Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

男尊女卑

残念ながら我が両親、男尊女卑という考えがあった。

うちは長男、長女という2人兄妹である。それも例外なく親からは「兄は長男だから一番、私は女だから・・・」というような考えだった。兄にいたっては父の機嫌に振り回されたりもしたが、ほぼ自分の思い通りのことをさせてもらっていた。反対に私にいたっては、「そんなものは必要ない」などと私の要求など殆ど聞いてもらえない。明らかに兄妹間のえこひいきだった。

小さい頃から何かと兄には物を買い与える、それも新品のものばかり。たとえば学校の教材などもいつも新品。だけど私にはいつも兄のお古。そしてお古ばっかりで嫌と主張すると父も母も決まって「兄のパンツもお古ってわけじゃないんだからいいでしょ!」とお古万歳主義を貫いていた。

兄からのお古は本当にいろいろあった、学校の教材の大工道具、そろばん、裁縫セット、鍵盤ハーモニカなど。それから服も襟元の伸びたTシャツ、学校のジャージなど。百歩譲って学校のジャージはまだ許せるが、女子と男子では考えや動物的な心理も違うことを何も理解しないのか、兄に買い与えたものは全ていいものだからとでも思いたいのか、私には当たり前のように兄の使った中古品が「お古」として回ってくる。せめて性別が違うことだけでも理解して欲しかった。女子ならやはり女子らしく可愛いものを持ちたい、そう思うだろう。それなのにいつも母は「お兄ちゃんのがあるでしょ?だからこれでいいの!」と私が新しいものを持つことを許さなかった。

小学校4年生のある日、学校から授業で使うために必要な大工道具(かなづちとか折りたたみ式ののこぎりがひとつのバッグに入ったやつ)や裁縫セット(針と糸だけじゃなく鋏など家庭科の授業で必要なもの一式がセットになったやつ)の注文票をもらってきた。そこで大工道具も裁縫セットも新しいものが欲しいと両親にねだったのだ。しかし両親からの答えはノー。両親曰く

「少しだけしか使わないから。それに今それ買ったらお前は大工にでもなるのか?」

「新しくても古くてもどれも一緒なんだから気にしない気にしない!」

など親の目線でしか考えてくれない。それに裁縫セットもそうだが、裁縫箱も当時はすでに女子好みのデザインの物だったり男の子が持ってもおかしくないようなものが注文票には載っていた。そこで私が好きなキャラクターのものがあって両親に買って欲しいとねだるが、こちらも答えはノー。やはり大工道具と同じで兄のお下がりを使うようにと。兄の持っていたものは決して私好みのものではなかった。裁縫箱も小さくて蓋にひびが入っていたりとすごく貧相、色も私の好きな色でもデザインでもないし。道具も揃っていなくて、さすがに道具が不ぞろいなのはいけないと、それだけは母から何とか買ってもらえたが。だけど肝心な私の願いは何も聞いてくれない・・・そう思えてならなかったのだ。

そんな中いざ図工や家庭科の授業が始まり、他の友達は新しい道具を持っていた。中には私と同じように上の兄弟のお下がりという子もいたが、あくまでそれも同性のきょうだいの場合のみ。私と同じように上がお兄ちゃんで下(私の友達)が妹となれば、やはり新しく買い揃えてくれる家も少なくなかった。家庭科の時間にいたっては授業に出たくないほど嫌だった。貧相な道具を持って授業を受けるのが死ぬほど嫌だったから。だから家庭科の時間は保健室に仮病を使って篭っていたこともあった。あとは忘れたふりをして授業に出たり。周りはなんで自分好みのものを持って授業を受けられるのに、なんで私は?とその疑問が頭から抜けずにいた。図工の時間も憂鬱でならなかった。ここでも「貧乏」とからかわれる始末だった。

それから兄は親にレーシングカートを買ってもらったこともある。確か兄が小学校6年生か中学校1年生の頃。

最初はポケバイが欲しいと兄は両親にねだっていたが、ある日テレビで見たレーシングカートに一目ぼれしたらしく、兄のおねだりを受けて父はその次の週末にレーシングカートをポンとキャッシュで買っていたのだ。だが私は兄が実際にカートを運転する姿は見たこともなく、市内の山奥にあるレーシングカート用のサーキットにも兄は片手で数えるぐらいしか行っていない。そしてその肝心なカート本体も家には置けず、母方の祖父の家にある物置に保管することに。だが、そこからそのカートは日の目を見ることはなく、独活の大木ならぬただ場所をとる鉄の塊と化した。十数万円したものも、今現在どこにあるのかすら分からない。

兄はいつも欲しいものを普通に買ってもらえた、だけど私は何か理由をつけられては買ってもらえないことが多かった。

私は小学校4年の頃に一度管楽器が欲しいと言ったことがあった。この時は通販のカタログで憧れていた管楽器(フルート、サクソフォーン、トランペットなど)入門セットがあり、それを見て私も欲しいと両親にねだったのだ。だが母は

「アンタに吹けるはずがない。あんたが吹くのはホラだけでしょ?」

と。そして父にいたっては

「ファックスなら会社にあるからそれを持ってきてやる!」

などとつまらないギャグにもならないことを言い出す始末。無論買ってもらうことは無かった。

それ以外にも可愛い形をした収納ケース、自転車、流行の文具類なども・・・。結局買ってもらったのは自転車だけ。後に知ったことだが兄もちょうどその時期に自転車が欲しいと両親に言っていたらしく、それで兄がメインで私はついで・・・というような感じで何とか買ってもらうことが出来た。けれど実際に買ってもらったものを見ると兄の方が明らかに高価であり、私には選択の余地などなく、父が決めた格安のママチャリだった。父曰くちゃんとした家電メーカーのものだが、見た目も兄よりは劣るもので。

兄はとにかく何でも高価なものを希望どおり買ってもらっていた。高いブランドの服、ハイセンスなバッグ、有名ブランドのスキー板、スキーウェア、ナイキの靴、100万円もする学習教材、ゲームボーイなども。

ゲームボーイの時には兄にそれを買うために親が私をダシにしたのだ。当時発売されたばかりのゲームボーイを兄が欲しがっていた。同時期に空手の県大会もあった。そこで父は兄に「買ってあげるが、お前(兄)が県大会で優勝したら買う。だがそうじゃなかったら私に買う」と宣言したのだ。私はそれを特に欲しいとも思っていなかったが、なぜか親は私に買うと言い出した。まぁ買ってもらえるんだったら、と私はそれを了承した。

そして肝心な兄の空手の試合の結果は、1回戦敗退・・・。

父との約束どおりゲームボーイは私が買ってもらったのだ。しかし、買ってもらったその日、家に帰ってみると兄が母に見守られてそれを使って遊んでいる。そして私が「それは私が買ってもらったのに、何でお兄ちゃんが黙って使ってるの?」と言うと母が「お兄ちゃんだってやりたいって言うの、だから貸してあげて?」と目を潤ませて私に言うのだ。それを良いことに兄は私がやりたいと言っても無視、ずっとゲームで遊んでいてしばらく返してもらえなかった。

無論私は父にも不満を言った。父は「兄弟仲良く遊べば良い!」と言い出す始末。そういう問題ではなく、私はその時点で全くゲームボーイで遊べていなかったのだ。それにこれは私が買ってもらったはずなのに?と思い「それは私が買ってもらったもので、私のものじゃないの?」と言うと、「お兄ちゃんが最初に欲しいって言った!だからお兄ちゃんだってやる権利はある!だったらそれをお前がお兄ちゃんにあげればいい!」というわけの分からないことを言い出した。

 

そこで気づいた、私はダシにされたのだ、だまされたのだ、と。

ゲームボーイはそれから暫く兄の部屋に置かれた、というか兄が持ち出してそのままずっと持っていた。そして私が遊ぼうとしても兄が無理に強奪していき、私はそれに触ることも暫くできずにいた。試合に負けたくせに、優勝できなかったくせに優勝賞品を強奪して遊んでいる強欲な男にしか見えなかった。そして両親共に兄を絶対に咎めない・・・。欲しいものを全て手にして笑う兄を私はただ指を咥えて見ていることしか出来ないのだ。

 

兄は本当にわがままだ。そして自分勝手。それは小さい頃からよくあった。さすがに親も全部ではないが注意をすることがあっても、私のものを勝手に持ち出したなどということであればそこまで叱りつけることは無かった。

ただ、兄が嘘をついたり、暴言を吐いた場合などは父が兄を怒鳴りつけて殴るということはあった。それでも兄は私より甘やかされていた、特に母には。

母からは溺愛されていたと言った方がいいだろう。ゲームボーイ以外でも母は私の私物を兄にも譲って欲しいと懇願することが多かった。たとえば家庭科の授業でエプロンを作ることになって生地を選びに手芸店へ出向いてその生地を少しでも多めに買った(無論私の小遣いで)ものなら、母はすかさずその余った生地に目をつけて兄用の弁当入れなどを作り出すのだ。そしてそれを見つけた私が

「それは私の買った生地だから、私のものなの?」

と訊くが母は

「どうせ家庭科のエプロン作りの他に使わないでしょう?余った生地でしょう?だったらお兄ちゃんにも譲ってあげて・・・」

と兄に譲るように言い出すのだ。母が買ったものだったら私の許可は要らないだろう、だがこの生地は私の小遣いで買ったものである。だから当然それには納得がいくわけもない。母に強引に押し切られる形でいつも私は諦めるという構図が出来上がってしまっていた。

 

実は買ってもらうもらわないの話以外で今でも納得がいかないことがある。それは私が小学校4年の時、父の会社の取引先の招待旅行で兄をアメリカ旅行へ連れて行くと言われていた。反対に私は連れて行ってもらえなかった。勿論この結果に私は不満だった。そこで両親は私に「来年はオーストラリアに行くからそこには連れて行ってあげるから、お兄ちゃんに今回は譲ってあげて」と言ったのだ。

だがいざ翌年になっても肝心なオーストラリア行きの話すら出てこず、結局私はそのオーストラリア旅行にも連れて行ってもらえなかった、両親によるずるい後出しジャンケンだった。

いつまで経ってもそんなこと、到底納得がいかない。そこで私はどうしてそうなったのかを母に尋ねた。母は

「女の子は旅行中に生理になるから」

とか

「お父さんは飛行機が嫌いなの。だから連れていけない(父同伴の予定だった。ちなみに兄の時は父と一緒ではなく父の会社の社長だった父方の叔父と従兄弟も一緒に行った)」

などと両親自身のことしか考えない訳のわからないことを言いつづけていた。無論私は納得できるはずもなく、私の不満は募るばかりであったのでその不満を母にぶつけたら

「お父さんにぶっとばされなきゃ分からないの?」

と逆ギレする始末。それに「兄は招待された」などと意味不明なことを言い始めた。

私が思うにどちらか一方が旅行に招待となる場合は「断る」という選択肢もあったのではないか。それなのに結局は兄ひとりがいい思いをしたようになってしまったのだ。やはり両親にとって私は単なる将来の介護要員や未来のお手伝いさんでしかなかったのだろう。適当に育てられていたのだろう。将来婿を取らずに嫁に行くとしてもあんまりな結果だ。

そもそも父の飛行機嫌いは私たち子供には関係のないことであり、言うまでもなく父の都合である。それを黙って聞く母・・・。まさに『大人のわがままで子供が犠牲になる』・・・、小学校4年生にしてその言葉って本当にあるものだと実感した。

兄のアメリカ旅行前後は本当に両親は兄のことばかりを構うわけで、私には殆どノータッチで私は家にいても孤独だった。

たとえば家族でひとりだけとはいえ始めての海外旅行、だから準備するものもたくさんあったのか、日に日に兄のものが増えていく。兄も当然ながら家族でひとりだけアメリカに行けると決まって浮かれて私の前で威張り散らしていた。両親も兄のアメリカ旅行で気分がハイになっており、あれもこれも準備しなきゃ!と躍起になっていた。そして兄のパスポートを取りに行き、そこへ私も連れて行かれたが何もなくただむなしさだけが残った。

そして兄の帰国日は本当に最悪だった。学校から帰宅して家に入ろうとしても玄関には鍵をかけられており、鍵も預けられていなかったために、兄たちが帰ってくるまで私はずっと外で待っていた。兄たちが帰宅した時間も薄暗くなる時間だった。それまで私は外で一人で待ちぼうけ・・・、それを見た母は私に「ウチの鍵、渡すの忘れた」と言い放った。

兄はアメリカ旅行から帰っても暫くは私に威張り散らしていた。きっと兄の心の中では「俺はアメリカに行けた。けどお前はバカだから行けなかった!」というような思いがあったのだろう。私はその度に悔しい気持ちになっていった。兄は私に威張り散らすだけではなかった。兄は私にお土産だと言って買ってきてくれた10色のボールペンを突然返してほしいと言い出した。兄曰く「俺が欲しくなったから」。私は兄に

「一度人にあげたものを返すなんて出来ない」

と抵抗するが、乱暴に使ったのかもうすでに書けなくなっているボールペン(こちらもアメリカで買ったもの。兄曰く100年使えるというものだった)を私の元において私の手から10色ボールペンを奪って行ってしまったのだ。私もさすがに悔しくなり母にそのことを訴えた。母は兄を呼びつけて叱ってくれたが、ボールペンは暫く戻らなかった。数ヵ月後になってやっと私の手元にそれは戻った、多分飽きたからと私に戻してきたのだろう。しかも既に書けなくなっている色もあった・・・。

時同じくして私が小学校4年生の頃、今度は私が子供部屋を追い出された。父は兄が中学に進学することもあって子ども部屋(8畳一間)は兄の部屋にすると突然宣言。私のために祖父母が買ってくれた学習机も兄のものになり、私には兄の古い学習机が与えられ、部屋が無いという理由から茶の間脇の廊下(約2畳ほどの広さ)に兄の学習机と2段ベッドのひとつを置いただけの空間を部屋として与えられ、常に監視されて生活をしていた。当然のことながら本来はその場所は廊下であるためベッドの脇はガラス戸であり(一応金属製の雨戸は付いていたが、殆ど役割を果たしていない)冬はとても寒く、寒さで目覚めることもしばしば。これに対して

「お兄ちゃんばっかりどうして?私も部屋が欲しいのに、さすがにこれはおかしい」

と不満を両親にぶつけたが、

「だったらウチの車の中で寝るか?で、勉強する時だけ家に入ればいい」

と言ったと思えば

「庭の犬小屋で暮らせばいい、俺らが小さい頃は普通に犬小屋で寝ていた。飼い犬も一緒だから問題ないだろう?」

などと信じられない言葉を並べていた。母はその隣で私をバカにしてただ笑うだけ。このあたりから兄は「兄の部屋」に私を入れないようになった。兄もそれをいいことに日々私を

「部屋なし」

「廊下部屋」

と馬鹿にしていた。その頃の兄は学校でも実は嫌われていたようだ。通知表の連絡欄には担任の先生から

「女子から嫌われている」

「自分勝手である」

などと書かれていたのを見たことがあった。やはりこうして家で甘やかされていたせいもあってだろう。反対に私は

「情緒不安定気味」

「たまに落ち着きが無い」

などと書かれていた。

 

廊下に部屋が移ってからというもの、宿題をやる気も起きず、日々机に座ってぼーっと過ごすことが増えた。友達も家には呼びたくなかった、バカにされるから。小学校4年生にもなればどこの家も一人部屋もしくは子供部屋に自分がいるわけだから。それなのに私はひとりだけ家の隅っこの廊下。やはりクラスメイトからは廊下部屋を理由に

「貧乏」

「ボロ屋」

などと散々バカにされたのだ。両親にそれを言ってもうちには空き部屋がない、お前はバカだから常に俺ら(両親)が見ていないと宿題もやらないし、勉強だってしないから。お前みたいなバカにはこれがちょうどいい、俺らもお前のバカさに迷惑している!などと私に言い放ち、しまいには廊下でも部屋があるだけありがたいと思えと開き直る始末だった。これに加えて

「お前は女、お兄ちゃんは男。男の方が偉い!」

などと言い放った。おかげで兄は変に自信過剰で平気で暴言を吐いたり暴力を振るう心の弱い人間に育ってしまった。ついでにマザコン、わがまま、過干渉、自己中心主義という要らぬものまで付いてしまったのだ。過干渉なところは母親そっくりである。

廊下部屋は約2年ほど続いた。だがその間それは我が家の火種にもなっており、当時我が家にバイクの事故でケガをして療養に来ていた母方の祖父の一言もあり、小学校6年生頃に自宅北側の4畳半ほどの納屋を部屋として与えられたが、私の学習机も本来私のために祖父母に買って貰った家具も兄の物になってしまい手元に戻ることは無かった。この部屋も隙間風の入る寒い部屋であり、冬場は相変わらず寒い。

女というだけでここまで不遇な待遇をされるものなのだろうか。両親は兄には本当に甘かったとしか思えない。兄が欲しいといったものは何でも買い与える、兄が行きたいと言った場所には必ず連れて行く。私が行きたいと言っても適当な言い訳をつけて父は連れて行けないと言っていた。母は私に

「お父さんが行きたくないって言っているんだから、あきらめてほしい。あんたがあきらめれば丸く収まる」

と。私は別にすぐにアメリカに行きたいなどと無理を言っているわけではなかった。それなのに優先されるのは必ず兄。私は兄ばかりの要望を聞く父に一度ぐらい私の要望も聞いて欲しかったのだが、事もあろうかそれを却下して兄の要望を聞いていたことに私は腹を立てたのだ。そんな中、ある土曜日の夜に父は

「明日はお兄ちゃんを連れて某サーキットにレースを見に行く」

と言い出した。けど私も父に買い物に連れて行ってもらいたいという思いがあったので、そんな父に腹を立てて

「私がここに行きたいと言ってもお父さんはいつも連れて行ってくれないのに、何でいつもお兄ちゃんだけ?」

と聞いたところ、父は

「今回ばかりはお兄ちゃんもどうしてもサーキットに行きたいって言うし、明日行かないともうそのレースが観れなくなる。お前にはお小遣い5000円あげるからそれで我慢してくれ」

と。私はお金の問題じゃないと食いついたのだが、それでも父は兄の要望をかなえるべく必死だった。私はお金が欲しいわけじゃなく、両親に要望を受け入れてもらい楽しく過ごしたいだけなのに。某コマーシャルではないが、『お金で買えない思い出、プライスレス』のようなものが実は子供の心の中では重要である。それも分からないのか、この親は・・・そう悲しく思った。

私が親とどこかに行った思い出といえば、ほぼ全て親が決めた場所だけだった気がする。それも父の要望どおりで。私が全く興味の無い場所へただドライブに行くだけ、またまた私からすれば全く興味の無い田舎の観光地。遠くに旅行へ行くとなっても移動は車かフェリー。飛行機は父が嫌いという理由だけで飛行機を使う場所はいつも却下となる。そしてフェリーで移動となる場所は決まって北海道。母はそれを素直に受け入れていた。

母は父の後ろを歩くような女性だった。私たちが否定しても一言目は私たちを否定、二言目は「お父さんは、お父さんは」と続く。言い方を変えれば亭主関白家庭の妻。父の言うことがいちばんという考えであった。そして前記のとおり男尊女卑の考えだけに家の中での順番は決まって父が一番で兄が二番、そして母が三番でいつも私は最後。無論順番が最後であれば他の家族の言うことは絶対というような理不尽な構図になっていた。そして子供への接し方、常に兄には甘い。その結果兄は母そっくりな過干渉で短気な性格になっていった。中でもマザコン気質、正直言って気持ち悪いと思ったこともあった。たとえば母が私を悪く言うときには決まって一緒になって悪口を言う、否定するなど。まさに某アニメのジャイアンスネ夫のような関係だった。母がジャイアンであれば兄はスネ夫というように。一般論で女性が言われたら傷つくような発言も平気でしていたし、放っておいて欲しいと私が兄に主張しても強引に部屋に押し入って怒鳴りつける、そこで持論を展開して干渉してくるなど・・・殆ど母親をそのままコピーしたようなものである。

正直私は中学ぐらいから家にはいたくなかった。出来れば近い未来に家から出て行きたいとまで考えていたものだ。このような家庭環境が原因で小学校高学年で自殺を考えたこともあった。ただ、唯一救われたのは兄が進学した高校は自宅から車で2時間ほど離れた遠方の私立高校であり学校近くで下宿生活をしていたため、私が中学校2年生の時から普段家にいなかった。ただ、実家に戻ると過干渉が始まる。普段は両親からの過干渉、そして兄がいるときには兄からの過干渉で私はいつもストレスがたまった状態だった。まわりの家族もそれを知らないはずがないが、見て見ぬふり。無論母も父や兄は偉いと思っていたのか、兄からの過度な干渉を支持するぐらいだった。

 

父も今思うと「子供の前で本当に最低」だと思うような言動がたくさんあった。子供の心に深い傷が付くなんて考えなかったのだろうか。今でも忘れられない一言、我が家は決まって父が一番風呂に入る。私が小学校4年生のある日、私も一番風呂に入ってみたいという思いからその日は父より早く風呂場に到着、風呂に入ろうとしていたところ父が現れて

「俺は家の天皇陛下なんだからお前はどけ!」

と押しのけられてしまったのだ。うちには皇族なんていないはず。それなのに・・・、やはりどこかおかしな考えが我が家にはあったのだろう。今思う、独裁者と女帝が常に我が家には存在していた。そしてわがままな王子と灰被り姫・・・

 

その灰被り姫の私は、家にいてもただむなしい、寂しい、劣等感だけが心を支配するようになっていった。次第に悪いことをするようにもなっていった。近所に私より1歳上の女友達がいたのだが、その子とはよく一緒に遊んでいた。彼女も上に姉二人がいるのだが、我が家と同じく両親は上二人の姉ばかり可愛がるものだからその妹である友人はいつも蚊帳の外。小学校5年生にして悪いこと全てをしているのでは?というぐらいに酷かった。親の飲み残した酒を水のように飲んでいたり、友達に平気で嘘をつく。手癖が悪く友達の持ち物を平気で盗んだり店で万引きをしたり。そして休日にはなぜか学校のジャージを着ている。本人にそれを何故かと聞いたら「着る服が無い」と当たり前のように答えていた。

その友人も私の異常に気づいていたのか、よく家に呼んでくれたり一緒に遊んだりもしていた。そんなある日、その友人と近所の個人商店に買い物に出かけたのだが、事もあろうかその友人は手馴れた手つきで陳列棚にあった商品を次から次へとカバンに入れていった。そして何事もなかったかのように店を後にした。私はそれを見て驚き、その場を暫く動くことが出来なかった。彼女は万引きをしていたのだ。そして店を出た私、今あったことが本当に現実に起きているの?と思いながら彼女と歩く。そして店から離れたところで彼女は私に店から盗ったものを「これ、あげる」と私に差し出したのだ。私は喜ぶわけもなく、「あ、はぁ・・・」という感じでほぼ強引に渡されて受け取った。彼女は続けて万引きしたことについては「あ、これね。別に欲しいわけじゃないんだ。ただ盗ってるだけ」とも。

家に帰ってもしばらくその事が頭から離れなかった。「あの子が万引き・・・。万引きって泥棒じゃん!学校でもしちゃダメって言われているのに、どうして?」とずっとそんな事が頭の中をぐるぐるしていた。

そしてその数ヵ月後、私もその友人とともに万引きをするようになっていった。別に何かが欲しいわけでもない。万引きをすることが心の隙間を埋めてくれる、そんな気がしていたのだ。万引きをしたのもその物が欲しいわけでもなかった、だから盗ったものは気前よくいつも学校の友人にあげていた。無論盗んだことは伏せて。だが、それも長くは続かなかった。小学校5年生のある日、店員に万引きが見つかったのだ。結局店員さんに注意をされてその日は帰された。初犯ということもあり、店のご主人の一言で帰された。帰り道、そこで私は「私の万引きが親にバレたらこっちの言い分も聞かずにボコボコにして終わりだろう・・・。正直こんなことをしても嬉しくないのに。例えば私がこの先本当に万引きで捕まっても両親は私のことなんて微塵も考えないんだろうな。塀の向こうに入れられたとしてもきっと厄介払いが出来たぐらいにしか思わないんだろう」と思った。私は泥棒になってしまったのだ。だがこうして見つかるのも嫌、それに盗むのだって本当はしたくない、見つかってもボコボコにされるだけ、良いことなんてひとつも無い!もう二度とやるもんか!と心に誓い、それ以来盗みをすることは無くなった。

盗みをしなくなってからというもの、暫くは穏やかに過ごしていた。だが一人のクラスメイト(女児)に目をつけられてしまった。

着せ替え人形

「私は母にとって一体何だったのだろう・・・ただの着せ替え人形?」

 

母は私が物心付いたころには既に私の好みなどを無視して母好みの服を私に着せて喜んでいた。例えば一緒に服を買いに行っても母好みの服を選ばれて私が着たい服など着せてもらえないなど。幼少期なんて母の作った服しか着せてもらえなかったし。

そんなわけで小学生になった頃には完全に母の着せ替え人形と化していた。そんな中、私はやはり女子だけにスカートを履きたいと思っていた。だがある日母は出処が分からないお下がりのジャージの上下を持ってきて、私にそれを無理矢理着せたのだ。そしてそのジャージを無理矢理着せられた状態で私はそのまま母と兄と一緒に買い物に出かけ、出先で「そこのボク!」と見知らぬ男から男の子と間違えられたことにショックを受けた。それを見た母はひたすら爆笑するのみ。兄も笑う。

通学用の靴も兄とおそろいのかわいいとは言い難いものを勝手に買ってきて私に履かせたのだ。他の友達は赤やピンクのかわいいデザインのものを履いている、それなのに何でこんな男の子のようなデザインの・・・、履きたくない。そこで母に

「こんなの履きたくない!もっとかわいいのがいい!」

と訴えるも母は

「わがまま言うんじゃない!かっこいいんだから、これを履きなさい!」

と言うだけだった。それから兄のお下がりの服を着せるなど、私は到底世間一般の女の子が求めるものとはかけ離れた外見になっていった。スカートなんて履かせてくれない、いつも半ズボン止まり。そして学校へ行けば女子の友達に

「何ではる香ちゃんはそんな男っぽいものを着てるの?靴だって男の子のじゃない。可愛くないし」

と言われる始末。その都度泣きたくなるほど悲しくなったのは忘れない。無論その都度母に私は抗議する。だが聞いてくれない。いつも

「だってかっこいいじゃない?」

と言われるだけ。兄には好みの服を買い与えているのにどうして・・・?と子供心ながらにいつも考えていた。

 

母は私が小学校に入ってからは、幼稚園の頃のようなかわいい服を作ることもなくなった。幼稚園の頃にはしょっちゅうお姫様のようなフリフリしたかわいい服をよく作っては着せてくれた。それなのに今は私に服も作らなければ男の子のような格好をさせられて・・・。それだけじゃなく女の子のような格好をしたいならと、母は自身が若い頃に着ていた服を持ち出して私に着せ始めた。もちろんその服は時代遅れでださいデザインのものばかりで、とてもじゃないがこれもかわいいとは言い難いものだった。けれどここでも「嫌」といえば母が機嫌を損ねることは知っていたので、私は耐えることしか出来なかった。

 

ただ、全てが母や兄のお下がりばかりだったわけではない。たまに母方の親戚のお姉ちゃんからのお下がりで服を大量に貰うことがあった。だが殆どがサイズが合わない、私には大きすぎたのだった。それでも母は無理矢理私に着せようとしていた。私なりにも兄のお下がりを着るよりはまだいいと、大きいサイズのものでも無理に着ることも増えていた。正直、その親戚のお下がりですら私は嬉しかったわけではなかった。あくまでも「まだマシ」の分類だった。

私は私好みの服を着たい、ただそれだけだった。

それが毎度毎度兄や母のお下がりばかり、更には親戚のお下がりという・・・全てお下がりだけで間に合わせようとする母の心境を理解できずにいた。前記のとおり兄には兄好みのものや性別にあったものをちゃんと着せているのに、なぜ私だけ女なのに男の服を着せられて、更には母の時代遅れのお下がりばかり?本当に悲しくて仕方がなかった。買い物へ行ったときに同級生に会うのが嫌だった。それは「自分が好きな服を着られない」から。嫌々着ている服装で友達になんて会いたくない、こんな格好見られたくない、恥ずかしいとずっと思っていた。

だが母はお下がりを着る私を見ていつも「似合っている」と絶賛した。どれだけ母が絶賛しても私は嬉しくなかった。

 

そんなある日のこと。母と服を買いに行ったときに私はあるワンピースを見つけてそれを母におねだりした。白い柔らかい生地で出来たレースやリボンのついた女の子らしいかわいいワンピースだった。どうしてもそれが欲しかった・・・。

だが母は

「あんたになんて似合わない、こんなバカみたいなもの!試着してみなさいよ、どれだけおかしいか自分でも分かるはずだ」

と無理矢理試着をさせられた。私は無理矢理ではあったものの、実際に試着をしたそのワンピースを気に入ったのだ。だが、試着した姿を見た母はここでも

「ほら、似合わない!何だか服に着られちゃってる感じがするねぇ。それにこんなデブデブしたあんたがこんなもの着て歩いたら笑われるでしょ?豚がフリフリの服を無理矢理着たみたい、おかしいわ!それともチンドン屋?アハハ!」

と小ばかにしたように私に言い放った。それだけじゃなく、近くにいた私たちとは全くの無関係の買い物客や店員にも「ねー、コレ似合わないでしょう?」と同意を求めていたのだ。この日はショックで眠れなかったことを今でも覚えている。

これ以外にも学芸会などで女の子っぽい格好をしても「太ってきたからおかしい」や「ドレスを着たミニラみたいだ」などと散々バカにされ笑われた。

 

小学校の修学旅行やその他私服で行く学校の行事で着る服も母が勝手に選んで私に着せて行かされた。もちろんそんなもの嬉しくもない、他の友達はみんな自分で選んだものを着ているのに。そう思って服を買いに行く時にいつも「私が選ぶ!」と言っても母は聞く耳を持たず。勝手に陳列棚から母の好みの服を持ってきて買うというもの。それに納得できず抗議をしたこともあったが、私は母からいつも

「誰がお金を出していると思う?買ってもらってるくせに生意気!」

などと罵倒された。

 

そんな中、小学校6年生の頃の学習発表会にて私服を着る機会が出てきた。そこで自宅近くのスーパーへ行き、子供服売り場で服を探していた。だが、そこで買ってもらえたのはセール品。緑色の上下の服だったが、明らかに私が着たかったものとは全然違うものだった。そしてその緑色の服を着て翌日学校へ行ったら同じクラスの女児数名から

「あ、これ○○のスーパーで安売りされていたやつでしょ?」

「はる香ちゃんちは貧乏だから仕方ないか~」

などとバカにされた。

それだけではなく貧乏という単語が出てきた途端、今度は「家が小さいから貧乏」というところに結びついてしまい、貧乏一家とまで言われてしまう有様だった。周りの子たちは自分で選んだであろうかわいい服を着ていた。その中で私はセール品・・・、格好悪い。もう学校に行きたくない、バカにされるから。

それから母が好きな色は黄色。そこで私は黄色のものをよく身につけさせられていた。

「お母さん黄色って好きなの!」

としきりに話しながら・・・。その反動からか、今は黄色の服や小物は基本的に嫌いであり、あまり持ちたくないと思っている。無論身につけるのも嫌だ。

 

母がこだわっていたのは服装だけではない。実は私の髪型もいつもショートカットにさせられていた。実際に髪を伸ばすことを認められたのは高校入学後。それまでは無理にでもショート(刈り上げた髪型や虎刈り)にさせられた。

おかげで幼少期におしゃれな髪飾りをつけられなかった。ついでに前記の通り男子に間違えられて嫌な思いをするのだ。七五三が終わってからも私の意見など聞かずにすぐに髪はバッサリと切り落とされた。そして母のお気に入りのショートヘアにさせられた。周りの子たちは髪にリボンを着けていたりもしたが、私はそれも許されなかった。

少しでも伸びると「こっちに来なさい!」と無理矢理玄関に連れて行かれ、散髪用ケープをかけられて母が嬉しそうに髪を切るのだ。そして仕上がった髪型、ショートヘア。無論私は切って欲しくないと言ったのだが、母は

「あんたは髪の毛短いほうが似合うんだよね!髪が長い子を見てご覧よ、だらしないでしょ?ボサボサでお化けみたいで」

などと持論を私に聞かせて私を洗脳しようと必死になる。

 

「・・・私だって女の子だもん、お下げ頭だってしてみたいし、ひとつに結わえてポニーテールにだってしたい。それに可愛い髪飾りも・・・」

 

私は母に髪を切られるたびに泣いていた。ちなみに母はいつも坊主に近いショートヘアだった。母の髪の長さは長い時でも国会議員蓮舫ぐらいの長さだった。そして小学生の私の前でテレビを見ている母、いつも褒め称えるのは髪の短いタレントさんや女優さん。時には私を無理矢理美容院に連れて行って「荻野目洋子みたいにしてください!」と母が勝手に注文をつけて短くされたこともあった。だけど私は母とは反対に髪の長い女優さんやタレントさんが好きだった、中山美穂浅香唯、そして同年代の子役だったら間下このみちゃんやテンテンちゃん(80年代後半のキョンシー映画に出ていた台湾の子役)など。彼女たちみたいに長くきれいな髪になりたいとずっと願っていたのだ。それを両親に話したところ

「美人はみんな髪が短い。ブスだからみんな髪を伸ばすものだ」

などと訳の分からない持論を延々と私に話し続けるのであった。そんなある日、学校で髪を伸ばすことが流行り始めたのだ。クラスの女子はみんな可愛いヘアピンなどの髪飾りをしているが、私の髪にはそれは無かった。そう、髪が短かったから。周りからは「男女(おとこおんな)」などとからかわれることもしばしば。それだけじゃなく、和田アキ子だの東海林のり子(私は丸顔だったため)だのとまで言われる始末。少なくとも小学生女児からすればもっと若い人に例えられたいのだが。

それ以前に私はヘアアクセサリーというものには本当に強い憧れがあった。けれど髪が短く付けられないが、可愛いものが欲しいと思って安く売っているヘアアクセサリー類は少ないお小遣いで買っていた。だけど髪を伸ばすことも許されていなかったために着ける機会なんてそうあるわけもなく、結局は友人や従姉妹にあげてしまう。

そして従姉妹もいつも可愛いヘアアクセサリーを当たり前のように着けている。私はそれを見ていつも羨むばかりであった。何度も母に髪を切らないでほしい!と懇願したが母は私が髪を伸ばすことを許してくれることは無かった。

余談だが母は私が中学校2年の終わりから3年の前半頃に一度だけおかっぱ程度の長さに髪を伸ばした。だが正直言って似合わない・・・。本人は好きでそのヘアスタイルにしているのだろうが、どう見ても似合わないのだ。そこで私は今までの恨みもあって敢えて

「似合わない!」

「それってカツラ?」

「頼むからこの髪型で参観日に来ないで」と言ってやった。

ついでに母親に「沙悟八戒(髪型がおかっぱ、体型がブタということで孫悟空沙悟浄猪八戒を足した)」とあだ名まで付けた。実際に私は母に

「似合わないしどう見ても沙悟八戒だろ!」

と笑い飛ばしたら、母は真面目にキレ始めたのだ。

母が今まで私にしてきたことを考えればその「沙悟八戒」なんていうあだ名なんて数万分の一にしかならないだろう!それが当時の私の精一杯の仕返しだった。

「沙悟八戒」が功を奏したのか、母はその後間もなくして髪形を元の短い髪型に戻した。ついでにおかっぱだった母の髪が薄かったら恐らくその時付いたあだ名は「アルシンド」か「落ち武者」だっただろう。

 

靴も可愛い靴を相変わらず買ってもらうことは無かった。ボロボロになるまで履いて・・・しまいには兄のお下がりということも珍しく無かった。やはり周りを見ても女子らしい可愛いデザインのものばかり。私がここで買ってもらえた靴は、安売りになっていた緑色の女の子向けの靴。それと白い靴1足ずつ。

それでも嬉しかったが、私は本当はその時、あるメーカーの赤い運動靴がどうしても欲しかったのだ。だが母も私たちと一緒に靴を買いに行った兄も

「これはお前に似合わない」

などと言い始めて結局買ってもらえなかった。だが兄にはそれと同じメーカーの黒い靴を買ってあげていた。心の中では

「別に私はそれじゃなくても、自分で選ばせてくれてそれを買ってくれればいいのに。またお兄ちゃんだけ・・・」

と悲しくなった。

服も相変わらず母好みの服を買い与えられた。色も黄色とかそういうもので。その中で唯一私が選べたワンピースがあったのだ。私は気に入って着ていたのだが、母も兄も「安っぽい」「妊婦みたい」などとバカにするばかり。私は一体何なのだろう・・・。そういう気持ちになりながらファッション雑誌をみていた。そこで可愛い服が取り上げられていて母におねだりしても

「アンタには似合わない!こんな安っぽくて田舎くさい服。お母さんだったらもっと可愛いのを選んであげるのに」

と。そして母が選んだ服は到底可愛いと思えない時代遅れのものばかり。

 

ある小学校5年生の終わりに母方の親戚から大量のお下がり服を貰った。母は助かる!と大喜び。私にとっては好みのものも無い、母が喜ぶからとりあえず着るか・・・というような気持ちであった。

デザインも全て時代遅れで生地も古い。何度も洗濯をしているせいか色あせもありで。無論それらはブランド服でもない。小学校高学年にもなれば服や身につけるものは自分の好みがはっきりしてくるので自分で選ぶものだろう、それなのにそういう機会があっても母は決して私に服を選ばせる機会などくれなかった。

6年生になれば卒業アルバムの写真撮影もあるわけで、皆おしゃれをしてくる。中にはハイセンスなファッションセンスの姉がいる家の子だとそのハイセンスなお下がりを着ていたり、そうでなくてもアルバム撮影のために新しく服を買ってもらった子もいた。更にはヘアアクセサリーを仲良しの友達とおそろいにする子もいた。反対に私が着ていた服、それは親戚からのお下がりの時代遅れな服。ヨレヨレで色あせも普通にあり見るからに普通にお下がりだと分かる服をこういう大事な日に着せられてしまったのだ。無論教室に入って他の友達の服を見てすごく悲しい気持ちになった。

髪もカリメロみたいな変な髪形でヘアアクセサリーも付けられず・・・。私も可愛いヘアスタイルにしたかった。

 

この他にも母によって叔母が編み物の練習に編んだベスト(お世辞にも上手とはいえないシロモノ)や母の知り合いから貰ったセンスの悪いお下がり(小学校低学年の子が着るようなキャラクター物もあった)を何度も着せられた。その度にクラスメイトたちからはお下がりだとすぐにバレて

「貧乏」

こじき

などと呼ばれた。それだけじゃなく

「どこのゴミ捨て場から拾ってきたの?」

というような心無い言葉までかけられた。お下がりは中学校1年生ぐらいまで続くこととなった。中には生理用の下着まであったぐらい。しかもそれには油性ペンで元の持ち主の名前がデカデカと書いてあるというお粗末なもの・・・。人が見える場所に身につけるものではなくとも正直恥ずかしくて結局それは一度も身につけることなくこっそり廃棄処分となった。だいたい名前の書いてある下着などをお下がりとして誰かにあげようとする人の気持ちは今でも理解しがたい。

 

はぁ、もう完全に私は母の「着せ替え人形」・・・。小学生で既にこの気持ちは芽生えていた。

 

そんな小学生時代を過ごしていた私、さすがに少しは改善されるだろうと思っていたが、中学にあがっても高校に進学しても改善される見込みなどなかった。

兄にはナイキとかコスビーとかのブランド服をねだられた通りに買い与えるが、私には相変わらずワゴンセール品やバーゲン品。当時中高生の私にはその待遇だった。それについて母は

「お兄ちゃんは独り暮しをしているんだし、それだけにみすぼらしく見られては困るでしょ?」

と。それをいいことに兄は高価なものをおねだりするようになり、兄の周りはブランド物の小物や服、ナイキなどの高価なハイブランドの靴、それも履ききれない量の靴で当時兄の住んでいた下宿の部屋の入口の靴箱があふれかえっていた。一方私はブランド服が買えるほどの小遣いももらえず(月2~3000円ほど)。バイトをすることも許されなかった。

中高生ぐらいになればちょっとしたブランド物に憧れるでしょう、それなのに母はいつも私にはワゴンセール品やバーゲンで売られている安い服。私もブランド服への憧れもあってか仲の良い友人から安くブランドの古着を売ってもらうなどもした。

その友人も我が家の環境については理解していたのだ。そのせいか、度々

「ねーはる香、○○のカーディガンあるんだけど、買わない?」

などとよく持ちかけてきては安値で売ってくれた。その度にその友人には感謝していた。

 

ハイブランドの靴を履く兄とは反対に私の靴は穴が開くまで履いていたこともあった。そして買ってもらえたとしてもこちらも安売りされているものや、数年前のデザインであり今履くには既にダサいデザインに成り下がったものばかり。

バイトが出来るようになってから、やっと自分で学校のある地区の少しオシャレなお店で服や靴を買うようになったが、それも母に見つかると

「あんたにそんなもの似合うわけない!レシートある?お母さんそれ返品してくるから!」

と息巻いていたものだ。それだけではなく母からは私が選ぶもの買うものは全て「無駄遣い」認定されてしまい、バイトで稼いだお金も取り上げられそうにもなった。

 

社会人になってからも暫くは私が服を買うときに母は無理矢理付いてきては私が着たくない服を無理に選んで私に買わせていた。例えば少し高いブランドのスーツや紺地のブレザーにチェックの膝下スカートなど。靴もローヒールだったりローファーだったり。どう見ても「良家のお嬢様」にしか見えないようなもの。

母は「私は娘のスタイリスト」だと勘違いしていた。出かける際の服装や出勤時の服装をいちいちチェック。気に入らなければ「着替えてこい、これはダサい」などと出勤前でも無理やり着替えさせられることもしばしば。

いちばん困ったのはある出張の日の朝。スーツを着て出かけようとしていたところ、「このカバンはダサいし安っぽい。ブランド物に変えろ!髪形も田舎くさいから今すぐ結わえるか何とかしろ(当時ショートだったので、どう変えれば?となった。例えるなら韓国ドラマ「冬のソナタ」の成人したユジンぐらいの長さだった)!」と急いでいるのに無理やり呼び止めた。無論母は私がカバンや髪型を変えるまで玄関のドアの前から動かない。カバンも無理に小さい肩掛けのもの(母曰く「高級ブランドだから小さくても抵抗はない」)に変えさせられてA4の会議の資料が入らず困った。これについては会社に着いてから先輩に事情を説明してブリーフケースを借りることが出来て事なきを得た。そもそも母は出張の時の服装などについてはどう考えていたのだろう、仕事という以前にビジネスパートナーの会社に出向くわけでファッションショーに出るわけでもなければ雑誌の読者モデルになって撮影に出かけるわけでもない。当然遊びに行くわけでもないのでそれなりの服装は心がけていたつもりだったが、母からすれば出張も実はおしゃれして出かけるものだという認識だったのだろう。この時点で何か勘違いをしていたとしか思えない。

 

この反動なのか、私は社会人になってから一時期自分が稼いだお金は全てブランド服や靴や小物に費やすようになった。服を買うのはいつも決まってブランドのブティックやデパートのブランドのショップなど。18歳でシャネルのスーツを買って着ていた時もあった。高い買い物をしても私はそれを決して無駄遣いとも思わず、ただ母の言うとおりにしたくない一心で。

ただ、今となってはブランド服はあまり着ずファストファッションセレクトショップで服を買うようになった。ファッション雑誌も青文字系のものを好んでいる。そして着こなしやアレンジなど、自分で手を加えることも増え、周りからもおしゃれだと褒められることが多い。中にはどこで買ったのかを聞いてくる人も現れたぐらいである。

実はそのつもりは全く無かったが、夫にも服のコーディネートを任されるぐらいである。嬉しいことに夫は私が贈ったネクタイ、それから譲ったネクタイを出張のたびにずっと着けていてくれている。実はこれは私が自分で使うために買った某パンク系ブランドのメンズ物の紺色のネクタイと、同じブランドのゴールド系のネクタイだ。ある出張の前にネクタイの事で困っていた夫に「あまり使わなくなったから、もしよかったらこれを使う?」と譲ったものと父の日に贈ったものである。

 

さすがにもう私は誰の着せ替え人形でもない。息子を自身の着せ替え人形にするつもりも無い。息子が着るものはいつも息子に選ばせている。無論指図はしない。

彼はいつも私がよく行くファストファッションのお店やスーパーの衣料品売り場にあるような安くて良品なものだったりキャラクター物の服を選び、さらに少し可愛いデザインのものを選ぶが、それについても私は基本的に口出しをすることはしない。サイズさえ合っていれば良いと思っているから。靴にしても普段使いのものだってそう。幼稚園で使う小物類も本人に選ばせている。ネットで買う場合にも息子本人にちゃんとどういうものかを見せて、確認してから買うようにしている。

当然息子にも選択をする自由があり、息子にも好みがあるのだからそれを尊重していきたい。それは私と夫の希望でもある。

幼少期の体のトラブル、食生活

前章で書いたとおり、習い事地獄だった幼い頃・・・

そんな小学校1年生のある日に突然耳が痛くなり熱も出した。その日は風邪をこじらせた中でスイミングへ行き、それが原因と思われる中耳炎を起こしたのだ。

翌日に地域の総合病院の耳鼻科にかかり、即患部の切開をすることとなった。鼓膜を切開して中にたまった膿を出すこともあり、それはものすごい痛みで大泣きする私。そんな私を見て母は

「他のお友達だってみんなやってるんだから、我慢しなさい」

の一言のみであった。痛い処置を終えても痛さと恐怖から泣いている私を見て母からは

「痛いのによく頑張ったね」

の一言なんて無い。あったのは

「帰るわよ」

の一言だった。

その後も中耳炎などの耳のトラブルは続き、医師の助言もあってスイミングは小学校3年生に上がる前に一旦中止、そして小学校3年生の夏から再開することに。中耳炎は小学校1年生の頃に1回と、2年生の頃に1回、その間にも耳のトラブルは多々起こってしまい一時は難聴にもなった。

難聴になった時には常に学校のチャイムの音が半音上がった音で聞こえるなど、明らかに可笑しいことばかりが1ヶ月ほど続いていた。時には校内放送がほとんど聞こえないこともあった。度重なる耳のトラブルで学校は休みがちになった時期もあり、担任の先生も心配するほどだった。難聴は今でも度々起こる。やはり聞き取りづらい、音が半音上がった状態で聞こえるなど。

 

それだけじゃなく実は小学校1年生の頃に一度円形脱毛症にもなっている。

それは小学校1年生も終わりに近づいてきた頃、私がある日家でテレビを見ながら髪をいじっていたところ、突然髪が束になって抜けたのだ。母もそれを見て驚き、髪が抜けた箇所を見るときれいにそこだけが禿げていたのだ。母はあわてて私をかかりつけの病院へ連れて行き、円形脱毛症であることが発覚したのだ。残念ながら原因は未だに分かっていない。ただ周りからは『ストレスじゃないのか?』という声もあったそうだ。円形脱毛症、一度かかるとその後何かの拍子で再発することが多い、というわけで成人した現在まで数回再発している。

この時の脱毛症はかかりつけ医では原因が分からないということで、ここでも総合病院のお世話になることに。こちらは皮膚科にかかったのだが、ライトを頭に当てられたり、医者が私の頭をルーペで見たりと、正直奇妙な気持ちだった。それだけじゃなく、家に帰れば兄や父からは「ハゲ」と言われ笑われ、それを見ていた母から更に笑われる。さすがに学校へ行く時には髪を上に結び禿げている部分を隠していた。突然髪を結わえて登校したことから友達からはどうして?と理由を聞かれたが、からかわれるのがいやだったので円形脱毛症になったとは言わず「何だか、こうしてみたかったんだ」などとひたすら笑ってごまかした。

ただ、母から担任の先生へは円形脱毛症になったことは伝えられ、学年末の保護者面談のさいに先生に患部を見せたことは覚えている。先生も

「学校以外に忙しくて疲れているのでは?教室でも実は落ち着きが無いことがある。それとちょっとしたことで泣くことが多いのでずっと気になっていた」

と母に伝えたが、母にはちゃんと伝わっていなかったのだろう。私も正直習い事三昧な日々に嫌気がさしていた。もっと友達と遊びたい、自分がやりたいと言ったことだけをやりたい、好きなものでも母が付き添っての練習なんて嫌・・・。

 

体のトラブルは円形脱毛症や中耳炎だけでは済まなかった。アレルギー体質だけに鼻炎や気管支喘息にも幼少の頃から苦しめられていた。アレルギー性鼻炎になればいつも耳鼻科に連れて行かれ、喘息になれば病院行きは免れず幼稚園も学校も休みになってしまう。小学生になってからも喘息は出続けていた。

その中でいちばん酷かったのが小学校3年生の頃。気管支喘息の発作が酷くなり夜中に救急病院へ担ぎ込まれた。いろいろと医者に検査をされるが、それが幼い私にとって苦痛でしかなかった。その際私には何の説明も無くいきなり母と看護師がベッドに私の体を押さえつけて別の看護師が右手の甲に注射を打った。手の甲に注射を打つ、大人でも腕に刺される以上に痛い、それが子供となれば・・・、言うまでもないだろう。その注射の痛さにわんわん泣く私に対して母は「これやらないと治らないの!尿検査でプラスになってるんだから(何が?)」とただヒステリックに私に言うだけであった。

その後間もなくまた体を押さえつけられて今度は腕から血液を採ることに。だが血管が見つからないのか上手く注射針が刺さらず何度も刺されては痛さと恐怖でわんわん泣く私。母はまた「あんたが暴れてるから血を採れないの!痛いのなんて我慢しなさい!すぐ終わるはずなんだから!」とヒステリックに怒鳴りつけるだけ。とりあえず何とか採血は出来たものの、腕には痛々しい痣が残る。服にも血が付いていたのを覚えている。

この一件以来、大人になった今でも「注射」というものが嫌いであり、血も見ることが出来ない。血を見ると卒倒する事態である。息子の予防接種でも注射針が息子の腕に刺さっている間は息子の腕も注射針も見ることができないのだ。自身の血液検査の際も注射器や針、血を見ないように寝た状態で採ってもらうようにしている。予防接種のような上腕部に注射をするものですら恐怖でしかない。病院で看護助手のアルバイトをしていた時も検体の血液や注射針を見て卒倒した。

 

同時に私は小学校2年生の頃まで、給食を食べない子供だった。みんながどんなに美味しそうに食べていても、私は何だか食べたくない。たとえ大好物が給食で出たとしても、家では普通に食べるものが給食に出てもそれを何故か食べたくなかったのだ。

その時の私は「食事は楽しいもの」だと思っていなかった。食事は説教されて食べるものだと思っていた。というのも我が家の食事の環境にはいろいろと問題があったからだ。好き嫌いも多かったうえに、アレルギー体質でもあった。父も母も好き嫌いが多いというのは良くないと思っていただろう。だけど無理矢理食べさせればいつかは食べるようになるという考えだったのだ。それから特に母が私の体型を気にしていた。

小学校に入学してから母は私が少しでも太ると「また太ったね~。痩せないといけないね」と言い、食事も好きなものを食べさせてくれず、野菜サラダばかり食べさせられたこともあった。おやつも食べさせてもらえなかったこともある。酷いときには友達が遊びに来ている時に、その友達にはおやつをあげて私にはおやつをくれなかった。

そんな中で母はアレルギー体質の私に対して「1日に300グラムの生野菜を毎日食べればアレルギーは治る」というどこから聞いたのか分からない信憑性すら疑う話を信じて大量の生野菜を私に毎日食べさせていた。当然そんなものばかりでは飽きてしまう、そして私が食べなくなると

「アレルギーが治らないでしょ!こっちはねぇ、忙しいのにお金かけてやってやってるの!そんなのも分からないの?」

とヒステリーを起こしては無理矢理私に大量の野菜を食べさせようと必死になっていた。

 

父は父で私の好き嫌いの多さに悩んでいた。親であれば子供の好き嫌いを心配するという気持ちも理解できるが、「好き嫌いを直す!」と異常なまでに息巻く父に私は理解できずにいた。

父はよく私に

「好き嫌いばかりしているからバカになる」

など心無い言葉を浴びせたのだ。そして「好き嫌いをなくす」と言って嫌いなものを無理矢理食べさせる。それを食べないと好きなものを食べさせてくれない。たとえ嫌いなものを吐いてしまったとしても、それを食べろと強要。その繰り返しだった。

こんな事をされても私の好き嫌いは治るわけもなく、もっと嫌いになり、最終的には食事が楽しいと思わなくなるのが普通だろうと思うが。

それから父も母も兄も私の好き嫌いの多さに嫌気が差したのか、ある日食事の時間に私に「全員で体を押さえつけて嫌いなものを食べさせてやる!」と私に言い放った。この時点で既に家族との食事は大嫌いだった。もう家族団らんなんて言葉、「そんなものありません」と思っていた。

それから小学校3年生頃のある日、母が用意した食事が足りないという理由から私は食事なしという日があった。けれど母は兄には普通に食べさせていた。それに対して私がそのことを不満だと両親に言うと「気に入らないなら出て行け」と家の外に追い出されて1時間ほど寒空の下で過ごした。家族との食事の時間ほど嫌なものはなかった。

後に私は魚介類アレルギーであることが発覚。幼い頃から嫌いと思われていた生魚も実は幼少期に既にアレルギー反応が出ていた。それにも関わらず好き嫌いとだけ判断され、本当に苦しめられた。あの時もし私に強いアナフィラキシーが出て命に関わるようなことがあったなら、両親はどう思ったのだろう?今でも疑問である。事実蕁麻疹が出たこともあったが、母からは「虫にでも刺されたんでしょ?」と軽く対応されたものだ。

アレルギーばかりではなかった。小学校5年生の頃に初めてインフルエンザに罹患した時も理解に苦しむことばかりだった。その日は学校からの呼び出しで母が迎えに来てくれて病院へ行った。余談だが最初に母に連れて行かれた病院にて、病院の入り口に救急車が止まっていた。私も母も「救急車、誰か重篤な患者さんでもいるのかな?それかインフルエンザが流行っているから・・・きっとそうだよ」くらいにしか考えていなかった。

病院の建物に入って受付を済まそうと母が受付にいる女性に声をかけたところ、受付の女性が

「あ、あの・・・。先生、今・・・」

と何かを言おうとしていた。そこで母が

「どうしましたか?」

と言ったところ、その女性は

「先生、救急車で。先生、血圧で倒れて救急車でこれから大きな病院に搬送されますので・・・」

と。これでは診てもらうことが出来ないと、近くの別の病院へ行くことに。

別の病院に着いて診察をしてもらう。ここでは風邪との診断。吐き気もあったのでそこで吐き気止めを処方されたのだが、大人の分量で処方されていたのか指示通りに服用後、私は幻覚症状を起こした。その幻覚症状というのは頭を誰かにすごい力で掴まれて無理矢理首を回されるような感覚だった。それと同時に頬を片方向に引っ張られるような感覚も同時に襲ってきた。本当にそうされているかのような感覚で正直「私はもう死ぬのか・・・」とも思ったぐらい。幻覚で苦しむ私を見て父は兄と共に笑って見ていた。その後両親はさすがにただ事ではないと気づいて救急病院に連れて行ってくれたが、未だに事あるごとに「あの時のお前、とうとう頭がおかしくなったんじゃないかって本気で思ったけど、笑えたなぁ。『くぅ~びぃ~が~、まわる~』なんてねぇ!」と兄と共に笑いながら面白おかしく話すのだ。兄にいたってはそのときの私のモノマネを大げさにして笑いを取ろうとする始末。今考えても兄と父のその態度は許しがたい。人の苦しむ姿を見て笑うなんて真人間のすることじゃない!とその当時の私は早くもそう思った。

その後私は救急病院にて血液検査をしてもらい、インフルエンザにかかっていることが発覚した。この日は朝方まで点滴をしてもらっていた。おかげで幻覚も治まり、熱も下がっていった。

 

私は翌年もインフルエンザに罹患するも、ここでも母は初期症状を見落としたおかげで今度は悪化してしまったのだ。幻覚に初期症状見落とし・・・本当に運がないとしかいい様がない。

母は私の体にインフルエンザの初期症状の関節の痛みがあったのにもかかわらず、

「あーこれねぇ。大丈夫、成長痛だから!ほら、お兄ちゃんだって成長痛はよくあったからね!これから身長が伸びる証拠だから」

などと言っていたところ、今度は40度近い高熱と脱水症状が出て母はやっと事の重大さに気づく始末だった。この時は予想以上に症状が悪化してしまったため、かかった小児科の先生からは「どうしてこんなになるまで放っておいたのか?」と怒られ、点滴をして何とか事なきを得た。人生初の点滴だった。友人からの噂で聞いていたが、本当におとなしくしていればいいだけで初めての点滴注射は大して痛くなかったというのを覚えている。

引越し後の生活、そして習い事地獄

私が4歳になったばかりの頃に現在の実家のある場所に引っ越した。

後に父に聞いた話だが、私たちが暮らした長屋の部屋に兄の学習机が入らないことが分かり、急遽引越しが決まったのだ。1週間2週間ほどで父は長屋よりも広い4人家族が住むのに良さそうな条件の物件を探して、そこへ引っ越すことになった。これに伴い私は入園するはずの幼稚園も辞退し、新しい住所から近い公立の幼稚園に入園することにもなった。新しい場所で正直初めてのことばかりで今まで仲良しだった裏の家の兄妹や近所の友達はそこに居ない、幼稚園の入園式の時なんて本当に不安で落ち着きが無かった。入園式の時に撮った集合写真はなぜか私は上を向いて写っていたのだ。どこを向いても知っている友達なんていない、覚えているのは入園式でクラスメイトになったある男の子からいきなり髪を引っ張られたこと。ものすごく痛くて泣いていた。その後も幼稚園に行っても私はどこかそわそわしていて、気の強い女の子や男の子からすぐに意地悪の対象になっていったのだ。

 

このあたりから母は洋裁にはまりはじめた。近所に洋裁教室をしている兄の同級生のお母さんがいて、そこに通い出したからだった。

それからというもの、私の着る服は母親好みのものを着せられる。私が要求を出してもすべて無視、却下。いつも母親の手作りの服を着せられてお姫様のような格好をさせられて幼稚園へ登園させられていた。そして汚して帰ってくると怒られるという何とも理不尽な事が待っている。

幼稚園なんて本当に雨の日以外は外でめいっぱい遊んで泥や砂で汚してくることが分かっているのに、いつもフリフリな服を着せられて・・・。それを見たクラスメイトの男子たちや気の強い女子からは「ぶりっ子」「服が変」「頭がぐちゃぐちゃ(三つ編みを解いたウェーブをツインテールにしていった時)」と言われ、その他の女子たちからは反対に「お姫様みたい」などと言われていた。そういう格好と周りからはぶりっ子と言われるような性格であったせいなのか、年長さんの子達にもしょっちゅうちょっかいを出されては泣いていた。けれど母は服装や髪型を改めるわけでもなく、子供のしたことでしょ?と言わんばかりに何も対策など立てることは無かった。

兄についてもやはり新しい場所で落ち着きが無かったようだ。兄も気が弱かったせいか、やはり上級生たちからちょっかいを出されることもしばしば。酷い場合だと毎日のように近所のある上級生から暴力を振るわれていた。そんなある日、母がその現場を目撃して兄をいじめていた上級生を叱ったのだ。だが上級生本人は母のお叱りなど馬耳東風であり、母も相当悩み兄と一緒に泣いていたこともあった。その上級生は我が家からそんなに離れていない場所に住んでいた。彼の父親は医者であり、そのせいもあってか常に周りの子達の前で威張り散らしていたのだ。周りの子供たちはやはりいじめられたくないのか、その子に服従し兄の周辺では変な主従関係が出来上がっていたのだ。だが、そのような事態は長く続くはずも無かった。ある日兄をいじめていた上級生の家が破産してしまったのだ。そのせいもあってか上級生宅は我が家のエリアから夜逃げ同然の引越しをして突然いなくなってしまった。それ以来、主従関係も無くなり兄もいじめられなくなった。母もそれを知って「医者だからって威張りやがって。ふんっ、ざまぁみろ!と思っている」と言っていたぐらいであった。

 

父も引越し前の父とは明らかに違う父になっていた。

仕事から帰ってきて私たち兄妹の部屋の片付けが終わっていないなら、容赦なく幼い私たちを怒鳴りつける。大切にしていたおもちゃを私たちの目の前で壊す、気に入らなければ手を挙げるなどそういう異常な行動が目立ってきたのだ。引越し前のように私たちが父の元に駆け寄って遊んでもらうということも次第に減っていった。

それと同時期あたりから、私たちの住む家の周りにはいつも誰かがうろついていた。私たちの家の周辺は実は地元の財閥企業に勤める方々が住む地域でもあり、そんな地域の一角にある小さな平屋建ての我が家はその人たちから見たら貧しく奇妙にでも見えたのだろう。家を塀の外から覗かれたこともあった。私が外で遊んでいると突然近所の人に声をかけられることもしばしば。家を覗いていた人と目が合うことも少なくなかった。

そういう生活に父も我慢の限界だったのかストレスを発散するかのように家では子供である私や兄に怒鳴り散らすこともしばしば、ほかにも無理をして何度も新車を買うなどもした。その時買った新車も次の年にはまた別の新車に変わっていた。それもスカイラインなどの高価な車に・・・。

ほぼ同じ時期に父は後部座席の床が抜けて廃車寸前だった母のオンボロ車も廃車にして新車を買い与えていた。それから車以外の家財道具などの目に見えるものを高価なものに買い換えたりもしていた。休日には決まって私たち兄妹は両親に家具屋や車のディーラーへ連れて行かれ買い物に付き合わされた。両親はおそらくご近所から好奇の目で見られたくない・・・その一心で必死に見栄を張っていたのだろう。見栄を張り続けた結果、自分で自分の首を絞めてしまったのだと、今となってはそう思う。少なくとも私の目にはそう映った。

変わってしまったのは父だけではなかった。母も変わってしまった。今思えば母は同じ市内とはいえ知人もいない全く知らない土地に幼子ふたりがいる状態で引っ越してきて心に余裕がなかったのだろう。

 

私が幼稚園に入園して暫くした頃、母が突然私を車に乗せてある場所に連れて行った。

そこは家から車で20分ほどの場所にあるバレエ教室。母が勝手に申し込んだものだった。事前の見学も私への意思確認もなく、突然バレエ教室に連れて行かれ、私の意志など関係なく入会となった。

私はその次の週からそこのバレエ教室へ通うことに。バレエのある日は幼稚園が終わると家で着替えをしてスクールバッグにレオタードとタイツとバレエシューズを入れて母にバレエ教室へ送って行かれ、教室に置いていかれるのだ。無論その日は近所に出来た友達と遊ぶなんて許されなかった。遊んでいても「これからお出かけするから~」と母が一方的に友達を家に帰してしまうのだった。もちろん私の心の中ではもっと友達と遊んでいたい、レオタードやバレエシューズを身につけるのではなく普段着で泥だらけになって友達と毎日遊びたいというのが本音。それが強制的に着たくもないレオタードを着せられてバレエシューズを履かされ、そして母も友達もいない空間でひたすら踊らされる・・・。レオタードもバレエシューズもどんなにきれいなものであっても憧れなんて無かった。無論教室に置いていかれるときに私は寂しさとバレエをやりたくない思いからずっと泣いていた。

「もっとお母さんと一緒にいたいし、友達とも遊びたい。こんなことしたくない。こんな場所嫌い・・・。バレエなんて大嫌い」

何を言っても母は私の言い分なんて聞いてくれなかった。レッスン中ずっと泣いていたこともあった。曲がかかってみんなが踊っていても私は踊りたくない。「何かが違う」と自分の中で自問自答していた。

そしてレッスンの終了時間になって母が迎えに来る。母を見つけてすぐに駆け寄る私。だけど母は私が泣いていたことについて先生に謝る。私には「頑張ったね」の一言も無い。

帰りの車の中ではいつも母から

「どうして泣いてばかりなの?こっちは高いお金を払って通わせてあげているの、辞めたらお金がもったいないでしょ?もう少し頑張れないの?誰も泣いていないじゃない!」

といかにも私が望んで入会したかのような酷い言葉が並ぶお説教が続いた。私はバレエをやりたいなんて言った事はないのに・・・

 

母の決めた習い事はバレエだけじゃなかった。

小学校にあがるまでにエレクトーン、ピアノと加わっていった。そして小学校にあがると空手と水泳も習い始め、そこにガールスカウトへの参加も加わった。ただ空手だけは私が習いたいといって習わせてくれた。兄が小学校1年生の頃から空手を習っており、そこに母と一緒に兄を迎えに行ったときに仲の良いクラスメイトの女子数名がいたこともあって、私もやってみたいと思ったのだ。これだけは私が望んでいたものだった。

ガールスカウトへの参加は、母が親しくしていた近所の娘さん(私より3歳上)も参加しているということもあり、母が勝手に参加させようと決めてしまったのだ。これも訳も分からず参加させられた感が拭えない。隔週日曜の午前中に近くの公民館で集まりがあり、そこへ否応無く連れて行かれた。そして私はよく分からないままそこに参加・・・。母曰く「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」とのこと。まだ小学校1年生なのに・・・

この時点で習い事だけで5つ。加えてガールスカウト。学校も加われば休みなんて土曜日ぐらいしかない。はっきり言ってほとんど友達と遊ぶことも許されない状態だった。夏休みになれば訳も分からずガールスカウトのキャンプに参加させられた。無論家族とも離れ離れになる。そして夜になれば寂しくて泣く・・・。ガールスカウトがある日曜が正直憂鬱だった。

ガールスカウトへの参加が決まって暫くすると、そこへスイミングも加わった。こちらは火曜日と金曜日の週に2回。幼少の頃から患っていた小児喘息の改善を目的としていたが、母曰く「喘息も治るし、あんたが太ってきたから」とのこと。お得意の「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」というのが加わったことは言うまでもない。

私は何度も習い事を辞めたいと母に話した。しかし母は

「今やめたらお金がもったいない」と。

母はいつもお金の話しかしない。私が習いたいと言ったのは空手だけなのに、それなのに結局最後はお金でしかないのか、と幼いながらに絶望したこともあった。だが、バレエは小学校1年生の中盤で突然辞める事になる。後に分かったことだが発表会などのたびに教室がそこに通う生徒の父兄たちに高額な寄付金を募る、発表会に出るたびに高額な出演料を払う、公演のチケットをノルマ付きで売りさばかねばならないことが母にとっては不満だったようだ。そういう母の不満もあって辞めることになったくせに私には

「あんたがやる気が無いし練習もしないから!泣いてばかりでこっちが恥をかいた・・・」

と言うのだから呆れる。

今だから言えることは私にさせていた習い事なんて全て世間体を気にするばかりの母の馬鹿な見栄だったのかもしれない。バレエを習って身に付いたことは「母親に怒られないために自衛する術」だけだった。たとえばどんなに寂しい思いをしても我慢して泣かない、泣いたらまた母に怒られるからと。私が寂しくて泣くとお母さんが悲しむ、と。この時点で既に誤った方向に思考が動いていたのかもしれない。

 

同時に習っていたピアノとエレクトーンは、これもきっかけは近所に教室があるからという理由だった。一般の邸宅の一室で個人が某音楽教室の看板を掲げてピアノ教室を開いているというものであり、母もエレクトーンを弾くのが好きだったせいか私も気が付いたらそこに通うようになっていた。実は私の母はエレクトーン講師の民間免許を持っているらしく、看板さえあればいつでも教えられるような状態であった。

教室では私は先生と話をしたり、鍵盤に触れることは嫌いではなかった。だが、帰宅するとすぐに「きょう習ったことをおさらいするから!」と母は息巻いて私をエレクトーンのある部屋へ連れて行く。そしてエレクトーンの前に座らせて楽譜を広げてその日習ったことを復習させるということがずっと続いた。無論母の出す課題が出来なければ出来るまで何度もやり直しをさせられ、おやつも食べさせてもらえないこともあった。夕飯の時間が近くなってやっと復習と練習が終了。毎回エレクトーンとピアノのお稽古に通って帰宅をすれば今度は母からのマンツーマンのレッスンが続いた。正直言って家に帰っても息つく暇もなかった。ピアノの復習もエレクトーンを使ってのものだった。ただ楽譜が違うだけで母のレッスンはエレクトーンと同じものだった。

エレクトーンとピアノについては小学校2年生の中盤頃に教室が突然閉鎖してしまい、辞めざるを得なかった。ただ、後記にある中耳炎騒動もあったせいか他の教室に通ってまで再びエレクトーンを習うなどということは無かった。

後に両親から聞いた話では私の通っていたピアノ教室の先生がある日突然とある宗教に入信、出家してしまいそれに伴って教室を閉鎖してしまったのだ。うちの両親の事だから「自分たちの名誉を汚さないためのその場しのぎな発言か?」とも疑ったが、これは本当だった。私が成人してからのことだが私のピアノとエレクトーンの先生だった方の父親が亡くなった時の葬儀にて、娘であるその先生も遺族として葬儀に参列し祭壇の前に座っていたのだが、皆で合掌する際に先生と先生のご主人らしき男性は合掌をせず、線香もあげなかった。明らかに先生は自身が信仰しない宗教に関与してはならない宗教の信者であろうということだった。

 スイミングに関しては、レッスンが終わるまで母がガラス越しにプールサイドで私のレッスンをずっと見ている、まるでタレントスクールに子供を通わせるステージママのように。そして上手く泳げない場合はまたバレエの時と同じように「こっちは高いお金を払って通わせている」とまたお金の話を持ち出す。

私がある級に進級したての頃、本気でスイミングをやりたくないと思うようになってしまったことがあった。その級で習うことは10メートルを息継ぎなしで泳ぐというものだった。それが出来なければ上の進めないことは知っていたものの、当時6歳の私にとっては難しいものでありどうしても途中で息継ぎをしてしまう。その当時のコーチも指導が厳しいこともあって、私は辞めてしまいたいと思ったのだった。事実そのコーチの厳しさに耐えられずに辞めていく子供たちも多かったそうだ。私も辞めたいと母に言ったが、それに対して母は

「何言ってるの?それじゃお金をドブに捨てるようなものだ!やめるなんて許さない!」

と怒り出す始末。そこでもバレエで身に付けた「母親に怒られないために自衛する術」を実行、意地を張って無事に進級試験に合格して上の急に進むことが出来た。

幼稚園に入ってから小学校1年生、2年生の頃は日中は学校へ行き、家に帰ってからは習い事という日がほぼ毎日で、友達と遊んだ記憶は殆どない。それに「母に怒られないために自衛する術」も実は間違っていることもこの頃の私は知る由も無かった・・・

 

この異常なまでに多い習い事も、母なりの見栄や理想を私に押し付けた結果だったのかもしれない。そして習い事をたくさんさせること、母にとってはある意味ステータスでもあったのかもしれない。「わが子を落ちこぼれにさせてたまるか!」というようなどこかのドラマの中にいる教育ママのように・・・

 

ちなみに兄は小学校入学までの間に、スイミングしか習っていなかった。兄も小児喘息を患っていたこともあり、そのためだったと思われる。そして小学校入学から暫くして空手を習い始めた。私たちが通っていた空手教室は私たちの小学校の体育館で行われていたこともあり、そこの児童が多く通っていた。兄も同じ学年の友人と楽しそうに空手教室に通っていたのだ。

最初の頃こそ空手も楽しいものだったと記憶している。

だが、兄と同じ習い事ということもあってか空手が終わって家に帰れば常にお説教が待っているのだ。

兄や母からいつも言われていたこと・・・

「やる気が無い」

「型が下手くそ」

「組手なのに逃げ腰、あれじゃいつまで経っても勝てない!」

など。そして大会前になると必ずと言っていいほど「特訓」をされたのだ。両親や兄の見ている前で何度も型をさせられたのだ。そして腰が入っていないなどと何度も止められてそれが延々と何時間も続く。その間は学校の宿題も出来ないし、風呂にも入れず、無論寝る時間も遅くなる。結局それも兄や母が「兄弟揃って金メダル」という肩書きが欲しいだけのものだったのだろう。正直私は母や兄の熱血指導にはうんざりしていた。『楽しいの基準』なんて個々違うことだって分かっていたはずなのに。

ちなみに私たちは空手の大会では学年や熟練度に応じて型のみに出場するか、組手にも出場するかが決まる。私は殆ど型のみだった。型のみなら型のみでそれでいいと思っていた。自分の中では「熱血母と熱血兄がうるさいから、とりあえず試合に出られればいい」くらいにしか考えなくなっていたからだ。ただ、試合に出ないという選択肢もあったのだが、それを選ぶことはなかった。なぜなら試合に出ないと言ったところで私の意見など到底受け入れてくれるはずの無い母と兄だったから。母も兄も「試合では絶対に金メダル!金じゃなくてもメダルは取れ!」と私本人を差し置いて勝手に息巻く有様。幼いながらそれに従い、そして心の中だけで母と兄に呆れるしかなかった。というのも、兄は空手を心の底から楽しんでいたのだ。ただ楽しむ対象は私と逆であり、試合に勝ってメダルを取ることや表彰式で「第一位」といういちばんの順位が頭について名前を呼ばれることに楽しさを感じていた。楽しみの対象は別にどんなことでも構わない。ただ、自身の考えをたとえ兄妹であっても押し付けてよいものなのか・・・今でも疑問が残る。

ただ私自身も自分から「習いたい」と申し出ただけに意地でも辞めるとは言わなかった。教室での練習が厳しくても、兄や母からの「特訓」が厳しくても。

 

そして小学校1年生の頃に初めて出た試合。私は型の部小学校低学年に出場した。見たことのない別の道場に通う児童との対戦になった。だが結果は一回戦敗退。正直悔しいとも思わなかった。当時の私は「あー、これが試合なんだね」くらいしにしか捉えていなかったのだと思う。私は試合の結果はどうあれ負けたんだし仕方がないと思っていたのだが、兄も母もそれを許すはずがない。試合が終わってすぐに兄にも母にもねぎらいの言葉すら貰えず

「みっともない」

「馬鹿だから負けた」

などというような汚い言葉を浴びせられた。当時の私は試合に負けたことよりも試合に出たこと自体を褒める、ねぎらうなどそういう気持ちが母や兄には無いことを悲しく思った。ちなみに兄はこの試合で金メダルを獲り、兄や母の描いていたシナリオどおり「第一位」となって表彰台にあがったのだ。ちなみに私の出た小学校低学年の部の試合で優勝したのが、私の友人であったこともあり、母も兄も

「あの子は優勝できるのにねー」

の一言。どうしようもなく悲しい気持ちで一杯だった。この一件以降事あるごとに

「あの子みたいに金メダル、欲しいでしょ?だったらもっと上手くならないと」

などと友人を引き合いに出すことが増えた。

けど私も万年負け続きではなかった。さすがに「負けてられるか!」と思ったのか、小学校3年生の頃に出場した空手の試合で、まさかの1回戦突破となった。対戦相手は同じ道場に通っていた別の小学校の同級生の男子。いつも馬鹿やってワイワイしていたりしていた仲間であって決して仲が悪いわけではなかったけれど、何となく負けたくなかった。そして二回戦も突破。

決勝戦にて・・・惜しくも6人中4位という結果になった。だが私はこれはこれで満足していたのだ、負けたくない相手に勝てたことが嬉しかったから。だが、これを褒めてくれた人は母方の祖父祖母以外誰もいなかった。応援してくれていたはずの母も兄も「次は金メダルね、分かった?」の一言だけを私に言い渡した。自分なりに一生懸命頑張って勝ったのに・・・とずっと泣いていた。それを見た母は

「メダル取れなくて悔しくて泣いてるぐらいなら優勝するしかないでしょ?4位なんてみっともない。負けて獲る賞なんていらないのよ!」

と。

そんなこんなが続いていたが、空手は小学校にいる間は続けていた。最後の方は試合に殆ど出なかったが・・・

4年生の時点では空手とスイミングとガールスカウト(これは習い事じゃないか・・・)以外は既に辞めていたが、ここに今度はそろばんが加わる。それでも習い事は3つ。母から見れば「習い事が多いほうが立派」という勝手な思い込みで私はいろいろな習い事を掛け持ちさせられていたのだろう。スイミングは週2回、空手はメインである小学校の空手教室と別に通っていた道場を含めて週3回。そろばんは週に3回。もっと言うなら私の意志で習い始めて続いていたのは空手だけだった。やる気が起きなくてもおかしくないだろう。

そろばんを習うことになったのは、算数が苦手だった私を母が心配したからだった。こちらも勝手に教室に電話をかけて見学へ行くとアポを取り付けてしまったのだ。そこに1年生からそろばんを習っている同じクラスの優等生の女子がいたこともあり、ここでもまたその子を引き合いに出して

「あの子はねぇ、お勉強がすごく出来るでしょう?そうなりたいよね?ここに通えばもう算数が苦手なんて言わなくて済むようになるんだから」

と勝手な持論を展開し始めたのだ。当時の私はそういう母をもう何度も見ていたせいか、言うことを素直に聞かなきゃいけないと思っていたのだろう・・・完全に母のイエスマンになってしまっていたのだ。嫌なら「やりたくない」と言えばいいのに、結局は言ったところでケンカになるのも目に見えていたし、何かにつけて算数の成績がよくないと「あの時そろばんをやっていれば・・・」となっていることは日を見るより明らかだった。

反対に空手以外でも私はやりたいと言った習い事があった。それは「書道」。学校の授業で書道を習うのは3年生からだった。だが1年生から書き初めをして特選などを獲る子がクラスにいて憧れたのもあったからだ。その子は普段書く文字もとてもきれいだった。それもすごくうらやましく思った。だから私も書道を習いたいと母に何度も申し出たが、母は決まって「書道なんて意味がない」と一蹴していた。

さすがにそんな事だけでは書道を習うことを諦められないと、私がある日強硬手段に出た。それは小学校2年生の頃、書道なんて習っていない私が県の書き初めコンクールに自身の書き初めを出したいと申し出たのだ。学校の担任の先生も驚いていたのだが、それ以上に母親を驚かせた。何せ私は書道など習っていなかったうえにどうやって筆で字を書くのかも分からない状態だったから。そこで母は私を文具屋に連れて行き太目の筆を一本買い与えてくれた。そして使い方も分からない私にその筆を渡して放置していた。私もどうやったら・・・と悩んでしまい、筆の穂先をきれいにほぐしてしまったのだ。無論その筆は使えない。

それを見た母は

「ほらごらん、何も分からないのにそうやって目立とうと(ここでいう目立つというのは書き初めコンクールに出したいと申し出たことだろう)するからそうなるの!まぁ最初から墨も硯も買う予定なんてなかったからいいけど。習字なんて3年生になれば自動的に習うんだから!」

と意地悪く私に言い放った。結局私がどんな強硬手段に出ようが書道を習うことを許可してもらうことはなかった。

幼少期の楽しい話

私は産まれてから4歳になるまで現在の実家の場所とは違う場所に住んでいた。

いかにも昭和の団地というような区画内の小さな長屋に父・母・兄・私の家族4人で暮らしていた。そしてその団地には数軒の同じタイプの長屋があり、私たち一家と同じように4人家族の家庭があったり老夫婦が静かに暮らしていたりと、いろいろな家族が住んでいたものだ。だけど、その界隈はいつも平和でご近所さん同士もみんな仲良しでお互いの家を行き来していたり、大人が近所で立ち話や井戸端会議をするなどいたって普通だった。

 そして私たち兄妹は裏の長屋に住む兄妹や近所の家の子供たちと朝早くから日が暮れるまで遊んでいたものだった。ある日は裏の家に上がりそこで一日過ごしていたかと思えば、雨が降って出来た水溜りで泥だらけになって遊んで服を汚しては母に怒られたり。毎日が本当に楽しかった。特に裏の家に住んでいた兄妹(兄は私より3歳上、妹は私より1歳上)とは本当のきょうだいのように毎日楽しく遊んでは一緒におやつを食べたり昼寝をしたり・・・。時にはどちらかの家で夕飯を一緒に食べていたり。親同士も仲が良く、いつも何かと持ちつ持たれつの関係を保っていた。それだけじゃなく同じ団地に住む家族たちで仙台へ旅行したこともあった。

実は私のいた団地は偶然にも同じぐらいの歳の子供たちがどの家にもいるような状態であったため、親同士もお茶のみと称しては子供を連れてお互いの家を行き来したり子供たちだけでお互いの家で遊ぶこともしばしばだった。だからどこかの家で母親が用事で外出するとなれば交互に子供たちを預けあっていたこともあった。そのためか、ひとつの家に数軒の子供が集まることも普通だった。そして集まった子供たちは長屋の大家さん宅の広い庭を公園代わりにそこでよく走り回っていた。大家さんの庭で遊んでいたかと思えば、家の近くの私道で三輪車や自転車で遊んでいたりして、時には自転車ごと転んでしまい唇を切るケガをしたりもした。

近所の縁日にも行った。縁日も裏の家族と我が家が一緒に行った。そしてそこで買ったひよこを兄と裏の家のお兄ちゃんが一緒に育てていた。そのひよこは私の母方の祖父が作った小さな鳥小屋で飼っていた。ひよこが大きくなると、鶏ではなく軍鶏に育ってしまい、ここでは飼えないということになって近所の養鶏場に引き取ってもらうことになった。そのような楽しい毎日を過ごしていたのだ。

 

私が物心付いた頃には父は既に厳しい人、いつも怒っている人というイメージであり、母はご飯を作ってくれたり長く一緒にいる人であるというイメージだった・・・母については引越しをする前までは。

父はこの頃から怒るとすごく恐いという印象であり、いつも怒っていたように覚えている。たとえば夕食の時間に食べるのが遅いと、まだお皿に食事が残っていてもそれを窓の外に捨てるなど。それだけじゃなくその度に私たち兄妹を怒鳴りつける。母は子供たちの前ではいつも笑っていた、ただ父が私たちを怒るときはそれを黙って見ているだけ。たとえ父が私たちに手を挙げて流血をしても何もしないのだ。

父はその頃には既に曽祖父の代から続く会社(重機屋)を継いでいた。朝は早い時間に出勤して昼休みは家に帰ってきて昼食を食べてまた会社へ戻り、夜7時前には帰宅するという毎日だった。うっすら覚えているのだが、その時の父は「おかえりー!」と兄と私が帰宅した父の元に駆け寄ると一緒に遊んでくれたりもしてくれた。どんなに厳しくてもこうして兄とも私とも分け隔てなく遊んでくれたり、車に乗せて近くのスーパーに連れて行ってくれたりというやさしい一面もあってか、当時は父が大好きだった。母も父が私たちに厳しく接するときに何もしなくても、その他の場面ではすごくやさしい印象しかなかった。たとえば近所の子供たちがみんなで集まって遊んでいた時にみんなに手作りのおやつや昼食を食べさせてくれたり、ニコニコしてエレクトーンを弾いて歌を教えてくれたり。時にはいろいろな童謡もたくさん聴かせてくれて、絵本もよく読んでくれた。

そんな母は若い頃、横浜で幼稚園の教諭をしていた。そのせいもあってか子供が大好きな人だった。いつも近所の子供たちにも、親戚の子供たちにも分け隔てなくやさしく接していた。厳しい面があっても当時の母は私たちに自身の理想像を押し付けることは無かったと記憶している。

前記のとおり父も厳しい面があっても私たち兄妹は父が大好きだった。私たちが熱を出したなら仕事をしていても家に戻ってきて私たちを病院に連れて行ってくれたりもした。うろ覚えではあるが、父が幼い私を抱きかかえて病院へ連れて行ってくれたことを未だに覚えている。そこでオレンジ色のシロップの薬を貰ってきたことも。そして家に帰ってその薬を飲んで次の日には熱も下がっていた・・・。嬉しかった。こんな気持ちでずっと過ごせればどんなに幸せだったか。

 

そんな生活が、引越しをしてからガラリと変わってしまった・・・。