Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

男尊女卑

残念ながら我が両親、男尊女卑という考えがあった。

うちは長男、長女という2人兄妹である。それも例外なく親からは「兄は長男だから一番、私は女だから・・・」というような考えだった。兄にいたっては父の機嫌に振り回されたりもしたが、ほぼ自分の思い通りのことをさせてもらっていた。反対に私にいたっては、「そんなものは必要ない」などと私の要求など殆ど聞いてもらえない。明らかに兄妹間のえこひいきだった。

小さい頃から何かと兄には物を買い与える、それも新品のものばかり。たとえば学校の教材などもいつも新品。だけど私にはいつも兄のお古。そしてお古ばっかりで嫌と主張すると父も母も決まって「兄のパンツもお古ってわけじゃないんだからいいでしょ!」とお古万歳主義を貫いていた。

兄からのお古は本当にいろいろあった、学校の教材の大工道具、そろばん、裁縫セット、鍵盤ハーモニカなど。それから服も襟元の伸びたTシャツ、学校のジャージなど。百歩譲って学校のジャージはまだ許せるが、女子と男子では考えや動物的な心理も違うことを何も理解しないのか、兄に買い与えたものは全ていいものだからとでも思いたいのか、私には当たり前のように兄の使った中古品が「お古」として回ってくる。せめて性別が違うことだけでも理解して欲しかった。女子ならやはり女子らしく可愛いものを持ちたい、そう思うだろう。それなのにいつも母は「お兄ちゃんのがあるでしょ?だからこれでいいの!」と私が新しいものを持つことを許さなかった。

小学校4年生のある日、学校から授業で使うために必要な大工道具(かなづちとか折りたたみ式ののこぎりがひとつのバッグに入ったやつ)や裁縫セット(針と糸だけじゃなく鋏など家庭科の授業で必要なもの一式がセットになったやつ)の注文票をもらってきた。そこで大工道具も裁縫セットも新しいものが欲しいと両親にねだったのだ。しかし両親からの答えはノー。両親曰く

「少しだけしか使わないから。それに今それ買ったらお前は大工にでもなるのか?」

「新しくても古くてもどれも一緒なんだから気にしない気にしない!」

など親の目線でしか考えてくれない。それに裁縫セットもそうだが、裁縫箱も当時はすでに女子好みのデザインの物だったり男の子が持ってもおかしくないようなものが注文票には載っていた。そこで私が好きなキャラクターのものがあって両親に買って欲しいとねだるが、こちらも答えはノー。やはり大工道具と同じで兄のお下がりを使うようにと。兄の持っていたものは決して私好みのものではなかった。裁縫箱も小さくて蓋にひびが入っていたりとすごく貧相、色も私の好きな色でもデザインでもないし。道具も揃っていなくて、さすがに道具が不ぞろいなのはいけないと、それだけは母から何とか買ってもらえたが。だけど肝心な私の願いは何も聞いてくれない・・・そう思えてならなかったのだ。

そんな中いざ図工や家庭科の授業が始まり、他の友達は新しい道具を持っていた。中には私と同じように上の兄弟のお下がりという子もいたが、あくまでそれも同性のきょうだいの場合のみ。私と同じように上がお兄ちゃんで下(私の友達)が妹となれば、やはり新しく買い揃えてくれる家も少なくなかった。家庭科の時間にいたっては授業に出たくないほど嫌だった。貧相な道具を持って授業を受けるのが死ぬほど嫌だったから。だから家庭科の時間は保健室に仮病を使って篭っていたこともあった。あとは忘れたふりをして授業に出たり。周りはなんで自分好みのものを持って授業を受けられるのに、なんで私は?とその疑問が頭から抜けずにいた。図工の時間も憂鬱でならなかった。ここでも「貧乏」とからかわれる始末だった。

それから兄は親にレーシングカートを買ってもらったこともある。確か兄が小学校6年生か中学校1年生の頃。

最初はポケバイが欲しいと兄は両親にねだっていたが、ある日テレビで見たレーシングカートに一目ぼれしたらしく、兄のおねだりを受けて父はその次の週末にレーシングカートをポンとキャッシュで買っていたのだ。だが私は兄が実際にカートを運転する姿は見たこともなく、市内の山奥にあるレーシングカート用のサーキットにも兄は片手で数えるぐらいしか行っていない。そしてその肝心なカート本体も家には置けず、母方の祖父の家にある物置に保管することに。だが、そこからそのカートは日の目を見ることはなく、独活の大木ならぬただ場所をとる鉄の塊と化した。十数万円したものも、今現在どこにあるのかすら分からない。

兄はいつも欲しいものを普通に買ってもらえた、だけど私は何か理由をつけられては買ってもらえないことが多かった。

私は小学校4年の頃に一度管楽器が欲しいと言ったことがあった。この時は通販のカタログで憧れていた管楽器(フルート、サクソフォーン、トランペットなど)入門セットがあり、それを見て私も欲しいと両親にねだったのだ。だが母は

「アンタに吹けるはずがない。あんたが吹くのはホラだけでしょ?」

と。そして父にいたっては

「ファックスなら会社にあるからそれを持ってきてやる!」

などとつまらないギャグにもならないことを言い出す始末。無論買ってもらうことは無かった。

それ以外にも可愛い形をした収納ケース、自転車、流行の文具類なども・・・。結局買ってもらったのは自転車だけ。後に知ったことだが兄もちょうどその時期に自転車が欲しいと両親に言っていたらしく、それで兄がメインで私はついで・・・というような感じで何とか買ってもらうことが出来た。けれど実際に買ってもらったものを見ると兄の方が明らかに高価であり、私には選択の余地などなく、父が決めた格安のママチャリだった。父曰くちゃんとした家電メーカーのものだが、見た目も兄よりは劣るもので。

兄はとにかく何でも高価なものを希望どおり買ってもらっていた。高いブランドの服、ハイセンスなバッグ、有名ブランドのスキー板、スキーウェア、ナイキの靴、100万円もする学習教材、ゲームボーイなども。

ゲームボーイの時には兄にそれを買うために親が私をダシにしたのだ。当時発売されたばかりのゲームボーイを兄が欲しがっていた。同時期に空手の県大会もあった。そこで父は兄に「買ってあげるが、お前(兄)が県大会で優勝したら買う。だがそうじゃなかったら私に買う」と宣言したのだ。私はそれを特に欲しいとも思っていなかったが、なぜか親は私に買うと言い出した。まぁ買ってもらえるんだったら、と私はそれを了承した。

そして肝心な兄の空手の試合の結果は、1回戦敗退・・・。

父との約束どおりゲームボーイは私が買ってもらったのだ。しかし、買ってもらったその日、家に帰ってみると兄が母に見守られてそれを使って遊んでいる。そして私が「それは私が買ってもらったのに、何でお兄ちゃんが黙って使ってるの?」と言うと母が「お兄ちゃんだってやりたいって言うの、だから貸してあげて?」と目を潤ませて私に言うのだ。それを良いことに兄は私がやりたいと言っても無視、ずっとゲームで遊んでいてしばらく返してもらえなかった。

無論私は父にも不満を言った。父は「兄弟仲良く遊べば良い!」と言い出す始末。そういう問題ではなく、私はその時点で全くゲームボーイで遊べていなかったのだ。それにこれは私が買ってもらったはずなのに?と思い「それは私が買ってもらったもので、私のものじゃないの?」と言うと、「お兄ちゃんが最初に欲しいって言った!だからお兄ちゃんだってやる権利はある!だったらそれをお前がお兄ちゃんにあげればいい!」というわけの分からないことを言い出した。

 

そこで気づいた、私はダシにされたのだ、だまされたのだ、と。

ゲームボーイはそれから暫く兄の部屋に置かれた、というか兄が持ち出してそのままずっと持っていた。そして私が遊ぼうとしても兄が無理に強奪していき、私はそれに触ることも暫くできずにいた。試合に負けたくせに、優勝できなかったくせに優勝賞品を強奪して遊んでいる強欲な男にしか見えなかった。そして両親共に兄を絶対に咎めない・・・。欲しいものを全て手にして笑う兄を私はただ指を咥えて見ていることしか出来ないのだ。

 

兄は本当にわがままだ。そして自分勝手。それは小さい頃からよくあった。さすがに親も全部ではないが注意をすることがあっても、私のものを勝手に持ち出したなどということであればそこまで叱りつけることは無かった。

ただ、兄が嘘をついたり、暴言を吐いた場合などは父が兄を怒鳴りつけて殴るということはあった。それでも兄は私より甘やかされていた、特に母には。

母からは溺愛されていたと言った方がいいだろう。ゲームボーイ以外でも母は私の私物を兄にも譲って欲しいと懇願することが多かった。たとえば家庭科の授業でエプロンを作ることになって生地を選びに手芸店へ出向いてその生地を少しでも多めに買った(無論私の小遣いで)ものなら、母はすかさずその余った生地に目をつけて兄用の弁当入れなどを作り出すのだ。そしてそれを見つけた私が

「それは私の買った生地だから、私のものなの?」

と訊くが母は

「どうせ家庭科のエプロン作りの他に使わないでしょう?余った生地でしょう?だったらお兄ちゃんにも譲ってあげて・・・」

と兄に譲るように言い出すのだ。母が買ったものだったら私の許可は要らないだろう、だがこの生地は私の小遣いで買ったものである。だから当然それには納得がいくわけもない。母に強引に押し切られる形でいつも私は諦めるという構図が出来上がってしまっていた。

 

実は買ってもらうもらわないの話以外で今でも納得がいかないことがある。それは私が小学校4年の時、父の会社の取引先の招待旅行で兄をアメリカ旅行へ連れて行くと言われていた。反対に私は連れて行ってもらえなかった。勿論この結果に私は不満だった。そこで両親は私に「来年はオーストラリアに行くからそこには連れて行ってあげるから、お兄ちゃんに今回は譲ってあげて」と言ったのだ。

だがいざ翌年になっても肝心なオーストラリア行きの話すら出てこず、結局私はそのオーストラリア旅行にも連れて行ってもらえなかった、両親によるずるい後出しジャンケンだった。

いつまで経ってもそんなこと、到底納得がいかない。そこで私はどうしてそうなったのかを母に尋ねた。母は

「女の子は旅行中に生理になるから」

とか

「お父さんは飛行機が嫌いなの。だから連れていけない(父同伴の予定だった。ちなみに兄の時は父と一緒ではなく父の会社の社長だった父方の叔父と従兄弟も一緒に行った)」

などと両親自身のことしか考えない訳のわからないことを言いつづけていた。無論私は納得できるはずもなく、私の不満は募るばかりであったのでその不満を母にぶつけたら

「お父さんにぶっとばされなきゃ分からないの?」

と逆ギレする始末。それに「兄は招待された」などと意味不明なことを言い始めた。

私が思うにどちらか一方が旅行に招待となる場合は「断る」という選択肢もあったのではないか。それなのに結局は兄ひとりがいい思いをしたようになってしまったのだ。やはり両親にとって私は単なる将来の介護要員や未来のお手伝いさんでしかなかったのだろう。適当に育てられていたのだろう。将来婿を取らずに嫁に行くとしてもあんまりな結果だ。

そもそも父の飛行機嫌いは私たち子供には関係のないことであり、言うまでもなく父の都合である。それを黙って聞く母・・・。まさに『大人のわがままで子供が犠牲になる』・・・、小学校4年生にしてその言葉って本当にあるものだと実感した。

兄のアメリカ旅行前後は本当に両親は兄のことばかりを構うわけで、私には殆どノータッチで私は家にいても孤独だった。

たとえば家族でひとりだけとはいえ始めての海外旅行、だから準備するものもたくさんあったのか、日に日に兄のものが増えていく。兄も当然ながら家族でひとりだけアメリカに行けると決まって浮かれて私の前で威張り散らしていた。両親も兄のアメリカ旅行で気分がハイになっており、あれもこれも準備しなきゃ!と躍起になっていた。そして兄のパスポートを取りに行き、そこへ私も連れて行かれたが何もなくただむなしさだけが残った。

そして兄の帰国日は本当に最悪だった。学校から帰宅して家に入ろうとしても玄関には鍵をかけられており、鍵も預けられていなかったために、兄たちが帰ってくるまで私はずっと外で待っていた。兄たちが帰宅した時間も薄暗くなる時間だった。それまで私は外で一人で待ちぼうけ・・・、それを見た母は私に「ウチの鍵、渡すの忘れた」と言い放った。

兄はアメリカ旅行から帰っても暫くは私に威張り散らしていた。きっと兄の心の中では「俺はアメリカに行けた。けどお前はバカだから行けなかった!」というような思いがあったのだろう。私はその度に悔しい気持ちになっていった。兄は私に威張り散らすだけではなかった。兄は私にお土産だと言って買ってきてくれた10色のボールペンを突然返してほしいと言い出した。兄曰く「俺が欲しくなったから」。私は兄に

「一度人にあげたものを返すなんて出来ない」

と抵抗するが、乱暴に使ったのかもうすでに書けなくなっているボールペン(こちらもアメリカで買ったもの。兄曰く100年使えるというものだった)を私の元において私の手から10色ボールペンを奪って行ってしまったのだ。私もさすがに悔しくなり母にそのことを訴えた。母は兄を呼びつけて叱ってくれたが、ボールペンは暫く戻らなかった。数ヵ月後になってやっと私の手元にそれは戻った、多分飽きたからと私に戻してきたのだろう。しかも既に書けなくなっている色もあった・・・。

時同じくして私が小学校4年生の頃、今度は私が子供部屋を追い出された。父は兄が中学に進学することもあって子ども部屋(8畳一間)は兄の部屋にすると突然宣言。私のために祖父母が買ってくれた学習机も兄のものになり、私には兄の古い学習机が与えられ、部屋が無いという理由から茶の間脇の廊下(約2畳ほどの広さ)に兄の学習机と2段ベッドのひとつを置いただけの空間を部屋として与えられ、常に監視されて生活をしていた。当然のことながら本来はその場所は廊下であるためベッドの脇はガラス戸であり(一応金属製の雨戸は付いていたが、殆ど役割を果たしていない)冬はとても寒く、寒さで目覚めることもしばしば。これに対して

「お兄ちゃんばっかりどうして?私も部屋が欲しいのに、さすがにこれはおかしい」

と不満を両親にぶつけたが、

「だったらウチの車の中で寝るか?で、勉強する時だけ家に入ればいい」

と言ったと思えば

「庭の犬小屋で暮らせばいい、俺らが小さい頃は普通に犬小屋で寝ていた。飼い犬も一緒だから問題ないだろう?」

などと信じられない言葉を並べていた。母はその隣で私をバカにしてただ笑うだけ。このあたりから兄は「兄の部屋」に私を入れないようになった。兄もそれをいいことに日々私を

「部屋なし」

「廊下部屋」

と馬鹿にしていた。その頃の兄は学校でも実は嫌われていたようだ。通知表の連絡欄には担任の先生から

「女子から嫌われている」

「自分勝手である」

などと書かれていたのを見たことがあった。やはりこうして家で甘やかされていたせいもあってだろう。反対に私は

「情緒不安定気味」

「たまに落ち着きが無い」

などと書かれていた。

 

廊下に部屋が移ってからというもの、宿題をやる気も起きず、日々机に座ってぼーっと過ごすことが増えた。友達も家には呼びたくなかった、バカにされるから。小学校4年生にもなればどこの家も一人部屋もしくは子供部屋に自分がいるわけだから。それなのに私はひとりだけ家の隅っこの廊下。やはりクラスメイトからは廊下部屋を理由に

「貧乏」

「ボロ屋」

などと散々バカにされたのだ。両親にそれを言ってもうちには空き部屋がない、お前はバカだから常に俺ら(両親)が見ていないと宿題もやらないし、勉強だってしないから。お前みたいなバカにはこれがちょうどいい、俺らもお前のバカさに迷惑している!などと私に言い放ち、しまいには廊下でも部屋があるだけありがたいと思えと開き直る始末だった。これに加えて

「お前は女、お兄ちゃんは男。男の方が偉い!」

などと言い放った。おかげで兄は変に自信過剰で平気で暴言を吐いたり暴力を振るう心の弱い人間に育ってしまった。ついでにマザコン、わがまま、過干渉、自己中心主義という要らぬものまで付いてしまったのだ。過干渉なところは母親そっくりである。

廊下部屋は約2年ほど続いた。だがその間それは我が家の火種にもなっており、当時我が家にバイクの事故でケガをして療養に来ていた母方の祖父の一言もあり、小学校6年生頃に自宅北側の4畳半ほどの納屋を部屋として与えられたが、私の学習机も本来私のために祖父母に買って貰った家具も兄の物になってしまい手元に戻ることは無かった。この部屋も隙間風の入る寒い部屋であり、冬場は相変わらず寒い。

女というだけでここまで不遇な待遇をされるものなのだろうか。両親は兄には本当に甘かったとしか思えない。兄が欲しいといったものは何でも買い与える、兄が行きたいと言った場所には必ず連れて行く。私が行きたいと言っても適当な言い訳をつけて父は連れて行けないと言っていた。母は私に

「お父さんが行きたくないって言っているんだから、あきらめてほしい。あんたがあきらめれば丸く収まる」

と。私は別にすぐにアメリカに行きたいなどと無理を言っているわけではなかった。それなのに優先されるのは必ず兄。私は兄ばかりの要望を聞く父に一度ぐらい私の要望も聞いて欲しかったのだが、事もあろうかそれを却下して兄の要望を聞いていたことに私は腹を立てたのだ。そんな中、ある土曜日の夜に父は

「明日はお兄ちゃんを連れて某サーキットにレースを見に行く」

と言い出した。けど私も父に買い物に連れて行ってもらいたいという思いがあったので、そんな父に腹を立てて

「私がここに行きたいと言ってもお父さんはいつも連れて行ってくれないのに、何でいつもお兄ちゃんだけ?」

と聞いたところ、父は

「今回ばかりはお兄ちゃんもどうしてもサーキットに行きたいって言うし、明日行かないともうそのレースが観れなくなる。お前にはお小遣い5000円あげるからそれで我慢してくれ」

と。私はお金の問題じゃないと食いついたのだが、それでも父は兄の要望をかなえるべく必死だった。私はお金が欲しいわけじゃなく、両親に要望を受け入れてもらい楽しく過ごしたいだけなのに。某コマーシャルではないが、『お金で買えない思い出、プライスレス』のようなものが実は子供の心の中では重要である。それも分からないのか、この親は・・・そう悲しく思った。

私が親とどこかに行った思い出といえば、ほぼ全て親が決めた場所だけだった気がする。それも父の要望どおりで。私が全く興味の無い場所へただドライブに行くだけ、またまた私からすれば全く興味の無い田舎の観光地。遠くに旅行へ行くとなっても移動は車かフェリー。飛行機は父が嫌いという理由だけで飛行機を使う場所はいつも却下となる。そしてフェリーで移動となる場所は決まって北海道。母はそれを素直に受け入れていた。

母は父の後ろを歩くような女性だった。私たちが否定しても一言目は私たちを否定、二言目は「お父さんは、お父さんは」と続く。言い方を変えれば亭主関白家庭の妻。父の言うことがいちばんという考えであった。そして前記のとおり男尊女卑の考えだけに家の中での順番は決まって父が一番で兄が二番、そして母が三番でいつも私は最後。無論順番が最後であれば他の家族の言うことは絶対というような理不尽な構図になっていた。そして子供への接し方、常に兄には甘い。その結果兄は母そっくりな過干渉で短気な性格になっていった。中でもマザコン気質、正直言って気持ち悪いと思ったこともあった。たとえば母が私を悪く言うときには決まって一緒になって悪口を言う、否定するなど。まさに某アニメのジャイアンスネ夫のような関係だった。母がジャイアンであれば兄はスネ夫というように。一般論で女性が言われたら傷つくような発言も平気でしていたし、放っておいて欲しいと私が兄に主張しても強引に部屋に押し入って怒鳴りつける、そこで持論を展開して干渉してくるなど・・・殆ど母親をそのままコピーしたようなものである。

正直私は中学ぐらいから家にはいたくなかった。出来れば近い未来に家から出て行きたいとまで考えていたものだ。このような家庭環境が原因で小学校高学年で自殺を考えたこともあった。ただ、唯一救われたのは兄が進学した高校は自宅から車で2時間ほど離れた遠方の私立高校であり学校近くで下宿生活をしていたため、私が中学校2年生の時から普段家にいなかった。ただ、実家に戻ると過干渉が始まる。普段は両親からの過干渉、そして兄がいるときには兄からの過干渉で私はいつもストレスがたまった状態だった。まわりの家族もそれを知らないはずがないが、見て見ぬふり。無論母も父や兄は偉いと思っていたのか、兄からの過度な干渉を支持するぐらいだった。

 

父も今思うと「子供の前で本当に最低」だと思うような言動がたくさんあった。子供の心に深い傷が付くなんて考えなかったのだろうか。今でも忘れられない一言、我が家は決まって父が一番風呂に入る。私が小学校4年生のある日、私も一番風呂に入ってみたいという思いからその日は父より早く風呂場に到着、風呂に入ろうとしていたところ父が現れて

「俺は家の天皇陛下なんだからお前はどけ!」

と押しのけられてしまったのだ。うちには皇族なんていないはず。それなのに・・・、やはりどこかおかしな考えが我が家にはあったのだろう。今思う、独裁者と女帝が常に我が家には存在していた。そしてわがままな王子と灰被り姫・・・

 

その灰被り姫の私は、家にいてもただむなしい、寂しい、劣等感だけが心を支配するようになっていった。次第に悪いことをするようにもなっていった。近所に私より1歳上の女友達がいたのだが、その子とはよく一緒に遊んでいた。彼女も上に姉二人がいるのだが、我が家と同じく両親は上二人の姉ばかり可愛がるものだからその妹である友人はいつも蚊帳の外。小学校5年生にして悪いこと全てをしているのでは?というぐらいに酷かった。親の飲み残した酒を水のように飲んでいたり、友達に平気で嘘をつく。手癖が悪く友達の持ち物を平気で盗んだり店で万引きをしたり。そして休日にはなぜか学校のジャージを着ている。本人にそれを何故かと聞いたら「着る服が無い」と当たり前のように答えていた。

その友人も私の異常に気づいていたのか、よく家に呼んでくれたり一緒に遊んだりもしていた。そんなある日、その友人と近所の個人商店に買い物に出かけたのだが、事もあろうかその友人は手馴れた手つきで陳列棚にあった商品を次から次へとカバンに入れていった。そして何事もなかったかのように店を後にした。私はそれを見て驚き、その場を暫く動くことが出来なかった。彼女は万引きをしていたのだ。そして店を出た私、今あったことが本当に現実に起きているの?と思いながら彼女と歩く。そして店から離れたところで彼女は私に店から盗ったものを「これ、あげる」と私に差し出したのだ。私は喜ぶわけもなく、「あ、はぁ・・・」という感じでほぼ強引に渡されて受け取った。彼女は続けて万引きしたことについては「あ、これね。別に欲しいわけじゃないんだ。ただ盗ってるだけ」とも。

家に帰ってもしばらくその事が頭から離れなかった。「あの子が万引き・・・。万引きって泥棒じゃん!学校でもしちゃダメって言われているのに、どうして?」とずっとそんな事が頭の中をぐるぐるしていた。

そしてその数ヵ月後、私もその友人とともに万引きをするようになっていった。別に何かが欲しいわけでもない。万引きをすることが心の隙間を埋めてくれる、そんな気がしていたのだ。万引きをしたのもその物が欲しいわけでもなかった、だから盗ったものは気前よくいつも学校の友人にあげていた。無論盗んだことは伏せて。だが、それも長くは続かなかった。小学校5年生のある日、店員に万引きが見つかったのだ。結局店員さんに注意をされてその日は帰された。初犯ということもあり、店のご主人の一言で帰された。帰り道、そこで私は「私の万引きが親にバレたらこっちの言い分も聞かずにボコボコにして終わりだろう・・・。正直こんなことをしても嬉しくないのに。例えば私がこの先本当に万引きで捕まっても両親は私のことなんて微塵も考えないんだろうな。塀の向こうに入れられたとしてもきっと厄介払いが出来たぐらいにしか思わないんだろう」と思った。私は泥棒になってしまったのだ。だがこうして見つかるのも嫌、それに盗むのだって本当はしたくない、見つかってもボコボコにされるだけ、良いことなんてひとつも無い!もう二度とやるもんか!と心に誓い、それ以来盗みをすることは無くなった。

盗みをしなくなってからというもの、暫くは穏やかに過ごしていた。だが一人のクラスメイト(女児)に目をつけられてしまった。