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Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

高坂はる香です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

綿飴屋ごっこでケガをした話と心配をかけた話、そして微笑ましい話

本当に毎日平和な長屋生活をしていた2歳の時、私は家の脇の砂利道で三輪車ごと転んでしまい、唇を切るケガをしてしまった。この日も裏の家の友達兄妹と三輪車や自転車で遊んでいた。兄も一緒に自転車に乗って遊んでいたのだが、しばらくすると自転車に乗って遊ぶのに飽きてしまい、みんなで三輪車をひっくり返してペダルを手に持ってグルグル回して遊ぶのに夢中になっていた。後に他の地方出身の友人に聞いた話によると、それはどこでも普通にやっていた遊びであり、呼び名も「芋屋(福島県会津地方)」とか「焼き芋屋(宇都宮周辺)」、「石焼き芋」、「わたあめ屋」、「カキ氷屋」などバラバラではあるが普通に存在していた全国的な遊びのようだ。

(注:この遊びについて後にネットで確認したところ、昭和30年代から40年代あたりに登場した模様であり、呼び名もバラバラ。だが遊び方は基本的に同じである)

ちなみに私たちの周辺でこの遊びは「わたあめ屋」が主な呼び名だった。そしていつも三輪車を持って子供たちが集まっては三輪車をひっくり返してペダルを持ってグルグル・・・と当たり前のように遊んでいた。

 

そんなある日の出来事、わたあめ屋遊びをしていた私と兄がバランスを崩してペダルを持ったまま前方に転んでしまったのだ。転んだ途端、私たち兄妹は唇から出血をして大泣きをしていた。泣き声を聞いてすぐさま母が駆け寄ってそのまま近所の外科医院に連れて行かれた。病院に到着して麻酔を打たずに傷口は縫合された。三輪車で転んだ瞬間はなぜか覚えている。その後のことは後に母から聞いた話であるが、実に痛い話である。それを裏付けるように私の下唇には今でも当時の傷跡がクッキリ残っている。幸い唇の裏側を切ったので、顔側に傷跡は無い。

 

これ以外にもケガをしても楽しく遊んでいた記憶はたくさんある。大家さんの家の庭や長屋の通路の砂利道をレース場のようにして子供たちが三輪車や自転車で暴走する、子供たちによるマラソン大会なども日常茶飯事であった。そして大家さんの家の庭だけでは足りず、近くの沼や田んぼにザリガニ取りに行ったものの、兄が泥濘にはまってしまい長靴が脱げてしまい、田んぼに足を突っ込んで泥だらけの足のまま家に帰って母に怒られていたこともあった。

時には熱を出していても家を抜け出してみんなと一緒に遊んでいた子もいたぐらい。そして母親に見つかって怒られて家に強制送還される。それから今思うと危険なことだが、水疱瘡や風疹になった子供が一緒に遊んでいたこともあった。こちらも言うまでもなく見つかって強制送還。とにかくこの頃の私たちの遊びは本当に楽しいものばかりであった。風疹といえば、我が家で父以外全員風疹に罹患してしまい父を置いて母の実家に行っていたこともあった。

 

そんな中、当時3歳だった私は警察のお世話になったそうだ。ある日母や兄と近所の子供たちで自宅から少し離れた公園へ遊びに行った。砂場も遊具もある広い公園で、私たち子供は本当に楽しく遊んでいたものだった。帰りの時間になってもなかなか帰ろうともせず、母が無理矢理手を引いて家に連れ帰ったぐらいである。

それから数日後、私が自宅からいなくなった。靴も無い、庭にあったはずのスコップも無い、自宅周辺を探し回ってもどこにもいない、そこにちょうどパトカーが通りかかってそれを見た母が警察官に私がいなくなったと伝えた。そして警察も巻き込んで捜索開始。警察官は前記の公園付近も見てくれたそうだ。その後例の公園の砂場でひとり遊んでいるところを無事に発見されたというのだ。

この結果、私は大きくなっても母にずっと

「あんたはねぇ、公園にひとりでスコップを持って遊びに行っちゃっておまわりさんのお世話になったのよ」

と言われ続けた。さすがに3歳頃の私が起こした騒動なので全く覚えていない。母の口からこの話が出るたびに私は母の前で笑うしかなかったのだ。ちなみに自宅と公園の距離は2~300メートルほどでそう遠いわけではないが、大きな道路を渡らないといけない場所であるため、自宅からそこまで何も無く着いたことは今でも本当に信じられない。

 

その数日後、今度は近所の子供たちと一緒に私はまたやらかしたのだ。この日はとても暖かい晴れた日だった。いつものように私たち兄妹と近所の子供たちは家の外で元気に遊んでいた。砂遊びをしたり、三輪車を走らせたり、わたあめ屋遊びをしたりと何一つ変わらないものだった。そして裏の家に住む兄妹の兄の方が同じ団地内の近くの家の縁側で子供に授乳させているそこの家の母親を発見したのだ。彼の家もそこの家とは普通に親交があったので、またそこの赤ちゃんと遊ぼうと思っていたと私は感じた。事実いつもそこの家の赤ちゃんがいれば普通に遊びに行っていた。

だが、この日の彼は赤ちゃんと遊ぼうというものではなく赤ちゃんに授乳する母親、いや赤ちゃんが何を飲んでいるのかが気になったようで授乳中のお母さんに近づいて何か話をしていた。そしてそれに続いて彼の妹や私たち兄妹、近所の子供数名がぞろぞろとそこに続いて赤ちゃんに授乳するお母さんの元に行った。そこで何を思ったのか、子供たちは列を作ってそのお母さんのおっぱいを吸い始めたのだ。私もそこにいた。そしてみんなで

「○○さんちのお母さんのおっぱい、カルピスの味がするー!」

などと無邪気にはしゃいでいたところで私の母に発見されて全員我が家に強制送還されたのだ。その後母からこってり油を絞られたことは言うまでもない。母から見ればそれは本当に奇妙な光景だっただろう。わが子に授乳するはずが、何故に近所の子供たちにも?という・・・。冷静に考えれば幼稚園児や幼稚園に入るか入らないかの小さい子供が子供に授乳している姿を見れば、赤ん坊が何を飲んでいるのか気になる、ぼくたちもそれを・・・となっても何ら不自然ではない。子供なら気になるのが当然だろう。だがそれを見たうちの母は本当に驚いたことだろう。その後母はそこの家のお母さんに一生懸命謝罪していたのを覚えている。

 

それから同じく私が3歳の頃に、母の運転する車のドアから転げ落ちたことがある。この日は普段バス登園の兄を幼稚園に迎えに行くというので私は母が運転をする車に一緒に乗り、兄の幼稚園に向かった。当時母が乗っていた車はお世辞にもきれいな車とは言えないものであり、後部座席の床の一部には穴が開いていたぐらいだった。軽自動車ではないものの、本当に小さな車だった。今思うとそのような車に子供が数名乗ってということが信じられない。そもそもチャイルドシートも義務化されていない時代だったので、後部座席に子供が数名なんて普通によく見かけたものだった。

そして母の車が幼稚園に到着、兄と近所の子供数名を車に乗せて帰宅することになった。前記のとおりチャイルドシートが義務化されていない時代だっただけに、後部座席はすし詰め状態に。兄は助手席に座り、近所の子供たち数名が後部座席に座っていた。もちろんシートベルトもしないで。そして座れなくなった私は左側の後部座席ドア付近に立って乗ることに。そして幼稚園を出発、ご近所に車を止めて母はそこに住む子供を車から降ろし、ドアを閉めて自宅のあるあたりに向かったのだ。車にはまだ子供が乗っていた。そして裏の家近くに車がさしかかったところで、私のいたところのドアがいきなり開いて私は車から転げ落ちた。誰かがドアを開けたわけでもなく、そのドアがいきなり開いて私は砂利道を転がって行った。幸い母の運転する車のタイヤの下には転がり込まず、逆に転がって行ったおかげで車に轢かれることは無かった。