で金メダルを獲り、兄や母の描いていたシナリオどおり「第一位」となって表彰台にあがったのだ。ちなみに私の出た小学校低学年の部の試合で優勝したのが、私の友人であったこともあり、母も兄も

「あの子は優勝できるのにねー」

の一言。どうしようもなく悲しい気持ちで一杯だった。この一件以降事あるごとに

「あの子みたいに金メダル、欲しいでしょ?だったらもっと上手くならないと」

などと友人を引き合いに出すことが増えた。

けど私も万年負け続きではなかった。さすがに「負けてられるか!」と思ったのか、小学校3年生の頃に出場した空手の試合で、まさかの1回戦突破となった。対戦相手は同じ道場に通っていた別の小学校の同級生の男子。いつも馬鹿やってワイワイしていたりしていた仲間であって決して仲が悪いわけではなかったけれど、何となく負けたくなかった。そして二回戦も突破。

決勝戦にて・・・惜しくも6人中4位という結果になった。だが私はこれはこれで満足していたのだ、負けたくない相手に勝てたことが嬉しかったから。だが、これを褒めてくれた人は母方の祖父祖母以外誰もいなかった。応援してくれていたはずの母も兄も「次は金メダルね、分かった?」の一言だけを私に言い渡した。自分なりに一生懸命頑張って勝ったのに・・・とずっと泣いていた。それを見た母は

「メダル取れなくて悔しくて泣いてるぐらいなら優勝するしかないでしょ?4位なんてみっともない。負けて獲る賞なんていらないのよ!」

と。

そんなこんなが続いていたが、空手は小学校にいる間は続けていた。最後の方は試合に殆ど出なかったが・・・

4年生の時点では空手とスイミングとガールスカウト(これは習い事じゃないか・・・)以外は既に辞めていたが、ここに今度はそろばんが加わる。それでも習い事は3つ。母から見れば「習い事が多いほうが立派」という勝手な思い込みで私はいろいろな習い事を掛け持ちさせられていたのだろう。スイミングは週2回、空手はメインである小学校の空手教室と別に通っていた道場を含めて週3回。そろばんは週に3回。もっと言うなら私の意志で習い始めて続いていたのは空手だけだった。やる気が起きなくてもおかしくないだろう。

そろばんを習うことになったのは、算数が苦手だった私を母が心配したからだった。こちらも勝手に教室に電話をかけて見学へ行くとアポを取り付けてしまったのだ。そこに1年生からそろばんを習っている同じクラスの優等生の女子がいたこともあり、ここでもまたその子を引き合いに出して

「あの子はねぇ、お勉強がすごく出来るでしょう?そうなりたいよね?ここに通えばもう算数が苦手なんて言わなくて済むようになるんだから」

と勝手な持論を展開し始めたのだ。当時の私はそういう母をもう何度も見ていたせいか、言うことを素直に聞かなきゃいけないと思っていたのだろう・・・完全に母のイエスマンになってしまっていたのだ。嫌なら「やりたくない」と言えばいいのに、結局は言ったところでケンカになるのも目に見えていたし、何かにつけて算数の成績がよくないと「あの時そろばんをやっていれば・・・」となっていることは日を見るより明らかだった。

反対に空手以外でも私はやりたいと言った習い事があった。それは「書道」。学校の授業で書道を習うのは3年生からだった。だが1年生から書き初めをして特選などを獲る子がクラスにいて憧れたのもあったからだ。その子は普段書く文字もとてもきれいだった。それもすごくうらやましく思った。だから私も書道を習いたいと母に何度も申し出たが、母は決まって「書道なんて意味がない」と一蹴していた。

さすがにそんな事だけでは書道を習うことを諦められないと、私がある日強硬手段に出た。それは小学校2年生の頃、書道なんて習っていない私が県の書き初めコンクールに自身の書き初めを出したいと申し出たのだ。学校の担任の先生も驚いていたのだが、それ以上に母親を驚かせた。何せ私は書道など習っていなかったうえにどうやって筆で字を書くのかも分からない状態だったから。そこで母は私を文具屋に連れて行き太目の筆を一本買い与えてくれた。そして使い方も分からない私にその筆を渡して放置していた。私もどうやったら・・・と悩んでしまい、筆の穂先をきれいにほぐしてしまったのだ。無論その筆は使えない。

それを見た母は

「ほらごらん、何も分からないのにそうやって目立とうと(ここでいう目立つというのは書き初めコンクールに出したいと申し出たことだろう)するからそうなるの!まぁ最初から墨も硯も買う予定なんてなかったからいいけど。習字なんて3年生になれば自動的に習うんだから!」

と意地悪く私に言い放った。結局私がどんな強硬手段に出ようが書道を習うことを許可してもらうことはなかった。