Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

母VS叔母、娘自慢対決!

父の兄(父の兄弟の三男。父のいた会社の社長。私の叔父でもある)の家には私と同い歳の従姉妹とその兄(私たちより4歳年上)がいる。兄同士は歳が違うので比較されることは殆ど無かったが、従姉妹と私は同じ歳というだけでいつも何かと比較され、叔母も母もお互いの娘が優位になるように必死だった。その結果、高校受験から就職、結婚の時期まで全て比較されることになる。もちろん他にも父方のいとこはいるが、この従姉妹以外とは比べられたことは無い。母方の従姉妹(私より1歳年上であり、住んでいる地域も違うため)とも比べられることは無かった。

そんな中で中学2年の中盤頃から出てくるもの、それは「高校受験」。前記のとおり私は高校受験をせず美容専門学校へ行くつもりでいた。だが母は何としてでも私を市内一の進学校へ入れたいと躍起になっていた。(この辺の話は「女帝の夢」でも書いているため、ここでは省略)

 

従姉妹は同じ市内に住み、歳も同じということもあって小さい頃から何かと比べられて、高校受験も例外ではなく中学に入った頃からは母や叔母からいつも学校の成績を比べられていた。従姉妹と私は同じ市内に住んでいても学区も住む場所も違うため、正直比較されても困るものであった。だが母も叔母も私と従姉妹を比べてはお互いに負けないようにと必死になっていた。正直それは私にとってはただ鬱陶しくて迷惑そのものでしかなかった。従姉妹とは小学生まではお互いの家を行き来したり買い物に出かけたり、泊まりに行ったりするなど、普通に仲が良かった。それが母と叔母の娘自慢のせいで私も従姉妹も嫌な思いをしてしまうとは、小さな頃の私たちには想像できるはずもなかったのだ。

 

これまでにいろいろと比べられてはいたものの、表立ったものは少なく私と従姉妹は本当に仲良しだった。だが、母や叔母による比較が異常なまでになったのは私が小学校6年生の頃に従姉妹と同じ英語塾に通い始めたこと。この塾は英語のほかに小学生(5、6年生が対象)には国語と算数も教えてくれていた。従姉妹や兄が通っていることもあり、私も~という運びになったのだ。私は周りの影響もあってか英語を習ってみたいと思っていた。説得をして私が何を言っても両親が「今は必要ない」と言ってなかなかそれを許してくれなかったが、兄が通っていることで何とか通わせてもらえた。私はすぐにそこの教室に馴染んで楽しく英語を勉強していた。だが、目に見えた母と叔母の競争はここからきっと始まっていたに違いない。

そこから月日が過ぎて私たちは中学に入り、学校は別々だが塾はまた同じところに通うことになった。中学からは5教科が対象ということもあり私はそのままそこに通うのもいいと思っていたのだが、そこの塾は週に5回も授業があり、それだけではなく兄のクラスでも私のクラスでも頻繁に授業終了の時刻になっても授業が終わらず1時間も遅く終わることも普通だった。両親はそれに不満を持って私たち兄妹を辞めさせた。兄は予備校系の塾へ通い始めて、私は暫く塾へは通わなかった。この時私は中学校1年生の1学期の後半。その後私は通信教育を始めて一度落ちた成績は再び学年390人中100番前後まで戻した。その間も従姉妹は以前と同じ塾に通い、中学卒業までその塾に通っていた。

中学1年も終わりに近づいたある日、突然叔母が我が家にやってきた。叔母にお茶を出す私、学校の宿題や入る予定の部活で使う楽譜のチェックがあったのでその日は叔母と母の席には同席せず自室に戻った。が、宿題の途中で自室の隣であるキッチンにお茶を淹れに行ったとき、母と叔母の会話が聞こえてきたので私はキッチンで立ち止まってしばらくその会話に聞き入っていた。叔母は母に「うちの子、あの塾にずっと通っているけど・・・成績は上がらなくてむしろ下がっている気がするの。本人にも話したんだけど、次の中間テストで今以上に悪い成績になったら今の塾を辞めて学区内の進学塾に入れるって言ったのよ。そしたら辞めたくないって泣きついてきて、将来に関わるのに・・・」と言ったのだ。

母は従姉妹の通う塾を良く思っておらずその塾の悪口を言いたい放題。そして母は私が「今は通信教育で勉強している」ということを叔母に伝えた。無論それで成績が上がったことも。私は別に塾を辞めて通信教育にしたから成績が上がったとは思っていなかった、というのも塾に通うよりも通信教育のシステムが大好きだったから。毎月テキストに付属しているテスト問題を解いて出版社へ送付すると赤ペンでちゃんと添削をしてくれて、おまけに添削をしてくれた先生からのちょっとしたメッセージや手紙が添えられていたり、そういういうところや同じくテキストと一緒に付いてくる楽しい授業のカセットテープを聞くのがいつも楽しみだったから。それは実際に塾に通うものと何ら変わらない、自分に合った勉強のスタイルだと私は自信を持てた。母もそれはよく知っていたはず。別に塾へ行って先生や他の生徒と顔を合わせて勉強をするだけが全てじゃないと思っていたこともある。他の生徒に変に気を遣わない、誰も勉強の邪魔をしない、先生の好き嫌いなどそういうものもなく、自分のペースで自分がやりやすい方法で勉強・・・、それが通信教育だっただけ。だが母の本心としては私にはちゃんと優秀な生徒を輩出しているような塾に行って欲しいというものだったようだ。だが私は塾には行きたくない、塾に行ったからといって必ず成績が上がるわけでもない。そんなものはいくら中学1年生とはいえ理解できていることだ。無論いくら評判の良い塾に通ったからと言ってもそこで自分に合った学習法を見つけられなければ意味が無い。だから通信教育で合っているのであればそれでいいはず。実際に母にこう言われたこともあった、「本当はちゃんと目の前に先生がいる状態で他の生徒とも一緒に授業を受けられる環境にいてほしい」と。やはり塾に行ってほしいという思いだったのだろう。だが母は叔母に私は通信教育に変えてから成績が上がったと強調していた。明らかに矛盾している・・・

そして叔母は塾に通わせているのに成績が叔母の思うように上がらないことに対して焦っていたのだろう。その後も叔母はしばらく従姉妹の成績の話しばかりしていた。

 

母は叔母が帰宅した後、私に叔母との話をし始めた。

「従姉妹ちゃん成績が上がらないんだってね、それでもしかしたらあの塾を辞めるかもしれないのよ」

と。正直そんな事は私にとって関係無いことだ。だから話をされたところでどうリアクションをすればいいのか悩むだけだった。そこで私は「母も叔母も私と従姉妹を比べている」と悟った。そして私は母に

「・・・、じゃあ従姉妹ちゃんも通信教育にすればいいんじゃないの?」

と伝えた。通信教育に変えてからの成績の上がり具合は学校の担任の先生からも驚かれて褒められたほどだった。私もこうして目に見えて分かるものに対しては素直に喜んだ。兄も私の成績を聞いて喜んでくれていた。だからぜひ卒業まで通信教育で、と思ってしまったぐらい。

その後中学二年になってもやはり叔母と母が会うたびに話題に上がるもの、必ず私と従姉妹の成績のこと。そして母は私の通信教育を勝手に解約してしまい、学区外の進学塾に私を無理矢理入れたのだ。母曰くここは進学校への合格実績が高いところだと。私としては通信教育のままでいいと思っており、何度も通信教育を続けたいと説得したが結局やめさせられてしまったのだ。どうやら母は私の現在の成績がいくら以前よりも上がったとはいえ気に入らなかったうえに、叔母に負けたくない気持ちで一杯だったのだろう。そしてたどり着いた先は進学塾。私はとりあえず通うことにした。

塾に入って思ったこと、進学塾と聞くけれど授業中常に他の生徒の私語でうるさく、不良の生徒も多い。授業中に先生がその生徒に対して何度も注意をするが、そのうるさい生徒たちは聞く耳を持たず私語はエスカレートするばかり。私は勉強に来ているのにそんな馬鹿な生徒たちの妨害ともいえる雑談に邪魔をされたくない、そう思いある授業中に「静かに!」と言い放った。それよりも前、塾に通い始めた頃の私は母に「授業がうるさすぎて集中できない。通信教育に戻りたい」と話していたのだ。だが母は「塾に行くことがいい!塾に行かなきゃ意味が無い!」と何としてでも私を塾に通わせようと必死だった。そして通信教育に戻ることも許されず、うるさいままのその塾に止む無く通って数週間でその「静かに!」と他の生徒に注意をすることになってしまった。そしてその日の授業が終わって塾を出ようとしたとき、私は雑談でうるさくしていた男子生徒数名から暴力を受けてしまったのだ。どうやら私の行動が気に入らなかったのが動機になったようだ。私は蹴られた弾みで塾の出入り口の階段に膝をぶつけてしまい、ケガをしてしまった。これを機に塾に行かなくてよくなるかな、という期待はその後脆くも消え去ったが・・・。そしてその日迎えに来ていた母が逃げてきた私から事情を聞くとすぐさま塾の建物に入り塾長に事の経緯を話したのだ。そして翌日、塾長から我が家に電話がかかってきて母が話を聞いた。電話に出たのは私で、塾長は開口一番に私に前日の一件を謝罪していた。正直私はどう答えたらいいのか分からずただ受話器を持って佇む他無かった。そして母に電話を変わり、母が話を聞いた。普通だったら「うちの娘をそんな危険な子がいるところに通わせられません」となるだろう。それが、塾側で私に暴力を振るった生徒を辞めさせたことで解決することになったようだ。母は電話口で「主人とも話をしたが、娘をこれからもそちらに通わせたい」と塾長に話していた。父とも話をしていたのか・・・、私はそれを見ていないが。そして電話を切った母が塾長の話していたことを私に伝えてくれた。対象の生徒は退校処分となり、今後はこのようなことが起こらないようにすると約束してくれた。ちなみにその主犯格の生徒は在籍する中学校でも評判が悪い不良だったらしい。言うまでもなく学校でも問題を起こしてばかりで後に聞いた話では学校外で暴力事件を起こして警察のお世話になり、その後少年院に送られたそうだ。

母はもうこんな問題児がいなくなったのだから引き続き同じ塾に通ってほしいと私に懇願してきた。だが私は塾になんて通いたくない気持ちが既に出ており、それに母の態度も正直気に入らなかった。というのも私自身は暴力を振るわれてケガをして、怖くて怯えて泣いていたのに母はそんな私に向かって「泣いてんじゃねぇ!いつまでも泣くな!」と怒鳴りつけて励ましもしなかった。母はきっと悔しかったのだろう、しかしそれは母がどんなに悔しい思い、悲しい思いをしていても決して子供にぶつける感情ではないと思う。そんなこんなで私の新しい塾生活が始まって母はさぞかし満足だった。私は満足していなかったけれど。

 

 塾通いも半年を過ぎたあたりから、また授業が「授業妨害か!」と言うほどに塾の教室内がうるさくなってしまったのだ。既に授業妨害を通り越して学級崩壊・・・それに近いレベルとも思った。それも毎回同じ生徒が「どんちゃん騒ぎか?!」と思えるレベルの大騒ぎをして授業を妨げてしまうのだ。ここでも私は理由を話して母に塾を辞めたいと申し出ているが却下されている。そこで私が取った行動は「塾へ通うことを拒否」するものだった。塾の時間になっても部屋から出ることなく、ひたすら塾へは行きたくないと連呼していたのだ。母も困り果てて兄もそれを見て「このままじゃ成績が上がらないし高校にも行けない」とまで言い出した。私はそこでも「授業に集中できない。それこそ授業妨害だ!そんなところには行きたくない」と主張し続けたが、それが数週間続いたある日、私は母に無理矢理塾に連れて行かれた。それから授業妨害の生徒がいる中でも必死に授業を聞くようにした。実はこの時も母は従姉妹を引き合いに出して私を説得してきたのだ。やはりここでも出たのは「従姉妹ちゃんに負けたくないでしょ?」だ。負けるも勝つも、その個人に合った勉強法でないと意味が無いのだが。それこそ母の望む「良い学校」になんて入れないし、実際に入学してからも勉強についていけないなど、問題が起きてしまうだろう。それを母はどう思ったのか分からないが、ひとつ言えることはやはり母は私の希望というよりも従姉妹や叔母に負けたくない一心だったのだ。

 更に時は過ぎて中学校3年になると、母による比較は度を越えるものとなった。そこで判明したのだが、叔母は従姉妹を高専に入れたがっているようだった。一方母は相変わらず私を市内一の進学校に入れたがっていた。だが私の成績では正直入れる自身は無かった。そこで母は推薦を狙う!と私に発破をかけてきたのだ。母は私が市内の私立高校受験の学校推薦を受けることになったことを叔母に話してしまった。推薦の種類は学業推薦。中学3年当時私は常に成績は学年約390人中50~70番ほどだったので実は担任から県立高校(中堅の進学校。ここも評判は悪くない)への推薦の話もあったが、母が望む市内一の進学校は県立でも推薦枠を設けていないために推薦を受けられなかった。そこで私立高校の推薦を受けることになったのだ。学業だけではなく、部活での成績も優秀であった。県大会やその他のコンクールへの出場実績もあり私は入部からずっとレギュラーメンバーであった為だ。その他学級委員や学級の役員(会計)なども勤めたこともあり、内申書で決して悪いといわれるようなものでもないはず。事実内申書については担任の先生も書かなければいけない悪いものが見つからないと面談で言っていたぐらいだから。ちなみに私の通う学校では受験する高校への推薦を希望する生徒は最終的には学校の判断に委ねることにはなるが、先生に推薦希望を申し出ることは可能だった。例えば部活動などの推薦であったり、受験する学校に入って学業を頑張りたいなど。反対に従姉妹の通う学校では保護者や生徒からの要請での推薦が出来ないことになっており、従姉妹本人の成績も中の下ほどであり、部活(バレーボール部)も殆ど幽霊部員でありその学校のバレーボール部も大きな大会に出たような実績など皆無だったので本来なら学業でも部活でも推薦が貰えないはずだったのだが、叔母が学校に頼み込んで従姉妹は何とか推薦してもらえることになり、私は従姉妹と同じ学校を受験することになった。それを母から聞いた私は正直叔母に対して「ずるい」という思いよりも「気持ち悪い」という思いを抱いたものだ。

受験の結果、従姉妹よりも成績優秀であるはずの私が不合格、従姉妹が合格する結果になった。叔母は万々歳だっただろう。恐らく無理矢理推薦を受けて受験して合格した時点で、これで浪人せずに済んだとでも思っていたのかもしれない。私は暫く叔母にも従姉妹にも会いたくなかった。この推薦受験のおかげで従姉妹とは険悪な仲になりかけた。余談だが周囲ではこの年の翌年に県内で国体があったので、「国体に出る選手を輩出するためにテストの成績が良くても所属する部活が文化部よりも運動部の方が有利」などという噂も実はあった。特に私立高校の場合はそれが合否に関係していたのではとも言われていた。実際私と同じ学校からの受験で推薦入試にて合格したのはスポーツ推薦の生徒のみであり、学業推薦組は全滅してしまった。学業推薦組も実は成績は上から中の上ぐらいの子ばかりだった。私は家に帰って不合格だったことを私は両親に伝えた。だが両親ともに「世の中そんなに甘くない」と言い、母に限っては「あんな学校も受からないの?本当にみじめだわ!恥ずかしいわ!」と暴言を吐く始末。結局私は誰のために受験したのだろう、とまで思ってしまった。この後隣県にあるキリスト教系の学校を受験しないかと担任から話をされて推薦だったら入れることも伝えられ、願書を持って帰宅したが、これは猛反対されてしまい受験しないことになってしまった。

その後従姉妹はしばらく「私と同じ高校に通いたかった」と嘆いていたが、私はそれを素直に聞いてあげられずにいた。むしろ従姉妹が私に対して私立高校に合格したことを自慢していると思っていた。そもそも受験して合格していたのは私の方なのに・・・、それが何だか従姉妹はズルして合格したような感じにも受け取れたから。叔母が本来なら推薦の申し出が出来ないはずなのに無理矢理学校に頼み込んだというところで悪意さえ感じたからだ。それに対して叔母は鼻高々だったのは言うまでも無い。

その後私は県立の商業高校の情報処理科に合格した。周りからは「受かるはずが無い!」とまで言われていたが、普通に合格したのだ。ここでもすったもんだの末、なのだろう。前記のとおり母の勝手な奇行に巻き込まれた形にはなったが、母の望む従姉妹の通う学校よりも偏差値の高い学校であり、当時は市内一の進学校並みのレベルであったので、結果オーライだった。だが、私は合格したとはいえ本当はその学校に行きたくなかった。自分が学びたいものを学べないことを知っていたからだった。母曰く高偏差値で将来使える資格もたくさん取れるとの事、だがそれは当時の私にとってはどうでもよかった。芸術や英語の勉強が出来ない・・・と心の中ではずっと嘆いてたのだ。

 

ちょうどこの頃、長く闘病していた父方の祖父が亡くなり、私の県立高校の合格発表の日にお通夜が行われることになったのだ。そこで出てくるもの、それは葬儀に着て行く服だった。私はその時点では一応中学校の卒業式を終えてはいたが、3月末日までは一応中学生という立場という認識で中学の制服を着て参列することにしたのだが、従姉妹は進学する高校の制服を着てそこに参列していた。私はそれを見て何とも言えない複雑な気持ちになり、正直「自慢でもしているの?」という気持ちになった。その高校の制服を着ていても実はまだ中学生、明らかに自慢にしか思えないだろう。そして今風に言えば「痛い人」。同時にこれは叔母がけしかけたのだろうか?とまで勘繰った。そしてそれを見て母が私に言ったのは、「あんたはもっといい学校に入るんだから、それでいいでしょ?」と。だが私は母に「学校の制服だけで人を比較するなんて馬鹿みたい。マジくっだらない!」と一蹴したのだ。無論葬儀の時点では受験した学校には合格していたのだ。

その後高校生活を送る中で私は挫折を繰り返しながら、1年生のうちに卒業するのに必要な資格をすべて取得した。そんな中、私があらゆる検定に合格するたびに母は従姉妹や叔母にそれを得意げに自慢していた。ここでも母や叔母の娘自慢が続いていた。それを見るたびに本当に情けない気持ちになる私、これだけが勝負じゃないのにと思うしかなかった。これ以外にもやはり高校生活の中で自慢できるものを探しては母は私と従姉妹を比較していた。

 

従姉妹とは受験だけじゃなく、結婚するまであらゆることを比べられることとなった。当の本人たちにとっては本当に迷惑なのに。そして私たちが高校3年生になると、今度は就職やら大学進学やらで比べられる始末。私は事の成り行きで仕方なく無理矢理縁故で保険会社に就職することになったのだが、高校三年の冬休みになっても縁故就職先からなかなか内定がもらえなかった。母はそんな私を「一家の恥」「不良債権」だと貶した。その年に従姉妹の家が新築したこともあり、一家で新築祝いに呼ばれたが母は私を本当はその場に連れて行きたくなかったと私の前で話した。母曰く「あっちは短大への進学が決まっているのに、こっちは何も決まっていない。比べられてこっちが恥をかく」と。そして私は母にこう聞かれた。「比べられて悔しくないの?」と。私はその一言に腹が立った。じゃあ私がたとえ一流企業に就職したとしても、名の知れた大学に進学して国家試験に合格したとしても、それは私の将来を喜ぶのではなく母の見栄のためだったのか?母は口では「あなたの将来のため」と言っていても実際は両親のため?そういう思いで一杯になって私はその場で取り乱した。そして母に「悔しいよ、けれど・・・お前らみんな殺したいぐらい憎らしいわ!今すぐにでも消えてほしい!何がしたいんだよ、人のことを利用しやがってこの馬鹿親が!こんなの前から知ってたわ、お前らにとって私なんて単なる人形なんだろう?どの学校に入ってってのが、お前らの誇りなんだろう?私の人生なんて関係ないんだろう?」と母に怒鳴りつけていたのだ。母はその一言が悔しかったのだろう、私に応戦するように「人を殺したいだ?私はお前をそんな子供に育てた覚えは無い!」と手当たり次第私に物をぶつけてきた。私も半狂乱の状態で「じゃあ何で嘘ついてまで履歴書にあんな馬鹿みたいなこと書いて保険会社に入れようとしてるんだ(後記)?私はそんなこと望まない!いつも私の行く道を塞いでいたのはお前らだろうが!今すぐ死ねや!お前らがまともな親だったら私は死ねなんて言わねぇよ!」と母に怒鳴り続けた。

そう、ここで気づいてしまった。私は両親に利用されていた、全ては両親の名誉や見栄のため。だから無理にでも親族の誰よりもいい学校に入れていい会社に入れるのが自分たちのステータスになるのだと。だからこそ、余計に腹が立った、腸が煮えくり返った。

兄も両親も私の望む将来は全て否定し続けた。美容師の夢も、芸術や英語の勉強をすることも、留学をすることも、大好きな音楽を続けることも、好きなアイドルやバンドを好きになることも、バンドでギターを弾くことも、部屋にポスターを貼ることも、絵を描くことも。それらを捨ててひたすら勉強することだけを私に要求してきたのだ。無論恋愛なんて絶対にあってはならないとまで(こちらに関しては内緒で恋愛していたときもあった)。好きなもの、好きなこと、やりたいこと全てを禁止されてずっと勉強しろ勉強しろと罵られる。みんな勝手に私の道を決めて大騒ぎをして、やりたくないものまで押し付ける。時には人格まで否定され・・・。しまいには履歴書に嘘まで書かせて私を一流の保険会社に入社させようとしている・・・。母と怒鳴り合いをしたその後、母は私に対して「お前なんて産まなければよかった!出て行け!」と怒鳴りつけてきた。そこで私は泣きながら家を出た。

家を出て行き着いたところは地元のターミナル駅。親に怒鳴られて家を出たのはいいけれど、正直行くところが無い。しばらく駅周辺をうろうろしていたが、さすがにこのままではと思って進学校に通う男友達(以下アキラ)に私は駅前の公衆電話からポケベルを打った。アキラは私をすごく心配してくれて、私のポケベルに「イマスグイクヨ」「ドコニイル?」とメッセージをくれて暫くして私の元に来てくれた。彼は単なる男友達であり、私と境遇がほぼ同じという人だった。そして彼は自宅へ私を連れて行ってくれて、暫く匿うと言ってくれた。アキラとはお互いに好意などは無く、本当に気の許せる仲だった。実はアキラも親の言うとおりに勉強漬けの生活をさせられており、将来の夢も何度も踏みにじられており、受験した大学も親が決めたところだった。そして将来は国家公務員や官僚になれと言われ、そうせられると嘆いていた。無論アキラも表面上はそのような言うことを聞く「優等生」だったが、裏では気に入らない人をリンチしたりなどの悪さをしていた。そう、彼は私と同じ裏番仲間だった。私も高校2年の終わりごろからその仲間になっていたのだ。私も高校2年で将来や家族に絶望し、ちょうどその頃に出会ったアキラと話したり会ったりしているうちに裏でリンチをするようになっていった。無論私も表では優等生のいい子を装っていたが、裏では下級生や仲間を使ってリンチなど悪事を仕切るようになっていた。そして学校でも気に入らないクラスメイトに悪態をついたり暴言を吐くなどもしていた。

そんな付き合いもあったせいか、彼は私を理解してくれたのだろう。彼の両親に見つかることなく、私はその日彼の部屋に泊まった。次の日に母が不在であることを確認して帰宅して自室に閉じこもった。私が家に戻っていると知って母は自室にノックもせずに入り込んだかと思ったら、母は私に半分笑ったように謝罪してきた。それも「昨日はごめんね~、言い過ぎちゃった」というようにまるで反省をしていないような感じだった。私はそれをみて心底呆れ返った。それ以前に昨日どこに泊まったのか?などとは一切聞かれることは無かったのが救われたが、本当はそこを聞いて欲しかった。恐らくこの時母は私のことなど心配もしていなかったのだろう、だからあんなにヘラヘラした謝罪になったのだろう。それから1週間ほど私は両親とはろくに顔を合わせず口も聞かなかった。

 

家出から戻って数日後、私の元に就職試験を受けていた保険会社から内定の知らせが届いた。両親はとても喜んでいた。私はそれを見て正直「私のことを喜んでいるのではない」と思った。その後すぐに親戚中に私が保険会社に内定したことを両親によって広げられた。母も勝ち誇った顔だった。無論叔母にもその話が伝わった。それもあって母は勝ち誇った顔をしていたのだろう。その後母はずっと私が名の知れた保険会社にいることを従姉妹や叔母の前では鼻にかけて自慢をしていた。

 

実は私のこの就職には考えられない話があった。私自身学生のうちに普通に就活をしたことが無いのだ、むしろその機会を与えられていなかった。本当はずっと大学へ進学することを望んでいたが、高校2年の終わりに突然両親の知人を「親族(叔母)」だと偽ってその人が見張る中で履歴書を書かされたうえ、大手企業へ縁故入社させようと根回しされてしまったのだ。加えてちょうどこのあたりから突然母からブランド品の服(但しこれは自分好みではない)などを買い与えられるようになり、外食に連れ出される機会が増えた。行く場所は高級な料亭や会社の社長が接待で使うような個室付きの焼肉屋。それから付き合いなのか興味のない売れない歌手のディナーショーにも何度か連れて行かれた。ここでいうブランド品や外食はそのための見栄とも思われる。その企業に私派は入社するが、私はやる気を見せなかったうえに、何故ここに自分はいるんだろう?という疑問がずっとついて回った。知人を叔母と呼ぶようにとも言われた。

 

ちなみに従姉妹はあまり名前を聞かないような東京の短大に進学した。従姉妹本人曰く本当は四年制大学へ行きたかったらしいのだが、不合格となって今の短大にしたのだという。無理矢理就職させられた一流企業と、ほぼ無名の短大へ進学・・・。どちらが勝ちなのかは判断しかねる。そして母と叔母の比べ合いはここではまだ終わらない。

就職してからだが、従姉妹の家に行く時や従姉妹と会う時には、母から「ブランド物で身を固めるように」と言われていた。そして車も自分で運転して従姉妹の家に行くように言われていた。当時従姉妹は車の免許を持っていなかったうえに学生の立場。母親は恐らく「一流企業に入ってブランド物を持って車も自分で運転しているのよ!」と自慢してこいとでも思っていたのだろう。正直これも私にとっては本当にあほらしいとしか言い様が無い。

 

そして私の就職から2年が過ぎた頃、従姉妹が短大を卒業した。母は従姉妹は短大を卒業したが就職が決まらずオーストラリアに留学することになったと叔母から話があったというのだ。そこで母は私がいる前で「就職が決まらなくて留学って、現実から逃げているとしか思えない。あなたはいい会社に就職出来てよかったね~」とここでも従姉妹を馬鹿にしたような発言をした。私はそれを聞いて本当に母も叔母も哀れだとしか思えなかった。留学であろうが大学に編入しようが就職しようが、それは個人の自由なわけで誰かに言われたからするものでもないと思ったからだ。それに留学も就職も、その人には何か目標ややりたいと思うことがあってするものなんだから・・・。その後2年ほどしてから従姉妹が帰国して、就職活動の末に派遣社員として営業の仕事に就いたときにも「名の知れない短大を出て就職できなかったから留学・・・、それじゃろくな職にも就けるはずがないね」とここでも従姉妹を馬鹿にする発言。一流の会社で勤めていた私の立場を引き合いに出して優位に立とうと必死になる。そんな中私もその後偶然にも従姉妹と同じ派遣会社に所属して同じ派遣先となる(部署は違うが)。そこからまた小学生の頃のように従姉妹とは仲が良くなった。ここまではまだ良かったのだが、高校受験、大学、就職となれば・・・母も叔母も比べることといえば、それは「結婚」の時期。実際私が結婚するまで叔母や私の家族が私たちの婚期を比べるだろうとはさすがに思いもしなかった。というのも私が28歳の時に母とは死別していたからだ。叔母もさすがに今更こんなこと・・・と私はそう思っていた。

 

だが、私の思いとは裏腹に今度は父と兄が私の婚期について従姉妹と比べだしたのだ。「母が既に亡くなって叔母ともそう会う機会が多いわけでもないのに、それでも比較されるものなのか・・・」とまたここでも何とも言えない気持ちになった。母が亡くなって数ヵ月後に旦那と出会い付き合って遠距離恋愛を経て、母が亡くなった翌年の年末に私は結婚をした。そこで兄と父に「従姉妹より先に結婚出来て良かったな。20代で結婚出来てよかっただろう、小さい頃はいろいろ比べられたからね」と従姉妹と比べていた。特に兄は私が幼少の頃から両親や叔母から従姉妹と比べられては劣勢にいたことをかわいそうに思っていたのだろう。それもあってこの発言となったのだと思う。だが言われた本人からすれば決して嬉しいとは思えない。別に何歳で結婚しても構わないのだから。それに結婚してもその結婚が上手く行かずに離婚となればそっちの方が・・・となる場合もあるだろう。私たちはそうではないが・・・。

ちなみに従姉妹は私たちの結婚から約3年後に結婚した。私自身彼女が結婚をしたときは本当に嬉しかった。そういう彼女を支えて人生を共に歩んでいく伴侶が見つかったのだと・・・。

 

さすがに子供を儲けた時期について比べられることは無かったが、周りがここでも私と従姉妹を比べていたら私もさすがに父や兄を軽蔑していたかもしれない。父や兄だけじゃなく、私たちを比べた者をすべて軽蔑していただろう。そういう事については周りは確かに比べたがるものだろうが、当の本人たちにとってみれば本人がどの道に進もうがいつ結婚しようが、それは知ったことじゃないのでは?と思う。

 

従姉妹は幼い頃から両親である叔父叔母から(私から見た感じでは)蝶よ花よと育てられていた。やはり両親の立場もあったのだろうと今となればそう理解することができる。そのせいなのか、それともいつも着飾った叔母の影響もあるのか、従姉妹と従姉妹の兄は小学生から高価なブランド物の服を着ていた。大人になった今でもそこそこ高いブランド物が好き。だが従姉妹については社会人になったあたりからファストファッションも好む。基本的に古着やヴィンテージジーンズを好む私とは正反対である。私はブランド物はそんなに好まない。むしろ自分でカスタマイズした小物だったり、古着屋やセレクトショップで買った服などに手を加えて自分好みにアレンジして服を着たりすることが好きなのだ。それはやはり幼少の頃の冷遇が影響しているのだろうと考える。

そして従姉妹はそういう私に対して彼女は「古着を着るのが信じられない、古着よりもブランドの服の方がいいよ~」などとブランドを勧めていたこともあった。ちなみに彼女は私がブランド物をあまり好まないことを知っている。ここに書いたとおり従姉妹と私ではあらゆるものの好みは正反対である。たとえば従姉妹は酒好き。私は酒が飲めない。そして従姉妹がフリフリした女の子らしいものが好きであるなら、私は中性的なもの(男性寄りになることもある)を好むというように。

学校の勉強でも得意分野は正反対である。私は美術や音楽といった芸術系に長けているが(理系か文系か?と言われれば文系に寄る理系(情報系の出身のため)だが・・・)、反対に従姉妹は文系の科目を得意とする。それから彼女は本当に空気が読めないのか?と思う言動が非常に多く、私は幼少の頃からそれにうんざりすることも少なくなかった。言い換えれば「無神経」、本当にその人を思っての言動なのか?と思えてしまう。たとえば父方の年上の従姉妹に会って何かを買ってもらったとか、私がその場でそう言われてもただ羨むだろうことをそのまま話してしまったり、幼い私が描いた絵を「こんなもの無い」などと貶すなど。これも周りから注意をされても言い続ける。そしてすぐに自慢をするなど。本人に悪気は無いのは分かるが、幼い私でも「従姉妹ちゃん家は何だかな~」と思えてしまった。従姉妹だけじゃなく従姉妹の兄も何だかいつもお高く止まって気取っていると思えてしまっていたのだ。恐らくこちらも両親の影響なのだろう。

 

そんな中思うこと、それは従姉妹と私は正反対な部分が多いこともあり、そのふたりを比較するのは本当に「くだらない」の一言に尽きる.

 

ただ、私も従姉妹に負けたくない!という思いが無かったといえば嘘になる。やはり母と叔母による比較から始まって、いつの間にか本人たちを差し置いての比較になってしまったことから私は負けたくないと必死になっていたこともあった。高校に入ってからの勉強も頑張った。そして1年生のうちに学校の卒業資格である全経簿記の2級、情報処理検定2級、商業英検3級を取得したり、他にも形に残るものを取得しようと本当に必死だった。志願して勉強を重ねて情報処理技術者(言うまでもなく国家資格)の受験もしたが、こちらは残念ながら不合格だったが。従姉妹の通う学校は普通科、そして私の通う学校は商業高校の情報処理科。そもそもここで全てを比較するには無理があるのは解っていた、だが私も比較されて負けるぐらいならと必死になっていたのだ。その後も努力を重ねてワープロ検定などの資格を取得するなど、努力を惜しまなかった。これに対して従姉妹は「はる香ちゃんは社会で使える資格をいろいろ持っていて羨ましい。私もそういう学校の方が良かったと本気で思っている。それにその資格を活かして仕事をすることが出来ているはる香ちゃんが本当に羨ましいよ。たとえ仕事を辞めたって次の仕事に繋げることも出来るし・・・」と私に言ってきたのだ。従姉妹曰く彼女の通う高校や短大でも簿記やワープロなどの資格取得は出来ないわけではなかった、だが彼女は大学へ行くことを目標にしていたうえに英語ばかりに固執していたせいか、英語以外に活かせるものが無いというのだ。無論国家資格はおろか民間資格なども取得していない、彼女の持つものは英語関連の資格のみだ。

 

私から見ても従姉妹に対して羨ましいと思うことは多々ある。自分の好きなように人生を歩ませてもらえていたこと、それと幼少の頃からブランド服やブランドの小物に囲まれる生活、そして私が受験した学校に合格したこと、学生のうちに留学、東京の学校に進学させてもらえたこと。そしてオーストラリアへの長期留学も。本当に羨ましいと何度も思った。だが、そんな従姉妹も私を実は羨んでいた・・・。それを知ったときには本当に複雑だった。私も私なりに・・・となるところだが、実は従姉妹も私が知らないところで私を羨ましいと思って、そういう気持ちでいたなんてと考えると本当に辛くなる。叔母同士の比べっことはいえ、比べられた当人同士は決して気分のよくないものだと改めて実感したものだ。