Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

幼少期の体のトラブル、食生活

前章で書いたとおり、習い事地獄だった幼い頃・・・

そんな小学校1年生のある日に突然耳が痛くなり熱も出した。その日は風邪をこじらせた中でスイミングへ行き、それが原因と思われる中耳炎を起こしたのだ。

翌日に地域の総合病院の耳鼻科にかかり、即患部の切開をすることとなった。鼓膜を切開して中にたまった膿を出すこともあり、それはものすごい痛みで大泣きする私。そんな私を見て母は

「他のお友達だってみんなやってるんだから、我慢しなさい」

の一言のみであった。痛い処置を終えても痛さと恐怖から泣いている私を見て母からは

「痛いのによく頑張ったね」

の一言なんて無い。あったのは

「帰るわよ」

の一言だった。

その後も中耳炎などの耳のトラブルは続き、医師の助言もあってスイミングは小学校3年生に上がる前に一旦中止、そして小学校3年生の夏から再開することに。中耳炎は小学校1年生の頃に1回と、2年生の頃に1回、その間にも耳のトラブルは多々起こってしまい一時は難聴にもなった。

難聴になった時には常に学校のチャイムの音が半音上がった音で聞こえるなど、明らかに可笑しいことばかりが1ヶ月ほど続いていた。時には校内放送がほとんど聞こえないこともあった。度重なる耳のトラブルで学校は休みがちになった時期もあり、担任の先生も心配するほどだった。難聴は今でも度々起こる。やはり聞き取りづらい、音が半音上がった状態で聞こえるなど。

 

それだけじゃなく実は小学校1年生の頃に一度円形脱毛症にもなっている。

それは小学校1年生も終わりに近づいてきた頃、私がある日家でテレビを見ながら髪をいじっていたところ、突然髪が束になって抜けたのだ。母もそれを見て驚き、髪が抜けた箇所を見るときれいにそこだけが禿げていたのだ。母はあわてて私をかかりつけの病院へ連れて行き、円形脱毛症であることが発覚したのだ。残念ながら原因は未だに分かっていない。ただ周りからは『ストレスじゃないのか?』という声もあったそうだ。円形脱毛症、一度かかるとその後何かの拍子で再発することが多い、というわけで成人した現在まで数回再発している。

この時の脱毛症はかかりつけ医では原因が分からないということで、ここでも総合病院のお世話になることに。こちらは皮膚科にかかったのだが、ライトを頭に当てられたり、医者が私の頭をルーペで見たりと、正直奇妙な気持ちだった。それだけじゃなく、家に帰れば兄や父からは「ハゲ」と言われ笑われ、それを見ていた母から更に笑われる。さすがに学校へ行く時には髪を上に結び禿げている部分を隠していた。突然髪を結わえて登校したことから友達からはどうして?と理由を聞かれたが、からかわれるのがいやだったので円形脱毛症になったとは言わず「何だか、こうしてみたかったんだ」などとひたすら笑ってごまかした。

ただ、母から担任の先生へは円形脱毛症になったことは伝えられ、学年末の保護者面談のさいに先生に患部を見せたことは覚えている。先生も

「学校以外に忙しくて疲れているのでは?教室でも実は落ち着きが無いことがある。それとちょっとしたことで泣くことが多いのでずっと気になっていた」

と母に伝えたが、母にはちゃんと伝わっていなかったのだろう。私も正直習い事三昧な日々に嫌気がさしていた。もっと友達と遊びたい、自分がやりたいと言ったことだけをやりたい、好きなものでも母が付き添っての練習なんて嫌・・・。

 

体のトラブルは円形脱毛症や中耳炎だけでは済まなかった。アレルギー体質だけに鼻炎や気管支喘息にも幼少の頃から苦しめられていた。アレルギー性鼻炎になればいつも耳鼻科に連れて行かれ、喘息になれば病院行きは免れず幼稚園も学校も休みになってしまう。小学生になってからも喘息は出続けていた。

その中でいちばん酷かったのが小学校3年生の頃。気管支喘息の発作が酷くなり夜中に救急病院へ担ぎ込まれた。いろいろと医者に検査をされるが、それが幼い私にとって苦痛でしかなかった。その際私には何の説明も無くいきなり母と看護師がベッドに私の体を押さえつけて別の看護師が右手の甲に注射を打った。手の甲に注射を打つ、大人でも腕に刺される以上に痛い、それが子供となれば・・・、言うまでもないだろう。その注射の痛さにわんわん泣く私に対して母は「これやらないと治らないの!尿検査でプラスになってるんだから(何が?)」とただヒステリックに私に言うだけであった。

その後間もなくまた体を押さえつけられて今度は腕から血液を採ることに。だが血管が見つからないのか上手く注射針が刺さらず何度も刺されては痛さと恐怖でわんわん泣く私。母はまた「あんたが暴れてるから血を採れないの!痛いのなんて我慢しなさい!すぐ終わるはずなんだから!」とヒステリックに怒鳴りつけるだけ。とりあえず何とか採血は出来たものの、腕には痛々しい痣が残る。服にも血が付いていたのを覚えている。

この一件以来、大人になった今でも「注射」というものが嫌いであり、血も見ることが出来ない。血を見ると卒倒する事態である。息子の予防接種でも注射針が息子の腕に刺さっている間は息子の腕も注射針も見ることができないのだ。自身の血液検査の際も注射器や針、血を見ないように寝た状態で採ってもらうようにしている。予防接種のような上腕部に注射をするものですら恐怖でしかない。病院で看護助手のアルバイトをしていた時も検体の血液や注射針を見て卒倒した。

 

同時に私は小学校2年生の頃まで、給食を食べない子供だった。みんながどんなに美味しそうに食べていても、私は何だか食べたくない。たとえ大好物が給食で出たとしても、家では普通に食べるものが給食に出てもそれを何故か食べたくなかったのだ。

その時の私は「食事は楽しいもの」だと思っていなかった。食事は説教されて食べるものだと思っていた。というのも我が家の食事の環境にはいろいろと問題があったからだ。好き嫌いも多かったうえに、アレルギー体質でもあった。父も母も好き嫌いが多いというのは良くないと思っていただろう。だけど無理矢理食べさせればいつかは食べるようになるという考えだったのだ。それから特に母が私の体型を気にしていた。

小学校に入学してから母は私が少しでも太ると「また太ったね~。痩せないといけないね」と言い、食事も好きなものを食べさせてくれず、野菜サラダばかり食べさせられたこともあった。おやつも食べさせてもらえなかったこともある。酷いときには友達が遊びに来ている時に、その友達にはおやつをあげて私にはおやつをくれなかった。

そんな中で母はアレルギー体質の私に対して「1日に300グラムの生野菜を毎日食べればアレルギーは治る」というどこから聞いたのか分からない信憑性すら疑う話を信じて大量の生野菜を私に毎日食べさせていた。当然そんなものばかりでは飽きてしまう、そして私が食べなくなると

「アレルギーが治らないでしょ!こっちはねぇ、忙しいのにお金かけてやってやってるの!そんなのも分からないの?」

とヒステリーを起こしては無理矢理私に大量の野菜を食べさせようと必死になっていた。

 

父は父で私の好き嫌いの多さに悩んでいた。親であれば子供の好き嫌いを心配するという気持ちも理解できるが、「好き嫌いを直す!」と異常なまでに息巻く父に私は理解できずにいた。

父はよく私に

「好き嫌いばかりしているからバカになる」

など心無い言葉を浴びせたのだ。そして「好き嫌いをなくす」と言って嫌いなものを無理矢理食べさせる。それを食べないと好きなものを食べさせてくれない。たとえ嫌いなものを吐いてしまったとしても、それを食べろと強要。その繰り返しだった。

こんな事をされても私の好き嫌いは治るわけもなく、もっと嫌いになり、最終的には食事が楽しいと思わなくなるのが普通だろうと思うが。

それから父も母も兄も私の好き嫌いの多さに嫌気が差したのか、ある日食事の時間に私に「全員で体を押さえつけて嫌いなものを食べさせてやる!」と私に言い放った。この時点で既に家族との食事は大嫌いだった。もう家族団らんなんて言葉、「そんなものありません」と思っていた。

それから小学校3年生頃のある日、母が用意した食事が足りないという理由から私は食事なしという日があった。けれど母は兄には普通に食べさせていた。それに対して私がそのことを不満だと両親に言うと「気に入らないなら出て行け」と家の外に追い出されて1時間ほど寒空の下で過ごした。家族との食事の時間ほど嫌なものはなかった。

後に私は魚介類アレルギーであることが発覚。幼い頃から嫌いと思われていた生魚も実は幼少期に既にアレルギー反応が出ていた。それにも関わらず好き嫌いとだけ判断され、本当に苦しめられた。あの時もし私に強いアナフィラキシーが出て命に関わるようなことがあったなら、両親はどう思ったのだろう?今でも疑問である。事実蕁麻疹が出たこともあったが、母からは「虫にでも刺されたんでしょ?」と軽く対応されたものだ。

アレルギーばかりではなかった。小学校5年生の頃に初めてインフルエンザに罹患した時も理解に苦しむことばかりだった。その日は学校からの呼び出しで母が迎えに来てくれて病院へ行った。余談だが最初に母に連れて行かれた病院にて、病院の入り口に救急車が止まっていた。私も母も「救急車、誰か重篤な患者さんでもいるのかな?それかインフルエンザが流行っているから・・・きっとそうだよ」くらいにしか考えていなかった。

病院の建物に入って受付を済まそうと母が受付にいる女性に声をかけたところ、受付の女性が

「あ、あの・・・。先生、今・・・」

と何かを言おうとしていた。そこで母が

「どうしましたか?」

と言ったところ、その女性は

「先生、救急車で。先生、血圧で倒れて救急車でこれから大きな病院に搬送されますので・・・」

と。これでは診てもらうことが出来ないと、近くの別の病院へ行くことに。

別の病院に着いて診察をしてもらう。ここでは風邪との診断。吐き気もあったのでそこで吐き気止めを処方されたのだが、大人の分量で処方されていたのか指示通りに服用後、私は幻覚症状を起こした。その幻覚症状というのは頭を誰かにすごい力で掴まれて無理矢理首を回されるような感覚だった。それと同時に頬を片方向に引っ張られるような感覚も同時に襲ってきた。本当にそうされているかのような感覚で正直「私はもう死ぬのか・・・」とも思ったぐらい。幻覚で苦しむ私を見て父は兄と共に笑って見ていた。その後両親はさすがにただ事ではないと気づいて救急病院に連れて行ってくれたが、未だに事あるごとに「あの時のお前、とうとう頭がおかしくなったんじゃないかって本気で思ったけど、笑えたなぁ。『くぅ~びぃ~が~、まわる~』なんてねぇ!」と兄と共に笑いながら面白おかしく話すのだ。兄にいたってはそのときの私のモノマネを大げさにして笑いを取ろうとする始末。今考えても兄と父のその態度は許しがたい。人の苦しむ姿を見て笑うなんて真人間のすることじゃない!とその当時の私は早くもそう思った。

その後私は救急病院にて血液検査をしてもらい、インフルエンザにかかっていることが発覚した。この日は朝方まで点滴をしてもらっていた。おかげで幻覚も治まり、熱も下がっていった。

 

私は翌年もインフルエンザに罹患するも、ここでも母は初期症状を見落としたおかげで今度は悪化してしまったのだ。幻覚に初期症状見落とし・・・本当に運がないとしかいい様がない。

母は私の体にインフルエンザの初期症状の関節の痛みがあったのにもかかわらず、

「あーこれねぇ。大丈夫、成長痛だから!ほら、お兄ちゃんだって成長痛はよくあったからね!これから身長が伸びる証拠だから」

などと言っていたところ、今度は40度近い高熱と脱水症状が出て母はやっと事の重大さに気づく始末だった。この時は予想以上に症状が悪化してしまったため、かかった小児科の先生からは「どうしてこんなになるまで放っておいたのか?」と怒られ、点滴をして何とか事なきを得た。人生初の点滴だった。友人からの噂で聞いていたが、本当におとなしくしていればいいだけで初めての点滴注射は大して痛くなかったというのを覚えている。

引越し後の生活、そして習い事地獄

私が4歳になったばかりの頃に現在の実家のある場所に引っ越した。

後に父に聞いた話だが、私たちが暮らした長屋の部屋に兄の学習机が入らないことが分かり、急遽引越しが決まったのだ。1週間2週間ほどで父は長屋よりも広い4人家族が住むのに良さそうな条件の物件を探して、そこへ引っ越すことになった。これに伴い私は入園するはずの幼稚園も辞退し、新しい住所から近い公立の幼稚園に入園することにもなった。新しい場所で正直初めてのことばかりで今まで仲良しだった裏の家の兄妹や近所の友達はそこに居ない、幼稚園の入園式の時なんて本当に不安で落ち着きが無かった。入園式の時に撮った集合写真はなぜか私は上を向いて写っていたのだ。どこを向いても知っている友達なんていない、覚えているのは入園式でクラスメイトになったある男の子からいきなり髪を引っ張られたこと。ものすごく痛くて泣いていた。その後も幼稚園に行っても私はどこかそわそわしていて、気の強い女の子や男の子からすぐに意地悪の対象になっていったのだ。

 

このあたりから母は洋裁にはまりはじめた。近所に洋裁教室をしている兄の同級生のお母さんがいて、そこに通い出したからだった。

それからというもの、私の着る服は母親好みのものを着せられる。私が要求を出してもすべて無視、却下。いつも母親の手作りの服を着せられてお姫様のような格好をさせられて幼稚園へ登園させられていた。そして汚して帰ってくると怒られるという何とも理不尽な事が待っている。

幼稚園なんて本当に雨の日以外は外でめいっぱい遊んで泥や砂で汚してくることが分かっているのに、いつもフリフリな服を着せられて・・・。それを見たクラスメイトの男子たちや気の強い女子からは「ぶりっ子」「服が変」「頭がぐちゃぐちゃ(三つ編みを解いたウェーブをツインテールにしていった時)」と言われ、その他の女子たちからは反対に「お姫様みたい」などと言われていた。そういう格好と周りからはぶりっ子と言われるような性格であったせいなのか、年長さんの子達にもしょっちゅうちょっかいを出されては泣いていた。けれど母は服装や髪型を改めるわけでもなく、子供のしたことでしょ?と言わんばかりに何も対策など立てることは無かった。

兄についてもやはり新しい場所で落ち着きが無かったようだ。兄も気が弱かったせいか、やはり上級生たちからちょっかいを出されることもしばしば。酷い場合だと毎日のように近所のある上級生から暴力を振るわれていた。そんなある日、母がその現場を目撃して兄をいじめていた上級生を叱ったのだ。だが上級生本人は母のお叱りなど馬耳東風であり、母も相当悩み兄と一緒に泣いていたこともあった。その上級生は我が家からそんなに離れていない場所に住んでいた。彼の父親は医者であり、そのせいもあってか常に周りの子達の前で威張り散らしていたのだ。周りの子供たちはやはりいじめられたくないのか、その子に服従し兄の周辺では変な主従関係が出来上がっていたのだ。だが、そのような事態は長く続くはずも無かった。ある日兄をいじめていた上級生の家が破産してしまったのだ。そのせいもあってか上級生宅は我が家のエリアから夜逃げ同然の引越しをして突然いなくなってしまった。それ以来、主従関係も無くなり兄もいじめられなくなった。母もそれを知って「医者だからって威張りやがって。ふんっ、ざまぁみろ!と思っている」と言っていたぐらいであった。

 

父も引越し前の父とは明らかに違う父になっていた。

仕事から帰ってきて私たち兄妹の部屋の片付けが終わっていないなら、容赦なく幼い私たちを怒鳴りつける。大切にしていたおもちゃを私たちの目の前で壊す、気に入らなければ手を挙げるなどそういう異常な行動が目立ってきたのだ。引越し前のように私たちが父の元に駆け寄って遊んでもらうということも次第に減っていった。

それと同時期あたりから、私たちの住む家の周りにはいつも誰かがうろついていた。私たちの家の周辺は実は地元の財閥企業に勤める方々が住む地域でもあり、そんな地域の一角にある小さな平屋建ての我が家はその人たちから見たら貧しく奇妙にでも見えたのだろう。家を塀の外から覗かれたこともあった。私が外で遊んでいると突然近所の人に声をかけられることもしばしば。家を覗いていた人と目が合うことも少なくなかった。

そういう生活に父も我慢の限界だったのかストレスを発散するかのように家では子供である私や兄に怒鳴り散らすこともしばしば、ほかにも無理をして何度も新車を買うなどもした。その時買った新車も次の年にはまた別の新車に変わっていた。それもスカイラインなどの高価な車に・・・。

ほぼ同じ時期に父は後部座席の床が抜けて廃車寸前だった母のオンボロ車も廃車にして新車を買い与えていた。それから車以外の家財道具などの目に見えるものを高価なものに買い換えたりもしていた。休日には決まって私たち兄妹は両親に家具屋や車のディーラーへ連れて行かれ買い物に付き合わされた。両親はおそらくご近所から好奇の目で見られたくない・・・その一心で必死に見栄を張っていたのだろう。見栄を張り続けた結果、自分で自分の首を絞めてしまったのだと、今となってはそう思う。少なくとも私の目にはそう映った。

変わってしまったのは父だけではなかった。母も変わってしまった。今思えば母は同じ市内とはいえ知人もいない全く知らない土地に幼子ふたりがいる状態で引っ越してきて心に余裕がなかったのだろう。

 

私が幼稚園に入園して暫くした頃、母が突然私を車に乗せてある場所に連れて行った。

そこは家から車で20分ほどの場所にあるバレエ教室。母が勝手に申し込んだものだった。事前の見学も私への意思確認もなく、突然バレエ教室に連れて行かれ、私の意志など関係なく入会となった。

私はその次の週からそこのバレエ教室へ通うことに。バレエのある日は幼稚園が終わると家で着替えをしてスクールバッグにレオタードとタイツとバレエシューズを入れて母にバレエ教室へ送って行かれ、教室に置いていかれるのだ。無論その日は近所に出来た友達と遊ぶなんて許されなかった。遊んでいても「これからお出かけするから~」と母が一方的に友達を家に帰してしまうのだった。もちろん私の心の中ではもっと友達と遊んでいたい、レオタードやバレエシューズを身につけるのではなく普段着で泥だらけになって友達と毎日遊びたいというのが本音。それが強制的に着たくもないレオタードを着せられてバレエシューズを履かされ、そして母も友達もいない空間でひたすら踊らされる・・・。レオタードもバレエシューズもどんなにきれいなものであっても憧れなんて無かった。無論教室に置いていかれるときに私は寂しさとバレエをやりたくない思いからずっと泣いていた。

「もっとお母さんと一緒にいたいし、友達とも遊びたい。こんなことしたくない。こんな場所嫌い・・・。バレエなんて大嫌い」

何を言っても母は私の言い分なんて聞いてくれなかった。レッスン中ずっと泣いていたこともあった。曲がかかってみんなが踊っていても私は踊りたくない。「何かが違う」と自分の中で自問自答していた。

そしてレッスンの終了時間になって母が迎えに来る。母を見つけてすぐに駆け寄る私。だけど母は私が泣いていたことについて先生に謝る。私には「頑張ったね」の一言も無い。

帰りの車の中ではいつも母から

「どうして泣いてばかりなの?こっちは高いお金を払って通わせてあげているの、辞めたらお金がもったいないでしょ?もう少し頑張れないの?誰も泣いていないじゃない!」

といかにも私が望んで入会したかのような酷い言葉が並ぶお説教が続いた。私はバレエをやりたいなんて言った事はないのに・・・

 

母の決めた習い事はバレエだけじゃなかった。

小学校にあがるまでにエレクトーン、ピアノと加わっていった。そして小学校にあがると空手と水泳も習い始め、そこにガールスカウトへの参加も加わった。ただ空手だけは私が習いたいといって習わせてくれた。兄が小学校1年生の頃から空手を習っており、そこに母と一緒に兄を迎えに行ったときに仲の良いクラスメイトの女子数名がいたこともあって、私もやってみたいと思ったのだ。これだけは私が望んでいたものだった。

ガールスカウトへの参加は、母が親しくしていた近所の娘さん(私より3歳上)も参加しているということもあり、母が勝手に参加させようと決めてしまったのだ。これも訳も分からず参加させられた感が拭えない。隔週日曜の午前中に近くの公民館で集まりがあり、そこへ否応無く連れて行かれた。そして私はよく分からないままそこに参加・・・。母曰く「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」とのこと。まだ小学校1年生なのに・・・

この時点で習い事だけで5つ。加えてガールスカウト。学校も加われば休みなんて土曜日ぐらいしかない。はっきり言ってほとんど友達と遊ぶことも許されない状態だった。夏休みになれば訳も分からずガールスカウトのキャンプに参加させられた。無論家族とも離れ離れになる。そして夜になれば寂しくて泣く・・・。ガールスカウトがある日曜が正直憂鬱だった。

ガールスカウトへの参加が決まって暫くすると、そこへスイミングも加わった。こちらは火曜日と金曜日の週に2回。幼少の頃から患っていた小児喘息の改善を目的としていたが、母曰く「喘息も治るし、あんたが太ってきたから」とのこと。お得意の「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」というのが加わったことは言うまでもない。

私は何度も習い事を辞めたいと母に話した。しかし母は

「今やめたらお金がもったいない」と。

母はいつもお金の話しかしない。私が習いたいと言ったのは空手だけなのに、それなのに結局最後はお金でしかないのか、と幼いながらに絶望したこともあった。だが、バレエは小学校1年生の中盤で突然辞める事になる。後に分かったことだが発表会などのたびに教室がそこに通う生徒の父兄たちに高額な寄付金を募る、発表会に出るたびに高額な出演料を払う、公演のチケットをノルマ付きで売りさばかねばならないことが母にとっては不満だったようだ。そういう母の不満もあって辞めることになったくせに私には

「あんたがやる気が無いし練習もしないから!泣いてばかりでこっちが恥をかいた・・・」

と言うのだから呆れる。

今だから言えることは私にさせていた習い事なんて全て世間体を気にするばかりの母の馬鹿な見栄だったのかもしれない。バレエを習って身に付いたことは「母親に怒られないために自衛する術」だけだった。たとえばどんなに寂しい思いをしても我慢して泣かない、泣いたらまた母に怒られるからと。私が寂しくて泣くとお母さんが悲しむ、と。この時点で既に誤った方向に思考が動いていたのかもしれない。

 

同時に習っていたピアノとエレクトーンは、これもきっかけは近所に教室があるからという理由だった。一般の邸宅の一室で個人が某音楽教室の看板を掲げてピアノ教室を開いているというものであり、母もエレクトーンを弾くのが好きだったせいか私も気が付いたらそこに通うようになっていた。実は私の母はエレクトーン講師の民間免許を持っているらしく、看板さえあればいつでも教えられるような状態であった。

教室では私は先生と話をしたり、鍵盤に触れることは嫌いではなかった。だが、帰宅するとすぐに「きょう習ったことをおさらいするから!」と母は息巻いて私をエレクトーンのある部屋へ連れて行く。そしてエレクトーンの前に座らせて楽譜を広げてその日習ったことを復習させるということがずっと続いた。無論母の出す課題が出来なければ出来るまで何度もやり直しをさせられ、おやつも食べさせてもらえないこともあった。夕飯の時間が近くなってやっと復習と練習が終了。毎回エレクトーンとピアノのお稽古に通って帰宅をすれば今度は母からのマンツーマンのレッスンが続いた。正直言って家に帰っても息つく暇もなかった。ピアノの復習もエレクトーンを使ってのものだった。ただ楽譜が違うだけで母のレッスンはエレクトーンと同じものだった。

エレクトーンとピアノについては小学校2年生の中盤頃に教室が突然閉鎖してしまい、辞めざるを得なかった。ただ、後記にある中耳炎騒動もあったせいか他の教室に通ってまで再びエレクトーンを習うなどということは無かった。

後に両親から聞いた話では私の通っていたピアノ教室の先生がある日突然とある宗教に入信、出家してしまいそれに伴って教室を閉鎖してしまったのだ。うちの両親の事だから「自分たちの名誉を汚さないためのその場しのぎな発言か?」とも疑ったが、これは本当だった。私が成人してからのことだが私のピアノとエレクトーンの先生だった方の父親が亡くなった時の葬儀にて、娘であるその先生も遺族として葬儀に参列し祭壇の前に座っていたのだが、皆で合掌する際に先生と先生のご主人らしき男性は合掌をせず、線香もあげなかった。明らかに先生は自身が信仰しない宗教に関与してはならない宗教の信者であろうということだった。

 スイミングに関しては、レッスンが終わるまで母がガラス越しにプールサイドで私のレッスンをずっと見ている、まるでタレントスクールに子供を通わせるステージママのように。そして上手く泳げない場合はまたバレエの時と同じように「こっちは高いお金を払って通わせている」とまたお金の話を持ち出す。

私がある級に進級したての頃、本気でスイミングをやりたくないと思うようになってしまったことがあった。その級で習うことは10メートルを息継ぎなしで泳ぐというものだった。それが出来なければ上の進めないことは知っていたものの、当時6歳の私にとっては難しいものでありどうしても途中で息継ぎをしてしまう。その当時のコーチも指導が厳しいこともあって、私は辞めてしまいたいと思ったのだった。事実そのコーチの厳しさに耐えられずに辞めていく子供たちも多かったそうだ。私も辞めたいと母に言ったが、それに対して母は

「何言ってるの?それじゃお金をドブに捨てるようなものだ!やめるなんて許さない!」

と怒り出す始末。そこでもバレエで身に付けた「母親に怒られないために自衛する術」を実行、意地を張って無事に進級試験に合格して上の急に進むことが出来た。

幼稚園に入ってから小学校1年生、2年生の頃は日中は学校へ行き、家に帰ってからは習い事という日がほぼ毎日で、友達と遊んだ記憶は殆どない。それに「母に怒られないために自衛する術」も実は間違っていることもこの頃の私は知る由も無かった・・・

 

この異常なまでに多い習い事も、母なりの見栄や理想を私に押し付けた結果だったのかもしれない。そして習い事をたくさんさせること、母にとってはある意味ステータスでもあったのかもしれない。「わが子を落ちこぼれにさせてたまるか!」というようなどこかのドラマの中にいる教育ママのように・・・

 

ちなみに兄は小学校入学までの間に、スイミングしか習っていなかった。兄も小児喘息を患っていたこともあり、そのためだったと思われる。そして小学校入学から暫くして空手を習い始めた。私たちが通っていた空手教室は私たちの小学校の体育館で行われていたこともあり、そこの児童が多く通っていた。兄も同じ学年の友人と楽しそうに空手教室に通っていたのだ。

最初の頃こそ空手も楽しいものだったと記憶している。

だが、兄と同じ習い事ということもあってか空手が終わって家に帰れば常にお説教が待っているのだ。

兄や母からいつも言われていたこと・・・

「やる気が無い」

「型が下手くそ」

「組手なのに逃げ腰、あれじゃいつまで経っても勝てない!」

など。そして大会前になると必ずと言っていいほど「特訓」をされたのだ。両親や兄の見ている前で何度も型をさせられたのだ。そして腰が入っていないなどと何度も止められてそれが延々と何時間も続く。その間は学校の宿題も出来ないし、風呂にも入れず、無論寝る時間も遅くなる。結局それも兄や母が「兄弟揃って金メダル」という肩書きが欲しいだけのものだったのだろう。正直私は母や兄の熱血指導にはうんざりしていた。『楽しいの基準』なんて個々違うことだって分かっていたはずなのに。

ちなみに私たちは空手の大会では学年や熟練度に応じて型のみに出場するか、組手にも出場するかが決まる。私は殆ど型のみだった。型のみなら型のみでそれでいいと思っていた。自分の中では「熱血母と熱血兄がうるさいから、とりあえず試合に出られればいい」くらいにしか考えなくなっていたからだ。ただ、試合に出ないという選択肢もあったのだが、それを選ぶことはなかった。なぜなら試合に出ないと言ったところで私の意見など到底受け入れてくれるはずの無い母と兄だったから。母も兄も「試合では絶対に金メダル!金じゃなくてもメダルは取れ!」と私本人を差し置いて勝手に息巻く有様。幼いながらそれに従い、そして心の中だけで母と兄に呆れるしかなかった。というのも、兄は空手を心の底から楽しんでいたのだ。ただ楽しむ対象は私と逆であり、試合に勝ってメダルを取ることや表彰式で「第一位」といういちばんの順位が頭について名前を呼ばれることに楽しさを感じていた。楽しみの対象は別にどんなことでも構わない。ただ、自身の考えをたとえ兄妹であっても押し付けてよいものなのか・・・今でも疑問が残る。

ただ私自身も自分から「習いたい」と申し出ただけに意地でも辞めるとは言わなかった。教室での練習が厳しくても、兄や母からの「特訓」が厳しくても。

 

そして小学校1年生の頃に初めて出た試合。私は型の部小学校低学年に出場した。見たことのない別の道場に通う児童との対戦になった。だが結果は一回戦敗退。正直悔しいとも思わなかった。当時の私は「あー、これが試合なんだね」くらいしにしか捉えていなかったのだと思う。私は試合の結果はどうあれ負けたんだし仕方がないと思っていたのだが、兄も母もそれを許すはずがない。試合が終わってすぐに兄にも母にもねぎらいの言葉すら貰えず

「みっともない」

「馬鹿だから負けた」

などというような汚い言葉を浴びせられた。当時の私は試合に負けたことよりも試合に出たこと自体を褒める、ねぎらうなどそういう気持ちが母や兄には無いことを悲しく思った。ちなみに兄はこの試合で金メダルを獲り、兄や母の描いていたシナリオどおり「第一位」となって表彰台にあがったのだ。ちなみに私の出た小学校低学年の部の試合で優勝したのが、私の友人であったこともあり、母も兄も

「あの子は優勝できるのにねー」

の一言。どうしようもなく悲しい気持ちで一杯だった。この一件以降事あるごとに

「あの子みたいに金メダル、欲しいでしょ?だったらもっと上手くならないと」

などと友人を引き合いに出すことが増えた。

けど私も万年負け続きではなかった。さすがに「負けてられるか!」と思ったのか、小学校3年生の頃に出場した空手の試合で、まさかの1回戦突破となった。対戦相手は同じ道場に通っていた別の小学校の同級生の男子。いつも馬鹿やってワイワイしていたりしていた仲間であって決して仲が悪いわけではなかったけれど、何となく負けたくなかった。そして二回戦も突破。

決勝戦にて・・・惜しくも6人中4位という結果になった。だが私はこれはこれで満足していたのだ、負けたくない相手に勝てたことが嬉しかったから。だが、これを褒めてくれた人は母方の祖父祖母以外誰もいなかった。応援してくれていたはずの母も兄も「次は金メダルね、分かった?」の一言だけを私に言い渡した。自分なりに一生懸命頑張って勝ったのに・・・とずっと泣いていた。それを見た母は

「メダル取れなくて悔しくて泣いてるぐらいなら優勝するしかないでしょ?4位なんてみっともない。負けて獲る賞なんていらないのよ!」

と。

そんなこんなが続いていたが、空手は小学校にいる間は続けていた。最後の方は試合に殆ど出なかったが・・・

4年生の時点では空手とスイミングとガールスカウト(これは習い事じゃないか・・・)以外は既に辞めていたが、ここに今度はそろばんが加わる。それでも習い事は3つ。母から見れば「習い事が多いほうが立派」という勝手な思い込みで私はいろいろな習い事を掛け持ちさせられていたのだろう。スイミングは週2回、空手はメインである小学校の空手教室と別に通っていた道場を含めて週3回。そろばんは週に3回。もっと言うなら私の意志で習い始めて続いていたのは空手だけだった。やる気が起きなくてもおかしくないだろう。

そろばんを習うことになったのは、算数が苦手だった私を母が心配したからだった。こちらも勝手に教室に電話をかけて見学へ行くとアポを取り付けてしまったのだ。そこに1年生からそろばんを習っている同じクラスの優等生の女子がいたこともあり、ここでもまたその子を引き合いに出して

「あの子はねぇ、お勉強がすごく出来るでしょう?そうなりたいよね?ここに通えばもう算数が苦手なんて言わなくて済むようになるんだから」

と勝手な持論を展開し始めたのだ。当時の私はそういう母をもう何度も見ていたせいか、言うことを素直に聞かなきゃいけないと思っていたのだろう・・・完全に母のイエスマンになってしまっていたのだ。嫌なら「やりたくない」と言えばいいのに、結局は言ったところでケンカになるのも目に見えていたし、何かにつけて算数の成績がよくないと「あの時そろばんをやっていれば・・・」となっていることは日を見るより明らかだった。

反対に空手以外でも私はやりたいと言った習い事があった。それは「書道」。学校の授業で書道を習うのは3年生からだった。だが1年生から書き初めをして特選などを獲る子がクラスにいて憧れたのもあったからだ。その子は普段書く文字もとてもきれいだった。それもすごくうらやましく思った。だから私も書道を習いたいと母に何度も申し出たが、母は決まって「書道なんて意味がない」と一蹴していた。

さすがにそんな事だけでは書道を習うことを諦められないと、私がある日強硬手段に出た。それは小学校2年生の頃、書道なんて習っていない私が県の書き初めコンクールに自身の書き初めを出したいと申し出たのだ。学校の担任の先生も驚いていたのだが、それ以上に母親を驚かせた。何せ私は書道など習っていなかったうえにどうやって筆で字を書くのかも分からない状態だったから。そこで母は私を文具屋に連れて行き太目の筆を一本買い与えてくれた。そして使い方も分からない私にその筆を渡して放置していた。私もどうやったら・・・と悩んでしまい、筆の穂先をきれいにほぐしてしまったのだ。無論その筆は使えない。

それを見た母は

「ほらごらん、何も分からないのにそうやって目立とうと(ここでいう目立つというのは書き初めコンクールに出したいと申し出たことだろう)するからそうなるの!まぁ最初から墨も硯も買う予定なんてなかったからいいけど。習字なんて3年生になれば自動的に習うんだから!」

と意地悪く私に言い放った。結局私がどんな強硬手段に出ようが書道を習うことを許可してもらうことはなかった。

幼少期の楽しい話

私は産まれてから4歳になるまで現在の実家の場所とは違う場所に住んでいた。

いかにも昭和の団地というような区画内の小さな長屋に父・母・兄・私の家族4人で暮らしていた。そしてその団地には数軒の同じタイプの長屋があり、私たち一家と同じように4人家族の家庭があったり老夫婦が静かに暮らしていたりと、いろいろな家族が住んでいたものだ。だけど、その界隈はいつも平和でご近所さん同士もみんな仲良しでお互いの家を行き来していたり、大人が近所で立ち話や井戸端会議をするなどいたって普通だった。

 そして私たち兄妹は裏の長屋に住む兄妹や近所の家の子供たちと朝早くから日が暮れるまで遊んでいたものだった。ある日は裏の家に上がりそこで一日過ごしていたかと思えば、雨が降って出来た水溜りで泥だらけになって遊んで服を汚しては母に怒られたり。毎日が本当に楽しかった。特に裏の家に住んでいた兄妹(兄は私より3歳上、妹は私より1歳上)とは本当のきょうだいのように毎日楽しく遊んでは一緒におやつを食べたり昼寝をしたり・・・。時にはどちらかの家で夕飯を一緒に食べていたり。親同士も仲が良く、いつも何かと持ちつ持たれつの関係を保っていた。それだけじゃなく同じ団地に住む家族たちで仙台へ旅行したこともあった。

実は私のいた団地は偶然にも同じぐらいの歳の子供たちがどの家にもいるような状態であったため、親同士もお茶のみと称しては子供を連れてお互いの家を行き来したり子供たちだけでお互いの家で遊ぶこともしばしばだった。だからどこかの家で母親が用事で外出するとなれば交互に子供たちを預けあっていたこともあった。そのためか、ひとつの家に数軒の子供が集まることも普通だった。そして集まった子供たちは長屋の大家さん宅の広い庭を公園代わりにそこでよく走り回っていた。大家さんの庭で遊んでいたかと思えば、家の近くの私道で三輪車や自転車で遊んでいたりして、時には自転車ごと転んでしまい唇を切るケガをしたりもした。

近所の縁日にも行った。縁日も裏の家族と我が家が一緒に行った。そしてそこで買ったひよこを兄と裏の家のお兄ちゃんが一緒に育てていた。そのひよこは私の母方の祖父が作った小さな鳥小屋で飼っていた。ひよこが大きくなると、鶏ではなく軍鶏に育ってしまい、ここでは飼えないということになって近所の養鶏場に引き取ってもらうことになった。そのような楽しい毎日を過ごしていたのだ。

 

私が物心付いた頃には父は既に厳しい人、いつも怒っている人というイメージであり、母はご飯を作ってくれたり長く一緒にいる人であるというイメージだった・・・母については引越しをする前までは。

父はこの頃から怒るとすごく恐いという印象であり、いつも怒っていたように覚えている。たとえば夕食の時間に食べるのが遅いと、まだお皿に食事が残っていてもそれを窓の外に捨てるなど。それだけじゃなくその度に私たち兄妹を怒鳴りつける。母は子供たちの前ではいつも笑っていた、ただ父が私たちを怒るときはそれを黙って見ているだけ。たとえ父が私たちに手を挙げて流血をしても何もしないのだ。

父はその頃には既に曽祖父の代から続く会社(重機屋)を継いでいた。朝は早い時間に出勤して昼休みは家に帰ってきて昼食を食べてまた会社へ戻り、夜7時前には帰宅するという毎日だった。うっすら覚えているのだが、その時の父は「おかえりー!」と兄と私が帰宅した父の元に駆け寄ると一緒に遊んでくれたりもしてくれた。どんなに厳しくてもこうして兄とも私とも分け隔てなく遊んでくれたり、車に乗せて近くのスーパーに連れて行ってくれたりというやさしい一面もあってか、当時は父が大好きだった。母も父が私たちに厳しく接するときに何もしなくても、その他の場面ではすごくやさしい印象しかなかった。たとえば近所の子供たちがみんなで集まって遊んでいた時にみんなに手作りのおやつや昼食を食べさせてくれたり、ニコニコしてエレクトーンを弾いて歌を教えてくれたり。時にはいろいろな童謡もたくさん聴かせてくれて、絵本もよく読んでくれた。

そんな母は若い頃、横浜で幼稚園の教諭をしていた。そのせいもあってか子供が大好きな人だった。いつも近所の子供たちにも、親戚の子供たちにも分け隔てなくやさしく接していた。厳しい面があっても当時の母は私たちに自身の理想像を押し付けることは無かったと記憶している。

前記のとおり父も厳しい面があっても私たち兄妹は父が大好きだった。私たちが熱を出したなら仕事をしていても家に戻ってきて私たちを病院に連れて行ってくれたりもした。うろ覚えではあるが、父が幼い私を抱きかかえて病院へ連れて行ってくれたことを未だに覚えている。そこでオレンジ色のシロップの薬を貰ってきたことも。そして家に帰ってその薬を飲んで次の日には熱も下がっていた・・・。嬉しかった。こんな気持ちでずっと過ごせればどんなに幸せだったか。

 

そんな生活が、引越しをしてからガラリと変わってしまった・・・。