Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

高坂はる香です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

幼少期の体のトラブル、食生活

前章で書いたとおり、習い事地獄だった幼い頃・・・

そんな小学校1年生のある日に突然耳が痛くなり熱も出した。その日は風邪をこじらせた中でスイミングへ行き、それが原因と思われる中耳炎を起こしたのだ。

翌日に地域の総合病院の耳鼻科にかかり、即患部の切開をすることとなった。鼓膜を切開して中にたまった膿を出すこともあり、それはものすごい痛みで大泣きする私。そんな私を見て母は

「他のお友達だってみんなやってるんだから、我慢しなさい」

の一言のみであった。痛い処置を終えても痛さと恐怖から泣いている私を見て母からは

「痛いのによく頑張ったね」

の一言なんて無い。あったのは

「帰るわよ」

の一言だった。

その後も中耳炎などの耳のトラブルは続き、医師の助言もあってスイミングは小学校3年生に上がる前に一旦中止、そして小学校3年生の夏から再開することに。中耳炎は小学校1年生の頃に1回と、2年生の頃に1回、その間にも耳のトラブルは多々起こってしまい一時は難聴にもなった。

難聴になった時には常に学校のチャイムの音が半音上がった音で聞こえるなど、明らかに可笑しいことばかりが1ヶ月ほど続いていた。時には校内放送がほとんど聞こえないこともあった。度重なる耳のトラブルで学校は休みがちになった時期もあり、担任の先生も心配するほどだった。難聴は今でも度々起こる。やはり聞き取りづらい、音が半音上がった状態で聞こえるなど。

 

それだけじゃなく実は小学校1年生の頃に一度円形脱毛症にもなっている。

それは小学校1年生も終わりに近づいてきた頃、私がある日家でテレビを見ながら髪をいじっていたところ、突然髪が束になって抜けたのだ。母もそれを見て驚き、髪が抜けた箇所を見るときれいにそこだけが禿げていたのだ。母はあわてて私をかかりつけの病院へ連れて行き、円形脱毛症であることが発覚したのだ。残念ながら原因は未だに分かっていない。ただ周りからは『ストレスじゃないのか?』という声もあったそうだ。円形脱毛症、一度かかるとその後何かの拍子で再発することが多い、というわけで成人した現在まで数回再発している。

この時の脱毛症はかかりつけ医では原因が分からないということで、ここでも総合病院のお世話になることに。こちらは皮膚科にかかったのだが、ライトを頭に当てられたり、医者が私の頭をルーペで見たりと、正直奇妙な気持ちだった。それだけじゃなく、家に帰れば兄や父からは「ハゲ」と言われ笑われ、それを見ていた母から更に笑われる。さすがに学校へ行く時には髪を上に結び禿げている部分を隠していた。突然髪を結わえて登校したことから友達からはどうして?と理由を聞かれたが、からかわれるのがいやだったので円形脱毛症になったとは言わず「何だか、こうしてみたかったんだ」などとひたすら笑ってごまかした。

ただ、母から担任の先生へは円形脱毛症になったことは伝えられ、学年末の保護者面談のさいに先生に患部を見せたことは覚えている。先生も

「学校以外に忙しくて疲れているのでは?教室でも実は落ち着きが無いことがある。それとちょっとしたことで泣くことが多いのでずっと気になっていた」

と母に伝えたが、母にはちゃんと伝わっていなかったのだろう。私も正直習い事三昧な日々に嫌気がさしていた。もっと友達と遊びたい、自分がやりたいと言ったことだけをやりたい、好きなものでも母が付き添っての練習なんて嫌・・・。

 

体のトラブルは円形脱毛症や中耳炎だけでは済まなかった。アレルギー体質だけに鼻炎や気管支喘息にも幼少の頃から苦しめられていた。アレルギー性鼻炎になればいつも耳鼻科に連れて行かれ、喘息になれば病院行きは免れず幼稚園も学校も休みになってしまう。小学生になってからも喘息は出続けていた。

その中でいちばん酷かったのが小学校3年生の頃。気管支喘息の発作が酷くなり夜中に救急病院へ担ぎ込まれた。いろいろと医者に検査をされるが、それが幼い私にとって苦痛でしかなかった。その際私には何の説明も無くいきなり母と看護師がベッドに私の体を押さえつけて別の看護師が右手の甲に注射を打った。手の甲に注射を打つ、大人でも腕に刺される以上に痛い、それが子供となれば・・・、言うまでもないだろう。その注射の痛さにわんわん泣く私に対して母は「これやらないと治らないの!尿検査でプラスになってるんだから(何が?)」とただヒステリックに私に言うだけであった。

その後間もなくまた体を押さえつけられて今度は腕から血液を採ることに。だが血管が見つからないのか上手く注射針が刺さらず何度も刺されては痛さと恐怖でわんわん泣く私。母はまた「あんたが暴れてるから血を採れないの!痛いのなんて我慢しなさい!すぐ終わるはずなんだから!」とヒステリックに怒鳴りつけるだけ。とりあえず何とか採血は出来たものの、腕には痛々しい痣が残る。服にも血が付いていたのを覚えている。

この一件以来、大人になった今でも「注射」というものが嫌いであり、血も見ることが出来ない。血を見ると卒倒する事態である。息子の予防接種でも注射針が息子の腕に刺さっている間は息子の腕も注射針も見ることができないのだ。自身の血液検査の際も注射器や針、血を見ないように寝た状態で採ってもらうようにしている。予防接種のような上腕部に注射をするものですら恐怖でしかない。病院で看護助手のアルバイトをしていた時も検体の血液や注射針を見て卒倒した。

 

同時に私は小学校2年生の頃まで、給食を食べない子供だった。みんながどんなに美味しそうに食べていても、私は何だか食べたくない。たとえ大好物が給食で出たとしても、家では普通に食べるものが給食に出てもそれを何故か食べたくなかったのだ。

その時の私は「食事は楽しいもの」だと思っていなかった。食事は説教されて食べるものだと思っていた。というのも我が家の食事の環境にはいろいろと問題があったからだ。好き嫌いも多かったうえに、アレルギー体質でもあった。父も母も好き嫌いが多いというのは良くないと思っていただろう。だけど無理矢理食べさせればいつかは食べるようになるという考えだったのだ。それから特に母が私の体型を気にしていた。

小学校に入学してから母は私が少しでも太ると「また太ったね~。痩せないといけないね」と言い、食事も好きなものを食べさせてくれず、野菜サラダばかり食べさせられたこともあった。おやつも食べさせてもらえなかったこともある。酷いときには友達が遊びに来ている時に、その友達にはおやつをあげて私にはおやつをくれなかった。

そんな中で母はアレルギー体質の私に対して「1日に300グラムの生野菜を毎日食べればアレルギーは治る」というどこから聞いたのか分からない信憑性すら疑う話を信じて大量の生野菜を私に毎日食べさせていた。当然そんなものばかりでは飽きてしまう、そして私が食べなくなると

「アレルギーが治らないでしょ!こっちはねぇ、忙しいのにお金かけてやってやってるの!そんなのも分からないの?」

とヒステリーを起こしては無理矢理私に大量の野菜を食べさせようと必死になっていた。

 

父は父で私の好き嫌いの多さに悩んでいた。親であれば子供の好き嫌いを心配するという気持ちも理解できるが、「好き嫌いを直す!」と異常なまでに息巻く父に私は理解できずにいた。

父はよく私に

「好き嫌いばかりしているからバカになる」

など心無い言葉を浴びせたのだ。そして「好き嫌いをなくす」と言って嫌いなものを無理矢理食べさせる。それを食べないと好きなものを食べさせてくれない。たとえ嫌いなものを吐いてしまったとしても、それを食べろと強要。その繰り返しだった。

こんな事をされても私の好き嫌いは治るわけもなく、もっと嫌いになり、最終的には食事が楽しいと思わなくなるのが普通だろうと思うが。

それから父も母も兄も私の好き嫌いの多さに嫌気が差したのか、ある日食事の時間に私に「全員で体を押さえつけて嫌いなものを食べさせてやる!」と私に言い放った。この時点で既に家族との食事は大嫌いだった。もう家族団らんなんて言葉、「そんなものありません」と思っていた。

それから小学校3年生頃のある日、母が用意した食事が足りないという理由から私は食事なしという日があった。けれど母は兄には普通に食べさせていた。それに対して私がそのことを不満だと両親に言うと「気に入らないなら出て行け」と家の外に追い出されて1時間ほど寒空の下で過ごした。家族との食事の時間ほど嫌なものはなかった。

後に私は魚介類アレルギーであることが発覚。幼い頃から嫌いと思われていた生魚も実は幼少期に既にアレルギー反応が出ていた。それにも関わらず好き嫌いとだけ判断され、本当に苦しめられた。あの時もし私に強いアナフィラキシーが出て命に関わるようなことがあったなら、両親はどう思ったのだろう?今でも疑問である。事実蕁麻疹が出たこともあったが、母からは「虫にでも刺されたんでしょ?」と軽く対応されたものだ。

アレルギーばかりではなかった。小学校5年生の頃に初めてインフルエンザに罹患した時も理解に苦しむことばかりだった。その日は学校からの呼び出しで母が迎えに来てくれて病院へ行った。余談だが最初に母に連れて行かれた病院にて、病院の入り口に救急車が止まっていた。私も母も「救急車、誰か重篤な患者さんでもいるのかな?それかインフルエンザが流行っているから・・・きっとそうだよ」くらいにしか考えていなかった。

病院の建物に入って受付を済まそうと母が受付にいる女性に声をかけたところ、受付の女性が

「あ、あの・・・。先生、今・・・」

と何かを言おうとしていた。そこで母が

「どうしましたか?」

と言ったところ、その女性は

「先生、救急車で。先生、血圧で倒れて救急車でこれから大きな病院に搬送されますので・・・」

と。これでは診てもらうことが出来ないと、近くの別の病院へ行くことに。

別の病院に着いて診察をしてもらう。ここでは風邪との診断。吐き気もあったのでそこで吐き気止めを処方されたのだが、大人の分量で処方されていたのか指示通りに服用後、私は幻覚症状を起こした。その幻覚症状というのは頭を誰かにすごい力で掴まれて無理矢理首を回されるような感覚だった。それと同時に頬を片方向に引っ張られるような感覚も同時に襲ってきた。本当にそうされているかのような感覚で正直「私はもう死ぬのか・・・」とも思ったぐらい。幻覚で苦しむ私を見て父は兄と共に笑って見ていた。その後両親はさすがにただ事ではないと気づいて救急病院に連れて行ってくれたが、未だに事あるごとに「あの時のお前、とうとう頭がおかしくなったんじゃないかって本気で思ったけど、笑えたなぁ。『くぅ~びぃ~が~、まわる~』なんてねぇ!」と兄と共に笑いながら面白おかしく話すのだ。兄にいたってはそのときの私のモノマネを大げさにして笑いを取ろうとする始末。今考えても兄と父のその態度は許しがたい。人の苦しむ姿を見て笑うなんて真人間のすることじゃない!とその当時の私は早くもそう思った。

その後私は救急病院にて血液検査をしてもらい、インフルエンザにかかっていることが発覚した。この日は朝方まで点滴をしてもらっていた。おかげで幻覚も治まり、熱も下がっていった。

 

私は翌年もインフルエンザに罹患するも、ここでも母は初期症状を見落としたおかげで今度は悪化してしまったのだ。幻覚に初期症状見落とし・・・本当に運がないとしかいい様がない。

母は私の体にインフルエンザの初期症状の関節の痛みがあったのにもかかわらず、

「あーこれねぇ。大丈夫、成長痛だから!ほら、お兄ちゃんだって成長痛はよくあったからね!これから身長が伸びる証拠だから」

などと言っていたところ、今度は40度近い高熱と脱水症状が出て母はやっと事の重大さに気づく始末だった。この時は予想以上に症状が悪化してしまったため、かかった小児科の先生からは「どうしてこんなになるまで放っておいたのか?」と怒られ、点滴をして何とか事なきを得た。人生初の点滴だった。友人からの噂で聞いていたが、本当におとなしくしていればいいだけで初めての点滴注射は大して痛くなかったというのを覚えている。