Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

引越し後の生活、そして習い事地獄

私が4歳になったばかりの頃に現在の実家のある場所に引っ越した。

後に父に聞いた話だが、私たちが暮らした長屋の部屋に兄の学習机が入らないことが分かり、急遽引越しが決まったのだ。1週間2週間ほどで父は長屋よりも広い4人家族が住むのに良さそうな条件の物件を探して、そこへ引っ越すことになった。これに伴い私は入園するはずの幼稚園も辞退し、新しい住所から近い公立の幼稚園に入園することにもなった。新しい場所で正直初めてのことばかりで今まで仲良しだった裏の家の兄妹や近所の友達はそこに居ない、幼稚園の入園式の時なんて本当に不安で落ち着きが無かった。入園式の時に撮った集合写真はなぜか私は上を向いて写っていたのだ。どこを向いても知っている友達なんていない、覚えているのは入園式でクラスメイトになったある男の子からいきなり髪を引っ張られたこと。ものすごく痛くて泣いていた。その後も幼稚園に行っても私はどこかそわそわしていて、気の強い女の子や男の子からすぐに意地悪の対象になっていったのだ。

 

このあたりから母は洋裁にはまりはじめた。近所に洋裁教室をしている兄の同級生のお母さんがいて、そこに通い出したからだった。

それからというもの、私の着る服は母親好みのものを着せられる。私が要求を出してもすべて無視、却下。いつも母親の手作りの服を着せられてお姫様のような格好をさせられて幼稚園へ登園させられていた。そして汚して帰ってくると怒られるという何とも理不尽な事が待っている。

幼稚園なんて本当に雨の日以外は外でめいっぱい遊んで泥や砂で汚してくることが分かっているのに、いつもフリフリな服を着せられて・・・。それを見たクラスメイトの男子たちや気の強い女子からは「ぶりっ子」「服が変」「頭がぐちゃぐちゃ(三つ編みを解いたウェーブをツインテールにしていった時)」と言われ、その他の女子たちからは反対に「お姫様みたい」などと言われていた。そういう格好と周りからはぶりっ子と言われるような性格であったせいなのか、年長さんの子達にもしょっちゅうちょっかいを出されては泣いていた。けれど母は服装や髪型を改めるわけでもなく、子供のしたことでしょ?と言わんばかりに何も対策など立てることは無かった。

兄についてもやはり新しい場所で落ち着きが無かったようだ。兄も気が弱かったせいか、やはり上級生たちからちょっかいを出されることもしばしば。酷い場合だと毎日のように近所のある上級生から暴力を振るわれていた。そんなある日、母がその現場を目撃して兄をいじめていた上級生を叱ったのだ。だが上級生本人は母のお叱りなど馬耳東風であり、母も相当悩み兄と一緒に泣いていたこともあった。その上級生は我が家からそんなに離れていない場所に住んでいた。彼の父親は医者であり、そのせいもあってか常に周りの子達の前で威張り散らしていたのだ。周りの子供たちはやはりいじめられたくないのか、その子に服従し兄の周辺では変な主従関係が出来上がっていたのだ。だが、そのような事態は長く続くはずも無かった。ある日兄をいじめていた上級生の家が破産してしまったのだ。そのせいもあってか上級生宅は我が家のエリアから夜逃げ同然の引越しをして突然いなくなってしまった。それ以来、主従関係も無くなり兄もいじめられなくなった。母もそれを知って「医者だからって威張りやがって。ふんっ、ざまぁみろ!と思っている」と言っていたぐらいであった。

 

父も引越し前の父とは明らかに違う父になっていた。

仕事から帰ってきて私たち兄妹の部屋の片付けが終わっていないなら、容赦なく幼い私たちを怒鳴りつける。大切にしていたおもちゃを私たちの目の前で壊す、気に入らなければ手を挙げるなどそういう異常な行動が目立ってきたのだ。引越し前のように私たちが父の元に駆け寄って遊んでもらうということも次第に減っていった。

それと同時期あたりから、私たちの住む家の周りにはいつも誰かがうろついていた。私たちの家の周辺は実は地元の財閥企業に勤める方々が住む地域でもあり、そんな地域の一角にある小さな平屋建ての我が家はその人たちから見たら貧しく奇妙にでも見えたのだろう。家を塀の外から覗かれたこともあった。私が外で遊んでいると突然近所の人に声をかけられることもしばしば。家を覗いていた人と目が合うことも少なくなかった。

そういう生活に父も我慢の限界だったのかストレスを発散するかのように家では子供である私や兄に怒鳴り散らすこともしばしば、ほかにも無理をして何度も新車を買うなどもした。その時買った新車も次の年にはまた別の新車に変わっていた。それもスカイラインなどの高価な車に・・・。

ほぼ同じ時期に父は後部座席の床が抜けて廃車寸前だった母のオンボロ車も廃車にして新車を買い与えていた。それから車以外の家財道具などの目に見えるものを高価なものに買い換えたりもしていた。休日には決まって私たち兄妹は両親に家具屋や車のディーラーへ連れて行かれ買い物に付き合わされた。両親はおそらくご近所から好奇の目で見られたくない・・・その一心で必死に見栄を張っていたのだろう。見栄を張り続けた結果、自分で自分の首を絞めてしまったのだと、今となってはそう思う。少なくとも私の目にはそう映った。

変わってしまったのは父だけではなかった。母も変わってしまった。今思えば母は同じ市内とはいえ知人もいない全く知らない土地に幼子ふたりがいる状態で引っ越してきて心に余裕がなかったのだろう。

 

私が幼稚園に入園して暫くした頃、母が突然私を車に乗せてある場所に連れて行った。

そこは家から車で20分ほどの場所にあるバレエ教室。母が勝手に申し込んだものだった。事前の見学も私への意思確認もなく、突然バレエ教室に連れて行かれ、私の意志など関係なく入会となった。

私はその次の週からそこのバレエ教室へ通うことに。バレエのある日は幼稚園が終わると家で着替えをしてスクールバッグにレオタードとタイツとバレエシューズを入れて母にバレエ教室へ送って行かれ、教室に置いていかれるのだ。無論その日は近所に出来た友達と遊ぶなんて許されなかった。遊んでいても「これからお出かけするから~」と母が一方的に友達を家に帰してしまうのだった。もちろん私の心の中ではもっと友達と遊んでいたい、レオタードやバレエシューズを身につけるのではなく普段着で泥だらけになって友達と毎日遊びたいというのが本音。それが強制的に着たくもないレオタードを着せられてバレエシューズを履かされ、そして母も友達もいない空間でひたすら踊らされる・・・。レオタードもバレエシューズもどんなにきれいなものであっても憧れなんて無かった。無論教室に置いていかれるときに私は寂しさとバレエをやりたくない思いからずっと泣いていた。

「もっとお母さんと一緒にいたいし、友達とも遊びたい。こんなことしたくない。こんな場所嫌い・・・。バレエなんて大嫌い」

何を言っても母は私の言い分なんて聞いてくれなかった。レッスン中ずっと泣いていたこともあった。曲がかかってみんなが踊っていても私は踊りたくない。「何かが違う」と自分の中で自問自答していた。

そしてレッスンの終了時間になって母が迎えに来る。母を見つけてすぐに駆け寄る私。だけど母は私が泣いていたことについて先生に謝る。私には「頑張ったね」の一言も無い。

帰りの車の中ではいつも母から

「どうして泣いてばかりなの?こっちは高いお金を払って通わせてあげているの、辞めたらお金がもったいないでしょ?もう少し頑張れないの?誰も泣いていないじゃない!」

といかにも私が望んで入会したかのような酷い言葉が並ぶお説教が続いた。私はバレエをやりたいなんて言った事はないのに・・・

 

母の決めた習い事はバレエだけじゃなかった。

小学校にあがるまでにエレクトーン、ピアノと加わっていった。そして小学校にあがると空手と水泳も習い始め、そこにガールスカウトへの参加も加わった。ただ空手だけは私が習いたいといって習わせてくれた。兄が小学校1年生の頃から空手を習っており、そこに母と一緒に兄を迎えに行ったときに仲の良いクラスメイトの女子数名がいたこともあって、私もやってみたいと思ったのだ。これだけは私が望んでいたものだった。

ガールスカウトへの参加は、母が親しくしていた近所の娘さん(私より3歳上)も参加しているということもあり、母が勝手に参加させようと決めてしまったのだ。これも訳も分からず参加させられた感が拭えない。隔週日曜の午前中に近くの公民館で集まりがあり、そこへ否応無く連れて行かれた。そして私はよく分からないままそこに参加・・・。母曰く「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」とのこと。まだ小学校1年生なのに・・・

この時点で習い事だけで5つ。加えてガールスカウト。学校も加われば休みなんて土曜日ぐらいしかない。はっきり言ってほとんど友達と遊ぶことも許されない状態だった。夏休みになれば訳も分からずガールスカウトのキャンプに参加させられた。無論家族とも離れ離れになる。そして夜になれば寂しくて泣く・・・。ガールスカウトがある日曜が正直憂鬱だった。

ガールスカウトへの参加が決まって暫くすると、そこへスイミングも加わった。こちらは火曜日と金曜日の週に2回。幼少の頃から患っていた小児喘息の改善を目的としていたが、母曰く「喘息も治るし、あんたが太ってきたから」とのこと。お得意の「今のうちから違う学校の子たちとも関わっておくといい」というのが加わったことは言うまでもない。

私は何度も習い事を辞めたいと母に話した。しかし母は

「今やめたらお金がもったいない」と。

母はいつもお金の話しかしない。私が習いたいと言ったのは空手だけなのに、それなのに結局最後はお金でしかないのか、と幼いながらに絶望したこともあった。だが、バレエは小学校1年生の中盤で突然辞める事になる。後に分かったことだが発表会などのたびに教室がそこに通う生徒の父兄たちに高額な寄付金を募る、発表会に出るたびに高額な出演料を払う、公演のチケットをノルマ付きで売りさばかねばならないことが母にとっては不満だったようだ。そういう母の不満もあって辞めることになったくせに私には

「あんたがやる気が無いし練習もしないから!泣いてばかりでこっちが恥をかいた・・・」

と言うのだから呆れる。

今だから言えることは私にさせていた習い事なんて全て世間体を気にするばかりの母の馬鹿な見栄だったのかもしれない。バレエを習って身に付いたことは「母親に怒られないために自衛する術」だけだった。たとえばどんなに寂しい思いをしても我慢して泣かない、泣いたらまた母に怒られるからと。私が寂しくて泣くとお母さんが悲しむ、と。この時点で既に誤った方向に思考が動いていたのかもしれない。

 

同時に習っていたピアノとエレクトーンは、これもきっかけは近所に教室があるからという理由だった。一般の邸宅の一室で個人が某音楽教室の看板を掲げてピアノ教室を開いているというものであり、母もエレクトーンを弾くのが好きだったせいか私も気が付いたらそこに通うようになっていた。実は私の母はエレクトーン講師の民間免許を持っているらしく、看板さえあればいつでも教えられるような状態であった。

教室では私は先生と話をしたり、鍵盤に触れることは嫌いではなかった。だが、帰宅するとすぐに「きょう習ったことをおさらいするから!」と母は息巻いて私をエレクトーンのある部屋へ連れて行く。そしてエレクトーンの前に座らせて楽譜を広げてその日習ったことを復習させるということがずっと続いた。無論母の出す課題が出来なければ出来るまで何度もやり直しをさせられ、おやつも食べさせてもらえないこともあった。夕飯の時間が近くなってやっと復習と練習が終了。毎回エレクトーンとピアノのお稽古に通って帰宅をすれば今度は母からのマンツーマンのレッスンが続いた。正直言って家に帰っても息つく暇もなかった。ピアノの復習もエレクトーンを使ってのものだった。ただ楽譜が違うだけで母のレッスンはエレクトーンと同じものだった。

エレクトーンとピアノについては小学校2年生の中盤頃に教室が突然閉鎖してしまい、辞めざるを得なかった。ただ、後記にある中耳炎騒動もあったせいか他の教室に通ってまで再びエレクトーンを習うなどということは無かった。

後に両親から聞いた話では私の通っていたピアノ教室の先生がある日突然とある宗教に入信、出家してしまいそれに伴って教室を閉鎖してしまったのだ。うちの両親の事だから「自分たちの名誉を汚さないためのその場しのぎな発言か?」とも疑ったが、これは本当だった。私が成人してからのことだが私のピアノとエレクトーンの先生だった方の父親が亡くなった時の葬儀にて、娘であるその先生も遺族として葬儀に参列し祭壇の前に座っていたのだが、皆で合掌する際に先生と先生のご主人らしき男性は合掌をせず、線香もあげなかった。明らかに先生は自身が信仰しない宗教に関与してはならない宗教の信者であろうということだった。

 スイミングに関しては、レッスンが終わるまで母がガラス越しにプールサイドで私のレッスンをずっと見ている、まるでタレントスクールに子供を通わせるステージママのように。そして上手く泳げない場合はまたバレエの時と同じように「こっちは高いお金を払って通わせている」とまたお金の話を持ち出す。

私がある級に進級したての頃、本気でスイミングをやりたくないと思うようになってしまったことがあった。その級で習うことは10メートルを息継ぎなしで泳ぐというものだった。それが出来なければ上の進めないことは知っていたものの、当時6歳の私にとっては難しいものでありどうしても途中で息継ぎをしてしまう。その当時のコーチも指導が厳しいこともあって、私は辞めてしまいたいと思ったのだった。事実そのコーチの厳しさに耐えられずに辞めていく子供たちも多かったそうだ。私も辞めたいと母に言ったが、それに対して母は

「何言ってるの?それじゃお金をドブに捨てるようなものだ!やめるなんて許さない!」

と怒り出す始末。そこでもバレエで身に付けた「母親に怒られないために自衛する術」を実行、意地を張って無事に進級試験に合格して上の急に進むことが出来た。

幼稚園に入ってから小学校1年生、2年生の頃は日中は学校へ行き、家に帰ってからは習い事という日がほぼ毎日で、友達と遊んだ記憶は殆どない。それに「母に怒られないために自衛する術」も実は間違っていることもこの頃の私は知る由も無かった・・・

 

この異常なまでに多い習い事も、母なりの見栄や理想を私に押し付けた結果だったのかもしれない。そして習い事をたくさんさせること、母にとってはある意味ステータスでもあったのかもしれない。「わが子を落ちこぼれにさせてたまるか!」というようなどこかのドラマの中にいる教育ママのように・・・

 

ちなみに兄は小学校入学までの間に、スイミングしか習っていなかった。兄も小児喘息を患っていたこともあり、そのためだったと思われる。そして小学校入学から暫くして空手を習い始めた。私たちが通っていた空手教室は私たちの小学校の体育館で行われていたこともあり、そこの児童が多く通っていた。兄も同じ学年の友人と楽しそうに空手教室に通っていたのだ。

最初の頃こそ空手も楽しいものだったと記憶している。

だが、兄と同じ習い事ということもあってか空手が終わって家に帰れば常にお説教が待っているのだ。

兄や母からいつも言われていたこと・・・

「やる気が無い」

「型が下手くそ」

「組手なのに逃げ腰、あれじゃいつまで経っても勝てない!」

など。そして大会前になると必ずと言っていいほど「特訓」をされたのだ。両親や兄の見ている前で何度も型をさせられたのだ。そして腰が入っていないなどと何度も止められてそれが延々と何時間も続く。その間は学校の宿題も出来ないし、風呂にも入れず、無論寝る時間も遅くなる。結局それも兄や母が「兄弟揃って金メダル」という肩書きが欲しいだけのものだったのだろう。正直私は母や兄の熱血指導にはうんざりしていた。『楽しいの基準』なんて個々違うことだって分かっていたはずなのに。

ちなみに私たちは空手の大会では学年や熟練度に応じて型のみに出場するか、組手にも出場するかが決まる。私は殆ど型のみだった。型のみなら型のみでそれでいいと思っていた。自分の中では「熱血母と熱血兄がうるさいから、とりあえず試合に出られればいい」くらいにしか考えなくなっていたからだ。ただ、試合に出ないという選択肢もあったのだが、それを選ぶことはなかった。なぜなら試合に出ないと言ったところで私の意見など到底受け入れてくれるはずの無い母と兄だったから。母も兄も「試合では絶対に金メダル!金じゃなくてもメダルは取れ!」と私本人を差し置いて勝手に息巻く有様。幼いながらそれに従い、そして心の中だけで母と兄に呆れるしかなかった。というのも、兄は空手を心の底から楽しんでいたのだ。ただ楽しむ対象は私と逆であり、試合に勝ってメダルを取ることや表彰式で「第一位」といういちばんの順位が頭について名前を呼ばれることに楽しさを感じていた。楽しみの対象は別にどんなことでも構わない。ただ、自身の考えをたとえ兄妹であっても押し付けてよいものなのか・・・今でも疑問が残る。

ただ私自身も自分から「習いたい」と申し出ただけに意地でも辞めるとは言わなかった。教室での練習が厳しくても、兄や母からの「特訓」が厳しくても。

 

そして小学校1年生の頃に初めて出た試合。私は型の部小学校低学年に出場した。見たことのない別の道場に通う児童との対戦になった。だが結果は一回戦敗退。正直悔しいとも思わなかった。当時の私は「あー、これが試合なんだね」くらいしにしか捉えていなかったのだと思う。私は試合の結果はどうあれ負けたんだし仕方がないと思っていたのだが、兄も母もそれを許すはずがない。試合が終わってすぐに兄にも母にもねぎらいの言葉すら貰えず

「みっともない」

「馬鹿だから負けた」

などというような汚い言葉を浴びせられた。当時の私は試合に負けたことよりも試合に出たこと自体を褒める、ねぎらうなどそういう気持ちが母や兄には無いことを悲しく思った。ちなみに兄はこの試合で金メダルを獲り、兄や母の描いていたシナリオどおり「第一位」となって表彰台にあがったのだ。ちなみに私の出た小学校低学年の部の試合で優勝したのが、私の友人であったこともあり、母も兄も

「あの子は優勝できるのにねー」

の一言。どうしようもなく悲しい気持ちで一杯だった。この一件以降事あるごとに

「あの子みたいに金メダル、欲しいでしょ?だったらもっと上手くならないと」

などと友人を引き合いに出すことが増えた。

けど私も万年負け続きではなかった。さすがに「負けてられるか!」と思ったのか、小学校3年生の頃に出場した空手の試合で、まさかの1回戦突破となった。対戦相手は同じ道場に通っていた別の小学校の同級生の男子。いつも馬鹿やってワイワイしていたりしていた仲間であって決して仲が悪いわけではなかったけれど、何となく負けたくなかった。そして二回戦も突破。

決勝戦にて・・・惜しくも6人中4位という結果になった。だが私はこれはこれで満足していたのだ、負けたくない相手に勝てたことが嬉しかったから。だが、これを褒めてくれた人は母方の祖父祖母以外誰もいなかった。応援してくれていたはずの母も兄も「次は金メダルね、分かった?」の一言だけを私に言い渡した。自分なりに一生懸命頑張って勝ったのに・・・とずっと泣いていた。それを見た母は

「メダル取れなくて悔しくて泣いてるぐらいなら優勝するしかないでしょ?4位なんてみっともない。負けて獲る賞なんていらないのよ!」

と。

そんなこんなが続いていたが、空手は小学校にいる間は続けていた。最後の方は試合に殆ど出なかったが・・・

4年生の時点では空手とスイミングとガールスカウト(これは習い事じゃないか・・・)以外は既に辞めていたが、ここに今度はそろばんが加わる。それでも習い事は3つ。母から見れば「習い事が多いほうが立派」という勝手な思い込みで私はいろいろな習い事を掛け持ちさせられていたのだろう。スイミングは週2回、空手はメインである小学校の空手教室と別に通っていた道場を含めて週3回。そろばんは週に3回。もっと言うなら私の意志で習い始めて続いていたのは空手だけだった。やる気が起きなくてもおかしくないだろう。

そろばんを習うことになったのは、算数が苦手だった私を母が心配したからだった。こちらも勝手に教室に電話をかけて見学へ行くとアポを取り付けてしまったのだ。そこに1年生からそろばんを習っている同じクラスの優等生の女子がいたこともあり、ここでもまたその子を引き合いに出して

「あの子はねぇ、お勉強がすごく出来るでしょう?そうなりたいよね?ここに通えばもう算数が苦手なんて言わなくて済むようになるんだから」

と勝手な持論を展開し始めたのだ。当時の私はそういう母をもう何度も見ていたせいか、言うことを素直に聞かなきゃいけないと思っていたのだろう・・・完全に母のイエスマンになってしまっていたのだ。嫌なら「やりたくない」と言えばいいのに、結局は言ったところでケンカになるのも目に見えていたし、何かにつけて算数の成績がよくないと「あの時そろばんをやっていれば・・・」となっていることは日を見るより明らかだった。

反対に空手以外でも私はやりたいと言った習い事があった。それは「書道」。学校の授業で書道を習うのは3年生からだった。だが1年生から書き初めをして特選などを獲る子がクラスにいて憧れたのもあったからだ。その子は普段書く文字もとてもきれいだった。それもすごくうらやましく思った。だから私も書道を習いたいと母に何度も申し出たが、母は決まって「書道なんて意味がない」と一蹴していた。

さすがにそんな事だけでは書道を習うことを諦められないと、私がある日強硬手段に出た。それは小学校2年生の頃、書道なんて習っていない私が県の書き初めコンクールに自身の書き初めを出したいと申し出たのだ。学校の担任の先生も驚いていたのだが、それ以上に母親を驚かせた。何せ私は書道など習っていなかったうえにどうやって筆で字を書くのかも分からない状態だったから。そこで母は私を文具屋に連れて行き太目の筆を一本買い与えてくれた。そして使い方も分からない私にその筆を渡して放置していた。私もどうやったら・・・と悩んでしまい、筆の穂先をきれいにほぐしてしまったのだ。無論その筆は使えない。

それを見た母は

「ほらごらん、何も分からないのにそうやって目立とうと(ここでいう目立つというのは書き初めコンクールに出したいと申し出たことだろう)するからそうなるの!まぁ最初から墨も硯も買う予定なんてなかったからいいけど。習字なんて3年生になれば自動的に習うんだから!」

と意地悪く私に言い放った。結局私がどんな強硬手段に出ようが書道を習うことを許可してもらうことはなかった。