Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

問題児朝子と士郎の話

大人になった今でも好きになれない女がいる。それは朝子(いじめパート2参照)という児童、私が小学校6年生の頃に北国から転校してきた女だ。

前記のとおりお世辞にも可愛いと言い難い女であった。彼女は則子と仲が良く、よく一緒にいた。私は別の仲良しグループにいたが、なぜか朝子はよく私に付きまとってきたのだ。私は彼女の付きまといについて鬱陶しいとしか思っていなかった。だが、彼女も彼女で則子のすることは何でもまねをするような性格を持ち合わせていた。正直観察する分には楽しかったものの、気が付いたら則子が私に嫌がらせをすることまでまねをして、私に嫌がらせをするようになってきたのだ。

そして小学校6年生になって2ヶ月ほどしたある日、当時私は幸子と隣のクラスの綾(以下あやぽん)と同じスイミングスクールに通っていたのだが、そこに運悪く朝子も通い始めたのだ。それだけじゃなく、そろばんも習い始めて学校以外でも朝子と一緒という最悪な環境になってしまったのだ。実は朝子、幸子や則子と一緒に習い事をしたいと親におねだりをしていたらしい。そしてスイミングの送迎バスも同じで正直苦痛でしかなかった。スイミングのメンバーが幸子とあやぽんならまだ許せる(幸子は嫌いだけど)、だがそこに朝子も入って更にはもうひとり朝子の近所に住んでいた和美も入会してきて同じバスになったというのだから本当にもう厄介であった。ついでに和美も本当にバカな女だった。一人っ子で両親や祖父母には蝶よ花よと育てられたおかげでとんでもないわがままに育ってしまった「典型的な一人っ子」だった。

そしてここで彼女も朝子とタッグを組むとそれは本当に面倒で、私は何度も嫌な思いをした。スイミングの時だけでも私は何度も嫌がらせをされて、スイミングスクールの掲示板には朝子らが私の名前と「ブタ(オス)」と相合傘と共に名前をデカデカと書いていたりして、すごく嫌な思いをたくさんしていた。それだけじゃなく、レッスン終了後にアイスを買ってバスに乗ろうものなら必ずといっていいほど朝子と和美が私にアイスを寄越せ、一口ちょうだいと言ってくるのだ。私が断るとそれはそれで「一口だけでいいから~」と悪びれる様子も、申し訳ないという様子も全く無いのだ。そこで私はアイスを奪われたくない、これは自分の小遣いで買ったものだし・・・と思い「汚い!だからやめて」と言ったら今度は2人して嘘泣きをする。本当にタチが悪いとしか言いようが無い。そもそも人様の食べているアイスを食べたいなんて、はっきり言って気持ちが悪いしその行為自体が卑しく本当に意地汚い。何だか私の食べているアイスを見てベロベロと舌を舐めまわしているようにも思えてきたのを覚えている。それだけ私は彼女らの行動に嫌悪感を持ったのだ。それ以前に汚いというのは本音であった。

果たして奴らの親は彼女らにどんなしつけをしてきたのだろう。人様のものを欲しがるなど、小学校6年生にもなればそれが良いことなのか悪いことなのか・・・ちゃんと分かるだろう、それがどれだけ卑しいことかも。それだけではなく、朝子の卑しい性格は本当に目を余るものだった。則子と一緒にいれば「おごっておごって」の連呼、私が飴を持っていれば「ちょうだい!」、新しい文具を持っていれば「寄越せ、使わせろ」。卑しい以外にどんな表現が出来るのだろう・・・。大人になった今でも思いつかない。 

 

そんなある日曜日の午後に、我が家に電話が来た。電話に出てみると、朝子だった。私は「何か用?」と奴に問いかけた。すると

「これから遊ぼう!うちに来てよ!」

と言う。私はちょうどその時従姉妹と叔母さんが我が家に来ていて一緒に遊んでおり、その日は従姉妹たちが我が家で夕飯を食べてから家に帰ることもあり、その日は朝子らと遊ぶことなど出来ない。だから私は朝子からの誘いを断った。そして一旦電話を切った。

そしてその数分後にまた家の電話が鳴るので、出てみた。今度は朝子ではなく同じクラスの士郎という男子だった。私はその男子のことも嫌いだったので、彼の誘いを断った。

「たいして仲が良いわけでもないのに、なぜうちに電話をしてくるのだ?」と思いながら従姉妹と遊び始めていた。そしてトランプをテーブルに並べ始めたところで今度はまた朝子から電話がかかってきた。はっきり言って何度も来る電話に嫌気がさしていたのだ。

「何か用?さっきも電話してきたよね?」

と言って電話を取った。すると今度は電話口には私の大嫌いな同じクラスの佐江子という女子がいて

「あのね、はる香ちゃん。サエねぇ・・・、ひとりでさみしいの。だから一緒に遊んで」と言うのだ。だいたいの察しは付いていた。電話の向こうには朝子と佐江子と士郎が居たのだ。わたしは彼らとは仲が良いわけではないので、ここでしつこく電話が来たからといって一緒に遊ばなければいけないのか、その意味すら分からない。だからここでも断ったのだ。すると今度は私が電話を切って数秒後にまた電話が来て、ここでは朝子が私にかけてきた。

「さっきから遊ぼうって言ってるじゃない!今すぐ来てよ!来なさいよ!」

さすがにこの朝子からの電話に私は唖然とした。なぜ断っているのに勝手にしつこく人を誘っておいてそれで逆切れするのか・・・。

そこで私の困惑する様子を見かねた母が電話に出た。

「朝子ちゃんでしょ?どうしてこういう事をするのかしら?本人は何度も遊べないって言ってるよね?それなのにしつこく遊ぼうってどういう事?とにかくきょうはる香は朝子ちゃんと遊べません!」

と言って母は電話を切った。ここで母は私も察していた通りだと思ったのだ。電話の向こうには朝子とそれと同じクラスの佐江子と士郎と遊んでいたが、退屈したから私を誘い出していじめようという魂胆だったと。はっきり言ってそんなこと迷惑でしかないし、そういう事を思いつく輩だったのかと幻滅した。 

翌日、学校へ行くと朝子と佐江子とそれと士郎が教室にいた。私は無視することにしていたので、奴らとは目も合わせなかった。だが、そこに佐江子がやってきて

「昨日あんたも来ればよかったじゃない!楽しかったのになー」

と私に言った。無視をする私、佐江子は「何で無視するのよー!」とそればかり。そこに今度は朝子も来て

「だって楽しいから誘っただけなのに、友達でしょ?それにあんたの好きなマンガもあったのになー」

と奴らは必死に私に擦り寄ってくる。だが私はもう奴らが何をしようとしているのかを見抜いていたので終始無視に徹した。そして無視に耐えられなくなったのか、次は暴言を吐き始めて自ら私が思っていたとおりのことをしようとしていたと白状して自爆していた。この結果に対して本当に哀れだとしか言えない。

反対に私はその電話事件が起きた日は、その後ずっと従姉妹とトランプや花札遊びをして楽しんでいた。そして夜になって従姉妹一家と一緒に夕飯のすき焼きに美味しくかぶりついていたのだ。

寧ろ朝子らと嫌々一緒にいるよりも、仲良しの従姉妹と遊んで美味しい夕飯を食べるほうがどれだけ幸せか・・・

 

朝子曰く我が家は貧乏らしい。だが朝子の家の方が貧乏じゃないのか?というぐらい酷いのだ。当時彼女は掘っ立て小屋のような借家に住んでおり、家の外には面倒もろくに見てもらえていないような薄汚い犬が一匹いた。一度朝子の家に行ったことがあるのだが、入った途端すごく埃臭くて部屋にはクーラーも無く、壊れかけた扇風機がカタカタと音をたてて回るのみだった。そして外で飼われている犬は人に向かって吼えるし飛び掛ろうとするし・・・外見さながら躾もろくにされていない有様だった。とにかく朝子の家の中は埃だらけだった。それで普通の暮らし?と考えてしまったぐらい。普段の朝子も貧乏くさい格好をしていた。服も色も褪せて襟首が伸びたようなものを着ていたり、靴も毎日同じものしか履いていない。正直お下がりばっかりの私が見ても明らかに「私以下じゃないのか?」と思えてしまうほど酷い格好だったのだ。

それなのに、そんな朝子にいきなり「貧乏人」呼ばわりされた挙句、我が家はブタ小屋で貧乏だなどと家のことについても言われてしまったのだ。極めつけは我が家の苗字は隣の家と同じ苗字だったうえに、その隣の家は普通の二階建ての家だった。それで佐江子と一緒になってその家と比較して「隣は金持ちなのに、あんたの家は一階建てで貧乏だもんね~」などと根も葉もない話をクラスメイトらに言い触らしていたのだ。それを知って私は怒りを通り越して呆れたものだった。 

そしてある日、私は朝子に「うちのこと、よく貧乏なんて言えたもんだね?どこで貧乏だって分かるの?」と訊ねてみた。すると彼女は「だって家だって小屋みたいでさぁ。それにあんたも貧乏くさい」と。・・・結局こじつけだった。

そこで私も彼女に「朝子の家の方が酷いと思うけど?何あれ?家の中埃臭いし・・・」と言ったら朝子はすかさず怒り出して「うちのパパ、工場長だもん!本当の家は青森にあるんだもん!」と言い出したのだ。正直言ってどの規模の会社の工場の工場長なのか?と。それも誰もが名前を知る会社なのか、それとも町工場なのか?奴はそこまでは言わなかった。だが、「パパは工場長」ということだけが自身の威張れるステータスとでも思っていたのだろう。それと青森に本当の家があると言えば「きゃー!朝子ちゃんちってお金持ち~」と言ってくれるとでも思ったのだろうか。いくら子供とはいえ見苦しいものだ。そもそも公立の小学校に通う一小市民である私たちが「家が大きい」とか「親が工場長」とか「どんな車に乗っている」とかそういうものだけで子供たちを格付けして金持ちとか貧乏とかと決め付けている時点でお里が知れている。だが私自身、貧乏だと決め付けられて悪く言われて嫌がらせをされることは許しがたいものであった。

そんなある日、今度は則子らによって「私ちゃんは金持ち!親は社長!」などと勝手に決め付けられてそういう話にされてしまった。いくら金持ちだと後から言われても私は嬉しくも何ともない。そして、周りの勝手な決めつけでいきなり「お金持ち」になった私は朝子や則子からの「おごって」攻撃に遭うこととなった。 ある日私がそろばん塾近くのコンビニで立ち読みをしているところを朝子や則子たちに見つかってしまったのだ。すかさず彼女らから「ねぇ、おごってよ。お金持っているんでしょ?」と言われ、無いと言えば「じゃあ親に持ってきてもらえばいい。今から呼び出せよ!」などと悪質極まりないものだった。その則子たちはカツアゲをする不良高校生か?と思えてしまうぐらい酷いものだ。それも一度や二度ではない。

そこで私は考えた、現金は学校の購売部で学用品の買い物がある時以外は決して持ち歩かないようにしたのだ。そして手元にはテレホンカードを持つのみにした。それでもテレホンカードしか持ち歩かないということを知った彼女らは電話をするたびに私のところに来てテレホンカードを借りようと必死だった。だが私は断り続けた。だが強奪されることもしばしば、時には勝手に抜き取られていたこともあった。この時は朝子のランドセルから私のテレカが見つかったのだ。そして本人に問いつめても「私盗ってない。これは私ちゃんがくれたものだ!」と言うのだ。もうここまで大きくなれば奴らのしたことは犯罪である。いくら12歳の子供がやったこととはいえ、これは世間一般では「窃盗罪」という立派な犯罪である。この件については無論親を通して学校にも報告した。そこで朝子らは謝罪はするものの、また同じことを繰り返すのだった。

今度は則子ではなく則子やマミの腰巾着だったはずの朝子はついに他の私の私物にまで手を出した。彼女は宮沢りえのファンであった。私も宮沢りえが好きでドラマの再放送とかもよく観ていたし、憧れでもあった。当時名刺大ぐらいのブロマイドをランドセルのポケット(いちばん小さいポケットの外側にある透明な部分)に入れておくのが私たちの間で流行っていたこともあって、私もランドセルのポケットに宮沢りえのブロマイドを入れていた。

だがある朝、その日は学校の球技大会の朝練があったこともあって早朝に学校に来ていた。そして突然雨が降ってきてしまって軒下でそこにいたみんなと雨宿りをしていた。そこでそこに居合わせた学級委員長の男子が

「これじゃ練習が出来ないからみんなで教室に入ろう!」

と言い、みんなで教室に移動することになった。そして各々のランドセルを置いていた場所に急いで移動して手に持っていたタオルやハンカチをしまって教室に戻ろうとして、私も手に持っていたタオルをしまうためにランドセルを開けたのだが・・・、そこで気づいてしまった。ランドセルのポケットの中に入れておいたはずのブロマイドが無いことに!そしてその隣で朝子が嬉しそうに「あった!あたしの宮沢りえのブロマイド!これ欲しかったんだー!」といきなり声をあげた。こっちではそのブロマイドが無くなっているのに朝子の手元にあってその発言・・・本当に白々しい。子供の浅知恵レベルだ。

そこで私は朝子を疑ったので、すぐさま「ちょっとそれ見せて!」と朝子に詰め寄った。朝子のランドセルに入っていたのは、紛れもなく私のランドセルに入っていた物だった。そこで私は「それ私の!まったく同じものなんだけど・・・もしかして盗ったの?さっき「これ欲しかったんだー!」って言ってたよね?自分のだったら「これ欲しかったんだよねー」なんて言わないでしょう。それにさっきまでこれは私のランドセルに入っていたもので間違いないんだけど。返してもらえる?」と朝子に言った。だが彼女はブロマイドを持った手を上に上げて・・・「これは私の!ずっとここに入ってたもん!」と言い放つ。

けれど私はさっき朝子が私の隣で「あった!あたしの宮沢りえのブロマイド!これ欲しかったんだー!」と言ったことは聞いている。他にも聞いた人は多々いる。だから彼女が明らかに嘘をついていることは明白である。だが彼女が盗ったところは見ていない・・・。が、その少し前に確か同じクラスの士郎がランドセル置き場にいたところを私は見ている。ちなみに士郎は過去に何度かクラスメイトの私物を盗んでおり、それだけでは済まず下級生の私物を盗むなどをしていたこともあった。下級生から私物を盗む場合は本当に強奪とも言える手段で盗るので本当にタチが悪いのだ。

小学生の目から見ても士郎がその場で私のランドセルからブロマイドを抜き取ったことは充分に考えられた。周りにいたクラスメイトも

「さっき士郎がランドセル置き場にいたのを見たけど、あの時何をしてたの?確か士郎って朝子と仲が良かったよね?」

という話が聞こえてきた。そこで私はその場から逃げようとしていた士郎を捕まえて問い詰めた。結果はクロだった。正直やはり・・・という気持ちだった。

その後全員で教室に戻り、担任の先生が教室に入ってきて朝の会を始めた。そこで委員長が「これから士郎君と大沢さん(朝子の苗字)の学級裁判を行いたいと思います」と手を挙げた。先生は「一体なに?」というような目だったが、委員長と副委員長が黒板の前に出てくると、先生に許可を取り了解を貰ってすぐに裁判は始まった。

まず、委員長が

「今朝の球技大会の朝練が終わった後、高坂さんのランドセルの中からブロマイドが無くなりました。そしてその無くなったブロマイドが大沢さんのランドセルから見つかりました。大沢さん、これはどういう事ですか?」

と朝子に質問をする。そこで朝子は

「私知らないよ。盗ってないし、はる香ちゃんがそれを持っていたことも知らないし」

と言い出した。だが、委員長は続けて

「でも大沢さんは今朝みんなで教室に戻る際にランドセルを開けて『あった!あたしの宮沢りえのブロマイド!これ欲しかったんだー!』と大声で言っていましたよね?」

と質問をする。朝子はそれに対して

「だってあたしのランドセルに突然入ってたんだもん!」

とここでも自らが盗んだことを否定した。すると今度は他のクラスメイトの女子が

「けど、その前にランドセル置き場に士郎がいるのを見たよ。もしかしてまた士郎が盗んだとか?」

と言い出して、今度は士郎が委員長の標的になった。だが・・・

「俺は知らない、高坂のランドセルなんて開けてないし見てもいない!それに盗ってなんかいない!」

と言い出した。委員長も引き下がらない。

「じゃあ、あの時なぜみんなが練習をしているのにランドセル置き場にいたんですか?」と続ける。

「トイレに行っていただけだ!」

「けれどトイレとは逆方向ですよね?」

「だからトイレに・・・、けど、ランドセル置き場にも行ったような・・・」

「じゃあそこで何をしていたんですか?」

「間違って自分のじゃないランドセル、開けた」

「じゃあそこで自分のではないランドセルをどうしたのですか?」

「そのまま閉めた。だから盗ってない」

この繰り返し。結局水掛け論となってしまった。が、ここで別のクラスメイトが目撃談を話し始めたのだ。

「私、士郎くんが赤いランドセルをゴソゴソしているのを見たんですけど・・・」

この決定的な目撃証言が元になって士郎が私のブロマイドを盗んだことが発覚。ここでの目撃談で士郎がゴソゴソしていたランドセルに付いていたぬいぐるみのキーホルダーでそのランドセルが私の物だという決定的な一言も付いたのだ。ここで最初はシラを切っていた士郎も観念したのか、ブロマイドを盗んだことを認めたのだ。盗んだ動機は朝子に盗ってきてほしいと頼まれたからだという。そして委員長の質問は士郎だけじゃなく朝子にも向けられた。

「大沢さん、これは一体どういう事ですか?」

急な展開に朝子も焦りだして

「違う!私は士郎になんて頼んでないし、これは一昨日買ったものなの!だから私のだもん!私盗ってない!泥棒してないもん!」

「じゃあブロマイドはどこで買ったものですか?いくらしたものですか?」

「えぇと、それは・・・」

「自分で買ったのに答えられないんですか?」

委員長からの厳しい質問は続く。最終的に朝子の口から

「ごめんなさい、どうしても欲しくて・・・、でも自分じゃ買えなくて。それではる香ちゃんが持っているのがムカついたから士郎に頼んで盗んでもらいました」と。

結果的には士郎と朝子がブロマイドを盗んだ犯人であった。ここで担任の先生が

「まぁここで犯人も見つかって、やったこともちゃんと認めたんだから。はる香も許してやってほしい。だから、朝子も士郎もちゃんとはる香の前に言って謝って盗んだものをちゃんと返せ!」

とふたりの頭を小突いて私の前に立たせると、ここでも謝罪させた。そして私の手元にはブロマイドは無事に戻ってきた。

だが、私はどうしても彼女らを許すわけにはいかず

「許せません、許したくありません」

と彼女らの謝罪を受け入れなかった。ここで先生が驚いて

「なぁはる、こいつら謝ってるんじゃないか?お前も嫌な思いをしたのは分かるが・・・」

と言ったが、私は続けて

「だってここでこのふたりを許してしまったら、また同じことをして形だけで謝れば(悪事は)無かったことになるでしょう?今度はもっと悪いことをするかもしれないし。だから許したくありません!絶対に許しません」

と彼女らを許すつもりは無いと改めて先生に説明した。先生的にはここでお互いに「もうしないでね、もうしません」で済ませたかったのだろう、だが私はそんなことは望んでいないし簡単に盗癖など直るとは思っていなかった。盗癖のある知り合いは過去に見ているので、簡単に直るなどとは思わなかったのだ。

これまでに朝子は転校してきてから私の私物を何度か盗んでいるうえに、平気で人の悪口を言ったり無理矢理私にお店でおごらせようとしたりもしてきた。だからなおさらこの一件は許せなかったのだ。そして士郎についても。

実は士郎も5年生になって私たちのクラスに転校してきたのだ。この時からクラスで私物が無くなることが相次いでおり、クラス内だけじゃなく下級生も彼によって私物を無理矢理取られたり、家に押しかけてきて私物を盗まれていたのだ。実は士郎が転校してきてすぐにクラスみんなの私物が無くなったときに友人のエリもあっこちゃんも被害に遭った。特にあっこちゃんはその日学校に持ってきていたノートも下敷きも筆箱も全て盗まれたのだ。彼女曰く「おばあちゃんに買ってもらったやつなのに・・・」と。

そういう裏側もあるものを平気で盗むなんてとみんなで怒っていたことは今でも忘れない。

 

実は私もその後だが士郎からの被害を受けていた。小学校6年生になったある日、少ないお小遣いで買った当時流行のアニメキャラのシャーペンを彼に盗まれた。同じものを偶然という見方もあるかもしれないが、これは彼が盗んだことは明白だった。私のシャーペンが無くなって、その数時間後には彼がそれを当たり前のように使っており、その日の朝や1時間目にはそのシャーペンは持っていなかったことが目撃談から分かっている。それに、私のシャーペンは地元では入手できないものであり、遠方で買ったもので地元では見ないご当地デザインだったからだった。だから私以外にそれを入手できるはずがないと思っていたから、すぐさま彼を問い詰めた。だがここでも往生際が悪く

「これはクラスメイトの○○君と○○君とで地元の商店街に買い物に行ったときに気に入って買った!だからお前のを盗ってなんかいない!」

と言い出す始末。これについては他のクラスメイトの女子たちのものを盗んだときにも同じことを言っており、その後盗んだことが判明していることもあって私は彼の言い分を信用していなかった。本当に士郎の盗癖でみんなが迷惑をしていたこともあり、クラスで数名の女子が代表して士郎の自宅に押しかけたこともあった。そして士郎の母親に最近クラスで起きている盗難について話をして、その犯人が士郎ではないかということになっていると話したのだ。ここでも士郎はシラを切り続けたが、結局最後は盗んだことを認めた。ただ盗んだことを認めて謝罪するならまだいいが、奴の場合はもっとタチが悪い。盗んだことを認めているくせに

「じゃあ返せばいいんだろ?返してやるよ、最初からこんなもの欲しくなかった!」

と実際の態度と矛盾するような言い訳をし始めて私の腕にいきなりそのシャーペンを数回刺して、私はケガをしてしまった。この時の傷は私の左腕に今でもしっかりと残っている。

この一件については担任がいる目の前で起きてしまったこともあり、その日のうちに担任から我が家に謝罪の電話が来て、更には士郎の母親と姉と士郎本人が菓子折り持参で我が家に謝罪に来たのだ。そして母と私で応対したのだが、母は

「士郎くん家と我が家は家が近所だから大ごとにはしない、だがこれ以上うちの子に危害を与えるようなことがあれば親戚に警察官がいるのでそれなりの対処をしてもらう」

というだけであっさり謝罪を受け入れてしまい、ここで私に

「これからも仲良くしてね!」

と単なる子供の喧嘩として解決されてしまった。

 

それから暫くして、その年の夏休みが始まって学校では強制参加の「スクールキャンプ」が行われた。正直参加するのが嫌だったが、母から無理矢理参加させられた。母も父兄の手伝いでキャンプに参加していた。この場でも偶然班が一緒になった朝子と和美から散々嫌がらせをされた。そして翌日になってキャンプが終わって帰宅した。すると母が私に「

昨日の夕飯の時に、あるお友達から『はる香ちゃん家って本当にお金持ちなんですか?』って聞かれたんだけど、何かそういう事言ったの?」

と言われたのだ。そこで私は自分ではうちは金持ちだなんて話もしていないし、どうしてそうなったのかは正直分からない。ただ、朝子や則子が勝手にそう決め付けて私におごれおごれと言ってきているということを話したのだ。加えてだからキャンプにも参加したくなかったとも。ここで母は無理に参加させたことを詫びた。続けて

「あんたもそういう風に思われる態度を示さない、それと学校には余計なものを持っていかない。妬みもあったと思うんだよね」

と言った。まぁ妬みもあった、それはいくつか思い当たる節はある。私は自慢するわけではないが、ピアノも弾けて絵もそれなりに描けた。そして家庭科でも実習で作る小物類も周りからはよくほめられていた。そんなこんなで妬まれる要素は無いわけではなかったのだろう。

2学期が始まって私は徹底して朝子らを無視し続けた。学校でいつも一緒にいるのは相変わらずエリやあっこちゃん。そして隣のクラスにいたアスカとも。

そしてそこそこ平穏な日々を過ごしていたのだが、ここでも突然朝子が私のところに駆け寄ってきたのだ。

「うちの妹がいじめられてて・・・、どうすればいいの?朝から学校に行きたくないってずっと言ってて・・・」

と私に言ってきたのだ。私は一体何?という感じであったが、隣にいたお人よしな性格のエリが朝子から事情を聞く。そこで朝子は

「今うちのお父さんと妹が学校の昇降口にいるんだけど、ここでも妹が学校に行かないって言って泣いてるの・・・」

と言うのだ。私は乗り気じゃなく無視しようと思っていたのだが、ここでエリが

「とにかく、行ってみたほうがいいと思う!ねぇはる香ちゃん、昇降口に行ってみよう!」

と半ば無理矢理私の手を引いてエリと共に昇降口に向かった。朝子のことは大嫌い、結果的にエリに連れられて付いて行くような形になったのも何だか嫌だったが・・・。

昇降口に着いた私たち、そこには朝子の妹とお父さんが立っていた。朝子の言うとおり朝子の妹は泣いていた。そしてそこに今度は妹の担任が来て事情を聞いていた。朝子のお父さんがそこで先生に

「クラスメイトのある子がウチの娘に○○(人気アニメのキャラクター)のハンカチ持ってこいって言って、持ってこないと叩くだの何だのと言っているというんですが・・・」

と話す。そして朝子の妹は

「△△ちゃんがね、○○のハンカチ持ってこないと殺すとか叩くとか言うから。だからあたし学校行きたくないの」

と先生にゆっくりだが一生懸命に話している。私は朝子の方に目を向けると本当に悲しそうで泣きそうな顔をしていた。今まで見たこと無い朝子の悲しそうな、胸を痛めた表情・・・。

「あんなに私に酷いことをしている朝子でも、こんな顔するんだ・・・」

と思ってしまった。何だかその顔を見たら朝子が不憫に思えた。どんな家にいても大切な家族、たったひとりの妹、そういうところだろう。その後朝子の妹は担任の先生に連れられて教室に入っていった。私たちも朝子の妹と担任に付いて行き、朝子の妹の教室まで行ったのだ。そして無事に教室に入ったのを見届けて自分らの教室へ戻った。朝子はその日教室にいても授業も上の空のような雰囲気で、休み時間には妹の教室を見に行くなどもしていた。私たちにも

「妹、ちゃんと1日学校に居られるかなぁ」

と言っていたぐらいだ。

実は朝子には妹の他に歳の少し離れた兄がいたらしい。だが、その兄は彼女が私たちの小学校に転校してくる数年前に重い病気で亡くなっていたのだそう。そういう経験もあって彼女は妹をとても大事にしていたのだろう。そして5年生までいた学校も転校したくなかったとのこと。だが両親に連れられて無理矢理転校してきた先の学校で自分よりも何でも出来るような子である私に会って、それで嫉妬して気が弱いところや運動が苦手というところに付け込んでいじめを・・・という流れになったようだ。本人曰く前の学校では朝子はクラスの人気者だったようで、自分よりも目立つ存在が気に入らなかったとのこと。家では特に不自由することは無かったが、それでも私が自分よりも目立つというところは嫌だったと。

確かに家庭のことや転校に至った経緯などで朝子には同情する要素はある。だが私は同情しなかった。というのも彼女に同情したところで、それはうわべだけのものになっていたのは明白だったから。うわべだけの同情でお友達していられるほど私も優しくはなく、お人よしな性格でもないからだ。友達というのは本当に腹を割って何でも話せるものだとずっと思っていたからでもある。それに嫉妬していじめに繋げてしまうような人と仲良くするのは御免である。それにうわべだけの付き合いでは彼女にも失礼だから。

反対にエリやあっこちゃん、隣のクラスのアスカとは本当に腹を割って何度も話が出来る仲であった。エリとは幼稚園に入ったあたりから仲が良く、我が家とも家が近い。そしてあっこちゃんとは同じ幼稚園にいたこともあり、どちらとも旧知の仲である。それゆえに3人とも家が近いのでよく一緒に遊んだりもしていて、時には2対1のケンカになることもあったけれど、数日後には3人とも仲直りをしてまた何事も無かったかのように一緒に遊んでいた。それだけじゃなく家が近所ということもあってエリの両親やあっこちゃんの両親、我が家の両親も親同士良く知る仲でもあった。

エリと私は今でも仲が良い。エリは結婚して今は地元から遠く離れた場所で暮らしている。だがあっこちゃんは中学に入って暫くして両親が離婚してしまい、あっこちゃんと彼女の母親が学区外のアパートに引っ越してしまったのだ。そして高校も別々だったこともあり、疎遠になってしまった。ただ、エリとは今でも繋がりがあるようだ。実はエリは高校卒業後に美容師になり、エリの勤めていた美容院にあっこちゃんが客として来ていたそうだ。そこで繋がりは復活したのだそう。

叶うならまたエリとあっこちゃんと一緒に話がしたい。たとえば居酒屋で酒でも飲みながら・・・。

狂った愛情からできたもの、「ひねくれ者の作り方」

母の考えが普通ではないのは誰が考えても明らかだ。

そんな中、当時23歳頃だった私は母の理想に添うことにうんざりして、母の居ぬ所で男遊びにふけることを覚えた。食事を共にする、買い物をするだけ、ただ体を重ねるだけなど、今思うと本当に信じられないことばかり。相手に対して恋愛感情など無くても「あ、この人いいな!」と思った相手に擦り寄って親しくなり、そして連絡先を聞きだしてプライベートで誘い出すという事を繰り返していた。全ては自分の心の隙間を埋めるためだけに・・・。

自分の稼ぎで英語を勉強しているのに、英語のレッスンの内容すら私の好きなようにさせてもらえない、就職だって地元就職しか許してもらえず、交友関係も監視される・・・。そんなところにいる私自身、本当に心は荒むだけだった。加えて前記のとおりの恋愛事情など。

その私が荒んだ背景は、やはり両親(特に母)が元凶だった。私はその頃に一度仕事をリストラされた。リストラされて次の仕事、と考えていたがこの機会だからと海外留学をしたいと母に申し出たのだが、母は

「海外留学なんて認めない!金も無いくせに、絶対にそんな事は無理だ!お父さんの前でそんな事言ったら承知しないからね!」

と猛反対してきたのだ。そして留学関係の資料が私の手元にあれば私の居ない隙に捨ててしまうなど、そのような暴挙に出ることもあった。無論私も何もせずにただ母のいう事をハイハイ聞いていたわけではなかった。私はむしろ仕事をしていないこの時期だからこそ、時間に余裕も出来るのだから、本当にずっとやりたいと思っていたことをすべきじゃないのか?と考えて留学したいという結論になった。留学がダメなら地元以外での就職を!と思っていた矢先、今度はこちらも妨害に遭ってしまったのだ。最初は地元で就職活動を頑張って行っていたのだが、なかなか再就職が出来ずにいた。母はそのことに苛立ったのか、面接で落とされた職場やハローワークに電話をして

「どうしてウチの娘が仕事に就けないのか?」

と聞いたり

「何としてでも採用しなさい」

などとも言っていた。それだけではなく毎週日曜の朝に折りこみ広告で入ってくる求人広告を見ては勝手にチェックして「ここを受けなさい!」と干渉。受けないと

「自分が損するから私がやってあげてるの!どうしてそんなことも分からないの?バカだから?」

など意味不明な持論を展開する始末。そこで「じゃあ実家を出て関東で就職活動をする!」と宣言したら今度は

「世の中はそんなに甘くないの、東京じゃもっと仕事に就けないわ。だから就職はこっちでしなさい」

と聞いてもらえず。就職がだめなら留学やバイトをしながら予備校へ通って大学へ進学するか専門学校へ行きたいと話すと

「絶対だめ!行かせない!金も無いくせに。女は一人暮らししちゃいけないの!それにバイトなんてしたらそっちが主になっちゃうでしょ?」

などと更に分からないことを言い出す始末であった。母は私を何としてでも手放したくなかったのだろう。それか時期的に母は更年期障害の可能性もあった。

 

私がやっと決まった仕事ですら、母は私から仕事内容を聞き出しては否定するというものが多かった。酷い場合は「辞めろ辞めろ」と昼夜問わず私に言い続けて、私が辞めるまでそれを続けるというもの。本当に恐ろしい人間性である。

たとえばある電話関係の会社に就職が決まった時の話。私は面接時に「事務での採用になりますが、営業や設備工事にも行ってもらう」と言われたのだが、それもその会社の特色であって方針でもあるのだろうと思っていた。事実保険会社に勤めているときだって私たち内務職員もお客様から保険に入りたいと話があれば契約を取るというのも珍しくなかったので、事務で会社にいても営業をしてそれで契約をとるなどという話でも特に違和感は無かった。それに田舎暮らしということもあり、一度就職を決めたがそこを辞退してまた新たな仕事を探して就職、となるのは難しいという事情もあった。だからこそ就職活動もすべて母へは秘密にして行いたかった。だが母は前記のとおり求人折り込みを見て勝手にチェックをして「ここを受けろ!」と自分のことのように私に押し付けるので本当にうんざりする。母は私のことを本当に心配していたのかもしれない、だが20歳超えた成人した大人にこのようなことは本来不要なはずだ。やはり母の中で娘の私は幼稚園児か小学生で止まっているのだろうか?本気でそう思った。

そしてこの電話関係の会社に就職が内定した私、初日から先輩や所長とともに営業に出かけた。私は営業に出向いている間ずっとメモを取ったりするなど仕事を覚えることで必死だったが、帰宅したらしたで母から

「あんな仕事は今すぐ辞退しなさい!あなたにはもっと立派な仕事がある。それに所長と営業だって?もしそれが所長じゃなくても他の男の社員とかと営業ってなってラブホテルになんて連れ込まれたらどうするの?」

とまたまた見当違いというのか、飛躍しすぎる母の妄言が出てくる。特に「ホテルに連れ込む」なんて母の妄想でしかない。あくまで私は仕事をするためにそこに行くのだ。それなのに「ホテルに連れ込まれる」なんて思う母が本当に気持ち悪い。どうしてそういうところに結びつくのだろう、未だに分からない。ここで私は

「そんなの勝手な偏見でしょう?勝手な妄想は大概にしてほしい。仕事でそうする人なんていない!こっちだってやっと掴んだ就職内定なんだし、ここを辞めたらまた一からやり直しになる!そんなのは嫌だ!」

と反論した。だが母は

「偏見なはずがない、あんたみたいな可愛い若い女の子を見たら男なんて・・・。どうなるか分かってるでしょう?襲われるに決まってる!お母さんのいう事を聞きなさい!あの会社は辞めること、いいね!」

母の執着が気持ち悪い、と本気で思った。そしてこの後も狂ったかのように仕事を辞めろ、辞退しろと吼える母に気持ち悪さを覚えてきたが、これ以上母が暴れて妄言を繰り返す姿も見たくないので止む無くその仕事は辞退した。辞退したのはいいが、給料などもらえるはずもない・・・私がそこにいた2日間は一体何だったのだろう。やっと見つけた仕事やバイトでもこれなので、私はいつも八方塞がりになるだけであった。

 

とにかく両親ともに私の一人暮らしは「猛反対する!」ぐらいにひどく反対だった。理由は「ここからでも(実家でも)就職をして働くことは可能」、「女は結婚するまで実家暮らしが普通」「離れていたら男を作って妊娠して・・・」だった。そしてその理論を私に押し付ける。就職だけじゃなく、友達と一緒に泊まりの旅行にも行かせてもらえない。海外旅行なんて論外だとまで言われてしまった。理由は女の子ひとりでは危険だから、と。

 

日ごろから私の両親がこんな状態では私も正常な判断が出来なくなるはずだ。それにどこかに逃げようとするのが本能だろう。そこで私は前記のとおり男遊びに興じるということに至った。自分なりにもどこかに逃げないと・・・という感じだったのだと思う。特に英会話関連で私が絡むと最悪だった。私がこの歪んだ気持ちを持って男を何人捕まえただろう・・・というのが正直なところ。

毎日のように男をとっかえひっかえ・・・、というように「きょうは誰と食事」だったり「英会話が終わったら誰と会って~」となっていた。当時の職場でも先輩の恋愛話が出れば私もすかさず男の話を持ち出して、それを得意げに話すというお決まりのパターンだった。相手は自分よりも年下の大学生であったり、社会人でも自身より10歳近く歳の離れた人が相手だったり、そういう感じに私の周りには何人か常に男がいた。そしてそんな中、飲み会などで英会話がらみの男性からちやほやされることも多くなり、いろいろなイベントに誘われる機会も増えた。最初の頃こそお姫様のような扱いをされていたのだが、私はイベント毎に男に擦り寄ってそれでくっ付いて・・・という事が無くならず、周りがどんどん私から離れていくのだ。そしてまた別の男に・・・という悪循環となっていった。周りからは知らぬうちに「要注意人物」にされていただろう。恐らくだが私は第一印象は良いが、いざ付き合ってみると「重い女」だったり「親の過干渉がある」だったり「自己中心主義」というものが浮き彫りになってしまったのだろう。それで付き合いきれないとなって一方的に連絡を絶たれる。もし私が男であって今そういう状態にいる女性と付き合うなら、正直お断りだ。こんな悪魔のような淫魔のような恐ろしい女性とは付き合いたくない。

ただ、私も誰彼構わずというわけではなかった。自分の中でいくつかの条件を決めており、その中から品定めしていた。学歴や職業、年収や容姿など、いくつか私の中のチェック項目があり、そのチェック項目が多ければ多いほど私が理想とする人物像というものになっていたのだ。今思えばそれも母からの洗脳だったのかもしれない。いや、母のコピーだった。母は常日頃から私が結婚する相手の理想像を私に植え付けていたからだ。そんな中こんな中身の無い付き合いで実際に付き合った人間の中から、となっていたら本当に恐ろしい話である。品定めしていたこと自体恐ろしいが・・・

そしてその数年後、母が亡くなった。母の病が発覚した時には既に手のつけようがない状態になっていたうえに、手術をして病巣を取ったとしても長く生きることが出来ない病気だった。亡くなった時は確かに少しだけは悲しかった。けれどそれと同時に「これからは自分の行くべき道を目指そう!」という前向きな気持ちがあった。「母親」という障壁が無くなったからだ。どんな人と出会って付き合っていても、母親の異常な品定めが無いし否定もされない。もちろん干渉もされない。そういう思いが私の心を埋め尽くしてくれた。それにこれからは私自身のためだけに生きていこう!と決意した瞬間でもあった。

だが、問題はまだまだあった。そう、私の捻くれた性格だ。長年こんな両親、特に母親からの干渉に耐えて更に異常行動に悩まされたのならそう簡単に柔軟で物腰柔らかな性格に変貌するはずもない。そう、言動は相変わらず捻くれたまま・・・。過干渉の末に残ったもの・・・それは「捻くれ者」。まさにその一言に尽きる。こんな両親がいて、家に帰れば過干渉。それだけじゃなく生活の面でも自由が無い、それで学生の頃のいじめ、それが加われば「捻くれ者」の出来上がりである。捻くれて、また捻くれて、それで素直になれない。正直にもなれない。そうなればまた悪いループに陥る。それだけじゃなく過干渉に苦しんだ末には失うものも少なくない。そして残ったものは「捻くれた性格」、「歪んだ性格」とも言うのだろうか。素直になれないから楽しいことに対して素直に「笑えない」、捻くれているからこそ冷めるのも早く「くだらない」、物腰柔らかに対応できないから「喧嘩腰」。もう悪循環でしかない。そうなればやはり周りも引いてしまうのが相場である。

本当に私は捻くれた以外に「歪んだ」性格の持ち主だった。気に入らないことがあれば相手が堕ちるまで苦しめる、わがままも言い放題、本当に悪魔のような女だった。だけど犬や金魚などのペットやお気に入りの人は大事にするといった感じに。だから私が歪んだ感情で男遊びにふけっていても、その傍らにはいつも愛犬の写真などがあった。そう、会話の中に愛犬の話を持ってくることも珍しくなかったのだ。

【黒歴史認定】恋愛禁止!娘に寄り付く悪い虫は?!

これは決して某女性アイドルグループ内でのルールではない。我が家には「恋愛禁止」ルールが存在していたのだ。その禁止令を敷いたのは今更言うまでも無く母である。そんな母は私にお見合い結婚を望んでいた。

反対に私はお見合いなんて真っ平だと考えていた・・・それも子供の頃から。正直「結婚まで親の決めた相手となんて?!」と思っていたからだった。それだけに母は私が中学生の頃からずっと「恋愛なんてすべきじゃない!そんな事を今からしていたんじゃろくなことが無い。それに今は勉強だけでいい!」「誰彼が好きなんて言ってないで勉強しろ!」などと理由をつけて私に恋愛をさせまいと躍起になっていたのだ。

「好きな人」を持つことも許されず、私が誰かに好意をとなれば母は黙っていなかった。正直それだけでも十分に鬱陶しいとも思った。実際のところ私の色恋沙汰など中学の頃は特に何もなかった。周りに私の理想とする男子がいなかったからだ。むしろ「誰がいちばんバカで、誰がいちばんブサイクで・・・」などと今考えると相当不謹慎なランク付けを行っていたぐらいだ。

 

そんな私も高校生になってからは母の監視の目も厳しくなった。家に来る電話も私が受けることは殆ど許されず、相手が男と分かると一旦は私に取り次いでくれるが、電話が終わると必ず何を話していたんだ?などと尋問を受ける。ただ、ここには例外もあった。幼馴染のミツル君からの電話だけは取り次いでくれたのだ。そもそもミツル君の家のことはうちの両親は既知であるうえに、ミツル君との関係も彼が引っ越して行った後も続いていたこともあったからだ。それに何よりも母親同士の仲だろう。

母はよく「きょうね、どこどこのスーパーに行ったらミツル君のお母さんに会ったのよ」などと話してくれた。まぁ彼の母親の話を聞いても特にときめくものは無かったが・・・。そして高校3年の頃にミツル君と再会した際には母も自分のことのように喜んでいた。だが私から見ればそんな母の姿が非常に滑稽に見えたものだ。そういう母を尻目にミツル君とは幼馴染という関係上、それ以上の関係に発展することは無かった。けれど私はそれでもいいと思っていた。やはり幼馴染というだけにお互いを知りすぎちゃっている・・・。だが幼馴染という関係以上にならない利点としてお互いを知っているだけに何でもよく話せるものである。だから時間があればよく電話で話をしたり、学校の帰りに遭遇したさいにはよく話をしながら一緒に帰ったりもしていた。再会するまでは電話でしかお互いに接点が無かったが、再会してからはお互いに会って話が出来ることもあってかすごく楽しかった。けれど最終的に恋愛関係にならなかった、私はそれでいいと思ってしまう。 

そしてこればかりじゃなく、部屋に好きなアイドルやバンドのメンバーのポスターを貼ることも許してくれなかった。そのアイドルやバンドがテレビに出ていて私がそれを見て喜んでいると母はいつも私に「そんなものに見とれてる暇があったら勉強!こういう事ばっかりしているから成績が下がるの!」と私からそのアイドルも取り上げようとしていた。音楽雑誌を買うこともよく思わなかったようで、ある日帰宅したらそれがごっそり私の部屋から無くなっていたこともあった。テレビで当時好きだった男性バンドや男性タレントが出ているのを嬉しそうに私が観ている時も母は悪意を持ったように「あんな男のどこがいいの?顔なんてブサイクだし歌もへたくそでさぁ。どうせ事務所の力かカネで上にのし上がれただけじゃないの?」などと知ったように言うのだ。今思うと私が家族以外に目を向けることへの嫉妬心からそのような発言になったのかもしれない。兄もそれを見て母を止めるのではなく私に「そうだそうだ、こんなのが好きなの?だっさー!」と母の味方しかしないのだ。中高生ぐらいの女子だったらアイドルや若手の俳優やタレントに恋心を抱くのもよくあることだと思う。だが、私はこういう事すら許されなかった。そんな中で母の見えないところで追っかけのようなことは続けていたが・・・。そして私も高校を卒業となり、友人数名と卒業旅行へ行こうと計画を立てた。実は泊まりではなく、日帰りであるテーマパークに行くというものなのにその旅行のメンバーに男子がいることを知ると母は「男ってこういう時は押さえが効かなくなる!すぐにそんな計画やめなさい!!」とここでも私に男を寄せ付けない!と必死になっていた。

母は私から「卒業旅行」も取り上げた。本当に悔しい思いをした。この一件以来親友からも「お堅い良家のお嬢様」「ガードも頭も堅い」などと揶揄されるようになってしまい、今まで仲の良かった友達もひとりひとりと離れていってしまった。結果親友とも暫く疎遠になってしまった。母は私から一体どれだけのものを取り上げれば気が済んだのだろうか?友達、自由な恋愛、好きなアイドルやバンド、好きなファッション、好きなヘアスタイル、思想・・・。数えだしたらきりが無い。

よく「親の庇護の下にいるなら親のいう事をすべて聞くべき」と世間は言うけれど、それでも我が家は酷すぎる。私には人権が無いのか?と悩んだことも多々あった。私は母の理想の人形じゃない、そんなに母が理想を私に押し付けても私は母の理想どおりになんてなれない。母が私に自身の理想を完璧に押し付けたいなら、私ではなく他に誰か養子でも取ってその養子に自身の理想を押し付けたほうが貴女のためだと母に言ったこともあった。だが母は「それでは意味がない。自分が産んだ子供だからこそ私の思い通りにしたい」などと不可解な発言をしてきた。やはり私は母にとって単なるお人形さんでしかないのか?

 

 そして私は社会人になった。ここでも母からの恋愛禁止令は敷かれたままだった。私自身は就職した会社には正直居たくなかったのだが、会社に居る以上その会社に慣れようと必死であった。そんな私の気持ちを知ってか知らぬか母は私の入った会社に独身の男はいないのか?と今度は男探しを始めたのだ。母曰く「一流企業だし、そこにいる男の人は一流大学も出ているから将来安泰!」とのこと。勝手にそんな理想論を並べられてもこっちにとっては傍迷惑でしかない。無論母の考えは当事者である私を差し置いてである。本当に迷惑以外の他ならない。そして私が会社の話をするときまって「その人って独身?どこの大学出てるの?東大?それとも京大?」などと私に尋問を始めるのだ。極めつけは私の部署に旧帝大出身の人が来ることになったという話を私が母にすると「どんな人なの?この人独身でしょ?彼女いるの?」といかにも自分が恋をしているかのような発言が相次いだ。

入りたくなかった会社であっても私は男探しに会社に行っているわけじゃないし、と戸惑ったものだ。母は私をその会社に無理矢理入社させたのも、母の理想の相手と私を結婚させようと必死だったのかもしれない。そして母は私を会社以外の男の目に触れさせまいと必死になっていた。美容院に行って担当になる美容師さんですら「男はダメ!」と言っていたぐらいだ。

 

実はそんな母から離れたい、実家から離れたいという思いや恋愛禁止令や行動の制限に嫌気がさして私は20歳の頃にかりそめの彼氏を作り、強制的に結婚してすぐに離婚することで実家を離れるという計画を立てていた。相手は友人の彼氏の友人。そしてその男は母の理想の相手とは間逆であり、専門卒の21歳で職業はフリーター。実家は借家住まいで決して裕福ではない。私はそこに目をつけてその男を「かりそめの彼氏」にすることにした。無論その男に対して愛情があるわけではないので、最後まで体の関係は持たなかった。加えて私はその男と付き合っていても正直その男に対しては「気持ち悪い」と思っていた。とりあえず私の目標が達成されれば奴は用済みであるので、それまでの辛抱だと我慢していたのだ。そんな中で私の新しい生活に向けての計画も始まっていたのだ。部屋探しから始まり、実家から独立するための準備が着々と私の中で進んでいた。不動産屋も何軒もひとりで回った。家電や家具を見て回ったこともあった。そして人生初の大掛かりな家出をするために住民票はどうすれば・・・なども調べまわった。そんなある日、母に友人との電話を聞かれてしまい私に彼氏がいることがばれてしまった。そこで仕方なく私は両親に彼について話をすることにした。その時はこういう人とただ付き合っていることだけを話していたが、両親の中では勝手に結婚などそういうところにまで話が進んでしまって、結婚はさせられないし、そんなフリーターのろくでなしとはすぐに別れるべきとまで言われてしまったのだ。だがこれも私の想定の範囲だった。父に至っては「そんなろくでなしと結婚したら近い未来一家心中するのが目に見える」とまで言われてしまった。けれど、これもあと数ヶ月・・・。と私の中では考えていたのだが。ここでいう計画というのは、その「かりそめの彼氏」と結婚し、すぐに離婚して逃走するというもの。場合によっては未入籍のまま私が逃走するというものだった。そのために私ひとりが住むための新居を探したりしていたのだ。そして「かりそめの彼氏」とも表面上の恋人を演じていた。そんな計画を私が立てていたなど、相手は知る由も無いのだが。

それからというもの、母からはほぼ毎日のように「あの男とは別れろ!」と時間を問わず言われる始末だった。正直母に対して怖いという感情もあったが、ここではとりあえず「別れない!別れる理由なんてない!」というように表面上取り繕っていた。だが、母はそこでも「あなたにはあなたをリードしてくれる人が似合う!」など、自身の理想を私に押し付けてくるのだ。

正直そういう理想ばかりを私に押し付ける事にうんざりしてこういう事になっているのに気づかない母を哀れだとも思えてきた。そんな中、友人から自宅に電話が来てそれを母が取った。そして母は私がその男と付き合っていることを話して友人からも付き合いを止めるように言って欲しいと電話口で友人に話をしていた。友人本人も相当戸惑っただろう。そして電話が終わって母は私に友人の悪口まで言い始めて私まで本当に嫌な気持ちにさせられた。ちなみにその友人はいつも用事があれば私の携帯に電話をしてくるのだが、その時彼女は自身の携帯が壊れてしまったことで私に伝えたい用件(急遽海外出張に行くことになったので1週間ほど連絡がつかなくなるというもの)が出来て自宅に電話をしてきたという当たり前の事だったのだが、母はこれに対して「海外出張することを自慢するためだけに電話してきた!あの女はいつもあんたのことを見下していたからそれもあるよね~。そんな女と関係している以上、あんたの男なんてその程度。本当にいつも隣には男がいるような感じだし、盛りのついた猫みたいな汚い女!そんなのとあんたを一緒にしておくわけにはいかないの!」など、ここでも悪意のある物言いをしてきた。だがここでも私は折れなかった。幸い私は月に1度2度ぐらいしか相手には会っていなかったので私の家出計画は着々と進んでいた。

だが、ここで私は大きなミスを犯してしまった。ある日仕事で市役所に用事があったので、ついでに婚姻届と離婚届を貰ってきた。というのもどちらも今回の家出に使うため。婚姻届に相手にサインしてもらって私もサインをして、そして戸籍を取り寄せて役所に出せば・・・、と。加えてその翌日あたりに離婚届を出せばいい!と考えていた。その後私は事もあろうかその役所からもらってきた婚姻届と離婚届を自室に置いたままにしてしまい、私が不在の時に母が勝手に部屋に入って家捜しをして、それを発見してしまったのだ。本当に迂闊だった・・・。

ちなみに当時成人していた私が勝手に家を出て実家の戸籍から抜けて新たに自身の戸籍を作るということが可能である法律の存在をその時の私は全く知らなかった。その当時その法律の存在を知っていればどんなに楽だったか・・・。 

 

そしてその年の年末、兄が我が家に帰省していた。その時に母が相手のことを兄に話してしまった。無論ここでも母は私たちを別れさせようと必死になっており、私と取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。母は私の部屋の物を手当たり次第に投げて壊し、部屋の中は大惨事になっていた。室内灯の電源コードも引きちぎられてしまい、お気に入りのカップも割られてしまい、愛用していた目覚まし時計も母が投げた衝撃で文字盤のガラスが割れて使い物にならなくなってしまった。

そして母は私に向かって「お母さんの言う事を聞かないんだったら、今すぐあんたの籍を抜いてやる!あんたとはもう親子じゃない!お母さんはあんたのためにと思ってあんな男とは別れるように言っているだけなのに、なんであんたはお母さんの言う事を聞いてくれないの?お母さんの言うことを聞いていれば間違いないのに・・・」と泣きながら怒鳴りつけた。母は私を言いなりにしたかったのだと思う、それも母自身の自己満足のためだけに。私はやはり母の理想の人形でしかない。それだけに私はここでも折れるわけにはいかなかった、というのもここで私が折れたら家出計画は台無しになってしまうと考えたからだ。

兄はそこで私に「今からお前の彼氏に電話をする!だからお前の携帯を貸せ!」と言って私から携帯を受け取ると、そこで相手に電話をし始めた。そして翌日会う約束をして電話を切ったのだ。兄曰く「俺が話をつけてくる!」ということだった。この日私は自室に監禁され、兄や母からずっと説教され、翌日は仕事だというのに母と兄に夜中の3時ごろまで説教をされて寝かせてもらえなかった。ここでは電話は携帯を解約して全部自宅にかけてもらうようにしろ!とまで言われた。そして別れると私の口から聞くまでずっと部屋から出してもらえなかった。まさに拷問だった。 

翌日、兄は予告どおり相手に会って話をしてきたのだ。兄が言うには「あの男はやめておけ。挨拶もろくに出来ない、人の話を聞くのに人の顔を見ない、話に集中しない」など、好印象は持たなかった。反対に私はそんなことはどうでもいいと思っていた。全ては家出するためだと考えていたうえに、私の計画のためだけに付き合っている相手に対して愛情など皆無だったから。無論本当にその相手と結婚生活を・・・なんて微塵も考えていなかった。私はただ相手を利用していただけだったが、これで私の考えた家出計画は振り出しに戻ってしまった。その後相手には母のいる前で「別れる」と電話をいれさせられた。「かりそめの彼氏」との関係が終わったことに対して、正直安堵する自分もいた。だが、それよりも家出ができなかったことが悔しかった。 

ここで両親は私の車も買い替えるように言い出して、突然行きつけのディーラーへ私を連れて行き、欲しくもないような車を買うように言いつけた。私は最初「今の車で充分。事足りている」と言って断ったが、特に母が「あんな小さい車じゃ。それに前の男があんたの車見つけたら最悪でしょう?職場でも追いかけられるに決まってる」とまで言い出して半ば無理矢理契約させられてしまった。無論車の購入代金を払うのも私。もう最悪だった。かりそめとは言え彼氏と別れさせられる、欲しくもない車も買わせられる、就職先も勝手に決められてしまった。ここまで来て私は本当に親の言いなりでしか生きていけないのか?と疑問に思わない日が無かった。

 

そして「かりそめの」彼氏と私は親に脅迫されて無理に別れさせられたという事実に嫌悪感を持つようになり、「別れさせられた」という事実の記憶ではなく「付き合っていた人はバイクの事故で亡くなった。即死だった」「付き合っていた彼氏は台湾の人」「20歳の頃に住んでいたのはロサンゼルス。語学学校に留学していた」などと偽りの記憶を自分の中で作り上げて事実をすり替えた。だから私の中にはふたつの記憶があることになってしまっている。そう、彼氏にしても就職先にしても住所にしても・・・どちらも共通すること、それは「私にはどうすることも出来ない不可抗力だった」から。 

 

この一件が済んで家出が出来なくて悲しんでいる私を見た母は「彼氏と別れて悲しくなっちゃった?それとも寂しくなっちゃったの?」と私に言ってきた。お前らが無理矢理引き離したんだろう、お前らが気に入らないからって言って!とさすがにそれは言わなかったが・・・。本当に母の人間性を疑いたくなる一件だ。

そしてここで母は私に見合いを勧めてきた。その相手は母の友人の息子。だが私はそれを断った。断ったのは言うまでも無く結婚相手も母に決められて、しかも結婚してもこれでは母の管理下に置かれてしまうと思ったからだった。だが母も引き下がらず「あのお母さんはとてもいい人なの、お母さんとも友達で~」などと自分のことばかり考えたような発言が並んだ。予想は出来たが、あまりにも酷い。そして私も何かがプツリと切れたのか・・・「あんたの知り合いの息子となんて会いたいとも思わないし、私は母の理想の相手とは一緒になりたくない。もう私も大人なんだから恋愛ぐらい自分の好きにさせろ!私はあんたの理想の人形じゃない!そんなにあんたの知り合いの息子や知り合いが気に入ってのならあんたがその家に入れや!」と母に言い放った。ここで母も引き下がらず「それじゃお母さんの立場はどうなるの?」といきなり怒鳴りつけて私の首を絞めたのだ。ここでも「私の立場」って一体何?母はもしかして私の知らないところでその知り合いの方と話をつけてしまったのか?!そうであったら恐ろしいし気持ち悪い!そう思いながらも私も首を絞められながら「もう死んでしまうのか・・・」と思った。私自身が恋愛をすることは良く思わないくせに自分が勝手に見合い話を決めてきてその話を私に持ってくるなど、どう考えても異常としか思えない。

そして見合いも断らせないという魂胆だったのだろうか。ここで母の見合い話をそのまま受けて見合いをして結婚となれば・・・それこそ私の人生は母の人生になってしまう。実に恐ろしい話でもある。だからこそ私も断ることに必死になっていた。 

 

この事件から暫くして父が夜遅くに仕事に呼び出されたのだが、すでに父は飲酒をしていたので母が父を仕事場へ車で送るというのだ。私はその日家にいてテレビで放映されていた映画に夢中だった。母から父を仕事場に送ると聞いても「あ、そ。行ってらっしゃい」ぐらいの返事だった。缶チューハイ片手に映画を観る、私の楽しみだった。そして翌日朝食を摂る私に母はこう言った。「昨日ね、お父さんにこの間のあんたの元彼の話をしたら怒られちゃって・・・。やりすぎだし、あんたが傷付いただろうってめちゃくちゃ怒られちゃったの。本当にあの時はごめんね!」と私に謝罪してきた。だが、その謝罪は決して自分が悪いと反省しているものではなく形だけというものが伝わるような軽いものだった。悪く言えば「あ~失敗しちゃった♪ごめんね、テヘッ」みたいなものである。私はそんな母にイラついたが、その場は敢えて「ふんっ、そんなこと別に気にしてないし・・・」と強がった。

自分が悪いことをしているくせに、いざ謝罪となるとただ「ごめん」と言えば許してもらえるとでも思っているのか?と本当に母の存在を情けなく思い、同時にこの結果に胸糞が悪くなった。その後しばらく母は私の行動を監視するようになっていたのだ。たとえば私が出かけた時に母親に跡を付けられた。それだけじゃなく私の会社の終業時間に携帯に電話をしてきて会社が終わった後の行動をしつこく聞くなどもしていた。もう普通じゃない、と思えてしまった。この一件で私が人間不信になったのは言うまでも無い。 

母の理想は一昔前で言ういわゆる「三高」、高収入・高学歴・高身長。それに加えてイケメンで私より年上で私を引っ張って言ってくれる人。更に加えて「職業は公務員で家は持ち家で広い土地や不動産を持っていれば尚更良い!」とのことだった。相手の職業が医者や弁護士や社長なら尚良かったようだ。母の生きた青春時代は確かに公務員がいちばんというような時代だったのかもしれない。役所の職員、教員など。そして女性は結婚したら仕事を辞めて家庭に入り、夫の実家で義両親と同居をして生活し、いつもどんなときも妻は夫や義両親を立てて数歩後ろを歩くというのが普通だっただろう。だが私が生きる時代、母の青春時代と比べて職業やライフスタイルも多様化しており、母の理想どおりではなくなっている。それに母の理想は時代遅れでもある。女性でも働くのが当たり前、結婚しても働く、正直共働きでなければ生活出来ない世帯も少なくない。専業主婦になって夫の後ろを歩く?こんな事はほぼ不可能。職業だって公務員じゃなく民間企業であっても本人の頑張り次第ではそれ以上の収入もとなるだろう。それ以前に何よりも相手との相性もあるだろう。嫁も夫と肩を並べて歩くものでもある。それだけに当時の私と殆ど年齢の変わらぬ人間でそんなに裕福でいい事尽くめな男が存在するのか?と思えてしまう。たとえ医師や弁護士であってもまだまだ新人か研修医ぐらいだろう。弁護士であってもまだまだ新米、社長であっても「年収数千万」とまでは行くはずが無い。

母曰く相手の出身校も名の知れた一流の大学でないといけないらしい。旧帝大だったら文句は無い。本当にそれだけでいいのか?とずっと考えていた。お見合いならそういう条件を出して、という事も確かに可能だったかもしれない。だが私は結婚まで親の言いなりになるのは御免だとずっと「お見合いお断り」というスタンスを保っていた。だが母の理想はこれだけではなかったのだ。いくら相手が三高であっても性格が暗い、顔が悪いなどそういう事になれば母の理想にはならないのだ。全く持って理不尽である。じゃあジャニーズ並みのイケメンで三高だったら問題が無いのか?というところである。そしてたとえば私が一流企業勤めや公務員、医師や弁護士で母のお眼鏡にかなう相手と結婚したとしよう。結婚後に相手のDVや外に愛人を作ったなど、そういう不祥事が発覚したとしてもきっと母がそれを見ても「あんたがちゃんとしないからそうなる!」などと離婚も許さなかっただろう。本当に鬱陶しく迷惑な話である。

余談:思い出してみて

みなさんこんにちは、高坂はる香です。

こうしてエッセイを描いていて思い出した…

十数年前に飯島愛さんが上梓されたご自身のエッセイ「プラトニック・セックス」。

飯島さんも厳しいお父様とそのお父様に黙って着いていくお母様の元で育ち、そして家出を…というような。私も出版された当時、このエッセイを読みました。正直実はこの時から自身のいる環境は普通ではない?!と気づいていたのです。が、すぐに変えられるものでもない…と。家出をする、親と縁を切る、そんな勇気が無かったとも言えます。だから私は飯島さんとはこの辺は違いましたが…

けれど私も自身のいる環境を変える努力もしてきたし、時には強硬手段にも出ました。まだエッセイとしては書いていませんが、私は後にカナダへ留学します。それも母が亡くなってすぐの時期、それに周りに極秘で留学の話を進めて出発の数日前に家族に伝えて強行的にカナダに渡ったという。

それと後にこちらも書きますが、夫との出会い、同棲から結婚も(特に同棲は…)ほぼ強行的だったのです。

 

だから何も努力していない、なんて事はありません。

だが、結婚をして息子が産まれて育児をして…、その中で私自身が崩壊したことを機に現在の心理カウンセリングに辿り着き、このエッセイを書くというまでになりました。

結婚をして息子が産まれて、自分自身が普通ではないということに気づいてしまったのです。

まだカウンセリングも1年ほど。道はまだ険しいものだと思っています。カウンセラーさんにも言われたのですが、「相当複雑」らしいです。

ついでに私の生きた誤った道で自身の性格も捻くれてしまったと。

 

そんな捻くれ者ではありますが、皆様に「こんな人もいる」というような事を知って欲しい、ということでここにエッセイを連載することに至りました。

正直エッセイにするのは苦痛です、けれどこれも自身の過去と真っ直ぐに向き合うことである。向き合うこと自体簡単ではないです。

だから連載とはいえ、不定期になってしまいます。ですが、更新をお楽しみにしていてもらえると幸いです。

 

こんなエッセイストですが、どうぞ今後ともお付き合いを。

 

高坂はる香

 

追記・ちなみに「高坂はる香」はペンネームであり、本名ではありません。

わがままな女帝

母は本当に信じられないほど私に執着している。寧ろ私を母自身の理想の形だとでも思っているのか?という疑念が未だに払拭できない。

 そんな母は私を自分の理想のキャラクターにしたがっていた。モデル体型、成績優秀、自分好みのファッション、一流大学を出て一流企業に就職、結婚まで実家住まい、結婚まで純潔、お見合い結婚など。はっきり言ってそんな勝手な理想を押し付けられる私は非常に迷惑である。このおかげで私は長い間「母の理想に添うように生きていかなければ」という要らぬ感情を持って生きていくことになったのだ。だから何事も母の言うとおり、どんなに不満に思っても母の言うことを聞いてあげた。だが、それもいつかは爆発して私自身の首を絞める結果となってしまったのも事実である。母は私が私自身の意志で何かをすることを気に入らなかった。たとえば私が私好みで買った服。ある日私は店先で目に留まったアシンメトリーのスカートをやっとの思いで買ったのだ。そして気に入ってよく履いていた。買った時点で実は「母にこのデザインを見られたら、きっと文句をつけてくるだろう」と思っていた。だが予想を超えることがこの先に待っているとは露知らず・・・。案の定母にはすぐに知られてしまった。そして母は

「何このだらしないスカート。お母さんが直してあげるからそれ寄越しなさい」

と私のスカートを取り上げようとしたのだ。だが、私は自分が気に入って買ったスカートなうえに12000円もするブランド物ということもあって母に渡すことを拒否した。母も素直に引き下がらず

「こんなバカみたいなの、履いて歩かないで!せめて直してから履いてちょうだい!」

と私のセンスを全否定するかのような発言をしだす有様。私も頭に来て

「私が好きで買ったものだ!それをいきなり切るだなんて・・・。だったら12000円で買い取ってから好きなように改造でも何でもしなさいよ!自分で買ってきたものでもないくせに何を言うんだ・・・」

と半ば呆れたように母に言った。すると母は

「12000円もするそんなアホみたいなデザインのものを買ったの?あんた本当にバカだよね~。とにかく、それはお母さんまっすぐな丈に直すから!」

と言って息巻いて私の手から無理矢理スカートを奪って行き、どこかに隠してしまったのだ。私は母の目を盗んでそのスカートを探すがどこにも無く、すごく悲しくなった。右前の丈だけが長いベージュ地のタータンチェックのスカートだった。私はそういう少し変わった形の服が好きだった。母は私にいつも自身の理想の服装をさせていた。ほとんど母の決めた「制服」のようになってしまっていた。当たり前だが私はそれに納得などしていなかった。私は私なりに自分の好きなものを身につけてそして幸せな気分でいるのに、それを母は「自身の理想の制服」でぶち壊していったのだ。それだけに母にアシンメトリーのスカートを見つけられてしまうことを本当に危惧していたのだ。そして取り上げられて、その数日後にはまっすぐな丈に直されてしまったのだった。私はそんなこと望んでいなかった上に、母が直したスカートはとてもじゃないが履けるものではなくなってしまった。丈も短くなってしまい、デザインもダサくなってしまったから。母のせいで12000円も無駄になり、私のセンスも否定されてしまったのだ。

 母曰くアシンメトリーやエキセントリックなデザインのもの、それから少しはじけたデザインのものは私は着てはいけないものだそう。言うまでも無く母の好みじゃないから。母は私にカチっとしたようなお嬢様のような服装をしてほしいという願いがあった。紺のブレザーに膝丈のスカートなど。髪も茶髪なんて以ての外。本当に「どんな職業だよ!家の中でも人が決めた制服なんて着てさぁ」と言いたくなるぐらい。それから母は細身のものを履けば下半身がきれいに見えると勘違いしていたのだ。そのおかげで体型が気になる私に無理矢理膨張色である白の細身のジーンズを履かせたり、私が好きではないタイトスカートを履かせようと必死になっていた。そんなある日、母親の買い物に付き合った時に母は「これがいいね」と勝手に私にタイトスカートを買ったのだ。無論私の意見など聞かずに・・・。それは丈が短いうえに蛍光色の変な柄が入っており、どう見ても私好みではないものだった。80年代のディスコで着るボディコンの下のようなデザインでどうしても私が気に入るはずもないようなデザインのものだったが、母は満足気にそのスカートを買ってしまった。ただ買うだけならいいのだが、その後に待っているのは「あなたに似合うと思って・・・」から始まる必死な「履いて」アピールだった。私は当然断った。そもそも勝手に自分が買ってきたうえに私好みじゃないデザイン、本当にダサくていやだったから。

母は私がそれを履かないことが不満だったのか連日のように「なぜあれを履かないの?」「似合うはずなのに」としきりに言ってきた。しまいには「(会社に行くのに)履かなきゃ外へ出さない!」と駄々をこねる始末。挙句「あれだったら体がきれいに見えるのに」とまで言い出す。どう見ても体がきれいに見えるとは言いにくい。母の要らぬおせっかいは本当に迷惑でしかなかった。要らぬおせっかいを焼くぐらいなら、もっと人の立場になって意見を聞きながら物事を考えてほしいものである。

 

 服装に関しては異常といえるほど、私に執着してはあれこれ指示を出したり勝手に服を買ってきては着せたりもしていたのだ。それと普段からワゴンセールのものやセール品とかしか買ってくれないくせに、私がお金を稼いで服を買うようになると今度は

「そんなにするものを買って、バカみたい」

と言い出す始末であった。いくら私自身の稼ぎで買った服でも母は自分が気に入らなければ「あんなの着ないでね~」と言い出すのであった。そして私は古着を好むようになっていった。幼少期の冷遇のおかげだろう、このあたりからファッションセンスを褒められることが増えて、実際にお手本にした人も出たぐらいだった。そして職場でもよくファッションチェックをされては参考にしたいと話す人も現れ、同じ系統の服を選ぶ人も出てきた。同時にいろいろな人が私に服装についてアドバイスを求めることも増えた。

 そんな中ある事件が起きた。父の会社の社長の息子の結婚式の打ち上げで社長宅に呼ばれたが、その際にいつもの服装で出てほしくないと母親が言ってきたのである。私は内輪でやる打ち上げでもあるので、そこまでかしこまらなくてもと思って母に「普通の服を着て出る」と宣言した。だが母は私のいつもの服装を良く思っていないせいか、ここでも散々いつもの服装で来ないでとごねたのだ。そしてごねた挙句「甘ったれ!」「世間知らず」「普段の服装(古着)はウチの恥でしかない」だのと暴言を吐いたのだ。正直不快であった、というのもさすがにスーツは数着持っているので最悪それを・・・と思っていたから。ここでも私は母親の言う通りにはしないと宣言はした。だがそれでも母は納得せず、私は止む無く欲しくもない服を買った。ブランド品であり色は地味だが、デザインはブリッブリなものを買う羽目になってしまった。これも暴言を吐かれ続けるよりはまだマシかと思ったので・・・

だが、いざ親戚の家に行ってみると皆さん普段着!というような感じだったのだ。それには本当に拍子抜けした・・・。母はここでも叔母や親戚に対していい顔をしたかったのだろう。そう思えてならない。

 

 母は私の部屋に入って家捜しをすることを好んでいた。おかげで物が無くなるなども多々あった。中学生の頃には財布からお金を抜き取られていたこともあった。そして限定品のピアスも無くされたうえに弁償もしてもらえなかった。ただ部屋に入るだけならいいのだが、勝手に掃除をしては棚や引き出しを開けて中を物色したり、私のピアスを勝手に着けていたり、本当に気持ち悪い。それから手紙を勝手に読んだり、日記なども勝手に読んでいた。日記帳に関しては、ちょうどこの頃母は友人を呼んで自宅で麻雀をしていた。そこで点数を管理するためにノートが欲しかったらしく、私にしきりに「余っているノートがあったらちょうだい」と言っていたのだ。だが私は日記帳だったりその他使っているものもあるのでそれを断ったところ、翌日私の居ないところで部屋に入り、日記帳やその他デザインスケッチをしたノートを持ち出して、何か書いてある部分を破って捨てて、そのノートを何食わぬ顔で使っていたので、本当に気分が悪くなった。それについて咎めると、母は

「だってもったいないじゃない!それにどうせ使ってないんだから問題ないでしょう?」

と言ったかと思えば

「あんたにあんな使い方されるより有効活用でしょ?」

と悪びれる様子も無い。私は頭にきて

「そんなくだらない事のために使うのに勝手に持って行く、それと日記を勝手に読んで捨てるとかお前は人でなしだ。今すぐ謝れ!弁償しろ!どうしても点数を管理したいんだったらチラシの裏でも使え!それで充分だろ?」

と言い放った。母はチラシの裏では格好悪いという様子だった。そこでなぜか私の部屋にあるノートに目をつけたらしい。親子だから、同居しているからとはいえ・・・やっていいことと悪いことの区別もつかないのかと頭を抱える。これだけではなく、家捜し中にいろいろと見つけては母はそれを自分のものにしてしまうことも少なくなかった。私の下着や靴下を勝手に自分のものにしてしまったのだ。それを喜んで着用する母、私はそれを見て言うまでも無く気持ち悪くなった。母が私から盗んだ靴下は若い女性がパンプスの下に履くようなナイロン製のものだった。丈はくるぶしよりも高い位置のものであり、色はパステルピンクだった。それを母が私の部屋から勝手に持ち出して履いていたのだから、私はとんでもなく驚いた。そしてそれを履く母、何かに憑り憑かれたかのように嬉しそうにしていたのを今でも鮮明に覚えている。それとも何か病気にでもなったのか?とも思ってしまったぐらいだ。ピンクのナイロン製の靴下を履く母の足、豚足にしか見えなかった。

それから服も勝手に捨てられたこともあった。母曰く「気に入らないから。それとあんな安物、着て歩かないで!」と。棚の物色なんて本当にひどかった。高校の頃の話だが、保健体育の時間に避妊・性病予防の大切さの授業があり、そこでたぶん企業からの提供かと思われるコンドームが配られたので、私はさすがに見つかってはヤバいと思って自室の目立たない場所に保管していた。だがこれも母親に家捜しの末見つかってしまい、私が帰宅するや

「こんな恥ずかしい物持ち歩いて!破廉恥だ」と。その日のうちに父親にもその話が伝わり、「おい、ゴム持ってないか?ん?」と散々嫌がらせをされる。正直気持ち悪いし、デリカシーは無いのか?と思ったのだ。母曰く母たちの時代には未婚の人間がコンドームを持ち歩くというのは恥ずかしいし「恥」だったそうだ。だが私たちの時代とそれを比べるのは本当に意味が無いことだと思う、比べる事自体不毛だ。私が高校の頃にはすでにエイズウイルスが発見されて何年経つ?という時期だったからだ。HIV以外にも危険な性病も出ていたぐらいだ。無論結果に責任を取れない身分で行為をしないのが前提であるが、エイズ以外の性病に若い頃に感染することによって将来大変な思いをしてしまうのも当時の大人は分かっているはずだ。もちろんエイズウイルスに感染したのなら・・・という事も知らないはずがない。

事実この時の授業ではエイズをはじめとした性病の話、クラミジアに感染した女性の実例を取り上げて先生が説明してくれた。この女性は高校生の頃に興味本位でした性行為が原因でクラミジアに感染してしまい、その後成人してから病気が発覚して不妊症になってしまったとのこと。その後クラスで話し合いもしたが、みんな口を揃えて「いつどうなるか分からないよね・・・」「きょうの授業、聞いていてよかった」と。高校生でもその恐怖は理解できている、それなのに大人であるうちの母はただ「恥ずかしい」と・・・。私には本当に理解できなかった。事実クラスでも「ゴムは隠し持っていた方がいいのかな」と思う子も少なくなかった。いくら母たちの時代ではそれが恥ずかしいということであっても時代の移り変わりで私たちを取り囲む状況は変わっていくものであるので、その辺はもっと柔軟に考えてもらえると私としては嬉しかったものだ。

 

 母は私の部屋から出たゴミもよく漁っていた。母曰く「分別が出来てないから」と。ゴミとして捨てたはずの物がリビングで何もなかったかのように使われていたことから母が私のゴミを漁っていたということが発覚した。中には「これはいつどこで買ったの?」「何に使ったの?」と尋問されることもあった。さらに社会人になってからだが染毛料の箱が私のゴミから見つかり、それを見た母が

「髪染めてるの?髪染めるなんてバカのすることなのに、情けない」

と言い出したのだ。これ以外にもお菓子の袋なども見つけては「こんなものばかり隠れて食べているから太るんだよ!」とまで言い出すのだから私も呆れるしかない。私のゴミ袋にスペースがある時には、母はきまって「そっちのゴミ袋、まだ入るんだったらこっちのゴミも一緒に入れて出す。だからそれをよこしなさい!」と言うのだ。けれど私は母に渡すことを拒否した。母はふくれて怒り出したが、私はそれを無視した。そして母のゴミ漁りが日に日にエスカレートしていくので私はある日から自分で市の指定ゴミ袋を買い、出勤前に自分の部屋から出たゴミを捨てることにした。これも母はよく思わず、今度は部屋に入って私のゴミを漁り始めたのだ。母は一体何をしようとしたのだろう?それにゴミを漁ること、何の目的があったのだろう。今考えても理解できない。

 

私それからの部屋に入っては、自分の思い通りにならないのか「片付いていない」などと文句を言うことが多々あった。それだけならいいのだが、母は私が片付けた部屋を勝手に片付けなおすのだ。毎日学校や仕事を終えて部屋に戻るといつもと違う場所に物が置いてあったりするので、ああこれは母が勝手にまた掃除しなおしたんだな、と。これは社会人になっても続き、物色や盗みもずっと続いていた。

部屋の片付け、私は正直掃除が苦手である。私なりにきれいに片付けていてもいつも母に勝手に片付けなおされるというものの繰り返しだったからかもしれない。

ある幼少期の頃、私は押入れの中におもちゃを片付けるように母に言われて自分なりに片づけをしていた。そして押入れの中にきれいにおもちゃを片付けたのだ。部屋も広くなり、自分の中ではそれで満足していた。だが、母がそこにチェックに来る。すると母は

「こんなごちゃごちゃ詰め込んだだけ?これじゃ片付けたことになんてならない」

と言い出して私が片付けた押入れからまた物を取り出して母が思うように片付け始めたのだ。私はそれを見てショックを受けた。確かに母が思うに片付いていないし、ただ押し入れに詰め込んだだけであっても私自身がそこを使うわけで、使っているうちに「これはよくなかった!こういう片付け方じゃいけないね」と気づくことが次へと繋がるのだと思うものだが、母からすれば母の思うように出来て当然だとでも思っていたのだろう。

 幼い私にとっても、このことは今でもショックでしかない。私は母からみてどんなにごちゃごちゃであったとしても少しだけでもいいから褒めてほしかった。そして「お片づけ出来たね!」と認めてほしかった。だが母はそれすら認めず、自分の思うようにやり直すということの繰り返しだった。

 

母によるゴミ箱漁りや家捜しもあったが、母は私宛に届く宅配便の箱をよく勝手に開けていた。私が通販で買ったものが届いてその箱をよく開けられていたうえに、中身が無くなっていたこともあった。たとえばお菓子類など、会社の仲間や先輩とお茶の時間にでも食べようかと数量限定の和菓子を買ったものの箱が開けられて中身が数個無くなっており、伝票と照らし合わせても個数が合わないので母親に問いただしたら「あんたが食べたら太るでしょ?」と訳のわからない言い訳をしてきたことも。こちらは謝罪すらない。別件のお菓子を取り寄せた時も、無断で宅配便の箱を開けてそれを近所の子供にあげていたのだ。母曰くこの日は近所の知人が1歳になったばかりぐらいの孫を連れて我が家に来ていたとのこと。こちらも謝罪は無い。この日私は仕事から帰宅してからそのお菓子を食べることが楽しみだった。だが帰宅してその日宅配便で届くはずのお菓子が届いていなかった。そこで私宛に宅配便が届いてないか母親に確認したら近所の子供にお土産として私が注文したお菓子をあげたとあっさり白状したのだ。数量限定かつ期間限定品だったこともあり弁償するか相手に返してもらうように私は母に話すが「(近所の子供が来てるのに)お土産にあげる物が無かったから仕方ない!あなたもたかがお菓子ひとつで大騒ぎするなんて幼稚」「お菓子なんて子供が食べるもの」と逆ギレされてしまった。お土産にあげるものなんていちいち用意すべきものなのでしょうか?私はそうではないと思っている。というのもその人は約束もせずにいきなり我が家にやってきたのだ。約束をしていたのだったらお土産やお茶菓子を自身で準備するのも自然なことなので、そうだったら何も文句は言わないが、それでも母本人以外の人宛のものを勝手にお土産として渡すのも理解に苦しむ。他にも母に勝手に箱を開けられて無くなったものがいくつもあった。
以下その他無くなったもの:
①高級玉露(袋が開けられた状態でキッチンで発見された)
②懸賞で当選したはずの5000円分のギフトカード(当選のお知らせのメールが事前に来ていた)。封筒を破って送り状などは残されてる状態でギフトカードだけが抜き取られていた(結局ギフトカードは母親の財布から見つかった。なぜやったのか話を聞いたら「欲しかったから」「あなたは稼いでるからこれぐらいくれてもいいでしょ?」などと訳の分からないことを言い続ける)
③化粧品の試供品(問いただしたところ「あんたはたくさん持っているんだから私にちょうだいよ。あれぐらい全然いいでしょ?」と)
④お気に入りの香水(宅配便の箱だけがリビングのテーブルに置かれていて、中身が無くなっていて母親に訊ねたら「ちょっと借りただけ」と悪気が無さそうに言う。使用されていた状態で物は手元には戻る。値段も高価だったこともありさすがに「勝手に私宛に届いたものを開けるなと何度も言っているはずだ、それに人の宅配便を勝手に開けるのは非常識!」と抗議するが「あんたは通販で無駄遣いばっかりしてるから!」と逆ギレ)  

それから洗濯物もよく調べられた、それも下着類など。特に黒い下着やレースのついたハイソックスがあると「破廉恥」「いやらしい」「男いるの?」などとそのたびに母はゴチャゴチャ小言を言うのだ。私も耐えかねて自分の洗濯物は自分で洗って部屋に干したりもしていた。だが母が部屋に入ってきてはここでも洗濯物をじーっと見つめて文句を言い始めた。そこで私は自分の洗濯物はコインランドリーで洗うようにした。するとそれを知った母から「わざわざ自分の分だけコインランドリーで洗うとか、隠し事をしているに違いない」といきなり告げられた。だが私はそれを止めるつもりなど無かった。洗濯物を物色されるほど不快なことは無いのだから。そこで母に私は「じゃあお母さんの下着みたいな綿100パーセントのおばさん下着でも着ければいいってこと?絶対にいやだね!」と言った。すると母は「だって事故とかにあって怪我なんてしたら、服も脱がされてその下着も見られるんだから・・・」と悲しそうに私に言うのだ。けれど正直事故に遭ってケガをしたり意識を失ったりして服を脱がされて下着を・・・などとずっと考えていたら私は自由に行動が出来ない。それ以前にそんなことを気にいていたら外で仕事も出来ないし、学校にも通えなくなる。別に私は露出度の激しい下着をつけていたわけではないし、いい歳した大人なのに女児用の下着を着けていたわけでもない。それなのにその母の言う言葉。気持ち悪いというより理解しがたい。歳相応というぐらいにしておいてもらいたいものだ。何だかここまで書いていて母は私に悪い虫を寄り付かせないように必死だったのかな・・・とも思えてならない。それか一種の変態行為とも? 私が未成年の場合に母にされるのは仕方がないと思う、それでも充分に気持ち悪いが・・・。だが当時すでに成人している身、それで洗濯物を物色されたり変な妄言に付き合わされたり、宅配便の箱を開けられたり、本当に嫌になった。今の潔癖な自分はここで出来上がったのだろう。  母が部屋を物色して何かを持ち出す。実はそれだけではなかった。私はメイク関係のものをメイクボックスに入れて洗面所に置いていた。それも母に狙われた。ある日メイクボックスを開けたら私のメイクボックスから口紅とメイクブラシが一本無くなっていることに気づいたのだ。最初はしまい忘れかな?とも思ったのだが、その前日に該当のメイクブラシも口紅も使っている。それに使用後はちゃんとメイクボックスに戻したことも覚えていた・・・。すると何が起きてこうなったのか?と考えてみると、やはり誰かが意図的に私のメイクボックスから口紅とメイクブラシを持っていったとしか考えられない。やはり思い出しても私はメイクボックスにメイク用品は必ず戻していたはず。それが急に無くなるとは考えがたい。そこで思った、母が勝手に私のメイクボックスを開けて持っていったのか?と。そして母がいつもメイク用品をしまっている引き出しを開けてみた・・・、すると案の定私のメイクブラシも口紅もそこにあった。普通ならそのまま元の場所に戻すだろう、だが私は母とはいえ人が使ったものを平気で使っていることに気持ち悪さを覚えてその場から盗まれたメイクブラシと口紅はそのままにしておいた。返してもらったとしても、すでに母が使ったものをまた私が使うことに抵抗があったから。返してもらっても気持ち悪くて使えないので、捨てていたと思うが。母にはこのことは一応訊ねる程度にしておいた。すると母は「借りただけ」と言うだけだった。 

母の「借りただけ」も本当に頭を抱えるものが多かった。母自身が通院するほどの酷い水虫があるのに、私の不在中に履く靴が無かったからと言って無断で私のお気に入りのスニーカーを履いて家庭菜園の畑に出かけて行った。無論その日帰宅した私が泥だらけになったスニーカーを見て発覚したのだが、そこでも母は悪びれる様子もなく「ちょっと借りただけ」と言うのだ。私は勝手にスニーカーを履かれたこともそうだが、水虫もあってそのスニーカーを履いて泥だらけの畑に入ったことに怒りを覚えた。畑用の長靴も持っているくせになぜ私のスニーカーを・・・、しかも泥だらけにしておいて謝りもしないとは・・・。母に聞いた、なぜそのスニーカーを履いていったのか?と。すると母は

「だって、長靴が見当たらなかった。それに畑の土があんなにぬかるんでいるとは思わなかった」

と。この日の前日は雨が降った。それだけに普段家庭菜園で畑仕事をしているくせに「知らなかった」という母に怒りがこみ上げてきた。長靴が見つからなかったとはいえ、なぜそんな状態の畑になぜ私のスニーカーを履いていくのか?確か今水虫で通院中だったはず、ということを思い出して私は

「ところで、水虫で病院行ってるよね?」

と訊ねた。すると母は

「うん、病院行ってる。けどそんなに重症じゃないから」

とあっけらかんと答えたのだ。ここで私は

「水虫移ったらどうするの?水虫って人に移るのは知ってるよね?それでスニーカー履いて、それだけじゃなく泥だらけにまでして・・・それでよく借りただけなんて言えるよね?」

と。すると母は

「少し借りただけなのに、そんなに怒らなくたっていいでしょう?水虫だって移ってないから大丈夫なのによくそんな事言えるね!」

と怒り出したのだ。まさに逆切れ。どうしたらこういう思考になれるのか、未だに分からない。母はその後しばらく膨れっ面であった。私も勝手に人の私物を壊されたような嫌な気持ちでいっぱいだった。そのスニーカーはお気に入りだったのだが、水虫のこともあってその後捨てた。それに母に狙われているかもしれないと考えるとこちらも気分が悪いので。それ以前に人のものを勝手に使って汚しておいて謝らない母に腹が立った。何かの嫌がらせか?とも思えてならない。

 

母VS叔母、娘自慢対決!

父の兄(父の兄弟の三男。父のいた会社の社長。私の叔父でもある)の家には私と同い歳の従姉妹とその兄(私たちより4歳年上)がいる。兄同士は歳が違うので比較されることは殆ど無かったが、従姉妹と私は同じ歳というだけでいつも何かと比較され、叔母も母もお互いの娘が優位になるように必死だった。その結果、高校受験から就職、結婚の時期まで全て比較されることになる。もちろん他にも父方のいとこはいるが、この従姉妹以外とは比べられたことは無い。母方の従姉妹(私より1歳年上であり、住んでいる地域も違うため)とも比べられることは無かった。

そんな中で中学2年の中盤頃から出てくるもの、それは「高校受験」。前記のとおり私は高校受験をせず美容専門学校へ行くつもりでいた。だが母は何としてでも私を市内一の進学校へ入れたいと躍起になっていた。(この辺の話は「女帝の夢」でも書いているため、ここでは省略)

 

従姉妹は同じ市内に住み、歳も同じということもあって小さい頃から何かと比べられて、高校受験も例外ではなく中学に入った頃からは母や叔母からいつも学校の成績を比べられていた。従姉妹と私は同じ市内に住んでいても学区も住む場所も違うため、正直比較されても困るものであった。だが母も叔母も私と従姉妹を比べてはお互いに負けないようにと必死になっていた。正直それは私にとってはただ鬱陶しくて迷惑そのものでしかなかった。従姉妹とは小学生まではお互いの家を行き来したり買い物に出かけたり、泊まりに行ったりするなど、普通に仲が良かった。それが母と叔母の娘自慢のせいで私も従姉妹も嫌な思いをしてしまうとは、小さな頃の私たちには想像できるはずもなかったのだ。

 

これまでにいろいろと比べられてはいたものの、表立ったものは少なく私と従姉妹は本当に仲良しだった。だが、母や叔母による比較が異常なまでになったのは私が小学校6年生の頃に従姉妹と同じ英語塾に通い始めたこと。この塾は英語のほかに小学生(5、6年生が対象)には国語と算数も教えてくれていた。従姉妹や兄が通っていることもあり、私も~という運びになったのだ。私は周りの影響もあってか英語を習ってみたいと思っていた。説得をして私が何を言っても両親が「今は必要ない」と言ってなかなかそれを許してくれなかったが、兄が通っていることで何とか通わせてもらえた。私はすぐにそこの教室に馴染んで楽しく英語を勉強していた。だが、目に見えた母と叔母の競争はここからきっと始まっていたに違いない。

そこから月日が過ぎて私たちは中学に入り、学校は別々だが塾はまた同じところに通うことになった。中学からは5教科が対象ということもあり私はそのままそこに通うのもいいと思っていたのだが、そこの塾は週に5回も授業があり、それだけではなく兄のクラスでも私のクラスでも頻繁に授業終了の時刻になっても授業が終わらず1時間も遅く終わることも普通だった。両親はそれに不満を持って私たち兄妹を辞めさせた。兄は予備校系の塾へ通い始めて、私は暫く塾へは通わなかった。この時私は中学校1年生の1学期の後半。その後私は通信教育を始めて一度落ちた成績は再び学年390人中100番前後まで戻した。その間も従姉妹は以前と同じ塾に通い、中学卒業までその塾に通っていた。

中学1年も終わりに近づいたある日、突然叔母が我が家にやってきた。叔母にお茶を出す私、学校の宿題や入る予定の部活で使う楽譜のチェックがあったのでその日は叔母と母の席には同席せず自室に戻った。が、宿題の途中で自室の隣であるキッチンにお茶を淹れに行ったとき、母と叔母の会話が聞こえてきたので私はキッチンで立ち止まってしばらくその会話に聞き入っていた。叔母は母に「うちの子、あの塾にずっと通っているけど・・・成績は上がらなくてむしろ下がっている気がするの。本人にも話したんだけど、次の中間テストで今以上に悪い成績になったら今の塾を辞めて学区内の進学塾に入れるって言ったのよ。そしたら辞めたくないって泣きついてきて、将来に関わるのに・・・」と言ったのだ。

母は従姉妹の通う塾を良く思っておらずその塾の悪口を言いたい放題。そして母は私が「今は通信教育で勉強している」ということを叔母に伝えた。無論それで成績が上がったことも。私は別に塾を辞めて通信教育にしたから成績が上がったとは思っていなかった、というのも塾に通うよりも通信教育のシステムが大好きだったから。毎月テキストに付属しているテスト問題を解いて出版社へ送付すると赤ペンでちゃんと添削をしてくれて、おまけに添削をしてくれた先生からのちょっとしたメッセージや手紙が添えられていたり、そういういうところや同じくテキストと一緒に付いてくる楽しい授業のカセットテープを聞くのがいつも楽しみだったから。それは実際に塾に通うものと何ら変わらない、自分に合った勉強のスタイルだと私は自信を持てた。母もそれはよく知っていたはず。別に塾へ行って先生や他の生徒と顔を合わせて勉強をするだけが全てじゃないと思っていたこともある。他の生徒に変に気を遣わない、誰も勉強の邪魔をしない、先生の好き嫌いなどそういうものもなく、自分のペースで自分がやりやすい方法で勉強・・・、それが通信教育だっただけ。だが母の本心としては私にはちゃんと優秀な生徒を輩出しているような塾に行って欲しいというものだったようだ。だが私は塾には行きたくない、塾に行ったからといって必ず成績が上がるわけでもない。そんなものはいくら中学1年生とはいえ理解できていることだ。無論いくら評判の良い塾に通ったからと言ってもそこで自分に合った学習法を見つけられなければ意味が無い。だから通信教育で合っているのであればそれでいいはず。実際に母にこう言われたこともあった、「本当はちゃんと目の前に先生がいる状態で他の生徒とも一緒に授業を受けられる環境にいてほしい」と。やはり塾に行ってほしいという思いだったのだろう。だが母は叔母に私は通信教育に変えてから成績が上がったと強調していた。明らかに矛盾している・・・

そして叔母は塾に通わせているのに成績が叔母の思うように上がらないことに対して焦っていたのだろう。その後も叔母はしばらく従姉妹の成績の話しばかりしていた。

 

母は叔母が帰宅した後、私に叔母との話をし始めた。

「従姉妹ちゃん成績が上がらないんだってね、それでもしかしたらあの塾を辞めるかもしれないのよ」

と。正直そんな事は私にとって関係無いことだ。だから話をされたところでどうリアクションをすればいいのか悩むだけだった。そこで私は「母も叔母も私と従姉妹を比べている」と悟った。そして私は母に

「・・・、じゃあ従姉妹ちゃんも通信教育にすればいいんじゃないの?」

と伝えた。通信教育に変えてからの成績の上がり具合は学校の担任の先生からも驚かれて褒められたほどだった。私もこうして目に見えて分かるものに対しては素直に喜んだ。兄も私の成績を聞いて喜んでくれていた。だからぜひ卒業まで通信教育で、と思ってしまったぐらい。

その後中学二年になってもやはり叔母と母が会うたびに話題に上がるもの、必ず私と従姉妹の成績のこと。そして母は私の通信教育を勝手に解約してしまい、学区外の進学塾に私を無理矢理入れたのだ。母曰くここは進学校への合格実績が高いところだと。私としては通信教育のままでいいと思っており、何度も通信教育を続けたいと説得したが結局やめさせられてしまったのだ。どうやら母は私の現在の成績がいくら以前よりも上がったとはいえ気に入らなかったうえに、叔母に負けたくない気持ちで一杯だったのだろう。そしてたどり着いた先は進学塾。私はとりあえず通うことにした。

塾に入って思ったこと、進学塾と聞くけれど授業中常に他の生徒の私語でうるさく、不良の生徒も多い。授業中に先生がその生徒に対して何度も注意をするが、そのうるさい生徒たちは聞く耳を持たず私語はエスカレートするばかり。私は勉強に来ているのにそんな馬鹿な生徒たちの妨害ともいえる雑談に邪魔をされたくない、そう思いある授業中に「静かに!」と言い放った。それよりも前、塾に通い始めた頃の私は母に「授業がうるさすぎて集中できない。通信教育に戻りたい」と話していたのだ。だが母は「塾に行くことがいい!塾に行かなきゃ意味が無い!」と何としてでも私を塾に通わせようと必死だった。そして通信教育に戻ることも許されず、うるさいままのその塾に止む無く通って数週間でその「静かに!」と他の生徒に注意をすることになってしまった。そしてその日の授業が終わって塾を出ようとしたとき、私は雑談でうるさくしていた男子生徒数名から暴力を受けてしまったのだ。どうやら私の行動が気に入らなかったのが動機になったようだ。私は蹴られた弾みで塾の出入り口の階段に膝をぶつけてしまい、ケガをしてしまった。これを機に塾に行かなくてよくなるかな、という期待はその後脆くも消え去ったが・・・。そしてその日迎えに来ていた母が逃げてきた私から事情を聞くとすぐさま塾の建物に入り塾長に事の経緯を話したのだ。そして翌日、塾長から我が家に電話がかかってきて母が話を聞いた。電話に出たのは私で、塾長は開口一番に私に前日の一件を謝罪していた。正直私はどう答えたらいいのか分からずただ受話器を持って佇む他無かった。そして母に電話を変わり、母が話を聞いた。普通だったら「うちの娘をそんな危険な子がいるところに通わせられません」となるだろう。それが、塾側で私に暴力を振るった生徒を辞めさせたことで解決することになったようだ。母は電話口で「主人とも話をしたが、娘をこれからもそちらに通わせたい」と塾長に話していた。父とも話をしていたのか・・・、私はそれを見ていないが。そして電話を切った母が塾長の話していたことを私に伝えてくれた。対象の生徒は退校処分となり、今後はこのようなことが起こらないようにすると約束してくれた。ちなみにその主犯格の生徒は在籍する中学校でも評判が悪い不良だったらしい。言うまでもなく学校でも問題を起こしてばかりで後に聞いた話では学校外で暴力事件を起こして警察のお世話になり、その後少年院に送られたそうだ。

母はもうこんな問題児がいなくなったのだから引き続き同じ塾に通ってほしいと私に懇願してきた。だが私は塾になんて通いたくない気持ちが既に出ており、それに母の態度も正直気に入らなかった。というのも私自身は暴力を振るわれてケガをして、怖くて怯えて泣いていたのに母はそんな私に向かって「泣いてんじゃねぇ!いつまでも泣くな!」と怒鳴りつけて励ましもしなかった。母はきっと悔しかったのだろう、しかしそれは母がどんなに悔しい思い、悲しい思いをしていても決して子供にぶつける感情ではないと思う。そんなこんなで私の新しい塾生活が始まって母はさぞかし満足だった。私は満足していなかったけれど。

 

 塾通いも半年を過ぎたあたりから、また授業が「授業妨害か!」と言うほどに塾の教室内がうるさくなってしまったのだ。既に授業妨害を通り越して学級崩壊・・・それに近いレベルとも思った。それも毎回同じ生徒が「どんちゃん騒ぎか?!」と思えるレベルの大騒ぎをして授業を妨げてしまうのだ。ここでも私は理由を話して母に塾を辞めたいと申し出ているが却下されている。そこで私が取った行動は「塾へ通うことを拒否」するものだった。塾の時間になっても部屋から出ることなく、ひたすら塾へは行きたくないと連呼していたのだ。母も困り果てて兄もそれを見て「このままじゃ成績が上がらないし高校にも行けない」とまで言い出した。私はそこでも「授業に集中できない。それこそ授業妨害だ!そんなところには行きたくない」と主張し続けたが、それが数週間続いたある日、私は母に無理矢理塾に連れて行かれた。それから授業妨害の生徒がいる中でも必死に授業を聞くようにした。実はこの時も母は従姉妹を引き合いに出して私を説得してきたのだ。やはりここでも出たのは「従姉妹ちゃんに負けたくないでしょ?」だ。負けるも勝つも、その個人に合った勉強法でないと意味が無いのだが。それこそ母の望む「良い学校」になんて入れないし、実際に入学してからも勉強についていけないなど、問題が起きてしまうだろう。それを母はどう思ったのか分からないが、ひとつ言えることはやはり母は私の希望というよりも従姉妹や叔母に負けたくない一心だったのだ。

 更に時は過ぎて中学校3年になると、母による比較は度を越えるものとなった。そこで判明したのだが、叔母は従姉妹を高専に入れたがっているようだった。一方母は相変わらず私を市内一の進学校に入れたがっていた。だが私の成績では正直入れる自身は無かった。そこで母は推薦を狙う!と私に発破をかけてきたのだ。母は私が市内の私立高校受験の学校推薦を受けることになったことを叔母に話してしまった。推薦の種類は学業推薦。中学3年当時私は常に成績は学年約390人中50~70番ほどだったので実は担任から県立高校(中堅の進学校。ここも評判は悪くない)への推薦の話もあったが、母が望む市内一の進学校は県立でも推薦枠を設けていないために推薦を受けられなかった。そこで私立高校の推薦を受けることになったのだ。学業だけではなく、部活での成績も優秀であった。県大会やその他のコンクールへの出場実績もあり私は入部からずっとレギュラーメンバーであった為だ。その他学級委員や学級の役員(会計)なども勤めたこともあり、内申書で決して悪いといわれるようなものでもないはず。事実内申書については担任の先生も書かなければいけない悪いものが見つからないと面談で言っていたぐらいだから。ちなみに私の通う学校では受験する高校への推薦を希望する生徒は最終的には学校の判断に委ねることにはなるが、先生に推薦希望を申し出ることは可能だった。例えば部活動などの推薦であったり、受験する学校に入って学業を頑張りたいなど。反対に従姉妹の通う学校では保護者や生徒からの要請での推薦が出来ないことになっており、従姉妹本人の成績も中の下ほどであり、部活(バレーボール部)も殆ど幽霊部員でありその学校のバレーボール部も大きな大会に出たような実績など皆無だったので本来なら学業でも部活でも推薦が貰えないはずだったのだが、叔母が学校に頼み込んで従姉妹は何とか推薦してもらえることになり、私は従姉妹と同じ学校を受験することになった。それを母から聞いた私は正直叔母に対して「ずるい」という思いよりも「気持ち悪い」という思いを抱いたものだ。

受験の結果、従姉妹よりも成績優秀であるはずの私が不合格、従姉妹が合格する結果になった。叔母は万々歳だっただろう。恐らく無理矢理推薦を受けて受験して合格した時点で、これで浪人せずに済んだとでも思っていたのかもしれない。私は暫く叔母にも従姉妹にも会いたくなかった。この推薦受験のおかげで従姉妹とは険悪な仲になりかけた。余談だが周囲ではこの年の翌年に県内で国体があったので、「国体に出る選手を輩出するためにテストの成績が良くても所属する部活が文化部よりも運動部の方が有利」などという噂も実はあった。特に私立高校の場合はそれが合否に関係していたのではとも言われていた。実際私と同じ学校からの受験で推薦入試にて合格したのはスポーツ推薦の生徒のみであり、学業推薦組は全滅してしまった。学業推薦組も実は成績は上から中の上ぐらいの子ばかりだった。私は家に帰って不合格だったことを私は両親に伝えた。だが両親ともに「世の中そんなに甘くない」と言い、母に限っては「あんな学校も受からないの?本当にみじめだわ!恥ずかしいわ!」と暴言を吐く始末。結局私は誰のために受験したのだろう、とまで思ってしまった。この後隣県にあるキリスト教系の学校を受験しないかと担任から話をされて推薦だったら入れることも伝えられ、願書を持って帰宅したが、これは猛反対されてしまい受験しないことになってしまった。

その後従姉妹はしばらく「私と同じ高校に通いたかった」と嘆いていたが、私はそれを素直に聞いてあげられずにいた。むしろ従姉妹が私に対して私立高校に合格したことを自慢していると思っていた。そもそも受験して合格していたのは私の方なのに・・・、それが何だか従姉妹はズルして合格したような感じにも受け取れたから。叔母が本来なら推薦の申し出が出来ないはずなのに無理矢理学校に頼み込んだというところで悪意さえ感じたからだ。それに対して叔母は鼻高々だったのは言うまでも無い。

その後私は県立の商業高校の情報処理科に合格した。周りからは「受かるはずが無い!」とまで言われていたが、普通に合格したのだ。ここでもすったもんだの末、なのだろう。前記のとおり母の勝手な奇行に巻き込まれた形にはなったが、母の望む従姉妹の通う学校よりも偏差値の高い学校であり、当時は市内一の進学校並みのレベルであったので、結果オーライだった。だが、私は合格したとはいえ本当はその学校に行きたくなかった。自分が学びたいものを学べないことを知っていたからだった。母曰く高偏差値で将来使える資格もたくさん取れるとの事、だがそれは当時の私にとってはどうでもよかった。芸術や英語の勉強が出来ない・・・と心の中ではずっと嘆いてたのだ。

 

ちょうどこの頃、長く闘病していた父方の祖父が亡くなり、私の県立高校の合格発表の日にお通夜が行われることになったのだ。そこで出てくるもの、それは葬儀に着て行く服だった。私はその時点では一応中学校の卒業式を終えてはいたが、3月末日までは一応中学生という立場という認識で中学の制服を着て参列することにしたのだが、従姉妹は進学する高校の制服を着てそこに参列していた。私はそれを見て何とも言えない複雑な気持ちになり、正直「自慢でもしているの?」という気持ちになった。その高校の制服を着ていても実はまだ中学生、明らかに自慢にしか思えないだろう。そして今風に言えば「痛い人」。同時にこれは叔母がけしかけたのだろうか?とまで勘繰った。そしてそれを見て母が私に言ったのは、「あんたはもっといい学校に入るんだから、それでいいでしょ?」と。だが私は母に「学校の制服だけで人を比較するなんて馬鹿みたい。マジくっだらない!」と一蹴したのだ。無論葬儀の時点では受験した学校には合格していたのだ。

その後高校生活を送る中で私は挫折を繰り返しながら、1年生のうちに卒業するのに必要な資格をすべて取得した。そんな中、私があらゆる検定に合格するたびに母は従姉妹や叔母にそれを得意げに自慢していた。ここでも母や叔母の娘自慢が続いていた。それを見るたびに本当に情けない気持ちになる私、これだけが勝負じゃないのにと思うしかなかった。これ以外にもやはり高校生活の中で自慢できるものを探しては母は私と従姉妹を比較していた。

 

従姉妹とは受験だけじゃなく、結婚するまであらゆることを比べられることとなった。当の本人たちにとっては本当に迷惑なのに。そして私たちが高校3年生になると、今度は就職やら大学進学やらで比べられる始末。私は事の成り行きで仕方なく無理矢理縁故で保険会社に就職することになったのだが、高校三年の冬休みになっても縁故就職先からなかなか内定がもらえなかった。母はそんな私を「一家の恥」「不良債権」だと貶した。その年に従姉妹の家が新築したこともあり、一家で新築祝いに呼ばれたが母は私を本当はその場に連れて行きたくなかったと私の前で話した。母曰く「あっちは短大への進学が決まっているのに、こっちは何も決まっていない。比べられてこっちが恥をかく」と。そして私は母にこう聞かれた。「比べられて悔しくないの?」と。私はその一言に腹が立った。じゃあ私がたとえ一流企業に就職したとしても、名の知れた大学に進学して国家試験に合格したとしても、それは私の将来を喜ぶのではなく母の見栄のためだったのか?母は口では「あなたの将来のため」と言っていても実際は両親のため?そういう思いで一杯になって私はその場で取り乱した。そして母に「悔しいよ、けれど・・・お前らみんな殺したいぐらい憎らしいわ!今すぐにでも消えてほしい!何がしたいんだよ、人のことを利用しやがってこの馬鹿親が!こんなの前から知ってたわ、お前らにとって私なんて単なる人形なんだろう?どの学校に入ってってのが、お前らの誇りなんだろう?私の人生なんて関係ないんだろう?」と母に怒鳴りつけていたのだ。母はその一言が悔しかったのだろう、私に応戦するように「人を殺したいだ?私はお前をそんな子供に育てた覚えは無い!」と手当たり次第私に物をぶつけてきた。私も半狂乱の状態で「じゃあ何で嘘ついてまで履歴書にあんな馬鹿みたいなこと書いて保険会社に入れようとしてるんだ(後記)?私はそんなこと望まない!いつも私の行く道を塞いでいたのはお前らだろうが!今すぐ死ねや!お前らがまともな親だったら私は死ねなんて言わねぇよ!」と母に怒鳴り続けた。

そう、ここで気づいてしまった。私は両親に利用されていた、全ては両親の名誉や見栄のため。だから無理にでも親族の誰よりもいい学校に入れていい会社に入れるのが自分たちのステータスになるのだと。だからこそ、余計に腹が立った、腸が煮えくり返った。

兄も両親も私の望む将来は全て否定し続けた。美容師の夢も、芸術や英語の勉強をすることも、留学をすることも、大好きな音楽を続けることも、好きなアイドルやバンドを好きになることも、バンドでギターを弾くことも、部屋にポスターを貼ることも、絵を描くことも。それらを捨ててひたすら勉強することだけを私に要求してきたのだ。無論恋愛なんて絶対にあってはならないとまで(こちらに関しては内緒で恋愛していたときもあった)。好きなもの、好きなこと、やりたいこと全てを禁止されてずっと勉強しろ勉強しろと罵られる。みんな勝手に私の道を決めて大騒ぎをして、やりたくないものまで押し付ける。時には人格まで否定され・・・。しまいには履歴書に嘘まで書かせて私を一流の保険会社に入社させようとしている・・・。母と怒鳴り合いをしたその後、母は私に対して「お前なんて産まなければよかった!出て行け!」と怒鳴りつけてきた。そこで私は泣きながら家を出た。

家を出て行き着いたところは地元のターミナル駅。親に怒鳴られて家を出たのはいいけれど、正直行くところが無い。しばらく駅周辺をうろうろしていたが、さすがにこのままではと思って進学校に通う男友達(以下アキラ)に私は駅前の公衆電話からポケベルを打った。アキラは私をすごく心配してくれて、私のポケベルに「イマスグイクヨ」「ドコニイル?」とメッセージをくれて暫くして私の元に来てくれた。彼は単なる男友達であり、私と境遇がほぼ同じという人だった。そして彼は自宅へ私を連れて行ってくれて、暫く匿うと言ってくれた。アキラとはお互いに好意などは無く、本当に気の許せる仲だった。実はアキラも親の言うとおりに勉強漬けの生活をさせられており、将来の夢も何度も踏みにじられており、受験した大学も親が決めたところだった。そして将来は国家公務員や官僚になれと言われ、そうせられると嘆いていた。無論アキラも表面上はそのような言うことを聞く「優等生」だったが、裏では気に入らない人をリンチしたりなどの悪さをしていた。そう、彼は私と同じ裏番仲間だった。私も高校2年の終わりごろからその仲間になっていたのだ。私も高校2年で将来や家族に絶望し、ちょうどその頃に出会ったアキラと話したり会ったりしているうちに裏でリンチをするようになっていった。無論私も表では優等生のいい子を装っていたが、裏では下級生や仲間を使ってリンチなど悪事を仕切るようになっていた。そして学校でも気に入らないクラスメイトに悪態をついたり暴言を吐くなどもしていた。

そんな付き合いもあったせいか、彼は私を理解してくれたのだろう。彼の両親に見つかることなく、私はその日彼の部屋に泊まった。次の日に母が不在であることを確認して帰宅して自室に閉じこもった。私が家に戻っていると知って母は自室にノックもせずに入り込んだかと思ったら、母は私に半分笑ったように謝罪してきた。それも「昨日はごめんね~、言い過ぎちゃった」というようにまるで反省をしていないような感じだった。私はそれをみて心底呆れ返った。それ以前に昨日どこに泊まったのか?などとは一切聞かれることは無かったのが救われたが、本当はそこを聞いて欲しかった。恐らくこの時母は私のことなど心配もしていなかったのだろう、だからあんなにヘラヘラした謝罪になったのだろう。それから1週間ほど私は両親とはろくに顔を合わせず口も聞かなかった。

 

家出から戻って数日後、私の元に就職試験を受けていた保険会社から内定の知らせが届いた。両親はとても喜んでいた。私はそれを見て正直「私のことを喜んでいるのではない」と思った。その後すぐに親戚中に私が保険会社に内定したことを両親によって広げられた。母も勝ち誇った顔だった。無論叔母にもその話が伝わった。それもあって母は勝ち誇った顔をしていたのだろう。その後母はずっと私が名の知れた保険会社にいることを従姉妹や叔母の前では鼻にかけて自慢をしていた。

 

実は私のこの就職には考えられない話があった。私自身学生のうちに普通に就活をしたことが無いのだ、むしろその機会を与えられていなかった。本当はずっと大学へ進学することを望んでいたが、高校2年の終わりに突然両親の知人を「親族(叔母)」だと偽ってその人が見張る中で履歴書を書かされたうえ、大手企業へ縁故入社させようと根回しされてしまったのだ。加えてちょうどこのあたりから突然母からブランド品の服(但しこれは自分好みではない)などを買い与えられるようになり、外食に連れ出される機会が増えた。行く場所は高級な料亭や会社の社長が接待で使うような個室付きの焼肉屋。それから付き合いなのか興味のない売れない歌手のディナーショーにも何度か連れて行かれた。ここでいうブランド品や外食はそのための見栄とも思われる。その企業に私派は入社するが、私はやる気を見せなかったうえに、何故ここに自分はいるんだろう?という疑問がずっとついて回った。知人を叔母と呼ぶようにとも言われた。

 

ちなみに従姉妹はあまり名前を聞かないような東京の短大に進学した。従姉妹本人曰く本当は四年制大学へ行きたかったらしいのだが、不合格となって今の短大にしたのだという。無理矢理就職させられた一流企業と、ほぼ無名の短大へ進学・・・。どちらが勝ちなのかは判断しかねる。そして母と叔母の比べ合いはここではまだ終わらない。

就職してからだが、従姉妹の家に行く時や従姉妹と会う時には、母から「ブランド物で身を固めるように」と言われていた。そして車も自分で運転して従姉妹の家に行くように言われていた。当時従姉妹は車の免許を持っていなかったうえに学生の立場。母親は恐らく「一流企業に入ってブランド物を持って車も自分で運転しているのよ!」と自慢してこいとでも思っていたのだろう。正直これも私にとっては本当にあほらしいとしか言い様が無い。

 

そして私の就職から2年が過ぎた頃、従姉妹が短大を卒業した。母は従姉妹は短大を卒業したが就職が決まらずオーストラリアに留学することになったと叔母から話があったというのだ。そこで母は私がいる前で「就職が決まらなくて留学って、現実から逃げているとしか思えない。あなたはいい会社に就職出来てよかったね~」とここでも従姉妹を馬鹿にしたような発言をした。私はそれを聞いて本当に母も叔母も哀れだとしか思えなかった。留学であろうが大学に編入しようが就職しようが、それは個人の自由なわけで誰かに言われたからするものでもないと思ったからだ。それに留学も就職も、その人には何か目標ややりたいと思うことがあってするものなんだから・・・。その後2年ほどしてから従姉妹が帰国して、就職活動の末に派遣社員として営業の仕事に就いたときにも「名の知れない短大を出て就職できなかったから留学・・・、それじゃろくな職にも就けるはずがないね」とここでも従姉妹を馬鹿にする発言。一流の会社で勤めていた私の立場を引き合いに出して優位に立とうと必死になる。そんな中私もその後偶然にも従姉妹と同じ派遣会社に所属して同じ派遣先となる(部署は違うが)。そこからまた小学生の頃のように従姉妹とは仲が良くなった。ここまではまだ良かったのだが、高校受験、大学、就職となれば・・・母も叔母も比べることといえば、それは「結婚」の時期。実際私が結婚するまで叔母や私の家族が私たちの婚期を比べるだろうとはさすがに思いもしなかった。というのも私が28歳の時に母とは死別していたからだ。叔母もさすがに今更こんなこと・・・と私はそう思っていた。

 

だが、私の思いとは裏腹に今度は父と兄が私の婚期について従姉妹と比べだしたのだ。「母が既に亡くなって叔母ともそう会う機会が多いわけでもないのに、それでも比較されるものなのか・・・」とまたここでも何とも言えない気持ちになった。母が亡くなって数ヵ月後に旦那と出会い付き合って遠距離恋愛を経て、母が亡くなった翌年の年末に私は結婚をした。そこで兄と父に「従姉妹より先に結婚出来て良かったな。20代で結婚出来てよかっただろう、小さい頃はいろいろ比べられたからね」と従姉妹と比べていた。特に兄は私が幼少の頃から両親や叔母から従姉妹と比べられては劣勢にいたことをかわいそうに思っていたのだろう。それもあってこの発言となったのだと思う。だが言われた本人からすれば決して嬉しいとは思えない。別に何歳で結婚しても構わないのだから。それに結婚してもその結婚が上手く行かずに離婚となればそっちの方が・・・となる場合もあるだろう。私たちはそうではないが・・・。

ちなみに従姉妹は私たちの結婚から約3年後に結婚した。私自身彼女が結婚をしたときは本当に嬉しかった。そういう彼女を支えて人生を共に歩んでいく伴侶が見つかったのだと・・・。

 

さすがに子供を儲けた時期について比べられることは無かったが、周りがここでも私と従姉妹を比べていたら私もさすがに父や兄を軽蔑していたかもしれない。父や兄だけじゃなく、私たちを比べた者をすべて軽蔑していただろう。そういう事については周りは確かに比べたがるものだろうが、当の本人たちにとってみれば本人がどの道に進もうがいつ結婚しようが、それは知ったことじゃないのでは?と思う。

 

従姉妹は幼い頃から両親である叔父叔母から(私から見た感じでは)蝶よ花よと育てられていた。やはり両親の立場もあったのだろうと今となればそう理解することができる。そのせいなのか、それともいつも着飾った叔母の影響もあるのか、従姉妹と従姉妹の兄は小学生から高価なブランド物の服を着ていた。大人になった今でもそこそこ高いブランド物が好き。だが従姉妹については社会人になったあたりからファストファッションも好む。基本的に古着やヴィンテージジーンズを好む私とは正反対である。私はブランド物はそんなに好まない。むしろ自分でカスタマイズした小物だったり、古着屋やセレクトショップで買った服などに手を加えて自分好みにアレンジして服を着たりすることが好きなのだ。それはやはり幼少の頃の冷遇が影響しているのだろうと考える。

そして従姉妹はそういう私に対して彼女は「古着を着るのが信じられない、古着よりもブランドの服の方がいいよ~」などとブランドを勧めていたこともあった。ちなみに彼女は私がブランド物をあまり好まないことを知っている。ここに書いたとおり従姉妹と私ではあらゆるものの好みは正反対である。たとえば従姉妹は酒好き。私は酒が飲めない。そして従姉妹がフリフリした女の子らしいものが好きであるなら、私は中性的なもの(男性寄りになることもある)を好むというように。

学校の勉強でも得意分野は正反対である。私は美術や音楽といった芸術系に長けているが(理系か文系か?と言われれば文系に寄る理系(情報系の出身のため)だが・・・)、反対に従姉妹は文系の科目を得意とする。それから彼女は本当に空気が読めないのか?と思う言動が非常に多く、私は幼少の頃からそれにうんざりすることも少なくなかった。言い換えれば「無神経」、本当にその人を思っての言動なのか?と思えてしまう。たとえば父方の年上の従姉妹に会って何かを買ってもらったとか、私がその場でそう言われてもただ羨むだろうことをそのまま話してしまったり、幼い私が描いた絵を「こんなもの無い」などと貶すなど。これも周りから注意をされても言い続ける。そしてすぐに自慢をするなど。本人に悪気は無いのは分かるが、幼い私でも「従姉妹ちゃん家は何だかな~」と思えてしまった。従姉妹だけじゃなく従姉妹の兄も何だかいつもお高く止まって気取っていると思えてしまっていたのだ。恐らくこちらも両親の影響なのだろう。

 

そんな中思うこと、それは従姉妹と私は正反対な部分が多いこともあり、そのふたりを比較するのは本当に「くだらない」の一言に尽きる.

 

ただ、私も従姉妹に負けたくない!という思いが無かったといえば嘘になる。やはり母と叔母による比較から始まって、いつの間にか本人たちを差し置いての比較になってしまったことから私は負けたくないと必死になっていたこともあった。高校に入ってからの勉強も頑張った。そして1年生のうちに学校の卒業資格である全経簿記の2級、情報処理検定2級、商業英検3級を取得したり、他にも形に残るものを取得しようと本当に必死だった。志願して勉強を重ねて情報処理技術者(言うまでもなく国家資格)の受験もしたが、こちらは残念ながら不合格だったが。従姉妹の通う学校は普通科、そして私の通う学校は商業高校の情報処理科。そもそもここで全てを比較するには無理があるのは解っていた、だが私も比較されて負けるぐらいならと必死になっていたのだ。その後も努力を重ねてワープロ検定などの資格を取得するなど、努力を惜しまなかった。これに対して従姉妹は「はる香ちゃんは社会で使える資格をいろいろ持っていて羨ましい。私もそういう学校の方が良かったと本気で思っている。それにその資格を活かして仕事をすることが出来ているはる香ちゃんが本当に羨ましいよ。たとえ仕事を辞めたって次の仕事に繋げることも出来るし・・・」と私に言ってきたのだ。従姉妹曰く彼女の通う高校や短大でも簿記やワープロなどの資格取得は出来ないわけではなかった、だが彼女は大学へ行くことを目標にしていたうえに英語ばかりに固執していたせいか、英語以外に活かせるものが無いというのだ。無論国家資格はおろか民間資格なども取得していない、彼女の持つものは英語関連の資格のみだ。

 

私から見ても従姉妹に対して羨ましいと思うことは多々ある。自分の好きなように人生を歩ませてもらえていたこと、それと幼少の頃からブランド服やブランドの小物に囲まれる生活、そして私が受験した学校に合格したこと、学生のうちに留学、東京の学校に進学させてもらえたこと。そしてオーストラリアへの長期留学も。本当に羨ましいと何度も思った。だが、そんな従姉妹も私を実は羨んでいた・・・。それを知ったときには本当に複雑だった。私も私なりに・・・となるところだが、実は従姉妹も私が知らないところで私を羨ましいと思って、そういう気持ちでいたなんてと考えると本当に辛くなる。叔母同士の比べっことはいえ、比べられた当人同士は決して気分のよくないものだと改めて実感したものだ。

恐怖政治

 

ここまでこのエッセイを書いていて、父の話が殆ど出てきていないことにお気づきだろう。実は私は未だに父の存在に恐怖を感じてしまうことも事実であり、今からここに書くことを読むことで読者様がお気を悪くしてしまうことも充分に想定できる。それだけ自身の経験を文章にすることが辛く苦しいことであるということをご理解いただければ幸いです。

 我が家は「恐怖政治」の家だった。無論その政治の中心は父、母はそんな父に黙って付いて行くタイプだったために何を言っても聞いてくれるはずもなく・・・。父は私がある程度大きくなってからの教育問題には無関心、ただ「いい学校に入ればいい!そしてそこで1番の成績であればいい」という中身の無いことしか考えていなかったようだ。ついでに言うなら「学校で一番の成績じゃないとうちの子じゃない!」というとんでもな事まで・・・。

そう、すべて肩書きだけが良ければいいという考えだったのだろう。たとえば高校は市内一の進学校、そして大学もみんなが知っている名前の大学、そして就職先も一流のみという。これらの肩書き・・・何と言う中身の無さ、ということに逆に感心してしまうほどだ。そんな父も学歴にコンプレックスでもあるのだろう、それは未だに分からない。ただひとつ分かっているのは、やはり自身の「世間体、および自身らの体裁を保つため」であろう。今思うと私も兄も母もそんな父の体裁を保つだけの単なるアクセサリーだったのだと思う。

良妻賢母の妻、成績優秀で容姿端麗な子供たち、それが父の理想でもあり母の理想でもあったのだろう。いい加減そんなものは両親の思い描く単なる絵空事だということに気づけばいいだけだ。と今となればそう思う。

 

父は今の実家に引っ越すまでは子供に厳しいながらも父親らしいことはしてくれていた、と今でもそう思う。だが引越した後からそのような本当の父親らしい姿からは程遠くなっていった。体裁を異常に気にする、長男信仰、見栄っ張り、男尊女卑から始まって自分が気に入らなければ暴言暴力当たり前というようなものだった。

私は父にたくさん躾の名の元の暴力を加えられ、今でも心にはその時の傷が残る。時には顔が腫れるぐらい殴られた。家から追い出されたこともあった。いくら私が悪いことをして怒られたとしても、今考えてもやはり父のやり方には納得がいかない。現にこうして30過ぎた私の心の中には当時の傷がたくさん残って今でも苦しむ部分がたくさんあるのだから。

そのような躾の中でも最も心に残るものがある、それは私が4歳頃のある日、本気で父を鬼、悪魔だと思った。さすがに何が起こってそうなったのかまでは覚えていないが、私は突然父に浴室に連れて行かれて服を着たまま水を張った浴槽に無理矢理沈められたのだ。浴室に着いて父は浴槽の蓋を開け、私をそこに投げ入れて蓋を閉めようとした。私はその中でおぼれかけたことを今でも覚えている。母はそれを見てそんな父を止めることもなくただ見ているだけ。その後母に体を拭いてもらい着替えもしたのだが、そこで母が私に言ったのは「あんたがお父さんにわがままを言ったからこうなった」と。子供は正直わがままを言ったなら、親はそれを窘める。だが、窘める方法なんて他になんぼも方法があるはず。それなのにいきなり浴槽に沈めるなんてどう考えても子供にとっては恐怖でしかない。

母は母で父が私たちにする行き過ぎた躾を決して止めることも無くいつも傍でただ見ているだけ。そして「お父さんのすることは間違っていない。あなたたち(兄と私)が言うことを聞かないからそうなる」といつもお決まりの台詞を言い放つのみだった。父の暴力の後に何もフォローしない母、本当に今考えても何故そんな事が出来るのか信じられない。たとえ私たちがそれでケガをしたとしてもフォローもせず私たちが悪いからそうなるとだけ言うのだ。加えて私たちがどんなにケガをしても嫌な思いをしても「お父さんは悪くない」「お父さんのすることは間違っていない」と、父を常に擁護するのだ。

兄も何度も殴られ、時には唇を切るケガをしている。後に兄も「うちは恐怖政治」と言っていたぐらいだ。母も何度も発狂しては私たちに殴りかかる、暴言を吐く、ということを起こしている。だが父と違うのはヘラヘラしながらではあるが謝罪があるということ。けれど前記のとおりヘラヘラしながら「あの時はごめんね~」というように心の篭っていない謝罪だけに私は信用ならないといつも思っていた。本当にバカみたいだと・・・思うしかない。未だに父のしてきたこと、母が父を擁護したこと、許す気にはなれない。寧ろあの世に行ってから地獄で閻魔様や邪鬼たちから鞭を打たれてたんと痛い仕置きをされるがいい!と思うぐらいだ。

父は本当に忙しい人だった。だからこそ今思う、家庭に安息が欲しかったのだろう。だが家に帰れば私たち幼子がいて、それで自身も仕事で疲れているのに・・・となっていたのかもしれない。だがそれも父の勝手な言い訳。さすがに仕事のストレスは私たちには何の関係も無い。だからそれを言い訳に子供に八つ当たりなんて、と普通ならそう思うはずだが父は違った。機嫌が悪いと子供達にすぐ八つ当たり、暴力、暴言や人格否定も。そして自分が気に入らないとなればすぐにヘソを曲げ、母が私たちに折れるように説得をする始末。はっきり言って父も大人気ないし母もみっともない。必死に父を立てようとする母も本当に哀れである。母が亡くなった後に母の友人から聞いた話だが、母は毎日毎朝父の靴下を履かせるようなタイプであり、父に相当尽くしていて父の言うことは絶対という考えだったとのこと。自分の意思を持っていなかったのか?と思ってしまったぐらいだ。

 

暴力以外にも父は本当に自己中心主義であった。私たちが買ったものでも父自身がそれを気に入れば強引に奪い取るなども普通にあったし、泥酔すると決まって私や兄に抱きつくのだ。酒に酔った父もそれは恐怖だった。私が幼い頃、たぶん幼稚園児か小学校低学年の頃だったと思う。父は私が寝る時間になって寝床で寝ていた時に無理矢理抱きつくこともあった。恐らくだが本人は構って欲しくてふざけていたようだが、私にとっては体をベタベタ触る、すごい力で抱きつかれるなど父のその抱きつき行為には愛情など感じられず、むしろ恐怖でしかなかった。寝ている時に抱きつく以外にも普通にすごい力で幼い私に抱きついたこともあった。その時もそれは恐怖でしかなかったと記憶している。時は流れて私が高校生の頃にもそのような父の失態はあったのだ。ある日親戚の家に行き、祖父の77歳のお祝いをしていた。その時父も相当な量の酒を飲んで泥酔して当時高校生だった私に対して抱きつき、体をベタベタ触ったのだ。正直実の親でも気持ち悪く怖くなった。そのおかげか私は酔っ払いというものが嫌いになる。酒を飲んでも飲まれるな、と父は大人になった兄に話していたのを見たことがあるが、何の説得力も無いと感じた。自分は散々酒に飲まれたくせにあり得ないとまで・・・。

私の私物もそんな父によく狙われた。まずビーズクッション。中学校2年生の頃にずっと欲しかったビーズクッションをためていたお小遣いで買った。だがそれを見た父が私のものなのに勝手に気に入ってしまい、突然私の部屋から勝手に持ち出して茶の間で使っていて私はとても驚いた。そして「それは私の物でしょう?」と問いただすと、俺が欲しいから持って来た。2000円で売ってくれと言い出して私に2000円を渡してクッションを強奪したのだ。母もそれに加勢し、「お父さんが欲しいって言ってるんだからあげなさいよ。それにまた買えばいいでしょ?」と。母は父の味方しかしなかった。当時中学2年生の私、働くことなんて出来ないうえにお小遣いだって限られた金額でしかない。だからまた買えばいいなんて言われてもそう簡単に買えるわけでもない。その辺について両親はどう考えていたのだろう、本当にそれが欲しいのなら自分でホームセンターにでも行って気に入ったものを買えばいいだけ。そんな子供でも分かるようなことも出来ない両親を心底恥じた。

それ以外にも社会人になって私は隣県で働くようになり、私は自身の勤める土地の地名などが分からず困ってしまい、仕事にも支障が出始めていたこともあり仕事の帰りに会社近くの本屋でその県全域の地図帳を買った。私はその後仕事中も仕事以外の時間もその地図を見て地名を頭に叩き込んでいった。当時私の勤めていた支社はその県北部から中部のエリアを担当していた。加えて市町村の合併も始まっていたこともあり、同じ市内でも管轄の営業所が違うなどということもしばしば。管轄の営業所云々以前に地名を知っておかなければ本当に仕事にならない。顧客の住所を見て管轄の営業所に仕事を振ることだって決して間違ってはならない。だから仕事中もお客様の住所と地図を照らし合わせてという作業も何度もしていた。この姿勢は上司からも仕事熱心だと褒められたぐらい。だからその地図は私にとっては本当に仕事上必要だから、地名を覚えてある程度の土地勘を身につけないと仕事にならないからという理由で本当に必要なものだったのに、その地図を持っていることが母に知れてしまったのだ。母は最初は「仕事で使ってるんだね」と理解は示してくれていた。

だがそんな母がある日「父が○○県の地図帳を貸して欲しいって言っている」と言い半ば強引に私の元からその地図帳を持って行き、父はそれを私に返さず会社のものにしてしまったのだ。数日後、私は「地図帳を返して欲しい。仕事で使うから1冊3000円もするのに買ったものだ。それが無いと仕事にならない」と話すと、父は「俺はお前に10000円払ったはずだ、だから俺のものになった。そんなに欲しければまた買えばいいだろう?」と言い出した。私は父から地図を譲ってくれとも言われていないし、父が言うお金も受け取っていない。ほぼ強引に母に持っていかれたということだけだった。母には地図を渡すときにすぐに返すように伝えてあったのに、それがまた父のものになってしまった。私は本当に悔しくてたまらなかった。その地図はドライブに出かけるとかの遊びのためでもなく、かといってほんの数日の旅行のためとかに買ったのではない、自分の生まれ育った場所ではない県庁所在地へ赴いて仕事をして、その中で担当するエリアの土地勘が無ければ到底仕事にならないことを実感し、これ以上土地勘が無いのなら仕事が出来ない!という切実な理由で、仕事以外の空き時間に少しでも勉強したくて買ったものなのに、母はそれを知っているのにそんな簡単に奪っていけるの?「貸して」と言われたうえに「すぐに返してほしい」とも言ったのに、だから数日で戻るものだと思っていたのに、いつの間にか父のものにされているし・・・。それに最初に「貸して」と相手に言ったんだったら相手に「返す」のが普通だろう。そんな当たり前のことも出来ない両親に心底呆れた瞬間だった。父自身がそんなにその地域の地図が欲しい、会社で使いたいというんだったら自分たちで書店に足を運んで欲しい地図を買えばいいだけの話だろう。それなのに身近にいる私がそれを持っていたからという理由で奪っていくなどという心理は今でも理解できない。ただ親にとって「私が地図を持っていたこと」は便利だったってだけ?たとえそれが実子のものでも、親が欲しいのであれば何もいわずに譲るべきとでも考えていたのだろうと思う。あまりにも自分勝手である。母にも抗議した。だがやはりここでも「お父さんが欲しいって、本当に緊急だったんだから勘弁してあげて」と。こっちも緊急だったうえに仕事でそれが無いと困るのに!

ビーズクッションや地図、それだけではない。自分は何もしないくせに私には何でも頼ろうとする姿勢にも何度も腹が立った。たとえ私がどれだけ忙しく自分の時間を満喫していようとお構いなしで。

その事件当時私は派遣社員の傍ら、ビーズアクセサリーを作って委託販売に出す仕事もしていた。そのために帰宅してからは食事をとって自室でアクセサリーを作る日々を送っていた。売れ行きもそれなりによかったし、私自身も物を作ることが楽しくてたまらず、アクセサリーを毎日作っていた。委託販売に出す以外にも会社の先輩から頼まれたアクセサリーを作るなどもしており、帰宅してからも決して暇ではなかった。アクセサリー作り以外では英会話スクールの宿題をやったりレポートを書いたり、更には英検の勉強をしていることもあり、父のわがままに付き合う暇はほとんど無いのが現状だった。そんな中父から面倒なお願いをされることがしばしば。父は旅行をするのが好きである。だが手元にあるのは古い地図帳だけである。それは別に構わない。だが旅行に行くのは自分たちの勝手なのに決まって私に「○○の情報をパソコンで調べてプリントしてほしい」と言うのだ。正直そんなことをする暇が無い。私も帰宅してからは上記のとおり忙しい。だからそんな事は自分でやれば?と思ったので、自分たちが旅行へ行くのに私がなぜそんな事をする必要があるのか?それに私も自分の時間があるし忙しい。家にいるからといって暇ではない。と言うと、父は決まってヘソを曲げてプリプリ怒り出すのだ。「家にいさせてやっている」だの「金を貰うとき(貰ってない)だけ調子がいい」だのあること無いことを言い出す始末。そしてそれを見ている母はいつも決まって私に「あんたがやってくれないからお父さんが怒ってるじゃない!今からでもお父さんに謝ってプリントしてあげて!」と私に泣きながら言ってくる。泣いてでも父をかばう母にも常識が無いのだろうかと思えてしまった。私はその度「自分たちの勝手な都合を私に押し付けないでほしい。家にいるからと言っても私も暇じゃないんだから」「委託販売のこととか、英語の件とか、お母さん知ってるでしょ?知っていてそれを平気で頼んでくるなんてそれは私に対しての嫌がらせ?」と言うが、自分らの都合が最優先とでも思っているのか私の言い分には聞く耳を持ってくれないのだ。母はここでも決まって「お父さんがいるからここにあんたもいられるの!これぐらいやってあげなさいよ!」などと父の味方をするのだ。私は自分の時間の方が大事だし、自分たちで出来ることをして情報を集めるのが筋だと思ったので、そこはもう手を貸さないと決めていた。

それに両親がそんなに自分たちで旅行をしたいのなら自分たちでその旅先の情報を調べるのは当たり前の事だ。だがそれをまたしても便利だという理由で私を使ってくる、本当に情けない両親である。

そもそもパソコンを使え!と言ったところで、「出来ないから」と言うのはもう見えている、だったら勉強しろ!と私が言うと「覚えられない」とまた私に頼ろうとする。母もパソコンなんて覚えたくない!と言い出す始末。その言い訳に本当に「子供かよ!」と思ってしまう。

こんな他力本願で厚かましい両親、要らないと本気で思えていた。便利だから使うというのも、人をこき使うのではなく自分たちで便利だと思うものを探してそれでその便利だと思う物を使うのが筋だろう。たとえば旅行ガイドブックを買うなど。それなのに便利だと思う対象はいつも決まって私。本当に頼るものが間違っているとしか言いようが無い。欲しいものを私が持っていれば「寄越せ!」、能力を持っていれば「やれ!」など。そして必ず付いてくるのが「お金を払えばいいでしょ?」とか「親のためにやって当たり前」「家にいさせてやってる」など、くだらない寝言は寝てから言って欲しいものだ。非常に馬鹿らしい。そもそも利便性だけで私を手元に置くこと自体間違っているだろう。

 

時は過ぎ、私の買った新品のラップトップパソコンも父に狙われた。留学や英語学習や委託販売の仕事のために買ったパソコンであり、買うまでにも何軒も電気屋やパソコンショップを歩いて実物を見て自分に合ったものを選んで買ったこともあり、当然ながら簡単に父には譲りたくなかった。加えてパソコンを手にして私はメモリ拡張や必要なソフトをインストールしたりキーボードの設定を変えたりして自分仕様に環境を設定していたこともあり、父からパソコンを譲れといわれても渡したくない。それに父はいつも私に面倒なことを押し付けてくることもあり、このパソコンを仮に父に譲ったとしてもあれやってこれやってとなることが目に見えていた、無論渡したくもない。

当時私はパソコンを2台所有していた。1台はデスクトップでもう一台はラップトップ。普段はデスクトップを使っていたが、英会話関連(提出するレポートや宿題など)や仕事関連はラップトップを使っていた。そんなある日父は私に「パソコン2台もいらないだろう?余ってる分(ラップトップの事)俺によこせ」と強引に奪おうとしていた。こちらも「自分に合うものを探して買ったわけだし使っていないわけでもないし、事実これも無いと困る。だから渡せない」と断ったところ、ここでも「家にいさせてやっているのは俺だからそれぐらいしても当たり前だろう?感謝の気持ちだろう?」などと引き下がらなかった。そこで「仕事やレポート作成に支障が出る、だから同等のノートパソコン1台、そうだなぁ。マッキントッシュの最新型のノート1台と交換するのなら考える。それとこのパソコン、自分用に環境を設定済みだからきっと使いづらいだろうし、初期化をするからそれに必要な経費も払ってもらう!さすがに全て初期化するとなればタダってわけはないでしょう。」と条件をつけたが、父は「それは無理、無料で今すぐ俺にそのパソコンをよこせ」と引き下がらず、(どうしても譲るわけにはいかないので)「いつもそうやって私からあなたは物を奪い平気な顔をしている。そのおかげでこっちは本当に嫌な思いをしている。それに今回のようなことは一度や二度ではない、これ以上繰り返して人から強奪するような真似をするなら(そんな気は毛頭無いが)弁護士にでも相談しようか?それに勝手に私の私物を持って行こうものなら、話は警察で聞くようになるけどいい?」と話すとしぶしぶ引き下がった。

この件については偶然その場にいた兄も呆れていた。「たとえ親父がパソコンを譲ってもらったってあれやれこれやれと何かとやらされるのはお前なんだし」と。ついでに「そんなに欲しいのなら自分で努力して買え!そして人の力を借りずに操作方法を覚えろ!金を詰まれても協力などするものか!」と、私は父にそう言い放った。

いくら親でもやっていいことと悪いことの区別も付かないのか?そしていくら自身の娘のものだとしても人様のものを欲しがるなど、どんな躾をされていたんだ?と疑問に思えてしまうぐらいだ。ここでも「俺はいちばん偉い、だから文句を言わずに寄越せ」だったら余計に腹が立つ。人様のものを強引に奪ってまで自分の欲を満たしたいのか、今考えても心底気分が悪い。

ここで母が生きていたら恐らく父に味方をしてどんなことをしてでも私のパソコンを奪ってやろうということになっていただろう。母はいつも父の味方だったので簡単に想像が付く。正直このやりとりが母がいないところで起きた事に感謝する。

そもそもパソコンを寄越せなんて、どれだけリスキーな事なのかをこの親が知ることなのか?個人情報だってそう、たくさんの秘密が入るものであるのにそれを易々と他人に渡すなど、到底考えられない。貸すことすら考えられない。無論貸したものなら危険なウイルス感染などのリスクも無いわけではないからだ。

 

「パソコン譲れ事件」から暫くして私はトロントへ留学をして、帰国後は当時彼氏だった今の旦那とアパートを借りて同棲を始めてその後結婚したのでこの件について父からまた言われるということは無かった。無論パソコンは実家ではなく新居に置いた。

 

ここまで書いていて思ったこと、「お前のものは俺のもの」というジャイアニズム精神は身近にあったのだと痛感した。それが父であったということも。私が婆になっても息子には絶対このような事はしない、したくない。そもそもそんな発想すら無い。息子にも人様のものを欲しがるような卑しい真似はするなと教えていくつもりだ、父を反面教師にして。

 

そんな父だが、とりあえず表面上では良い父を演じていた気がする。たとえば子供の運動会などにはビデオカメラを持って参加していたり、親子競技には普通に参加していた。だが家にいるときの父は本当に恐怖政治の中心であり、私たち子供は毎日おびえて生活をしていた。表面上は良い父ということもあり、家の中で何が起きているのかは誰も想像付かないだろう。

決して外からは見えない「我が家」というひとつの区切られた空間で行われた「父という名の独裁政治および恐怖政治」なのだ。母はその独裁者を崇拝、兄と私は恐怖に怯える。

 

母もやはり父と同じ思考だったのだろう。父のわがままに振り回される私をかばうことなど無かったのだ。そしてそこに兄が絡むと余計に厄介になった。「両親や兄にとっては私という存在は便利なもの」という感覚だったのかな?と思えてしまう。

こちらも社会人になってからの出来事だが、兄が当時名古屋の建築会社に勤めていたときのこと。家と会社は名古屋にあるのだが、仕事現場が横浜にあり、そこでの任務を終えて名古屋に戻ろうというとき、兄は横浜から名古屋までどうやって引越しをすればいいのだろう、自身の所有する車もスポーツカーだし荷物は全部載せられない。それにひとりで作業をするにしても何往復もしなくてはいけないし、お金もかかる。と母に相談をした。すると母は「だったらうちのワゴン車を使えばいい!」と何も考えずに兄に言ってしまったのだ。これは私のいないところでのやりとりだった。そしてその日の夜、母は何の躊躇も無く「ねぇ、今度の週末からうちのワゴン車をお兄ちゃんに貸すことになったから、貸している間あんたの車、家用に貸してくれない?だってあんたは実家から仕事に行っているんだし、何も問題ないでしょ?」と。最初は何を言っているんだ?と思った。そして私はなぜそんな風になったのかを母に問いただすと前記のとおりの説明をしてくれた。だが兄は未成年でもなければ稼ぎの無い学生でもないし、ニートでもない。すでに成人している、社会人何年目?という年齢なのに何故この歳になって親の力を借りようとするのか、そして母もそんな歳の兄になぜ自ら手を貸そうとしているのか?私には到底理解しがたいものだった。

私は言うまでも無くその申し出を断った。私は確かに実家に住んで、そこから会社へ通勤している。だがそんな私にもプライベートというものがある。会社の帰りには買い物をしたり、友達と会って食事をしたり、英会話やスポーツジムに通ったりもしている。納品のために少し離れた委託販売先にも立ち寄る。だから私は決して「ただ会社に行って家に帰って寝るだけ」という生活ではない。英会話やスポーツジムだって定期的に通っているものであり、そんな親の都合で簡単に休めるものでもない。無論月謝や月会費もちゃんと払っているのだから。そのような事情もあるわけで私は母に「私の車は貸せない!」と話した。すると母は「だって家から通ってるんだし、お母さんが毎日あんたを会社まで送り迎えするんだから、ね。それにお母さんだって車が無いと困るの。だからお願い・・・」と泣きついてきた。だが駄目なものは駄目、社会人で毎日会社まで親の送り迎えだなんて恥ずかしくて耐えられない。そしてそんな家族のわがままに付き合うためにプライベートは犠牲に出来ない、母もそんなことも分からないのだろう。こんな母に心底情けないと思った。母曰くこの件は父も大いに賛成しているとのこと。当事者である私を差し置いて勝手に物事を決められそうになり非常に迷惑な話である。それにこちらも私には全く無関係である。兄も成人していて仕事もしているんだから自分の尻ぐらい自分で拭えと言いたいところだ。母に何を言っても「でも、だって・・・」、「お兄ちゃんがかわいそう」、「あんたは恵まれている、だからお兄ちゃんに協力すべき。お兄ちゃんは家から離れてひとりで暮らしてるの。だから助けてほしいって言われたら協力するのが普通じゃないの?」などと兄を擁護。そこで私は「あのさぁ、この世の中には引っ越しセンターというものだってレンタカーというものだってあるんだよ?ただお金がもったいない、時間がもったいないっていう理由だけで成人している男が親にすがるってどういう神経してるの?両親であるあんたたちだって兄に一体どんな躾をしたんだい?私には理解できない。それに私をこれ以上厄介なことに巻き込まないでくれないか?家の車を兄に貸すのは構わないが、それについて私は無関係。だから私の車は貸しません!自分らの足が無くなって困るならそういう約束はしないで。そんなに兄に車を貸したければお前らが今すぐレンタカーでも借りて来い!で、勝手に私の車を奪って行ったらそれこそ警察に通報だな・・・。だってそれは泥棒でしょ?子供でも分かるよねぇ?」と母に言った。母はまたしても「だってレンタカーなんて他人から借りるものだから何かあったら困る・・・、そうなっても私は何もしたくないから」と。何と自己中心的な考え、結局は私を都合よく使いたいとでも考えたのだろう。私もさすがにキレて「知らんわ、そんなもの!勝手に決めやがって。自分のケツぐらい自分で拭きやがれ馬鹿野郎!!」と言い放ち、自室に篭った。これ以上何を言われても一切答えないことを決めた。車の鍵も勝手に盗られないようにいつも手元に置いておいた。寝るときは枕の下に置くなど鍵の管理を徹底していた。

車社会の田舎での生活、ここで車を取り上げられて勝手に乗り回されてなど本当に理解しがたい。万が一事故を起こした場合はどうするつもりだったのか、本当に恐ろしいものだ。ましてや私は社会人で会社勤めもしている。それなのに唯一の足である車を取り上げられてしまっては本当に八方塞がりである。それに普通の生活を身勝手な人たちのために制限されてはたまったものじゃない。車には走行距離だってある、それが短期間で異常に延びていたなどとなれば査定価格や車検での部品交換にだって影響する。無論この人たちに「全部修理して返せ!」と言っても絶対にしてくれない、ガソリンだって満タンにして返したこともないのに。過去に母は私の車の鍵を私のカバンから抜き出して車を無断で乗り回してガス欠寸前で私の元に戻しておきながら言い訳タラタラだったこともある。だから余計に信用できない。

 

母は兄を高校から下宿生活をさせたことを寂しく思っていた。その寂しい気持ちを払拭するために私を何かと支配しようと必死だった。中学あたりから「恋愛禁止、学校が終わったらすぐに帰宅しろ、いい子でいなさい」など、自分にとって都合のいい条件を私に押し付けてきていた。加えて高校に入ったあたりからは「学校以外でも化粧は禁止、私の言うとおりにしなさい」など。そして社会人になれば「女は一人暮らしをしてはいけない。親の面倒は必ず見る」など、本当に両親のためだけに勝手な取り決めをしていたのだろう。正直私は大学も県外の大学に行きたかったし、就職も県外にしたかった。というのも両親から離れたかったからだ。その方がお互いにとって良いことは日を見るより明らかだったから。私も両親もお互いに甘えることがないから。だが、その裏で両親は・・・特に母は私を絶対に手放すものか!と必死になっていた。その中で私は何度も実家からの独立を試みていた。一人暮らしするために何が必要かと考えては行動に移していた。自分の食費は自分で賄い食事は自分で用意をして、洗濯なども自分の分だけ別にして会社の帰りにコインランドリーで洗うようにしたり。そして「家賃」も家に入れていた。だが母は私が実家を出ようとしていることを察したのか「仕事で疲れているんだから家に帰ってからはこんなことしなくてもいい」とか、それでも私は家事をしていると「もうこんなことしなくてもいいから・・・」と私を止めた。当時車のガソリン代も父のカードで払っていたが、それも成人してからは断るようにしていた。ほぼ無理矢理そうするように言われて父のカードでガソリン代を払っていたのだが、実家を出るのにはそれもちゃんと自分の稼ぎでやっていくべきと考えてのことだった。私が自分でガソリン代や車に関わる費用も払っていると分かると決まって母は「父に甘えていいんだから」と言い、私がガソリン代を払うことを嫌がった。そしてそれだけじゃなく、私の使うお金に関しても口出しをするようになってきたのだ。ある日基礎化粧品を買った私、それを見た母が「お母さんに内緒でそんなもの、買うんじゃないの!高いんでしょ?ったく無駄遣いばっかりして」と言ってきた。無駄遣い?私は決してそうではないと思っていた。基礎化粧は本当に必需品だし、これをサボると風呂上りに肌が乾燥したり化粧の乗りが悪くなるなど支障が出る。それに基礎化粧だって身だしなみである上に私はアレルギー持ちであるために、肌に合うものを選んで買っているわけだ。だからさすがに私もこれには「私が私自身で自分に合うものを選んで買って何が悪い!」と反論。母は「どうせ実家にいるんだからお母さんのを使えばいいでしょ?」と更に返してくる。この人は本当に何を考えているんだか、今考えても理解に苦しむ。化粧をするにしても「色気づいて気持ち悪い」「そんな事をするからニキビが治らない!」「テレビに出て馬鹿やってるギャルみたい」などといちいち難癖をつけては私の行動を監視する。

化粧するからニキビが治らない?寧ろ私のニキビを気にするぐらいだったら私を皮膚科に連れて行けばいいことだ。それをしようともせず、母の勝手な判断でイオウ成分の強い市販薬を買ってきては「これは効くから!ほら塗ってあげるから!!」などと言い無理矢理薬を塗られる始末、本当に鬱陶しい。ところで私はイオウ成分が多いものも肌に合わず、いつも母の買う薬を無理矢理塗られては肌がかぶれたりただれるなどのトラブルが毎回起こる。それなのに母は「こんなのすぐに治るから!」などとまた能天気なことを言って私の肌トラブルとは絶対に向き合わない。母は私がそうなったことを知っているはず・・・。母は医者でもなければ看護師でもない。それなのにどうしてここまで強要出来るのだろう、しかもここで勧めるものは肌に塗る薬。それこそ美容にも精神衛生にもよくない。そして必ず最後は私自身で皮膚科へ行くことになり、余計な医療費を払うこととなる。本当に厄介である。

母による民間療法的なものは他にもあった。正直いって被験者にされる私は迷惑以外他ならない。ニキビ治療のイオウ成分だけではなく、風邪を引いて喉が痛いとなればどこからかルゴール液(の○のーるスプレーの中身のようなもの)を持ち出して無理やり私を押さえつけては喉にその薬を塗り込む。母曰く「お母さん、誰かをいじめるの大好きなの~!」と。非常にふざけている。そしてその後はきまって「どう?よくなったでしょ?」と。私からすればそれは果たして実の親子であってもしてもいいことなのか・・・?たとえしてもいいことであっても無理矢理押さえつけてまでやるなどは本当に異常としか思えない。むしろこれは違法ではないか?とまで考えてしまう。医療行為にあたるのか。そしてこれを拒否したらしたで母からは暴言を吐かれるのだ。そして機嫌が悪くなれば今度は暴れ出す。無論母からルゴール液を塗られた後の私の喉はいつも痛みが半端なく、常に腫れた状態になってしまう。最悪なことに何度か腫れあがった扁桃腺に液体を塗られてしまってとんでもない痛みに悶絶していたこともあった。その後病院へ行くと先生は「そんなもの必要ない。塗ることで症状が悪くなるだけで声もでなくなっちゃうから」と仰っていた。

母に物申すなら「看護師ごっこは一人でやってくれ」。