Darkness world -ある捻くれ者のつぶやき-

成瀬香織です。私の幼少期からの出来事をエッセイ形式で書いていきます。(ちなみにこれは全て私の心理カウンセリングで使われたものです。虐待などの内容を含むため、閲覧にはご注意ください)

いじめ パート2

小学校6年生の頃、私のクラスにひとりの女児が北日本から転校してきた。朝子という。見た目は決して可愛いわけでもなく、身長が低く体格がよく丸顔で濃い顔つき、更に色黒で真ん中で分けた肩まで伸びた黒い髪が特徴。第一印象は「大仁田厚(プロレスラー)」に激似、という感じだった。彼女は転校してきてすぐに則子たちと仲良しになった。一方私は朝子には特に興味も示さず、幼馴染の恵理(通称エリ)とこちらも幼稚園からの幼馴染の明子(通称あっこちゃん)といつも一緒に遊んでいた。エリもあっこちゃんも私を良く知る存在で、喧嘩をしたりもするけれどいつもお互いに助け合うような仲だった。だから彼女ら以外に目を向けることも無かったのだ。

エリとあっこちゃんは学校のブラスバンド部に所属しており、私は彼女らのブラスバンドが無い日は家も近所ということもあってかよく一緒に家に集まって遊んでいた。エリには歳の離れた弟がいる。両親は共働きでじじばばっ子だった。私とは別の幼稚園に通っていたが、お互いの家がすごく近くその頃から仲良しだった。彼女はたまにわがままを言って私を困らせることもあったけれど、親切なところもあって今でも付き合いはある。あっこちゃんとは幼稚園も一緒で、小学校に入っても仲良くしていた。私は彼女のことは大好きだった。体が弱い子だったけれど、誰の前でもお姉さんのような優しさを持ち合わせていたからだった。彼女の家は私が小学校5年生になる頃に隣の住宅街から私の住む住宅街に引っ越してきた。そして家が近くなったこともあってお互いの時間の都合が合う時にはよく一緒に遊んでいた。そんなこともあり、学校でもエリとあっこちゃんとはずっと一緒にいた。

だが同時期に則子からの私へのストーカーとも言える行動が始まった。エリもあっこちゃんも部活でいない時は隣のクラスのアスカとその友達といつも下校していた。そしてアスカと帰宅する際にいつもよく話をしていたのは

「きょうの放課後、街にお買い物へ行こう!」

という事だったり、

「放課後狐坂公園(アスカの家の近くにあった公園)で一緒に遊ぼう」

という話だった。私はアスカと遊ぶのは大好きだった。習い事の無い日によく街に遊びに行っては買い物もしていた。買い物に行かない日には狐坂公園でよく一緒に遊んでいた。だからこの日も当たり前のように私とアスカは遊ぶ約束をしていたのだ。が、いつもその話は何故か則子たちの耳に入っていたのだ。私やアスカは則子を心底嫌っていたこともあり、いちいち則子に街に遊びに行くことを宣言するということはまず無い。だったらなぜこれを知ってるの?と疑問に思っていたある日、その真相を知ることに。則子は私たちが下校する時、後ろや近くにわざとくっ付いて話を聞いていたのだ。そしてその脇には朝子もいた。朝子も面白半分で私たちの話を盗み聞きしていたのだ。そして彼女らは何も無かったかのように私たちに近づいて

「ねーねー、街に行くの?だったら私たちも一緒に行きたいんだけど?連れてってくれない?」

などと無理矢理付いてこようとするのだ。私がアスカ以外の友達と下校している際もやはりこのような話を嗅ぎつけては「連れてって!」だの「付いて行く!」だのが始まる。そこで私も則子たちが付いてくるのは本当に嫌なので

「ごめん、きょうは別の友達も一緒だから無理」

とか

「塾の帰りに遊ぶから・・・」

などと言うが、決まってその後は則子の嘘泣きが始まり、私たちへの罵倒も含まれるので実に厄介なのだ。

なぜ自分が好きじゃないクラスメイトを自分らの娯楽に混ぜてあげなければいけないのか?そもそも気が合うわけでもないのに、と考えていた。則子だけじゃなく、朝子も同じように私に付きまとい、街に出かける、放課後に遊ぶなどの話に割って入ってきては「私も一緒に遊ぶ!」だの「連れてって!」だのが始まるのだ。朝子も則子同様に嘘泣きをし始めるというタチの悪さも持ち合わせるので本当にこちらも厄介である。実は一度則子らと街に出かけたのだが、これはこれで面倒だった。道中ワガママのオンパレード。私も買い物がしたいのだが、それはお構いなしで勝手な行動をする、私におごってもらおうと必死になるなど。一度一緒に出かけたらあとはもう行きたくないとなるパターンであった。だから彼女らからどんなにお願いされても放課後は一緒に遊びたくないのが本音であった。だからその一件以来彼女らと街に出かけることは無かった。

買い物だけじゃなかった。則子はある日私とアスカが少し離れた場所にあるスケートリンクへスケートに行くということを聞きつけて、ここでも一緒に行きたいと騒ぎ出した。無論私もアスカも連れて行きたくないし一緒に行くなんてとんでもない!と考えていた。そこでアスカが思いついたこと、それは「はる香ちゃんが親戚の家に行くことになったから中止になった」とアスカが則子に伝えるというもの。そして私もいるところでアスカが則子にそのことを伝えると、

「うそ!そんな事ない!絶対にないし」

と嘘泣きを始めた。本当に呆れるしかなかったし、私たちが則子を嫌っていることをそろそろ察してほしいとも思った。私がアスカと一緒にいずに、エリとあっこちゃんと一緒にいても同じようなことをされていた。無論エリたちも則子のその行動にうんざりしていた。

 

そんなこんなを繰り返していたある日、則子と朝子は自称クラスのアイドルのマミの取り巻きになっていたのだ。そして気に入らないとなればマミも加わって私に攻撃をするのだ。マミはいつも自分がいちばん可愛いと思い込んでいたのだが、ある日私が隣のクラスの理恵ちゃん(こちらはこちらでまた可愛いのだ。背も高く顔立ちも整っており、性格もとても温厚でクラスで人気者だった。本人は決してそれを自慢するなどしなかった)を可愛いと言ったことをどこかで聞いたことがきっかけで私を敵視するようになっていった。

マミは誰が何を言おうが自分はクラスでも学年でもいちばん可愛い、特にクラスのアイドルだという考えを強く持っていた。私もそれは知っていたが、そういう彼女があほらしく見えていたので正直その考えには賛同しなかった。クラスの他の女児たちもマミに賛同する人しない人で別れていた。

そんな中、マミがあまりにも「あたしって可愛いでしょう?」と私たちの前で言うものなのでそれすら本当にくだらなく思えた私が「バカみたい」とボソリと一言発したところ、クラスを巻き込んだ喧嘩に発展してしまった。マミを可愛いと思う子たちとマミをそう思わない子たちで別れての大喧嘩。その後担任の耳にその情報が入り、マミはタチが悪いことに担任から事情を聞かれた際に「あたしははる香ちゃんにいじめられたの!」などと言って先生を味方に付けてしまったのだ。他にもマミはいかにも自分は被害者だというような被害妄想も入ったような言い分を先生にしたおかげで先生がその気になってしまって私が自動的に悪者になってしまった。その後もマミからはたくさんの嫌がらせを受けたり、下級生にある事無いことを吹き込まれたりもした。

今思うとマミの家庭は相当複雑だった。歳の離れた兄と姉がいるのだが、姉はよく彼女に年齢不相応な服のお下がり(ボディコンみたいなものなど)をあげているようだが、基本どちらもマミにはほぼ無関心であった。兄はとりあえず優秀(彼女曰く市内一の進学校に在籍。後に旧帝大に進学)らしいが姉は高校にも行かずに歳をごまかして夜の歓楽街で水商売をしていた。両親についてはよく分からず、両親共働きで母親は不在がちだというのだ。時にはマミと姉を残して会社の慰安旅行で海外に出かけたりもしたとのこと。父親は一応いるようなのだがあまり話題に上がらない。これらを総合してもやはり彼女の家は相当複雑な家庭であるのは確かである。そんな複雑な家庭で育てば、そりゃ彼女だって学校では何か悪いことでもしないと落ち着かないのだろう。加えて学校ではお姫様でいたいものなのだろう。寧ろこんな家庭環境でいて学校で何も悪いことをせずおとなしく過ごしているほうがおかしい。

マミとは中学も2年までは学校が一緒だったが、彼女が中学校2年の時の担任と衝突をしたことを機に学校に顔を見せなくなった。後に分かったことだが、マミ自身実はずいぶん前から精神分裂症(現・統合失調症)を患っており、病院通いが欠かせないということもあり大病院のある場所から目と鼻の先にある別の学区の中学校に転校したというのだ。そんなマミは電車で中学校まで通っていたこともあり、地元の駅で彼女とよく遭遇した。高校生になってからも何度か彼女を見かけたが、その時の彼女は市外の私立女子高の制服を着て不良仲間とよく一緒にいた。その後間もなく彼女は高校を辞めて働くことに・・・。

 

中学に入っても私はいじめに遭っていた。

正直「さすがに中学に入ればいじめも無くなるだろう」と考えていたが、同じ小学校出身の子数名が私についてある事無い事を無関係の生徒たちに言い触らしてしまったようで、それが噂として広がり、しまいにはいじめに発展してしまったのだ。中学校に入って1ヶ月ほどしたある日、同じクラスになったある男子からいきなり「お前、小学校の頃いじめられていたんだろう?調子こくな!」などといきなり因縁をつけられてこちらも対応に困るという一幕があった。私は「知らん!」となるべく相手にしないようにしていたが、彼は休み時間のたびに私の元に来ては「いじめられていたんだろう?」としつこく詰め寄ってきたのだ。そんなある日のこと、私もあまりのしつこさにうんざりしていたところで彼はいきなり私の頭を掴んで髪を思いっきり引っ張った。あまりの痛さに手を払いのけようとしたところ、私は思いっきり殴られてその場にうずくまった。その日から奴からのいじめが始まったのだ。見かけるたびに暴力を振るわれ、嫌がらせをされ時には大怪我をしそうな場面も多々あり。たとえば階段から突き落とされたり、いきなり教室にあった箒で殴りかかられたり。そして彼もタチが悪く、別の仲間も誘い最終的に関わった人間の数は2桁になっていた。

日々続く暴力で体中に痣が出来てストレスで胃が痛い日々が続いて何も食べられない日も続き、勉強も手につかなくなり、中の上ほどあった成績も次第に中の下ぐらいに下がっていった。何度も親に「いじめられている。だから学校に行きたくない」と訴えたが母は事情を聞くのみで私を学校へ行かせた。父に関してはほぼ無関心。母は世間体を気にして私を学校に行かせていたのだと思う。今思うと世間体云々よりもわが子の安全を優先すべきじゃないのか?と思うのだが、母はそれよりも世間体を取ったのだと思う。正直この頃の私はクラス全員からいじめられていたような状態だったから。昨日まで仲の良かったクラスメイトの女子も「あんたと関わっていると、私もいじめに遭うから」とひとりひとりと離れて行き、目の前で私がいじめられていても何もせずただ見ているだけ。

そして私が部活に入っていなかったこともあり面倒なことは全て私に任せようとしていたのだ。たとえば文化祭の実行委員や生徒会関係の人選など。その場合は必ずといっていいほど誰かは私を推薦し、理由は「野良部(当時部活に入っていない生徒をそう呼んでいた)だからどうで暇でしょ?」「私たちは部活で忙しいから」などと身勝手な理由をつけて私に押し付けようとしたのだ。私も黙って引き受ける気は起きなかった、というのも理由が身勝手というのもあるが、ただ部活に入っていないというだけでこうして雑用を引き受けなければとなるのはいかがなものかと疑問だったからだ。だから決まっても辞退の申し出をしたのだ。しかし担任もバカであり「多数決で決まったんだからやるべきだろう!」と強く言うのだが、私は到底納得がいかない。何が多数決だ?ただ面倒だから押し付けてしまえという腐った根性が私は気に入らない。

そして担任も「決まったんだからそれでおしまい」ってわけか?担任すら敵に見えた瞬間だった。私は迷わず「だったら部活に入っていれば面倒なことはしなくていいって決まりでもあるの?そんなのおかしいよね?こっちだって好きで部活に入っていないわけじゃねぇし。中には事情があって部活に入れない人間がいるのも知らないの?部活に入っていないからっていうのを理由に面倒なことを押し付けることを許すのか。そんなの勝手に押し付けられた奴が怒るのも無理ないだろう。それで納得いかないっていうなら校長に言いつけようか?それとも教育委員会に全部話そうか?」

と私は担任に強く言った。帰宅して母にもこの話をした。すると「あんたにはそんなの無理でしょう」とすぐさま学校に抗議をしてくれたのだ。だがこれも決して正しい方法ではないと今になって思えてくる。本音を言えば担任が能無しという事だった。それを母には言いたかった。担任もダメならクラスもダメ、面倒なことを部活に入っていないという理由だけで押し付けるなんて本当に腹が立つ。社会に出れば仕事で忙しいから法律なんて守りません!とでも言うのか?こんなクラスなら私は学校に行きたくない。とも母に話した。だがここでも母は学校に行きたくない要求は聞いてくれなかった。母に言う言わない以前に私は本当に学校には心底絶望していたので一日でも早く不登校になりたかったのだ。転校となるのなら別だが・・・

翌日私のクラスでは再度文化祭の実行委員を選ぶことになった。担任も部活に入っていないだけで押し付けられるということに学校側も疑問を持ったのだろう。結局生徒会関係も文化祭の実行委員も別のクラスメイトに決まった。こうなった以上、後味が悪いとしかいい様が無いが・・・

 

学校生活に関して実は母が口を挟む、手を出すことも少なくなかった。たとえば私の学校の指定する下着の色が不満(アンダーは白黒紺と決まっていたが、白に近い薄いピンクは本当にダメなのかと私に問い詰めてひとりでキレた)だったのか、それについて「うちには薄いピンクしかない!」と学校へ抗議に行ったり、冬になって寒いからとジャージの長ズボンを膝上まで切って裾を処理して、それをスカートの下に履かせたりもした。ジャージの件はクラスメイトからスカートをめくられたり(この行動自体が大人気なくみっともないが)もした。無論翌日から履いていかなかった。

それから発育が良かった私のためにと母は勝手にスポブラを買ってきて翌日私に学校に着けていくように命じた。私も「まぁ今は恥ずかしい気持ちもあるけれど、いずれはみんなするものだし・・・」と自分に言い聞かせてその日はそのスポブラを着けて学校へ行った。その日の午後、クラスメイトに私がスポブラを着けているということがバレてしまい、教室移動の際などにわざと私の後ろを歩いては指で背中をさすることをする女子が多数いて気持ち悪くなってしまったのだ。クラスメイトの女子が次から次へと私の背中を触れるものだから本当に気持ちが悪い。しかも

「高坂さんスポブラしてるの~?」

「胸大きいからね~」

などという薄気味悪い笑い声も付いて。思春期真っ只中な女子にとっては同じ悩みのはずなのに、女子ならいずれはするだろう当たり前のことをしただけでこうしてからかいの対象になるなんてと本当にその日は居心地が悪く、翌日はこのせいで体調を崩して熱を出して学校を休んだ。母には「もうスポブラなんて着けていきたくない!そんなものいらない!」と抗議した。だが母はそんな私に対して「あら~、みんな珍しかったんだね~」ぐらいしか言ってくれず、本当に悔しい思いをした。せめて親身になって悩みのひとつぐらい聞いてくれたらよかったのに、という思いはあった。そして母は「せっかく買ってきたのに・・・」と落胆していた。が、落胆したからといってまた学校に着けて行って嫌な思いはしたくないというのは当時の私の本音だった。

このような母が買ってきたもの、作ったものを身につけたことによってクラスメイトからのからかいの対象になってしまうというものが死ぬほど嫌だった。時には母は私にいじめられて来いと言っているのか?と勘ぐってしまうほどだった。

 

皆が必ずいつか向き合う性の問題も、私に関わればそれもからかいの対象になるというのも普通だった。生理になった時にトイレまで後を付けてくるクラスメイトもいたぐらい。本当に気持ち悪くてたまらなかった。それだけじゃなくカバンの中を物色された事もあった、きまって生理の日に。スポブラにしても生理にしても女として産まれればどこかで向き合わなければいけない問題なわけであり、それがただ早いか遅いかの差だろう。それが少しでも早い、クラスでも生理が来ない女子がいればそうネタにされてもおかしくないのか?そもそもネタにしていた女子は今それをどう思うのだろう。わが子にも当たり前のように、武勇伝のように「ママはねぇー、こういうクラスメイトがいてある日スポブラしてきたんだけど、背中をこうしてあげてたの!」とでも語るのか。そう考えると失笑ものだ。恐らくだが彼女らは誰かに恥ずかしい思いをしてもらうことが実は自分にとって照れ隠しになる場合や私もいつかそうなるの?という不安感を和らげるものなのだろう。たとえそうであっても恥ずかしい思いをした側からすればただただ迷惑でしかない。ブラなんざいつかはするものである、だからこればっかりは不可抗力。それをこうしてからかいの対象にするとは本当に迷惑であり人権侵害であると今でも考える。

このような性に対しての嫌がらせは女子からだけではなく、男子からもあったのだ。ある放課後にその事件は起きた。自分をいじめていた主犯格の男(クラスメイト)に放課後の教室に一人でいるところ狙われて脅された挙句、(最初は制服の上からだったが)制服の下に手を入れられて胸を揉まれた。それだけじゃなく、奴は事もあろうか私を押し倒してきた。奴は私の口を手で押さえようとしたが、そこで恐怖のあまり私が声をあげたところで奴は逃げた。奴が逃げた後私はしばらく放心状態だった。一体何が起こったのだろう?今のは現実?一体何をしたかったの?本当に混乱した。そしてしばらくして状況が読めてきた、奴は私にいかがわしい事をしようとした!そう思えた私は気分が悪くなり、着衣も乱れたままその場で暫く泣いていた。それから私は長期に渡って異性を極端に嫌がるようになった、男そのものが気持ち悪いとも思っていた。教室で同じ空気を吸うことすら嫌悪感があった。しばらくは男子とは話をしても決して目を合わせることもなかった。とりあえずその時は体を触られただけで済んだが、心の傷はしばらく癒えずにいた。

実はこの主犯格の男、この事件の前から私を舐めるように全身を見ては「お前、胸でかいなぁ~」などと言ってきてはしばらく人の胸ばかりを見るなどの異常な行動があったのだ。胸をずっと見ていたことも、押し倒されたこともさすがにこればっかりは恥ずかしくて誰にも相談出来ないし言えない・・・、たとえ母親でも親友でも!どうしたらいいの?!とそればっかりが頭の中をグルグルしていたことを覚えている。しばらくフラッシュバックに苦しんでいた。

 

この後しばらくしてクラスメイトのある男子が同じクラス内でのいじめを原因とする不登校となった。担任は毎日のようにその男子の家を家庭訪問するが暫く学校に来ることは無かった。そんな中、私も男子からの暴力に耐えられなくなり、とうとう母に傷跡を見せることに。太ももや背中に数十箇所の痣が出来ていた。ずっとそれを隠していたが、この日初めてそれを見せたのだ。いつもなら「お前が悪い!バカだからどこに行ってもいじめられる」などと理不尽なことを言う母だがこの日ばかりは「一体どこの誰が・・・」と怒り心頭だった。

帰宅後、兄も含めて事情を聞かれる。そしてその後母が学校へ電話をして担任と話をしたのだ。そしていじめの首謀者の名前を言い、私が今どんな状態なのかも話をした。ここでも私は「もう本当に学校に行きたくない!転校したい!」と言っていたが、母は不登校を認めてはくれなかった。ただ、学校との話し合いの席では「転校も考える」ことは担任に伝えた。当時の私の中学ではいじめはそんなに重大な問題として扱わなかったのか、話し合いも担任と母が電話でというものだった。そして翌日、学校に行くと担任が私を別室に呼び出して事情聴取を始めた。前記の「野良部だから係や雑用をやるのは当たり前」のような態度は無く親身になって話を聞いてくれたことは今でも覚えている。いじめの経緯や誰が何をしたのかなど、詳しく話を聞いてはノートにそれを書き込んでいた。そして私はここでも

「もう学校に来たくない。明日からでも学校やめたい(義務教育だから退学は無理だが)。いじめが無くならなければ学校になんて行かない!」

と担任に伝えた。だが担任は「高坂さん、君まで不登校になっては困る」と言った。それはどういう意味なのだろう、恐らく当時既に1人の不登校がクラスで出ていたこともあり、2人になったら先生の立場も危うくなる、という感じだったのだろう。先生の立場からすればクラスで2人も不登校が出ればというものはあったのではないか、だがそんなものは私には全く無関係。むしろそれをいじめ無くして「不登校になんてならないで」だったら本当に腹が立つ。そのようにも取れるが、私が望んでいたのはいじめがなくなってくれればそれでいいというものだった。だがそれも一筋縄ではいかないものだった。完全にいじめは無くなりはしなかったが、中学2年、3年になっても私をいじめていた奴らが私を見つけては誹謗中傷などは普通に続いた。それがクラスが違う人間であっても。

中学2年になってからは、同じクラスのある男子からしょっちゅうちょっかいを出されるようになり、心底気持ち悪いと思ったこともあった。そんな中学校2年生のある日、私はクラスの友人と日本史の宿題の話をしていて友人が分からないところを教えていた。教科書を開いてそして自身が板書したノートを友人に見せながら説明をしていた。ちょうどその時、同じクラスの不良の男子がいきなり私の髪を掴んで私を席から引き摺り下ろしたと思ったら、いきなり無言で私の右側の脛を思いっきり数回蹴り上げたのだ。私はあまりの激痛でその場にうずくまってしまい、その後のことはあまり覚えていないが友人数名がその加害者である不良男子を取り押さえていた。そして奴は職員室に連れて行かれ、私は別の友人に保健室に連れて行かれた。蹴られた場所は赤く腫れ上がっており、脚を動かすたびに激痛が走っていた。保健室の先生は病院に行くことを私に勧めてくれたが、私はそれを頑なに拒否した。というのもここでこれが両親に知れたらまた面倒なことになるだろうと思ったからだった。私も怒られるし(怒られなくとも両親の怒り狂う顔を見たくなかった)、それよりも母親が学校に怒鳴り込んでくることも想定できたから。ただ今思うと加害者は当時既に14歳だった。だから少年法を適用することも出来たはず、だったら当時の法律でも刑事事件として立件も可能だっただろう。警察に被害届を出さなかったことを今でも後悔している。この時私が親に全部話して警察に被害届を出していれば、加害者は間違いなく審判にかけられていただろう。そして場合によっては塀の中に。なのに私が選んだもの・・・「周囲が怖いから泣き寝入り」という情けないもの。

後にこの時の激痛は、実は陥没骨折だったことが判明する。それが自然治癒して私の骨には骨折の痕として残っていた。

 

成人してから膝を傷めて整形外科へ行った時の検査で判明したことだった。先生より

「骨折の痕がありますけど・・・、過去に骨折してますよね?」

と私に確認してきた。そして私は骨折して病院にかかったことは無いが、中学二年の時に・・・と前記の話をしたのだ。すると先生は

「なぜそんな事をされているのに相手を警察に突き出さなかったのか?立派な暴力事件だろう・・・。それにすぐに病院で治療しなかったことが信じられない。ずっと痛かったでしょう?」

と言っていた。先生は続けて私の脛のその凹んだ部分を指して

「ここを触ると・・・ほら、凹んでいるでしょう。これが陥没した部分」

と説明してくれた。無論今でもその患部はきれいに凹んでおり、外から触っただけでもすぐに分かるのだ。

加えてその加害者は私に以前からいろいろとしてきていたのだ。たとえば体育などで教室を離れた時に机の中のものを全部取り出してそこに教室の前の水道にあったクレンザーをかけて更に筆箱の中にクレンザーを大量に入れていたなど、本当に人間性を疑うことばかり。この件では一度学級で話し合いを持った。あまりにもひどい現状に私はもう耐えられなかったから。それと同じクラスの仲の良かった友人や他のクラスにいた私の友人たちが担任にちゃんと学級で話し合いをするべきと掛け合ってくれたのだ。その学級での話し合いは学級裁判のような状態になった。加害者であるその不良男子は「あいつ(私のこと)は演技をしている!今までも演技をしているくせに、人を悪く言いやがってむかつく」などと意味のわからない言い訳をしてきたのだ。挙句、私が奴に蹴られてケガをしたことも、机の中のものにいたずらされたことも自作自演だとでも言いたいのか、それすら演技だと言い放ったのだ。本当に腸が煮えくり返る思いだった。だが本当に奴は哀れだとしか言い様が無い。いかにも「喧嘩が強い奴が本当に強い」とでも思っている本当に弱い人間なんだな、と思えてきた。

 その後も面倒なことは多々あったが、友人の助けもあって何とか耐えられた。馬鹿は馬鹿だと割り切った。それに「部活に行きたいから学校へ行く」と考えるようにしたところ、不登校にならずに済んだ。

 

高校に入学してからはいじめは無かった。ただ、ほぼ女子高(私の在籍していたクラス43人中男子は10人のみ)ということもあり、自然と女子生徒の中にスクールカーストのような構図が出来上がり正直それすら面倒だと思っていた。さすがにいじめとは言いがたいものではあったが、クラスメイトの誰かが浮名を流そうものなら同クラスのスクールカースト上位の女子たちから寄ってたかって根掘り葉掘り話を訊かれ、彼女らからマスコミのように連日追い回されるという本当に面倒なことが付いて回ったものだ。私も何度も狙われた。高校2年のある日、同じ英会話スクールに通う進学校の男子と一緒にいたところを目撃されていたのだ。私はそんな事も露知らず翌日学校へ行って友達を何気ない話をしていたり、マンガの貸し借りをしていたところで、その一件を目撃したという女子数名が私の周りに集まってきて「高坂ー!あのさぁ、昨日○○高校の男子と一緒にいたでしょ?見ちゃったんだ・・・、っていうかアンタ達どんな関係?」「もしかして、付き合っているの?」など、本当に芸能人を追い回すマスコミのように私へ質問攻めをするのだ。当時私は彼とは付き合っているわけではなく、ただその日は英会話スクールで資格試験があったこともあり、偶然居合わせた彼と試験後にバッタリ会ったことも重なってスクール近くのカフェで試験の感想を話したり、スクールの宿題や課題の話をしていただけだった。それに私は彼に好意があったわけでもなく、信頼できる同期や同僚みたいな関係だと思っていた。ただ一緒にいただけで普通に噂になる、その噂に尾ひれが付いて出回る、勝手に私たちの関係が進展してしまうなど、本当に面倒だった。この彼とは後に付き合うことになるが、それはそれで私たち当事者同士よりも周りが面倒だった。付き合った途端にそれは周りが勝手に盛り上がる、行動を監視される、跡をつけられたこともあった。月曜日に学校へ行くと必ずと言っていいほどスクールカースト上位のクラスメイトたちから「週末は会っていたのか?」などというインタビューまで受ける始末。それからもっとひどいのが、他の学校の知り合いにまで話をもって行っては騒ぎ立てるなど、当の本人たちからすれば本当に迷惑極まりないものだった。結局彼とはこの周りの騒ぎの酷さにうんざりして別れることになってしまった。

恋愛話での周りの勝手な盛り上がりは決していじめではないだろうということを頭では理解できても、その話が過熱してしまい本人の知らないところで有りもしないような話に発展して冷やかされてしつこく追い回されることは結局いじめにも繋がりかねないだろうと私は未だにそう思う。

 

恋愛話に関しては本当に迷惑なものが続いていた。特に中学の頃は。

私は中学生当時親から既に恋愛禁止令を敷かれていた、理由は「恋愛ばかりしていたら受験に響くから(この理由自体問題だが・・・)」。恋愛禁止令をしかれなくても正直同じ中学に心を許すような男はいなかった。むしろ私にとっては恋愛対象外だった、というのも周りを見渡せば下品な男、ウ○コだのチ○コだのを連呼するような下劣でバカな男、しつこく女子に付きまとうしつこい不気味な男、自分たちと何かが違うとすぐに悪口を叩く女々しいバカ男、自分にただ酔っているだけのナルシスト、それ以外は不良ばかりだった。そんな周囲にげんなりする以前に「くだらない」とも思える。そんな男ばかりじゃ正直こちらも恋愛する気なんて起きない。むしろ付き合おうものなら自身の品位が下がるだろうと思ったぐらいだ。だから恋愛対象の男など本当に皆無、そんな私にある日突然色恋話が出てきてしまったのだ。

友人のアスカ(「友達選びは全てご自身の責任で行いましょう」参照)から突然「あのさー、私ちゃんって○組の○○と付き合ってるんだって?」と突然訊かれたのだ。私はそのアスカの言う男子のことは中学校1年の頃に同じクラスだった為に当然知っていたが、正直私の中では「嫌い」のカテゴリに分類されていた奴だった。それに親しく話しもしたことは無い。そんな関係なのになぜ色恋話に発展するのか?とわけが分からない状態になっていた。が、その翌日、アスカが勝手に学年中にその話を広げてしまったのだ。その後は暫く毎日が憂鬱だった。それに追い討ちをかけるようにアスカは「私が話を広めると、すぐに学年中に広がって面白い!」と人を小ばかにしたように話をするのだった。おかげで部活でも私生活でも私は本当にその場に居づらかった。そうこうしているうちにその噂もすぐに無くなったが、今度は同じクラスのある男子が私のことを好きだとアスカが勝手に話を広めてしまった。この男子は私に事あるごとにちょっかいを出してくるという面倒な男だったうえに顔も対してかっこいいわけでもないので眼中に無かった。それなのに、ちょっかいを出されていることをいいことにアスカは勝手に話を作り上げて噂話として広めてしまった。これはこれで本当に厄介だった。なぜ事実と違う話がこうして出来上がって勝手に広がる・・・、今考えても本当に不快である。当時のアスカは私という存在が本当に気に入らなかったのだろう。同じ部活に入部してきて顧問の先生や先輩に気に入られて、おまけに入部間もなくピアノの楽譜めくり(ピアノ伴奏は部長)という大役を任されたことやいきなりのオーディションでコンクールのレギュラーメンバーの座を勝ち取り、レギュラーメンバーに選出されたことへの嫉妬は少なからずともあったのだろう。だが嫉妬も時にはいじめに繋がる、その時そう感じた。

 

【参考】

いじめであっても場合により以下のような犯罪となりうることがある。

暴力をふるってケガを負わせた場合 → 傷害罪

暴力をふるった場合 → 暴行罪

怖がらせて言うことをきかせたり、金品を強要 →脅迫、強要、強要未遂罪

相手を脅して金品をせしめる、せしめようとする → 恐喝、恐喝未遂罪

人のものを奪ったり隠す → 窃盗罪および器物損壊罪

人前で馬鹿にする、侮辱する → 侮辱罪

相手に対してわいせつな行為をしたり、しようとする → 強制わいせつ、強制わいせつ未遂罪

相手を誹謗中傷して相手の名誉を傷つけた → 名誉毀損

相手を陥れるために嘘の告訴をした場合 → 虚偽告訴の罪

いじめ行為でPTSDになるまで精神的に追い込んだ場合 → 傷害罪が適用される可能性

上記の他暴力などにより人を殺せば殺人罪も適用される。

綿飴屋ごっこでケガをした話と心配をかけた話、そして微笑ましい話

本当に毎日平和な長屋生活をしていた2歳の時、私は家の脇の砂利道で三輪車ごと転んでしまい、唇を切るケガをしてしまった。この日も裏の家の友達兄妹と三輪車や自転車で遊んでいた。兄も一緒に自転車に乗って遊んでいたのだが、しばらくすると自転車に乗って遊ぶのに飽きてしまい、みんなで三輪車をひっくり返してペダルを手に持ってグルグル回して遊ぶのに夢中になっていた。後に他の地方出身の友人に聞いた話によると、それはどこでも普通にやっていた遊びであり、呼び名も「芋屋(福島県会津地方)」とか「焼き芋屋(宇都宮周辺)」、「石焼き芋」、「わたあめ屋」、「カキ氷屋」などバラバラではあるが普通に存在していた全国的な遊びのようだ。

(注:この遊びについて後にネットで確認したところ、昭和30年代から40年代あたりに登場した模様であり、呼び名もバラバラ。だが遊び方は基本的に同じである)

ちなみに私たちの周辺でこの遊びは「わたあめ屋」が主な呼び名だった。そしていつも三輪車を持って子供たちが集まっては三輪車をひっくり返してペダルを持ってグルグル・・・と当たり前のように遊んでいた。

 

そんなある日の出来事、わたあめ屋遊びをしていた私と兄がバランスを崩してペダルを持ったまま前方に転んでしまったのだ。転んだ途端、私たち兄妹は唇から出血をして大泣きをしていた。泣き声を聞いてすぐさま母が駆け寄ってそのまま近所の外科医院に連れて行かれた。病院に到着して麻酔を打たずに傷口は縫合された。三輪車で転んだ瞬間はなぜか覚えている。その後のことは後に母から聞いた話であるが、実に痛い話である。それを裏付けるように私の下唇には今でも当時の傷跡がクッキリ残っている。幸い唇の裏側を切ったので、顔側に傷跡は無い。

 

これ以外にもケガをしても楽しく遊んでいた記憶はたくさんある。大家さんの家の庭や長屋の通路の砂利道をレース場のようにして子供たちが三輪車や自転車で暴走する、子供たちによるマラソン大会なども日常茶飯事であった。そして大家さんの家の庭だけでは足りず、近くの沼や田んぼにザリガニ取りに行ったものの、兄が泥濘にはまってしまい長靴が脱げてしまい、田んぼに足を突っ込んで泥だらけの足のまま家に帰って母に怒られていたこともあった。

時には熱を出していても家を抜け出してみんなと一緒に遊んでいた子もいたぐらい。そして母親に見つかって怒られて家に強制送還される。それから今思うと危険なことだが、水疱瘡や風疹になった子供が一緒に遊んでいたこともあった。こちらも言うまでもなく見つかって強制送還。とにかくこの頃の私たちの遊びは本当に楽しいものばかりであった。風疹といえば、我が家で父以外全員風疹に罹患してしまい父を置いて母の実家に行っていたこともあった。

 

そんな中、当時3歳だった私は警察のお世話になったそうだ。ある日母や兄と近所の子供たちで自宅から少し離れた公園へ遊びに行った。砂場も遊具もある広い公園で、私たち子供は本当に楽しく遊んでいたものだった。帰りの時間になってもなかなか帰ろうともせず、母が無理矢理手を引いて家に連れ帰ったぐらいである。

それから数日後、私が自宅からいなくなった。靴も無い、庭にあったはずのスコップも無い、自宅周辺を探し回ってもどこにもいない、そこにちょうどパトカーが通りかかってそれを見た母が警察官に私がいなくなったと伝えた。そして警察も巻き込んで捜索開始。警察官は前記の公園付近も見てくれたそうだ。その後例の公園の砂場でひとり遊んでいるところを無事に発見されたというのだ。

この結果、私は大きくなっても母にずっと

「あんたはねぇ、公園にひとりでスコップを持って遊びに行っちゃっておまわりさんのお世話になったのよ」

と言われ続けた。さすがに3歳頃の私が起こした騒動なので全く覚えていない。母の口からこの話が出るたびに私は母の前で笑うしかなかったのだ。ちなみに自宅と公園の距離は2~300メートルほどでそう遠いわけではないが、大きな道路を渡らないといけない場所であるため、自宅からそこまで何も無く着いたことは今でも本当に信じられない。

 

その数日後、今度は近所の子供たちと一緒に私はまたやらかしたのだ。この日はとても暖かい晴れた日だった。いつものように私たち兄妹と近所の子供たちは家の外で元気に遊んでいた。砂遊びをしたり、三輪車を走らせたり、わたあめ屋遊びをしたりと何一つ変わらないものだった。そして裏の家に住む兄妹の兄の方が同じ団地内の近くの家の縁側で子供に授乳させているそこの家の母親を発見したのだ。彼の家もそこの家とは普通に親交があったので、またそこの赤ちゃんと遊ぼうと思っていたと私は感じた。事実いつもそこの家の赤ちゃんがいれば普通に遊びに行っていた。

だが、この日の彼は赤ちゃんと遊ぼうというものではなく赤ちゃんに授乳する母親、いや赤ちゃんが何を飲んでいるのかが気になったようで授乳中のお母さんに近づいて何か話をしていた。そしてそれに続いて彼の妹や私たち兄妹、近所の子供数名がぞろぞろとそこに続いて赤ちゃんに授乳するお母さんの元に行った。そこで何を思ったのか、子供たちは列を作ってそのお母さんのおっぱいを吸い始めたのだ。私もそこにいた。そしてみんなで

「○○さんちのお母さんのおっぱい、カルピスの味がするー!」

などと無邪気にはしゃいでいたところで私の母に発見されて全員我が家に強制送還されたのだ。その後母からこってり油を絞られたことは言うまでもない。母から見ればそれは本当に奇妙な光景だっただろう。わが子に授乳するはずが、何故に近所の子供たちにも?という・・・。冷静に考えれば幼稚園児や幼稚園に入るか入らないかの小さい子供が子供に授乳している姿を見れば、赤ん坊が何を飲んでいるのか気になる、ぼくたちもそれを・・・となっても何ら不自然ではない。子供なら気になるのが当然だろう。だがそれを見たうちの母は本当に驚いたことだろう。その後母はそこの家のお母さんに一生懸命謝罪していたのを覚えている。

 

それから同じく私が3歳の頃に、母の運転する車のドアから転げ落ちたことがある。この日は普段バス登園の兄を幼稚園に迎えに行くというので私は母が運転をする車に一緒に乗り、兄の幼稚園に向かった。当時母が乗っていた車はお世辞にもきれいな車とは言えないものであり、後部座席の床の一部には穴が開いていたぐらいだった。軽自動車ではないものの、本当に小さな車だった。今思うとそのような車に子供が数名乗ってということが信じられない。そもそもチャイルドシートも義務化されていない時代だったので、後部座席に子供が数名なんて普通によく見かけたものだった。

そして母の車が幼稚園に到着、兄と近所の子供数名を車に乗せて帰宅することになった。前記のとおりチャイルドシートが義務化されていない時代だっただけに、後部座席はすし詰め状態に。兄は助手席に座り、近所の子供たち数名が後部座席に座っていた。もちろんシートベルトもしないで。そして座れなくなった私は左側の後部座席ドア付近に立って乗ることに。そして幼稚園を出発、ご近所に車を止めて母はそこに住む子供を車から降ろし、ドアを閉めて自宅のあるあたりに向かったのだ。車にはまだ子供が乗っていた。そして裏の家近くに車がさしかかったところで、私のいたところのドアがいきなり開いて私は車から転げ落ちた。誰かがドアを開けたわけでもなく、そのドアがいきなり開いて私は砂利道を転がって行った。幸い母の運転する車のタイヤの下には転がり込まず、逆に転がって行ったおかげで車に轢かれることは無かった。

友達選びは全てご自身の責任で行いましょう

友達はたくさんいる・・・と言いたいところだが、実はそうでもない。

正直幼馴染と言える友達はたくさんいても、胸を張って「小さい頃からずっと仲良しです!」と言える友達は片手で数える程度である。大きくなればライフスタイルも変わるわけで、付き合う友人も変わるのが自然だと私は考える。

そんな中、母は常に私の交友関係も把握したがり、私と仲良くしている子を見ては常に「どんな子なの?」と私に尋問するのである。優等生でお勉強の出来る子と私が仲良くすることを望んでおり、無理にでも「優等生」と呼ばれるような子と私をくっ付けようと躍起になっていた。だが私はそんなものは望まず、とりあえず気の合うクラスメイトを友人とすればいいと考えていたが、母はそれを気に入ることはなかった。たとえば相手の家柄や相手の親と母自身との仲が良いか、勉強が出来る子かなど・・・。母自身の中にそのようなチェック項目がありそのチェック項目に該当するものが多いクラスメイトほど私の友人として相応しいという結果になっていた。反対にチェック項目に該当するものが少ない場合は「娘の友達として相応しくない」という結果になり、私がその子たちと付き合いがあろうものなら「あの子とは付き合っちゃだめ。あの子はね、家が貧乏で・・・」「家柄がよくないから」などから始まって、「親が外国人だから」「暗い性格だから」付き合っちゃだめなどと耳を疑うような理由が付いてくるのである。こちらも成人してからも続くのであった。

言うまでも無くいくらクラスの中で「お勉強の出来る子」と認定されているような子であっても私と気が合うかといえば、みんなそうではない。こればっかりは相性の問題である、当たり前だが。しかし母にはその当たり前の理論が通じない。優秀な子とお友達、ウチの娘は優秀♪とでもなっていたのだろう。

 

幼稚園の頃の話。とりあえず気の合う友人は何人かいた。その中にひとりだけ男友達(以下ミツル君)もいた。ミツル君の母親は大手生命保険会社の外交員をしていたこともあり、母もそこの保険に入っていたため彼女は何度も我が家に来ていた。そこでいつも一緒に来ていたのがミツル君。私が幼稚園で他の男児から意地悪されていても何故かミツル君だけはいつも私に優しかった、そして家に彼が来た時もよく一緒に遊んでいた。一緒におやつを食べたり、庭や近くの空き地や公園で遊んだり、親同士が保険の話や世間話をしている間はそんな楽しい時間が過ぎていったものだ。母はミツル君のことは気に入っていた、恐らく親同士の付き合いもあるからだろう。彼のお母さんはとても頭もよく、物腰の柔らかい人だった。それもあってか私の母のチェック項目に該当するものも多かったのだろう、今となればそう思う。我が家に来ていた幼稚園時代の友人は他にもおり、一度だけミツル君家と一緒にもうひとり別の男の子(以下キミアキ君)が彼のお母さんと一緒に我が家にやってきた。だが、私はキミアキ君とはそんなに仲が良いわけではない。理由もなくキミアキ君は私を避けて意地悪をしてからかうからだ。キミアキ君とは小学校、中学校と同じだったが一度も仲が良かったことが無い。が、私の母から見ればキミアキ君も聡明な子であった為に私の友達として相応しいと思っていたようだ。だが実際はそんなに仲が良いわけでもない。母はしきりに「キミアキ君とも仲良くしなさいよ!」と私によく注文を付けてきた。だが母の思いとは裏腹に、私とキミアキ君が仲良くなることは無かった。一方ミツル君とは小学校4年生まで一緒だった。幼稚園の頃から親同士が仲が良いこともあってか、私たちも仲良しだったことも相まって親公認の仲になっていた。だがやはり私とミツル君は男児と女児、小学校に入れば自然と男の子は男の子グループ、女の子は女の子グループに別れるもので、幼稚園の頃と比べて一緒に遊ぶ回数は減っていた。だがやはり親同士が保険関係でつながりがあることもあり、学校が終わった後にミツル君は我が家にお母さんと一緒に来ることがよくあり、その度に遊んでいた。反対に私がミツル君の家に遊びに行くこともあった。家は少し離れていたが、なぜかよく遊んでいた。学校でも休み時間になって外に遊びに行った際に彼に会うと一緒に遊んでいた。だが私たちが小学校4年生の頃、彼が同じ市内ではあるが、違う学区に転校してしまったのだ。

それから幼稚園の頃から高校までずっと一緒だった幸子(「いじめ」の項にも出てきた子)も、母から見れば「私の友人に相応しい」子だった。とても優秀な子で、幼稚園の頃から書道、ピアノ等の習い事をずっとしており、母の目から見れば「この子と仲良しになってほしい」となったのだろう。彼女ともよく一緒に遊んだ。お互いの家を行き来したり、幼稚園でもよく一緒にいた。だが母の思う幸子は後に私にとんでもないことをしてくるなんて思いもしなかっただろう。小学校に入り、幸子と私は1、2年生の頃はクラスが別だったが、3年生から6年生までクラスが一緒になった。小学校に入って母もPTAの役員をよく引き受けており、幸子の母親もPTA役員だった。そこで親同士がお互いに意気投合したのか、そこでも勝手にお友達に認定されてしまったのだ。小学校に入って同じクラスになってから思ったことだが、幸子は実はあまり性格のいい子ではなかった。自分よりも弱い立場の子を見つければすぐに扱き下ろしたり、使いっパシリにしたりするので、周りに幸子に対していい印象を持つ子はあまりいなかった。それなのに親同士が仲良しなだけで私たちも勝手に仲良しになってしまっており、私は苦痛でしかなかった。確かに幸子は優秀ではあった、成績は。だが、性格があまり良くない。そこで私は全く別の友達と仲良くしていた。仲良しグループも幸子と私は別だった。私は3年生の頃から同じクラスになった別の女の子や、その年に新潟から転校してきた女の子と出席番号も近くて席が近いこともあってか仲がよくなった。このグループ内でよく交換日記をしたり、休み時間になると校庭に行って鉄棒をしたり、教室の中で絵を描いて遊んでいた。幸子たちも幸子たちで彼女らのグループ内で遊んでいた。

だがある参観日の日、私が幸子とは別の友達と仲良くしているところを母に目撃されてしまい、帰宅するとすぐに「なぜ幸子ちゃんと遊ばないの?仲良しでしょ?」から始まり、「お母さんは幸子ちゃんの方が好きだな~。だってお勉強もピアノも出来て、字もお上手だから!」と幸子を褒め称える言葉が出て、その次になって「今仲良くしている子、お母さんあの子知らないから仲良くしないで!あの子たちのお母さんの事だって知らないんだから」と私の友達を貶す言葉まで出てくる。母は確かに幸子がお気に入り、だけど私は幸子が好きじゃない。事件はその後私が小学校6年生の頃に起きたのだ。

4年生の終わりごろから幸子は私に急接近してきた。その頃から幸子は友達を脅したりするようになり、教室ではいつもお姫様状態になっていたのだ。クラス内で班を作った時にはいつも仕切る、気に入らないとすぐ脅す、拗ねるなど、元々あまり性格がいいとは思っていなかったが4年生になってからますますひどくなり私は幸子が嫌いになった。前記のミツル君も幸子のことが好きではなかった。後年彼と再会したときにも「俺さぁ、石川さん(幸子の苗字)苦手なんだよね。何ていうか、その・・・。すぐに威張るところとか・・・。はる香ちゃん、あんな石川さんとよく一緒にいたよねぇ」と言っていたぐらいだ。周りにも幸子が苦手という子がちらほら出始まっていた。そんな中、ちょうどそろばん塾に通うことになった私。そろばんを習うと仲良しの友達に話をしたところ、幸子がそれを聞きつけて「え?私ちゃんそろばん習うの?私もやってる!それでさぁ、私紹介してあげるから入ろうよ!」と私を突然勧誘してきたのだ。幸子のそのいきなりな行動に私は戸惑った。間髪要れず幸子は「だってねぇ、友達を紹介すると私ご褒美がもらえるんだー!やったー!!」などとひとりで舞い上がっている。その後親が勝手に契約をしてそろばん塾通いが始まった。同時に幸子が私をそろばん塾に紹介するということで。無論幸子を気に入っている母は大喜び。やはり幸子と私が一緒にいることが母にとって嬉しいのだろう。

そんなある日のこと、幸子は私に「あのね、学校に飴を持ってきちゃいけないって知ってるよね?けど、私そろばんの日に飴食べたいの。だって帰るの遅くなるし。だからはる香ちゃん、持ってきてくれない?ずっと友達でしょ?」と私に飴を持ってくるように持ちかけた。実は私たちの通うそろばん塾は学校が終わってそのままそろばん塾に直行する児童がほとんどであり、そろばん塾の道具を学校に持っていくのは普通だった。それを知ってか、飴を持ってこいなどと言い出す幸子・・・。

その翌週、私は飴を持っていかなかった。すぐに幸子にそれを知られ

「ちょっと!何で嘘つくのよ!私ちゃん来週飴持ってくるって言ってたでしょ?最低!もう口聞いてあげないんだから!」

と彼女に怒られた。私はそんな約束などしていない。それなのに勝手に約束をされたことになっている。無論それを否定すると彼女は

「じゃあ『はる香ちゃんは嘘つき』だってクラス中に言いふらしてやる!」

と今度は私を脅し始めたのだ。仕方なく翌週私はそろばん塾に飴を持って行き、幸子に渡した。飴を受け取った彼女は

「やったー!嬉しいんだけど!このことは内緒にしておいてあげるね!だって私たち、幼稚園の頃からの友達でしょ?」

などと友達アピールをしながら恩着せがましいことを言い始めたのだ。それから毎週のように幸子からは飴を催促された。だがある日1日だけ私が飴を忘れただけで、幸子はクラス中に私が学校に飴を持ってきていると言いふらしてしまい、私は先生に怒られ家には先生から連絡が行ってしまった。私は当然のことながら両親にも先生にも幸子に脅されたことを言ったのだが、誰一人信用してくれず母に至っては

「まぁ!幸子ちゃんのせいにするの?あの子は頭の良い子でそんな事をするはずがない!」

と言い出す始末。挙句

「幸子ちゃんがお勉強できるのが嫌なの?それとも幸子ちゃんじゃない子と仲良くしたいの?だからって嘘をつくなんて、お母さんはる香のこと嫌い!」

と。母から見たら娘はどっちなの?と頭を抱えてしまったぐらいだった。担任の先生も先生で私の言い分など何も聞かず、幸子を擁護する。やはり担任の先生も

「お勉強できる子はそんな事するはずがない。はる香ちゃんはお勉強も出来ないし、クラスにいても特に目立たないし、だからそういうことをしても分からないと思ったの?」

と思い描いていたとおりの発言をした。

 

これだけではなく彼女とは小学校5年生6年生とクラスが同じになってしまった。そんな中恐れていたことが起きてしまったのだ。幸子は6年生になってからも私に物をせびり、断られると脅すようになった。ある日彼女は私に自身の誕生日プレゼントをせびるようになった。私はあげたくなかったが、彼女はお約束どおり

「ねぇはる香ちゃん。私たちお友達でしょ?だからもちろん私の誕生日プレゼントくれるよね?くれなかったらどうなるか分かってるよね?」

と友達アピールと脅しをセットでしてくるのだ。本当にタチの悪いものである。

私は散々悩んだが仕方なく安物のタオルをプレゼントしてあげた。

だがそのタオル、実は誕生日プレゼントをせびられた数日後の土曜日に従姉妹と偶然行った学区外のスーパーで買った見切り品(微妙なシミの付いたもので通常価格で売れないために値下げされてワゴンに乗せられて売られていたもの)のタオルである。ここから私の無言の仕返しが始まった。私はそのタオルを状態の良い使い古しの包装紙で包んで幸子に渡してあげた。心の中では

「うふふ・・・これでもプレゼント、私たちお友達だもん!だから心を込めて包んであげようっと♪(ここで言う「心を込めて」というのは今までの恨み辛みのどす黒い思いをたっぷり込めてという意味)」

と呟きながら私は使い古しの包装紙でプレゼント用に買ったタオルを包んでいった。それは本当に面白く、復讐をしている気分で心底「幸子って本当に可哀想~」と思いながら微笑を浮かべていたものだ。

そして彼女の誕生日。私は彼女にその恨み辛みの篭ったプレゼントを手渡す。彼女は私のどす黒い思いに全く気づくことも無く「やったー!はる香ちゃん本当にありがとー!!」などと滑稽に見えてしまうぐらいに喜んでいた。その姿を見て私は心の中で

「汚れのついた激安品でもお誕生日プレゼントだよ。お友達だもんね~♪あ、包装紙も中古品だから!愛情が篭っていればいいでしょ?だってお友達だもんね~、アハハ・・・」

とそのプレゼントを受け取って喜ぶ幸子の後ろ姿に呟いた。散々人を振り回した彼女にした最初で最後の心の篭った仕返しだった。帰宅して私は母に幸子にプレゼントを渡したと報告した。母は私のどす黒い思惑の事など露知らず

「あら~、お誕生日にプレゼントあげたの?はる香って本当に偉いねー!」

などと、こちらもまた滑稽な展開となった。母の後姿にも私は

「値下がり品の汚れのついたタオルで包装紙も中古だけどね・・・」

と母の後ろ姿に呟く。ここで分かったことは、母も学校の先生も勉強できるイコール頭がいい、頭が良い子は悪いことなんてせず、みんなとお友達ということだった。母に関してはどんなに悪いことをする子でも頭が良い子とお友達になればいいというものだ。子供にとってそんなものは正直迷惑である。

実は小学校5年生の後半から、私は隣のクラスの女児(以下アスカ)とひょんな事から友人関係となった。アスカは小学校5年生の中盤に私の通う小学校に転校してきた。アスカと仲良しになったきっかけはあまりよく覚えていないが、6年生になったら本当に同じクラスの仲間のように仲良しになっていた。休み時間のたびに「あら~、隣の奥様」などと言って奥様ごっこ(奥様ごっこと言ってもご近所の奥様方が井戸端会議をするような感じで話すなど)をしていたり、クラブ活動も同じものに入ろうね!と言っていたりもした。委員会は同じ委員会に所属し、1年間楽しく過ごした。中学に入ってからもよく一緒に遊んだ。

そんな中学1年のある日、私はアスカを家に招待して一緒に遊んでいた。母も最初はアスカを気に入ってくれていた。だが、何度か我が家に彼女が遊びに来ていたある日、部屋で私の財布が無くなったのだ。ほぼ同時期、同じ地区に住む友人(こちらはアスカと同じクラスの女子)の家でも財布が無くなったというのだ。彼女曰くアスカが家に遊びに来た後に財布が部屋から消えていたというのだ。私はアスカを疑うつもりなどなかったが、その同じ地区の友人は真っ先にアスカを疑い、絶縁してしまったのだ。幸いその日は別の財布にお金を入れていたので無くした財布には何も入っていなかったのだ。だが、それを聞いた母は

「まさか、アスカちゃんが盗んだとか・・・?絶対に盗んでる!昨日来ててあんたの部屋に入って遊んでたでしょ?」

と。真っ先に母はアスカを疑ったのだ。そして

「あの子をもう家に呼ばないで!」

とまで。正直私はアスカを疑う気にもならなかった。なぜならアスカが私の財布を盗った証拠もないし、犯行現場を見ていたわけでもない。だから疑うのは筋違いなのでは?と思ったから。それに人を疑うことに疑問を持っていたからだった。

母が何と言おうと私はアスカのことは大切な友達だと思っていた。というのも中学2年生になるときに合唱部に入ることに決めたのだが、それを反対する母を説得するのを手伝ってくれたこともあったからだ。それでも母は

「アスカちゃんとは付き合わないでほしい」

と私にずっと言い続けていた。その後部活に入った私は入部間もなく顧問の先生や先輩からピアノ伴奏中の楽譜めくりなどを任されるようになった。それが気に入らなかったのか、アスカは私をいじめ始めた。それを知った母はそこでも

「ほらやっぱりあの子はよくないよ!だから部活も辞めてあの子とも付き合わない方がいい!あんたもその方がいいでしょ?」

と私に言ってきたのだ。私はその時はアスカが同じ部活にいるから変に意識するわけでもなく、かといって部活内では部員である以上お互いパートは違えどライバル。だからアスカにいじめられるから、裏切られたからなどという理由で部活を辞めるつもりなんて無かった。音楽が好きで歌うことが楽しいと心から思っていたからだ。このあたりから母は事ある毎にしつこくアスカと付き合うことを止めるように言ってくるようになった。やはりここで母は私に前記のとおりの理由をつけて付き合いを止めるように言ってくるのだった。母曰く

「アスカちゃん家は市営住宅住まいでうちよりも貧乏だから」

「前にあんたの財布を盗んでおいて、それで今もあんたをいじめるくせに友達だって?」

「また泥棒するんでしょ?だからあんな子とは付き合わないで!」

「あの子は不良になる」

とのこと。私が誰と付き合おうと勝手だし、その頃には同じクラスにも親しい友人は何人もいたので、私は母が心配するほどでもないと考えていた。たとえ今後アスカと縁を切っても。母はまたしきりに同じクラスの友人を引き合いにだしてアスカと付き合うな!友達をやめろ!と言っていたのだ。ここまでくると、私も心底母にうんざりしていた。母を黙らせる方法、それは私がアスカと縁を切って部活も辞めればいいのかと思うようになってしまった。現にアスカは私と最初は仲良しだったが、同じ部活に入ってからは私をいじめるようになっていった。それにパートが違うのに

「声がでかい」

「そんなダミ声で歌っているあんたがレギュラーメンバーなんて納得いかない」

ジャイアンリサイタル

「とっとと部活を辞めろ!」

「2年から入部したくせに生意気!1年と同じことをやっていろ!」

「新米部員なんて2年でも1年と同じ。だからレギュラーと練習するな!課題曲講習会にも出るな!」

などといちいちいちゃもんをつけてくる。部活以外でもカバンを盗む、私物をゴミ箱に捨てる、悪口を言うなどの嫌がらせをしてくる。それは全て今思うと彼女の嫉妬だったのだろう、私は小学校低学年でピアノを辞めてからも独学でピアノを練習して腕もあげていたうえに、事実部活に入ることを決めたきっかけもアスカから声をかけられたからではなく、偶然通りがかった放課後の音楽室でピアノを弾いていたら合唱部顧問の先生が声をかけてくれたことだった。先生に見つかったときはさすがに「あ、やばい!怒られる!」と思ったが、その先生は笑顔で

「今の曲、もう一回弾いてもらえないかな?」

とやさしく言ってくれた。そして私はもう一度その曲を弾き始めた。ピアノを弾き終わると先生は私に

「あなた確か部活に入っていないんだっけ?そんなにピアノが弾けるのにもったいない・・・」

と言って続けて

「私、合唱部の顧問をしているんだけど、もしよかったら合唱部に入ってみない?・・・、って実は部員が少ないんだけど」

と。最初は部活に入ることをあまり考えていなかったが、そのうちに考えるようになっていったのだった。そしてアスカが合唱部にいることを知り彼女からの誘いもあって入部となった。

それでもアスカの嫉妬や怒りが収まることはなかった。だったら私はもう、部活も辞めてしまってアスカとも縁を切ろう・・・と考え始めたそんなある日、突然アスカがこれまでのことを謝罪してきたのだ。

当然のことながら私は彼女の謝罪を受け入れなかった。だがその後何度も謝罪するアスカ、何度も謝罪していた彼女を私は彼女を許すことにした。ただすぐに仲直りというわけではなかったが、とりあえず暫くは部活だけの付き合いにしようと決めていた。母はこれにも納得がいかずまたしても

「あんな形だけの謝罪、そんなものを易々と受け入れたあんたはバカだ」

などと私に文句を言う。そしてアスカとは紆余曲折あったものの高校、社会人、そして現在でも良き友人としてもライバルとしても関係を続けている。

一方、母は私が社会人になってもアスカとの付き合いがあることを良く思わなかったようだ。時には「あの女!ウチの娘に悪いことを吹き込んで」なとど妄想に満ちたことまで私に言う始末。本当にタチが悪い。母にとって私の友人というのは母の理想の友人でないといけなかったのか、今でもそれはよく分からない。私が高校の頃にも私の友達付き合いの件で何度も揉めている。クラスで仲良くしていた友達がいたのだが、参観日の時にその友人を見るや

「あの子は根暗そうだから付き合うのを止めて!アンタまで根暗になるから」

などと何の根拠があるの?という妄言をしてきたくらい。社会人になったらなったで今度は

「(保険屋に就職したばかりの頃)結婚相手はこの職場で見つけなさい」

などとも言ってきた。

 

ただ、私も母も気に入らない。寧ろ大嫌いという子が実はひとりだけいたのだ。それは則子(「いじめ」参照)という少女だった。彼女とは小学校3年生から6年生までは同じクラス、そして中学、高校と同じ学校だった。家は米屋を営んでいた。則子は周囲の大人から充分に構ってもらえていなかったのか、私にやたら嫌がらせをしたりするようになっていったのだ。小学校3年生で同じクラスになった頃はそうでもなかった。席も近くだったせいか休み時間などに宿題の答え合わせを一緒にしたり校庭で会ったら一緒に遊んだりもしていた。だがどこで則子はそんな歪んだ感情を私にぶつけてくるようになったのか、今でもよく分からない。少なくとも小学校4年生の中盤頃からそうなっていたのだろう。私が自身の友人とどこかにお出かけをしようと言うと、則子がその話を聞きつけては「私も一緒に行く!ね、いいでしょ?」と言い無理矢理私たちに着いて来ようとしたり、教室移動の時にもわざと付きまとってくるなどのむちゃくちゃな行動から始まり、それを嫌がる私たちに対して暴言を吐いたり嫌がらせをすることから始まった。最終的にはその嫌がらせの標的は私だけになってしまい、事あるごとに則子は私の私物を盗んで行っては隠す、秘密を無理矢理聞き出そうとしたりするようにもなった。それを問い詰めたり拒否をすると、今度はわざと私の傍に寄ってきて悪口を言うなどもしてきた。相手が則子ひとりだったら放置すれば済む問題だっただろう、だが則子にもいつの間にか味方が出来てしまい面倒になっていった。則子は平気で嘘をつく、人の悪口を言う、人によって態度を変える、自分よりも強いと思った人にはごまをするなど、本当にタチが悪い。そんな中、小学校6年生の頃のあるお昼休みに私は彼女にある復讐をした。

その日は給食が無く弁当の日だった。私は母に作ってもらった弁当を友人と食べていた。その時則子は彼女の友人数名と共に私のもとにやってきて、何も言わずに弁当箱の中の海苔巻きに手を伸ばした。私もとっさのことで驚いて

「ちょっと、何するの?」

と声をあげた。すると則子は

「だって美味しそうだったんだもん。ね、1個ちょうだい!くれるよね?私は特別だもん!」

と言ってまた海苔巻きに手を伸ばした。私は則子に向かって

「どんだけお前は無神経なんだよ!」

と彼女の手を掴んで応戦、彼女は私の手を振りほどいていきなり

「はる香ちゃん何するのよ!だってあんたが食べていいって言うから(そんな事一言も言っていませんが・・・)貰おうとしたんじゃない!」

と声を上げたのだ。

そこで私は則子が嘘を言ったことに腹を立てて自身の弁当箱から海苔巻きを一切れ手にとって彼女に差し出すように持つと、それをわざと床に落とした。そして、床に落とした海苔巻きを指して

「ほら食えよ則子。お前がこれを欲しいって言った。だからくれてやったんだ、ハハハ・・・感謝して食え!」

と彼女にそれを食べるように冷たく言い放ったのだ。彼女は最初はオロオロしていたが、彼女の傍にいた彼女の友人が私に

「ちょっと!はる香ちゃん何考えてんの?床に落としたものを食えって、則子のことをバカにしてるの?ひどい!」

と言うが、私は構わず

「人の弁当、勝手に取ろうとしてそれか?呆れるねぇ・・・。自分のもちゃんとあるのにね、ああ卑しいわぁ!気持ち悪いねぇ」

と静かに彼女たちに言い放つ。そして私は続けて則子の目を見て

「おい、食わねぇのか?あんなに欲しがってたくせに。・・・どうしてだろうね~」

と笑顔で言うのだ。すると則子は泣き出して廊下に駆け出したのだ。後に聞いた話だが、その一部始終を見ていたある男子数名が

「高坂の行動にびっくりした。お前があんなことをするような子だと思わなかった」

と言っていたそうだ。そしてその数分後に担任が来て私が怒られたのだ。当たり前だが「食べ物を床にわざと落とすなんて」と。

この件に関しては正直自分でもやりすぎた感じはあった。だが、私の行動は人の弁当を黙って盗ろうとするような卑しい彼女にはいい薬だと思っていたのだ。そもそも小学校高学年にもなって人のものを平気で奪って食べるなど怪しからん!以ての外だ!親のしつけは一体何なんだと思ってしまったぐらいだ。ついでに言うならモラルが無いのか?とも。この一件に関しては担任から私の母にも連絡が行き(あくまで被害者は私という風に先生は私の味方はしてくれていたらしい)、私は帰宅してから母にこっぴどく怒られた。だが母は則子のしたことの方が腹が立つと珍しく私の味方もしてくれた。母の言い分は

「いくら他の子のお弁当が美味しそうだからといっても、それを黙って盗るのはよくない。せめてお互いが納得する形でおかずを交換するとかそういうのだったらまだ理解できる。けれど、それを床に落として食えって脅すのもどうかと思うよ」

とのこと。加えて

「則子ちゃんは普段からそういうことをするのか?」

と私に訊いてきて、私がそうだと言うと

「あの子、何が面白くなくてうちの子にそういう嫌なことをするんだか」

と怒り出したのだ。

 

この一件以来、則子の私への嫌がらせはエスカレートした。私のランドセルに付けていたあるアニメのキャラクターのキーホルダー数個も彼女がある日盗んでゴミ箱に捨ててしまったのだ。私はその日帰宅しようとランドセルを背負おうとしたところでキーホルダーが無いことに気づいた。そのキーホルダー、本当に気に入って従姉妹と一緒に買い物に行ったときにお揃いで買ったものだったから無くなったということが余計に悲しかった。そこで私は帰り道で偶然会った則子とその友人に「ねー、私のランドセルに着いていた○○のキーホルダー、見かけなかった?ちゃんとランドセルに付けていたんだけど無くなっちゃって。あれ、従姉妹とお揃いで買ったやつだから・・・」と尋ねてみた。すると彼女と友人たちは口を揃えて「知らない」と。その数日後、音楽室のゴミ箱から汚れた状態でそれが発見されたのだ。しかも事もあろうか発見したのは則子だった。本当に腹が立った、実は私のキーホルダーを盗んだのは則子であったのだ。実は無くなった翌日、別の友人から「則子がはる香のキーホルダーを盗ってゴミ箱に捨ててやった!」と自慢していたと聞いたから犯人は則子だということが分かったのだった。すかさず発見されて私の手元に戻ってきたところで則子を問い詰めたが、則子はシラを切り続ける。

「私知らないよ~?だってここにあったの見つけただけだもん」

とか

「私盗んでないもん!」

などと言うばかり。だが則子がそれを盗んだと言っていたと証言した友人は嘘をつくような子ではなかった。寧ろクラスのまとめ役のようなしっかりした性格の子だったから。だから私は則子に「いつまでも嘘ついてんじゃねーよ、ブス!」と怒鳴りつけたのだ。すると則子は今度は嘘泣きし始めてはる香ちゃんがいじめたと喚きだしたが、他の目撃者のクラスメイトは真相を知っているだけに、ただただ呆れてそれを見るだけだった。

私は思う、物を盗むのはもちろんよくない。同時に持ち主はその物をどんな気持ちで手に入れて、そして持っていたのかを盗む人はどう考えたのだろうか・・・。きっと誰かから貰った大切なものだったかもしれない、お誕生日プレゼントだったかもしれない。お小遣いをためて買ったものかもしれない、どんなものであってもそれなりに感情が篭ったものだということを考えないのかな。そう考えると本当に腹が立った。

 

それから数日後の出来事。ここでも則子はやってくれた。学校が終わってそろばん塾に行った私は教室が開くのを外で待っていた。そこへ則子らがやって来て、私を見るやいきなり叩いてきたり悪口を言ってきたり、さらには石を投げつけたりしてきたのだ。その日は学校が終わってから私は歯医者に寄って、その足でそろばん塾に行くことになっており、歯医者に連れて行ってくれた母が車で塾まで乗せて行ってくれたのだ。そして駐車場を出ようとした母がその一部始終を目撃していたのだ。そこで母が車から降りてきて則子らを問い詰めた。だがここでも彼女らは往生際が悪く

「だってはる香ちゃんが悪口をいきなり言ってきたから怒って、それで・・・」

と若干しどろもどろ気味に母に言い訳をしていたのだ。私は則子たちに悪口を言って喧嘩を売った覚えなど無い。石を投げてきたことについては「遊んでいたら、転んでそこで飛んだ石がはる香ちゃんに当たった」などと白々しい言い訳をしていた。

私はむしろ則子たちが来ても知らん顔をしていたぐらいだった、相手にしたくなかったから。それに彼女たちは私を見るやいきなり

「はる香ちゃんがいるー。うわぁ汚い・・・。私たち塾の中に入れないじゃん!」

などと言ってきて、更に彼女の仲間の子が「どっか行けよバイ菌!」と言って私を殴ってきたところから則子らも加勢して事が大きくなってしまったのだ。

「子供の喧嘩に口を出すべきじゃない」とは言うが、私はこの時の母の気持ちは分からなくもない。恐らく私もわが子が一方的にそうされたなら、母と同じく行動にでていただろう、そう思う。事実彼女らのぶつけた石が顔に当たって痣になったぐらいだから。それも運が悪く目のすぐ下だったから本当に許せない。目の下にはしばらく痣が残った。そして母は則子らに説教を始めて、その後教室にやってきた先生に事の経緯を話していた。その日は彼女らは教室に入れてもらえず、そのまま帰っていったようだった。

その日から母は則子を「危険人物」扱いするようになり、私にも

「あの子と遊んじゃだめ!教室で声をかけられても無視しなさい」

と言うようになっていった。私も絶対に彼女らには関わりたくなかったので、そればっかりは母と同じ答えだった。さすがにここまでされて母からいつもの「仲良くしなさい!」は無かった。無論則子には友達として付き合っていても自慢できるようなメリットは何もなかったから。

その後母は則子の実家の店で米を買うのを止めたのだ。偶然にも私の通う空手道場の師範に米屋を経営する人がいたこともあり、それからずっと母はその師範のいる店で米を買っていた。そういえば、前記の弁当事件の海苔巻きも恐らく則子の実家の米屋で買った米で作っていたのだろう。そうだったら本当に皮肉な結果だ。

女帝の夢

前記のとおり幼い頃から・・・特に母にとって私は単なる人形だった。

前回は「着せ替え人形」というところに要点を絞って書いたが、今回はそれ以外のものを書いていきたい。

まず、私は念願の女の子だったらしい。だが現実はとても矛盾しているもので、兄は長男だからと家族から常にちやほやされてもてはやされ、私は女だからと見下される毎日。持ち物も兄よりいいものは持たせてもらえない、学校に必要なものは殆ど兄からのお下がり、何かと兄と比較される日々。それのどこが念願なんだか、と首をかしげてしまうほどだ。

母はそんな私の前では「女帝」だったのだろう。私の言うことは何でもお聞き!と言わんばかりに私に異常なまでの干渉をしてきたものだ。それは成人してからもずっと続き、私の人生を台無しにした。二十歳すぎた娘にまで「言うことを聞きなさい」などと、本当に異常だった。

 

母は常に私をお人形のように飾り立てて幼稚園に通わせ、そのあたりから習い事三昧な日々を送らせた・・・、それ以外にも母は私に常日頃から自身の理想を押し付けるようになっていった。

母の理想の私、体型はモデル体型、学校ではいつも成績優秀で人気者、自分好みのファッション、将来は市内一の進学校へ通い一流大学を出て一流企業に就職、それか公務員。結婚まで実家住まい、結婚まで純潔、親の理想のお見合い結婚など。

どうしたらこういう未来予想図を描けるのだろう、しかも母自身ではなく私に。そもそもモデル体型というところで無理だろう、私自身成人しても身長は155センチしかないのだ。体重は除いても身長だけでもショーを歩くモデルとは程遠い。今は読者モデルなどモデルといってもたくさんのジャンルはあるけれど、私が過ごした青春時代のモデルといえば160センチ以上が最低条件であったのだ。それに当てはめても私の身長では無理。我が家は長身の家系ではないことも影響しないはずがない。だからモデル体型を求めるのは私にとっては非常に迷惑な話である。私も今現在までモデルになるなんて考えたことすらない。むしろ私は幼い頃からもっと現実的な考えを持っていたのだろう、幼稚園児の頃から中学まで美容師になりたいと本気で思っていたぐらいだ。それ以外では母はやはり私には母自身の好みの服装をさせるべく必死だった。それも小学校高学年あたりから・・・。小学校中学年あたりまでは前章でも書いたとおり常に誰かからのお下がりばかり。母の押し付けもあって、私の夢はいつの間にか公務員になってしまっていた。私は私で別の夢があっても、結局は母の理想は公務員でしかなかったのだ。そして結婚までは実家住まいをして母のお気に入りの人とお見合い結婚という、「いつの時代ですか?」と聞きたくなるような母の未来予想図。そしてそれがダメならと代替案を次から次へと持ってくる。そしてそれを否定する私に対していつも母は自身の過去の話を持ってきては私を何とか説得しようかと必死になってくるのである。同時に私の同級生、それも成績がいい子に限定してその子たちと比較したり、近所の子と比較するなど、何をしたいのか正直分からなくなるようなことも平気でしていたのだ。

 

母は市内のある普通科高校を卒業後、東京の幼稚園教諭養成所へ行き幼稚園教諭の資格を取得後に横浜の幼稚園で3年ほど勤務していた。その後退職をして生まれ故郷である現住所の市内へ戻り、地元でも幼稚園教諭として働きたかったそうだが、募集には年齢制限があって母がそこで働くことは叶わなかったそうだ。その後幼稚園教諭とは関係の無い仕事をしていたようだが、やはり幼稚園教諭には未練があったようだ。そして父と見合い結婚をして私たち兄妹を産んだ。父はその当時にはすでに曽祖父の代から続く会社で働いていた。

母は私の進路の話になると決まってこの話をしてきた。もう何十回も聞かされた。母曰く「後悔の無い生き方をして欲しい」、だがそれは間違った方向に進んでいたことは言うまでもない。母も死ぬまで気づかなかっただろう。母は私には苦労をさせたくないと思っていたからこそ、家庭内では「女帝」となり常に干渉をし続けていたのだろう。だが過干渉ほど迷惑なものは無い、私にとっては。干渉を続ければ続けるほど私の人生は狂っていった。

 

結局母は私を母の理想どおりの人形に育て上げたかったとしか言いようが無い。

 

母は常日頃から私を誰かと比較することが多かった。学校の友人、近所の友人、従姉妹、母親自身とも。そして誰よりも優秀で自分好みのキャラクターになるように、いつもコントロールをする。私はそれが嫌だった。モデル体型になれというような無理な要望から始まって少しでも私が太ると「太ったね~、痩せるのにダイエットさせなきゃ!」と躍起になることもあった。それは私が小学校低学年の頃でも普通だった。それだけではなく成人してからも少しでも私が太ったと思えば容赦無く「痩せろ痩せろ」と聞こえるように言ってきた。食事の内容にも口を挟み、一日3食豆腐だけという日もあった。それから効果があるのか分からない高価なサプリメントを買わせられたりもした。それでも痩せないとなれば今度はスポーツジムに行けとしきりに言い出し、しまいには「こっちでお金は出すからジムに行け!」とまで言い出す始末。小学校高学年の頃、一度だけ雑誌に載っていた痩身エステの広告を母に見せて私は

「痩せろというんだったらここに連れて行って!ここだったら痩せられるかもしれないでしょ?」

と母に提案したのだ。だが母はそれを見て

「こんなの無駄。楽して痩せようなんて考えないで!それにお金もかかるでしょう?」

と却下したのだ。痩せろと人に言うくせに矛盾した対応だ。

母は自分が太っている(身長145センチで体重は76キロ)くせに、私には常日頃「痩せろ」と言う。自分は痩せる気が無いらしく、私は一度

「自分も太っているでしょ。それなのに人に痩せろだと?痩せる気もないような人に言われても何の説得力もないから。それから痩せるも太るも私の勝手だと思うけど?」

と言ったことがある。それに対して母は

「ちょっと!何で50代の私と比べるのよ、あなたとは全然違うの!あなたはいちばん綺麗でいなきゃいけない時にそんな太って醜い姿で・・・私は情けない」

などと泣き落とそうとする始末。要は自分はよくて人はダメという思考。ちなみにこの頃の私、BMIは正常値だった。

私に対して太った太らないの事だけではなかった。母はしきりに私に「補正下着を買いなさい!」と言ってきたものだ。私は締め付けられるのがこの頃でもすでに苦手で補正下着も付ける気が無いので、それを伝えたら

「いいのいいの、少しでもスタイルよく見られるからつけるべきなの!」

と強引に私に押し付ける。そして自身は高額な補正下着を買ってきた。それでこれ見よがしに「これを着けたらね~、私も少し細くなったの!」と私の前でわざと言うのだ。正直母の見た目は変化が無い。どう見ても胴体部分はドラえもんのようだった。それを見た私は「あーはいはい、興味ありませんけどね~」と流すようにしていた。だが、それだけで済むわけもなく、母は私を無理矢理下着屋に連れていき、店員にサイズを測らせて補正下着を私に買わせようとしていた。結局私は母を店に置いて逃げて事なきを得た。その後帰宅して母に

「恥をかかされた!あんたのことを思ってやってやったのに!親不孝者!」

と思いっきり怒鳴られた。そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった。けれど私はそれに後悔は無い。

母の理想、それはモデル体型だけではなかった。将来の夢も結婚も全て・・・。

 

母は父とは見合い結婚をした。それだけに見合い結婚が自身の中で一番なのだろう。そのせいか私にもしきりに見合い結婚を勧めていた。それも私が小学生の頃から。母の理想の見合い結婚、私と見合いする相手が自分たちの知っている人間のご子息であれば安泰とでも思っていたのだろう。だが私はしきりに見合い結婚を勧める母をずっと見ていたせいか、逆に見合いなんて糞食らえ!と思うようになっていった。同時に結婚まで親に決められるなんて私の人権を無視してる!とも・・・

見合い結婚をした母だが、母は学生時代に交際していた相手はいたようだ。その相手は警察官。なかなか上手く関係は続いていたそうだ。だがある日、母が横浜から実家に帰省したときに実家に母も知らない女性から電話がかかってきたというのだ。その電話の内容は「私は○○(名前を名乗ったそうだ)、あのね、あなたとお付き合いされている○○(母の当時の交際相手)との子供、私、最近堕胎したの!」というものだった。母も気が動転したようだ。無論その相手とは別れてしまったようだが、おそらくこの一件から母は見合い万歳!という考えになったのだろう。別に恋愛結婚がいい、見合い結婚の方がもっといいと思うのは個人の都合だが自分の娘にまでそういう考えを押し付けて欲しくなかった。実はこの話、私には何度もその話をしてきたのだ。それも決まって私に交際相手がいると分かっているときに。

そして中学からずっと私に恋愛禁止令を敷いていた。母曰く「悪い虫が寄ってきたら受験に響くから」と。何としてでも私には見合い結婚で自分の知る相手と結婚して欲しかったのだろう。結果的には私は見合いをすることは無かった。母が亡くなってから自分で自分にふさわしい相手を見つけ、その人と結婚したから。

 

見合い結婚の押し付け以外にもいろいろと将来のことは母に勝手に決められた。将来の夢なんて何度もぶち壊された。

私はずっと美容師になりたかった。美容師になりたいと思ったきっかけは、5歳の七五三の時に近所の美容院で美容師さんにすごくきれいにしてもらったこと。着物を着付けてもらって髪もきれいに結ってもらいきれいなかんざしをさして、メイクもしてもらった。そして美容師さんもとても優しいお姉さん。その姿を見て私もこうして人をきれいにしたい!と考えたから。小学校に入っても中学にあがってもこの考えが変わることは無かったのだ。小学校低学年の頃、母親も私が美容師になりたいと思っていたことは知っていた。だが恐らくこのあたりではまだ「大きくなったら何になりたい?」くらいにしか考えていなかったのだろう。そして私が小学校中学年の頃にある漫画に出会い、漫画家にもなりたいと思うようになった。けれど美容師の夢を捨てたわけでもなく、その頃は「どちらかになりたい」と思っていた。小学校時代の作文にも美容師か漫画家になりたいと書いていたぐらいだった。だが中学に入り、当時通っていた学習塾から進路のアンケート(記名式)が届いた。そこで行きたい学校や将来の夢など書く欄があり、私は美容師と書いた。得意科目の欄には「国語、英語、社会」、進学したい学校の欄には「第一希望・美容専門学校」と書き、将来の夢の欄には「美容師」とはっきり私が書き込んだ。だが、それを見た母は激高して

「何なのこれ!得意科目が英語でなりたい職業が美容師?!バカなの、あんた?これちょっと問題だから学校と将来の夢はこっちで書き直すから!美容師で英語なんて話さないでしょ?」

と私からアンケート用紙を取り上げてすかさず書き直しをしてしまったのだ。そこに書かれていたものに、私は愕然とした。進学したい学校「○○女子高校(市内一の女子高。進学校)」将来の夢「英語の先生、公務員」と書き直されていた、しかもボールペンでデカデカと。それを見て本当にショックだった。将来の夢まで親に決められるなんて・・・、と。母曰く

「公務員だったら将来が保障されてるんだよ、だって役所はつぶれないし。それにお給料だって安定よ。そして公立の学校の先生だったら得意科目が活かせるし」

と、まるで自分がその職業になりたいかのように私に押し付けたのだった。

だが、私は美容師になる夢は中学校3年までずっと捨てなかった。何としてでも美容師になってやる!と本気で思ったぐらい。しかしこのあたりになって漫画家も捨てがたいと思うようにもなっていた。そこで思いついたこと・・・、それは「美容師にはなるが絵を描きながら美容師をやる。そしてお店の外観や内装も自分好みにして自分の描いた絵を店内に張り出して。自分のお店を持ちたい」と考え出した。今で言うプロデュースに近いものがあった。だから表面では進学校に進学したいと思わせておいて実は高校へは進学せず美容学校に進学して美容師になろうと裏では動いていた。だが、それも失敗に終わる。中学二年の終わりに学校で個別進路指導というものがあったのだ。親が同席して先生と進路相談をするというものだった。私はひたすら「美容師になる」と主張していた。だが、母は「違います、この子はずっと学校の先生になりたいって言っていました。だから将来は学校の先生になりたいから○○女子高校に進学してそして地元の大学に進んで・・・」と勝手に話を進めてしまった。しまいには私を嘘つき呼ばわりまでして。そして進路指導が終わって帰宅、そこで母からのお説教が始まった。美容師になりたい私に対して母は

「あんたはバカなの?私に恥をかかせるの?美容師は中卒のバカでもなれるからあなたはちゃんと大学へ行って先生とか公務員になりなさい」

「うちでは中卒は認めない」

など、私の夢を全否定するような話がずっと続いた。おかげで私は意気消沈してしまい、美容師の夢を諦めざるを得なくなったのだ。結局私は母のわがままのおかげで自分の首を絞めた。今でもその悔しさは忘れていない。

そして「学校ではいつも成績優秀」、これについて私の成績は中学校3年生の時点で学年390人中常に50番から70番程度にいた。悪くても120番ほどだった。私はそれでもいいと思っていた。現状でも十分に中堅レベルの高校に行ける偏差値はあったからだ。美容師の夢をなくした私だが、最初は絶望していたものの「中堅ぐらいの学校に進んでおけば親も何も言ってこないだろう」と考えるようにもなっていた。そしていざ受験する学校を決めるとき、市内の私立女子高の専願推薦を受けないかと学校から持ちかけられた。親もそれを望んでいたらしく、そこの学校を受験することを即決した。私は「とりあえずそこに受かれば文句は言われないか」くらいに考えていた。別に本気になるわけでもなく・・・、そう考えたのも、その時までは。結局そこの私立高校は不合格だった。そこで私は結果を聞いて担任の先生に相談、そして次は隣の県にあるキリスト教系の高校の推薦を受けてみないか?と持ちかけられたのだ。私自身もそこの学校には少しの憧れがあり、自宅からも通える(電車で1時間弱ほど)距離であることもあり、ぜひとも推薦を受けたいと先生から願書をもらってその日は親に相談すると言って帰宅した。だが両親に相談したところ、猛反対をされてしまい残念ながら諦める結果となった。親が猛反対した理由というのは

キリスト教の学校なんてキリスト教徒が行く学校だ!」

「家から電車で1時間もかかる、そんなところに通うことなんて出来るはずがない。途中で近所の○○ちゃんみたいに学校に行かなくなるだろう」

「そんなところに行くんだったら勘当する!」

と。実は兄はこのキリスト教系の学校を滑り止めで受験していたのだった。またここでも兄はよくて私はダメという理論になったのだ。

そして結果的には県立高校を滑り止めなしで受験することに。そこでも母がまたしゃしゃり出て面倒なことになったのだ。やはり母はここでも私を母自身の思い描くレールに乗せようと必死だったのだ。最初の出願先を私に無断で変更してしまったのだ。理由は

普通科高校に行くよりも高校で手に職をつけたほうが将来に有利だから!」

と息巻いて、出願先変更の締め切りぎりぎりになって勝手に出願先を変更した。それについて抗議をしたが、母は私の言い分を全く聞かず上記の持論を展開するばかり。挙句の果てに「お前はバカだからそっち(元の出願先)は落ちるに決まっている!だからこれでいいんだ!」などと私に自身の責任を転嫁する始末。あまりのお粗末な事態に私は母の変更した出願先の学校を受験せざるを得なくなった。ただ、私はそこへは行きたくなかった。だからと言ってわざと面接で落ちるような演技をしたり、試験を白紙で提出して不合格となればまた何を言われるか・・・、そちらの方が怖くて仕方がなかった。それに中学浪人となれば母から何を言われるかはもう想像がついていたからだ。

母の望む進学先に進まなければいけない、中学浪人も出来ない、まさに八方塞がりだった。面接での受け答えも母がシナリオを準備してそれを私がただ話すようなものとなってしまった。家でも面接の練習を何度もさせられて苦痛だった。とりあえず無理矢理出願先変更をした学校には合格した。母は自分のことのように喜んでいた。だが私は正直嬉しくも何とも無かった。嬉しくなかったけれど、合格通知を受け取り、その日は帰宅。だが帰宅する道中で母は私にまた信じられない一言を言ったのだ。

「あんたが受かった学校って情報系だけど市内一の進学校並みの成績じゃないと入れないのよね、だから従姉妹に勝てた!お母さん嬉しいの!自慢できるわぁ~!」

何のための受験だったんだろう・・・。私の中で更にモヤモヤな気持ちが出てきた。結局は母の思う壺?それとも私は母のために生きているの?と。

母の夢をかなえるべく私は完全に母の操り人形と化してしまったのだ。高校受験もその一部でしかない。

いじめ

今思うと幼い私に安息の場は無かった、家も学校も常に居づらい場所でしかなかった。

小学校に入り、私はいじめに遭うようになった。物を隠される、壊される、悪口や暴力、そういうものは日常茶飯事。学校も助けてくれなかった。特に小学校1、2年生の頃の担任は本当に酷いものだった。ひとりだけ先生お気に入りの女児、優花(仮名)がいた。私は優花からいつもいじめられていた。仲間はずれにされたり、悪口を言われたり、そして周りの子たちもいじめられたくないからついつい優花の仲間になる。彼女は先生や大人の前ではいつも良い子ぶっており、裏では誰か弱そうな子を見つけては嫌がらせをしたりパシリに使ったりするなどを普通にするような子だった。それだけではなく平気で周りを脅して自分の味方にしてしまうというたちの悪い女児だった。

ある日優花の嘘で私は思いっきり恥をかくことになった。その日の朝の会で優花が「うちの妹ははる香ちゃんに昨日ブサイクと言われたと言ってた!それで泣いていた」と言い出した。私は彼女の言うこの日の前日に彼女の妹には会っていないし、それ以外の日に会ったことはあってもブサイクと言った覚えもない。それを聞いて先生は「またお前か」と言わんばかりに私の言い分を聞かず私を怒鳴りつける。私が身の潔白を主張しても先生は信じてくれず、挙句クラス全員に「はる香ちゃんがブサイクと言ったと思う人~!手挙げてー!」と多数決を取りはじめた。やはりクラスメイトは皆優花はクラスのボスだと認識していたため、逆らうと今度は自分がいじめに遭うのも知っていた為そこではクラス全員が手を挙げたのだ。おかげで私は悪者に仕立て上げられた上に、しばらくそれを理由にいじめの対象になったのだ。周りも私をいじめてもいいという認識になっていき、私はクラス内での居場所をなくしたのだ。

それだけではなかった。私は小学校低学年の頃から空手を習っており、二年生になったある日、優花も空手を習い始めた。正直言ってそこでもまた憂鬱だった。そしてここでも事件が起きてしまうのだった。ある放課後、私はその日は習い事があるので学校が終わってすぐに帰宅をしようと教室を出て昇降口に向かっていた。そこへ彼女と仲間数名が私を取り囲んで「今から遊ぼう!」と言ってきた。だが私は「きょうは習い事があるか遊べない。帰らなきゃいけない」と言って帰ろうとしたが、彼女たちは私を取り囲んで帰らせてくれない。私はそれでも習い事があるから、そこをどいて欲しいと言ったがどいてくれず、しまいに彼女が私の腕を思いっきり掴んで教室の方に連れて行こうとしたので、私はその腕を振り払って逃げるようにして学校を後にした。そしてその次の日、彼女はまたしても朝の会で「昨日の帰りに、はる香ちゃんが私(優花)と○○ちゃんと○○ちゃんに空手技を使ってきた!」と先生に言いつけたのだ。もちろんそんな事を私はしていない、ただ私は彼女の腕を振り払っただけなのに・・・。先生はまた私の言い分など聞かずに一方的に私を怒鳴りつける。そしてクラスのみんなも私が悪いなどと言い始めて、私はとうとう泣いてしまった。そして先生や他のクラスメイトたちから無実であるのにつるし上げられた私はその場にいるのも辛くなり、「もうみんななんて嫌いだ!」と声を上げて教室から飛び出してしまった。その後はあまり覚えていないが、保健室で保護されていたことを覚えている。そして休み時間になって担任の先生が鬼の形相で私の元に来るや、何も言わずに私の手を引いて教室に連れ帰った。そしてそれだけでは済まず、教室に入るやまたしてもクラス全員でつるし上げを始めた。私もさすがにそこにいるのが辛くなって先生に「どうして信じてくれないの?私はやってないのに・・・。もう先生も嫌いだ!」と先生の腕を振り払ったところ、今度は先生は「お前今何て言った?!」と私に言ってきて、教室から私を追い出した。そして途方にくれていたところ、今度は教頭先生に声をかけられてまた保健室に護送された。その日は昼前に母が学校に迎えに来て家に帰った。

母は私が家に帰ってから優花を思いっきり褒め称えた挙句私はバカだからこうしていじめられると私を罵った。加えて優花ちゃんは頭もいいからみんな大好きなんだよ、と。私は決してそうじゃないと言ったが母は信じてくれなかったのだ。それだけ彼女は周りを取り込むある意味天才的な才能があったのだろう。この話はそれだけでは済まず、彼女は私が空手技を使ったと事もあろうか空手の師範に言いつけたのだ。そのおかげで私は空手を破門になりかけた。優花のタチの悪さはみんな知っていた。無論その女児にいじめられたくないからと普段は彼女の味方をしていた。だがその中にもいくら優花でも悪いことは悪いと思う子もいたわけで、運よくこの騒動の顛末を知っていた私と同じクラスにいた別の児童が空手の師範にこっそり私の潔白を主張したのだ。そのおかげで私は空手を破門にならずに済み、優花は空手を辞めていった。それ以来彼女からのいじめは減ったが、たまに面倒な用事を押し付けられることもあったので、私は極力彼女を無視していた。だが学年が変わっても彼女は私に何かと突っかかってくるというタチの悪さは相変わらずだった。平気で意地悪をする、私物を取り上げるなど。そして周りには良い子を見せ付けるというのも健在で。

ついでに今の時代にこんな対応をした先生はきっとマスコミの格好の餌食になるだろう。そして教育委員会も黙ってはいない、本当に今考えても胸糞が悪い。

 

この騒動以外にもなぜか私はいじめの標的になることが多かった。そしていじめに遭うたびに出てくるのが私の母だった。母は私がいじめに遭うと普通に学校に乗り込んでクレームをつけるような人だった。今で言うモンスターペアレントのようなことも普通にしていた。抗議の対象は学校だけではなく、いじめた相手の家も普通だった。親心だったのだろう、わが子をいじめから守りたいと考えていたのだろうと思うが、結局それも全て行き過ぎた行為になってしまって、その恨みが私に向かっていたこともあったのだと思う。ただ、母は相手によってクレームをつける場合とそうではなくいじめた相手に対して「お母さんあなたのことが好きだから、うちの子をいじめないで」などと言う場合と2パターンあったのだ。母が気に入らない相手だと前者であり、母が気に入っている相手だと後者である。時には相手の家に電話で抗議するだけではなく先生の家に電話をする、相手の家に突撃するなども普通だった。正直その翌日が私にとっては憂鬱だった、やはり当事者からの報復が怖かったから。報復は何度も受けた。理由もなく放課後居残りさせられたり、いきなり階段から突き落とされてケガをさせられたり、悪口を何度も言われたり。自殺しなかったのが不思議なぐらいだった。

母の行動がクラスで話題にあがっていたのは言うまでもない。そして私はいつも肩身の狭い思いをしていた。「また私ちゃんのお母さんが怒鳴り込んできた」など、クラスの中で何度も聞いていた。その度にいじめがひどくなることもしばしば。両親に何度も転校したいと言ったが、近所の目があるなど世間体の事ばかりを気にして結局転校はさせてもらえなかった。学校でいじめにあっても周りがいじめに遭った側の心のケアをして、突撃して怒鳴りつけるなどせず、他のやり方でいじめをなくすように動くことをしていれば私はこんなにも苦しむこともなかったと思う。

小学校5年生の終わり頃からそれまで仲良くしていたクラスメイトの女児(以下則子)から執拗にいじめられるようになった。則子の家は米屋を営んでおり、両親共に多忙であり彼女は両親から構ってもらえないような子だった。性格もわがまま、自分が気に入らなければすぐに意地悪をするなど。そのせいか、私の元に来ては散々嫌がらせをするようになった。悪口から始まり、こちらもタチが悪く私の私物やお金を要求するようになる。そして何度も「おごっておごって」と私に要求をするようになった。たとえば私が学校の購売部で学用品を買っているのを目撃すると、

「あら、きょうお金持ってるの?だったら帰りにおごってよ!お釣りあるでしょ?」

としつこく言ってくる。それで私が断ると

「何よ!いいからおごりなさいよ!あんたの家、お金持ちなんだからそれぐらいいいでしょ?」

と更にしつこくなるのであった。則子は自分ひとりで私を苛め抜けないと判断したのか、そこに今度は「自分はクラスのアイドル」だと自称するクラスメイトの女児(以下マミ)と北日本から転校してきたばかりの女児(以下朝子。マミの取り巻き。則子も実はマミの取り巻きではあるが)、そして幼馴染の優等生の女児(以下幸子。私と則子の幼馴染)も私へのいじめに加わったのだ。そして勝手に「私家は金持ち」だと決め付けて私にそう言わせては金品を奪ったり、お小遣いを持っていたりすればそれを見つけて「おごってもらおう」などということになり、最悪なことにお金を持っていない日には「じゃあ、親に持ってきてもらおう!今すぐ親呼び出せよ!」などとなったりもした。さすがにそれは断った。断ると「じゃあもう友達じゃないね!ばいばーい!」などとふざけた態度をとるのだ。

因果応報なのだろう、私をここでいじめていた則子をはじめマミ、朝子、幸子共に現在は傍から見て人もうらやむ人生を歩んでいるものは誰もいない。則子に関しては高校卒業後に行方不明、マミは市外にあるGランクの高校入学後すぐに学校を退学、歳をごまかしてスナックで働き17歳で妊娠が発覚して結婚。出産するもすぐに離婚。その後何度も出来ちゃった結婚と離婚を繰り返しており複数人の子供の母親に。ちなみに子供の父親は全て違う。朝子は堂々と名前を言うことも出来ないような低い偏差値の高校に入学、その後は就職できず、アルバイトのみで生計をたてていたがニートの男と出来ちゃった結婚。幸子は私と同じ高校に主席で入学するが、入学後に拒食症になりギャルへ変貌。高校卒業後すぐに出来ちゃった婚をして安い給料のパートをしながら実家近くのアパートで暮らしている。のちに地元のスーパーで彼女を見たが、汚い言葉遣いで子供を怒鳴りつけていた。見た目も田舎のヤンキー風になっていた。実は幸子も見た目は優等生であったが親が教育ママ、彼女は相当期待されていたが親の期待に添えなくなった途端にどんどんグレていったのだ。彼女には弟もいたが、中学入学とともにヤンキーと化してしまい、市内の低偏差値の学校に通うこととなった。

 

それ以外にもクラスメイトからいじめられることはしばしばだった。男子なんて本当にひどいもので、私をいつからかばい菌扱いするようになり、私に触るとカビが生えるだの腐るだの・・・そういう科学的根拠も無く、根も葉もないバカな理論で私を避けるようになった。それだけじゃなくいきなり罵倒したり、暴力をふるってケガを負わせても謝罪もしないなど。これには母も憤慨して学校に乗り込んだ。

担任の先生に事の顛末を話して、翌日先生から「こういう事はしてはいけない、そのようにクラスメイトを仲間はずれにしても後に自分たちが苦しむだけ」と言われて私をばい菌扱いした人たちが謝ってきたものの、結局それも一定期間だけ。その期間がすぎるとまた元の通りいじめ始めるのだ。そのたび母は学校に出向いて「いじめをなくして欲しい」と訴えたが効果はほとんど無く、それに業を煮やしたのか今度はいじめっこの家に電話をしていじめっ子本人に説教をし始めた。おかげで「言いつけただろう!」となって余計にいじめられることになってしまったのだ。

母のした行動は確かに分からなくもない、わが子を守れるのは親だけだというのも分かる。だが他に方法はなんぼでもあったのではないか?と私は思う。それ以前に母親が学校に乗り込むまではまだ理解できるが、相手の家に電話をして当事者や保護者に説教をするのはかえって逆効果な気もする。今それをやれば間違いなくモンスターペアレント認定だ。そしてモンスターペアレントの子供はいじめに遭う・・・そういう構図であろう。

いじめを無くす方法、それは今でも正直分からない。だが我が家は身内に警察官だっていたわけで、本当にどうしたらいいのか?となれば身内ではなくとも地域の警察に相談することだって可能だったはず。教育委員会に相談をして学校で今起きていることを明白にしてもらうことだって出来たはず。場合によっては親が当事者の家に怒鳴り込むようなことをしなくても解決できたかもしれない。私がどこか遠くの学校に転校することだって解決法だったのかもしれない。両親はやはり私を転校させたくなかったようだ。転校の手続きや新しい学校への転校準備や転校してからの送り迎えなど手間がかかるから。正直言うと母方の叔父の家から小学校、中学校、高校と通いたかったものだ。それか母方祖父の家から近い小学校に転校したかったぐらいだ。

母は言った。お前はバカだからどこに行ってもいじめられる!と。本当に原因が私にあるのなら児童相談所にでも行くだろう。賢い親ならそういう選択をするだろう。それすらしない親を私は哀れに思う。たとえ私に原因があるならそれぐらいのことをして欲しかった。そうもせずに被害者面ではそれでは家族全員嫌われる。

 

そのいじめは中学にあがってからも続いた。

男尊女卑

残念ながら我が両親、男尊女卑という考えがあった。

うちは長男、長女という2人兄妹である。それも例外なく親からは「兄は長男だから一番、私は女だから・・・」というような考えだった。兄にいたっては父の機嫌に振り回されたりもしたが、ほぼ自分の思い通りのことをさせてもらっていた。反対に私にいたっては、「そんなものは必要ない」などと私の要求など殆ど聞いてもらえない。明らかに兄妹間のえこひいきだった。

小さい頃から何かと兄には物を買い与える、それも新品のものばかり。たとえば学校の教材などもいつも新品。だけど私にはいつも兄のお古。そしてお古ばっかりで嫌と主張すると父も母も決まって「兄のパンツもお古ってわけじゃないんだからいいでしょ!」とお古万歳主義を貫いていた。

兄からのお古は本当にいろいろあった、学校の教材の大工道具、そろばん、裁縫セット、鍵盤ハーモニカなど。それから服も襟元の伸びたTシャツ、学校のジャージなど。百歩譲って学校のジャージはまだ許せるが、女子と男子では考えや動物的な心理も違うことを何も理解しないのか、兄に買い与えたものは全ていいものだからとでも思いたいのか、私には当たり前のように兄の使った中古品が「お古」として回ってくる。せめて性別が違うことだけでも理解して欲しかった。女子ならやはり女子らしく可愛いものを持ちたい、そう思うだろう。それなのにいつも母は「お兄ちゃんのがあるでしょ?だからこれでいいの!」と私が新しいものを持つことを許さなかった。

小学校4年生のある日、学校から授業で使うために必要な大工道具(かなづちとか折りたたみ式ののこぎりがひとつのバッグに入ったやつ)や裁縫セット(針と糸だけじゃなく鋏など家庭科の授業で必要なもの一式がセットになったやつ)の注文票をもらってきた。そこで大工道具も裁縫セットも新しいものが欲しいと両親にねだったのだ。しかし両親からの答えはノー。両親曰く

「少しだけしか使わないから。それに今それ買ったらお前は大工にでもなるのか?」

「新しくても古くてもどれも一緒なんだから気にしない気にしない!」

など親の目線でしか考えてくれない。それに裁縫セットもそうだが、裁縫箱も当時はすでに女子好みのデザインの物だったり男の子が持ってもおかしくないようなものが注文票には載っていた。そこで私が好きなキャラクターのものがあって両親に買って欲しいとねだるが、こちらも答えはノー。やはり大工道具と同じで兄のお下がりを使うようにと。兄の持っていたものは決して私好みのものではなかった。裁縫箱も小さくて蓋にひびが入っていたりとすごく貧相、色も私の好きな色でもデザインでもないし。道具も揃っていなくて、さすがに道具が不ぞろいなのはいけないと、それだけは母から何とか買ってもらえたが。だけど肝心な私の願いは何も聞いてくれない・・・そう思えてならなかったのだ。

そんな中いざ図工や家庭科の授業が始まり、他の友達は新しい道具を持っていた。中には私と同じように上の兄弟のお下がりという子もいたが、あくまでそれも同性のきょうだいの場合のみ。私と同じように上がお兄ちゃんで下(私の友達)が妹となれば、やはり新しく買い揃えてくれる家も少なくなかった。家庭科の時間にいたっては授業に出たくないほど嫌だった。貧相な道具を持って授業を受けるのが死ぬほど嫌だったから。だから家庭科の時間は保健室に仮病を使って篭っていたこともあった。あとは忘れたふりをして授業に出たり。周りはなんで自分好みのものを持って授業を受けられるのに、なんで私は?とその疑問が頭から抜けずにいた。図工の時間も憂鬱でならなかった。ここでも「貧乏」とからかわれる始末だった。

それから兄は親にレーシングカートを買ってもらったこともある。確か兄が小学校6年生か中学校1年生の頃。

最初はポケバイが欲しいと兄は両親にねだっていたが、ある日テレビで見たレーシングカートに一目ぼれしたらしく、兄のおねだりを受けて父はその次の週末にレーシングカートをポンとキャッシュで買っていたのだ。だが私は兄が実際にカートを運転する姿は見たこともなく、市内の山奥にあるレーシングカート用のサーキットにも兄は片手で数えるぐらいしか行っていない。そしてその肝心なカート本体も家には置けず、母方の祖父の家にある物置に保管することに。だが、そこからそのカートは日の目を見ることはなく、独活の大木ならぬただ場所をとる鉄の塊と化した。十数万円したものも、今現在どこにあるのかすら分からない。

兄はいつも欲しいものを普通に買ってもらえた、だけど私は何か理由をつけられては買ってもらえないことが多かった。

私は小学校4年の頃に一度管楽器が欲しいと言ったことがあった。この時は通販のカタログで憧れていた管楽器(フルート、サクソフォーン、トランペットなど)入門セットがあり、それを見て私も欲しいと両親にねだったのだ。だが母は

「アンタに吹けるはずがない。あんたが吹くのはホラだけでしょ?」

と。そして父にいたっては

「ファックスなら会社にあるからそれを持ってきてやる!」

などとつまらないギャグにもならないことを言い出す始末。無論買ってもらうことは無かった。

それ以外にも可愛い形をした収納ケース、自転車、流行の文具類なども・・・。結局買ってもらったのは自転車だけ。後に知ったことだが兄もちょうどその時期に自転車が欲しいと両親に言っていたらしく、それで兄がメインで私はついで・・・というような感じで何とか買ってもらうことが出来た。けれど実際に買ってもらったものを見ると兄の方が明らかに高価であり、私には選択の余地などなく、父が決めた格安のママチャリだった。父曰くちゃんとした家電メーカーのものだが、見た目も兄よりは劣るもので。

兄はとにかく何でも高価なものを希望どおり買ってもらっていた。高いブランドの服、ハイセンスなバッグ、有名ブランドのスキー板、スキーウェア、ナイキの靴、100万円もする学習教材、ゲームボーイなども。

ゲームボーイの時には兄にそれを買うために親が私をダシにしたのだ。当時発売されたばかりのゲームボーイを兄が欲しがっていた。同時期に空手の県大会もあった。そこで父は兄に「買ってあげるが、お前(兄)が県大会で優勝したら買う。だがそうじゃなかったら私に買う」と宣言したのだ。私はそれを特に欲しいとも思っていなかったが、なぜか親は私に買うと言い出した。まぁ買ってもらえるんだったら、と私はそれを了承した。

そして肝心な兄の空手の試合の結果は、1回戦敗退・・・。

父との約束どおりゲームボーイは私が買ってもらったのだ。しかし、買ってもらったその日、家に帰ってみると兄が母に見守られてそれを使って遊んでいる。そして私が「それは私が買ってもらったのに、何でお兄ちゃんが黙って使ってるの?」と言うと母が「お兄ちゃんだってやりたいって言うの、だから貸してあげて?」と目を潤ませて私に言うのだ。それを良いことに兄は私がやりたいと言っても無視、ずっとゲームで遊んでいてしばらく返してもらえなかった。

無論私は父にも不満を言った。父は「兄弟仲良く遊べば良い!」と言い出す始末。そういう問題ではなく、私はその時点で全くゲームボーイで遊べていなかったのだ。それにこれは私が買ってもらったはずなのに?と思い「それは私が買ってもらったもので、私のものじゃないの?」と言うと、「お兄ちゃんが最初に欲しいって言った!だからお兄ちゃんだってやる権利はある!だったらそれをお前がお兄ちゃんにあげればいい!」というわけの分からないことを言い出した。

 

そこで気づいた、私はダシにされたのだ、だまされたのだ、と。

ゲームボーイはそれから暫く兄の部屋に置かれた、というか兄が持ち出してそのままずっと持っていた。そして私が遊ぼうとしても兄が無理に強奪していき、私はそれに触ることも暫くできずにいた。試合に負けたくせに、優勝できなかったくせに優勝賞品を強奪して遊んでいる強欲な男にしか見えなかった。そして両親共に兄を絶対に咎めない・・・。欲しいものを全て手にして笑う兄を私はただ指を咥えて見ていることしか出来ないのだ。

 

兄は本当にわがままだ。そして自分勝手。それは小さい頃からよくあった。さすがに親も全部ではないが注意をすることがあっても、私のものを勝手に持ち出したなどということであればそこまで叱りつけることは無かった。

ただ、兄が嘘をついたり、暴言を吐いた場合などは父が兄を怒鳴りつけて殴るということはあった。それでも兄は私より甘やかされていた、特に母には。

母からは溺愛されていたと言った方がいいだろう。ゲームボーイ以外でも母は私の私物を兄にも譲って欲しいと懇願することが多かった。たとえば家庭科の授業でエプロンを作ることになって生地を選びに手芸店へ出向いてその生地を少しでも多めに買った(無論私の小遣いで)ものなら、母はすかさずその余った生地に目をつけて兄用の弁当入れなどを作り出すのだ。そしてそれを見つけた私が

「それは私の買った生地だから、私のものなの?」

と訊くが母は

「どうせ家庭科のエプロン作りの他に使わないでしょう?余った生地でしょう?だったらお兄ちゃんにも譲ってあげて・・・」

と兄に譲るように言い出すのだ。母が買ったものだったら私の許可は要らないだろう、だがこの生地は私の小遣いで買ったものである。だから当然それには納得がいくわけもない。母に強引に押し切られる形でいつも私は諦めるという構図が出来上がってしまっていた。

 

実は買ってもらうもらわないの話以外で今でも納得がいかないことがある。それは私が小学校4年の時、父の会社の取引先の招待旅行で兄をアメリカ旅行へ連れて行くと言われていた。反対に私は連れて行ってもらえなかった。勿論この結果に私は不満だった。そこで両親は私に「来年はオーストラリアに行くからそこには連れて行ってあげるから、お兄ちゃんに今回は譲ってあげて」と言ったのだ。

だがいざ翌年になっても肝心なオーストラリア行きの話すら出てこず、結局私はそのオーストラリア旅行にも連れて行ってもらえなかった、両親によるずるい後出しジャンケンだった。

いつまで経ってもそんなこと、到底納得がいかない。そこで私はどうしてそうなったのかを母に尋ねた。母は

「女の子は旅行中に生理になるから」

とか

「お父さんは飛行機が嫌いなの。だから連れていけない(父同伴の予定だった。ちなみに兄の時は父と一緒ではなく父の会社の社長だった父方の叔父と従兄弟も一緒に行った)」

などと両親自身のことしか考えない訳のわからないことを言いつづけていた。無論私は納得できるはずもなく、私の不満は募るばかりであったのでその不満を母にぶつけたら

「お父さんにぶっとばされなきゃ分からないの?」

と逆ギレする始末。それに「兄は招待された」などと意味不明なことを言い始めた。

私が思うにどちらか一方が旅行に招待となる場合は「断る」という選択肢もあったのではないか。それなのに結局は兄ひとりがいい思いをしたようになってしまったのだ。やはり両親にとって私は単なる将来の介護要員や未来のお手伝いさんでしかなかったのだろう。適当に育てられていたのだろう。将来婿を取らずに嫁に行くとしてもあんまりな結果だ。

そもそも父の飛行機嫌いは私たち子供には関係のないことであり、言うまでもなく父の都合である。それを黙って聞く母・・・。まさに『大人のわがままで子供が犠牲になる』・・・、小学校4年生にしてその言葉って本当にあるものだと実感した。

兄のアメリカ旅行前後は本当に両親は兄のことばかりを構うわけで、私には殆どノータッチで私は家にいても孤独だった。

たとえば家族でひとりだけとはいえ始めての海外旅行、だから準備するものもたくさんあったのか、日に日に兄のものが増えていく。兄も当然ながら家族でひとりだけアメリカに行けると決まって浮かれて私の前で威張り散らしていた。両親も兄のアメリカ旅行で気分がハイになっており、あれもこれも準備しなきゃ!と躍起になっていた。そして兄のパスポートを取りに行き、そこへ私も連れて行かれたが何もなくただむなしさだけが残った。

そして兄の帰国日は本当に最悪だった。学校から帰宅して家に入ろうとしても玄関には鍵をかけられており、鍵も預けられていなかったために、兄たちが帰ってくるまで私はずっと外で待っていた。兄たちが帰宅した時間も薄暗くなる時間だった。それまで私は外で一人で待ちぼうけ・・・、それを見た母は私に「ウチの鍵、渡すの忘れた」と言い放った。

兄はアメリカ旅行から帰っても暫くは私に威張り散らしていた。きっと兄の心の中では「俺はアメリカに行けた。けどお前はバカだから行けなかった!」というような思いがあったのだろう。私はその度に悔しい気持ちになっていった。兄は私に威張り散らすだけではなかった。兄は私にお土産だと言って買ってきてくれた10色のボールペンを突然返してほしいと言い出した。兄曰く「俺が欲しくなったから」。私は兄に

「一度人にあげたものを返すなんて出来ない」

と抵抗するが、乱暴に使ったのかもうすでに書けなくなっているボールペン(こちらもアメリカで買ったもの。兄曰く100年使えるというものだった)を私の元において私の手から10色ボールペンを奪って行ってしまったのだ。私もさすがに悔しくなり母にそのことを訴えた。母は兄を呼びつけて叱ってくれたが、ボールペンは暫く戻らなかった。数ヵ月後になってやっと私の手元にそれは戻った、多分飽きたからと私に戻してきたのだろう。しかも既に書けなくなっている色もあった・・・。

時同じくして私が小学校4年生の頃、今度は私が子供部屋を追い出された。父は兄が中学に進学することもあって子ども部屋(8畳一間)は兄の部屋にすると突然宣言。私のために祖父母が買ってくれた学習机も兄のものになり、私には兄の古い学習机が与えられ、部屋が無いという理由から茶の間脇の廊下(約2畳ほどの広さ)に兄の学習机と2段ベッドのひとつを置いただけの空間を部屋として与えられ、常に監視されて生活をしていた。当然のことながら本来はその場所は廊下であるためベッドの脇はガラス戸であり(一応金属製の雨戸は付いていたが、殆ど役割を果たしていない)冬はとても寒く、寒さで目覚めることもしばしば。これに対して

「お兄ちゃんばっかりどうして?私も部屋が欲しいのに、さすがにこれはおかしい」

と不満を両親にぶつけたが、

「だったらウチの車の中で寝るか?で、勉強する時だけ家に入ればいい」

と言ったと思えば

「庭の犬小屋で暮らせばいい、俺らが小さい頃は普通に犬小屋で寝ていた。飼い犬も一緒だから問題ないだろう?」

などと信じられない言葉を並べていた。母はその隣で私をバカにしてただ笑うだけ。このあたりから兄は「兄の部屋」に私を入れないようになった。兄もそれをいいことに日々私を

「部屋なし」

「廊下部屋」

と馬鹿にしていた。その頃の兄は学校でも実は嫌われていたようだ。通知表の連絡欄には担任の先生から

「女子から嫌われている」

「自分勝手である」

などと書かれていたのを見たことがあった。やはりこうして家で甘やかされていたせいもあってだろう。反対に私は

「情緒不安定気味」

「たまに落ち着きが無い」

などと書かれていた。

 

廊下に部屋が移ってからというもの、宿題をやる気も起きず、日々机に座ってぼーっと過ごすことが増えた。友達も家には呼びたくなかった、バカにされるから。小学校4年生にもなればどこの家も一人部屋もしくは子供部屋に自分がいるわけだから。それなのに私はひとりだけ家の隅っこの廊下。やはりクラスメイトからは廊下部屋を理由に

「貧乏」

「ボロ屋」

などと散々バカにされたのだ。両親にそれを言ってもうちには空き部屋がない、お前はバカだから常に俺ら(両親)が見ていないと宿題もやらないし、勉強だってしないから。お前みたいなバカにはこれがちょうどいい、俺らもお前のバカさに迷惑している!などと私に言い放ち、しまいには廊下でも部屋があるだけありがたいと思えと開き直る始末だった。これに加えて

「お前は女、お兄ちゃんは男。男の方が偉い!」

などと言い放った。おかげで兄は変に自信過剰で平気で暴言を吐いたり暴力を振るう心の弱い人間に育ってしまった。ついでにマザコン、わがまま、過干渉、自己中心主義という要らぬものまで付いてしまったのだ。過干渉なところは母親そっくりである。

廊下部屋は約2年ほど続いた。だがその間それは我が家の火種にもなっており、当時我が家にバイクの事故でケガをして療養に来ていた母方の祖父の一言もあり、小学校6年生頃に自宅北側の4畳半ほどの納屋を部屋として与えられたが、私の学習机も本来私のために祖父母に買って貰った家具も兄の物になってしまい手元に戻ることは無かった。この部屋も隙間風の入る寒い部屋であり、冬場は相変わらず寒い。

女というだけでここまで不遇な待遇をされるものなのだろうか。両親は兄には本当に甘かったとしか思えない。兄が欲しいといったものは何でも買い与える、兄が行きたいと言った場所には必ず連れて行く。私が行きたいと言っても適当な言い訳をつけて父は連れて行けないと言っていた。母は私に

「お父さんが行きたくないって言っているんだから、あきらめてほしい。あんたがあきらめれば丸く収まる」

と。私は別にすぐにアメリカに行きたいなどと無理を言っているわけではなかった。それなのに優先されるのは必ず兄。私は兄ばかりの要望を聞く父に一度ぐらい私の要望も聞いて欲しかったのだが、事もあろうかそれを却下して兄の要望を聞いていたことに私は腹を立てたのだ。そんな中、ある土曜日の夜に父は

「明日はお兄ちゃんを連れて某サーキットにレースを見に行く」

と言い出した。けど私も父に買い物に連れて行ってもらいたいという思いがあったので、そんな父に腹を立てて

「私がここに行きたいと言ってもお父さんはいつも連れて行ってくれないのに、何でいつもお兄ちゃんだけ?」

と聞いたところ、父は

「今回ばかりはお兄ちゃんもどうしてもサーキットに行きたいって言うし、明日行かないともうそのレースが観れなくなる。お前にはお小遣い5000円あげるからそれで我慢してくれ」

と。私はお金の問題じゃないと食いついたのだが、それでも父は兄の要望をかなえるべく必死だった。私はお金が欲しいわけじゃなく、両親に要望を受け入れてもらい楽しく過ごしたいだけなのに。某コマーシャルではないが、『お金で買えない思い出、プライスレス』のようなものが実は子供の心の中では重要である。それも分からないのか、この親は・・・そう悲しく思った。

私が親とどこかに行った思い出といえば、ほぼ全て親が決めた場所だけだった気がする。それも父の要望どおりで。私が全く興味の無い場所へただドライブに行くだけ、またまた私からすれば全く興味の無い田舎の観光地。遠くに旅行へ行くとなっても移動は車かフェリー。飛行機は父が嫌いという理由だけで飛行機を使う場所はいつも却下となる。そしてフェリーで移動となる場所は決まって北海道。母はそれを素直に受け入れていた。

母は父の後ろを歩くような女性だった。私たちが否定しても一言目は私たちを否定、二言目は「お父さんは、お父さんは」と続く。言い方を変えれば亭主関白家庭の妻。父の言うことがいちばんという考えであった。そして前記のとおり男尊女卑の考えだけに家の中での順番は決まって父が一番で兄が二番、そして母が三番でいつも私は最後。無論順番が最後であれば他の家族の言うことは絶対というような理不尽な構図になっていた。そして子供への接し方、常に兄には甘い。その結果兄は母そっくりな過干渉で短気な性格になっていった。中でもマザコン気質、正直言って気持ち悪いと思ったこともあった。たとえば母が私を悪く言うときには決まって一緒になって悪口を言う、否定するなど。まさに某アニメのジャイアンスネ夫のような関係だった。母がジャイアンであれば兄はスネ夫というように。一般論で女性が言われたら傷つくような発言も平気でしていたし、放っておいて欲しいと私が兄に主張しても強引に部屋に押し入って怒鳴りつける、そこで持論を展開して干渉してくるなど・・・殆ど母親をそのままコピーしたようなものである。

正直私は中学ぐらいから家にはいたくなかった。出来れば近い未来に家から出て行きたいとまで考えていたものだ。このような家庭環境が原因で小学校高学年で自殺を考えたこともあった。ただ、唯一救われたのは兄が進学した高校は自宅から車で2時間ほど離れた遠方の私立高校であり学校近くで下宿生活をしていたため、私が中学校2年生の時から普段家にいなかった。ただ、実家に戻ると過干渉が始まる。普段は両親からの過干渉、そして兄がいるときには兄からの過干渉で私はいつもストレスがたまった状態だった。まわりの家族もそれを知らないはずがないが、見て見ぬふり。無論母も父や兄は偉いと思っていたのか、兄からの過度な干渉を支持するぐらいだった。

 

父も今思うと「子供の前で本当に最低」だと思うような言動がたくさんあった。子供の心に深い傷が付くなんて考えなかったのだろうか。今でも忘れられない一言、我が家は決まって父が一番風呂に入る。私が小学校4年生のある日、私も一番風呂に入ってみたいという思いからその日は父より早く風呂場に到着、風呂に入ろうとしていたところ父が現れて

「俺は家の天皇陛下なんだからお前はどけ!」

と押しのけられてしまったのだ。うちには皇族なんていないはず。それなのに・・・、やはりどこかおかしな考えが我が家にはあったのだろう。今思う、独裁者と女帝が常に我が家には存在していた。そしてわがままな王子と灰被り姫・・・

 

その灰被り姫の私は、家にいてもただむなしい、寂しい、劣等感だけが心を支配するようになっていった。次第に悪いことをするようにもなっていった。近所に私より1歳上の女友達がいたのだが、その子とはよく一緒に遊んでいた。彼女も上に姉二人がいるのだが、我が家と同じく両親は上二人の姉ばかり可愛がるものだからその妹である友人はいつも蚊帳の外。小学校5年生にして悪いこと全てをしているのでは?というぐらいに酷かった。親の飲み残した酒を水のように飲んでいたり、友達に平気で嘘をつく。手癖が悪く友達の持ち物を平気で盗んだり店で万引きをしたり。そして休日にはなぜか学校のジャージを着ている。本人にそれを何故かと聞いたら「着る服が無い」と当たり前のように答えていた。

その友人も私の異常に気づいていたのか、よく家に呼んでくれたり一緒に遊んだりもしていた。そんなある日、その友人と近所の個人商店に買い物に出かけたのだが、事もあろうかその友人は手馴れた手つきで陳列棚にあった商品を次から次へとカバンに入れていった。そして何事もなかったかのように店を後にした。私はそれを見て驚き、その場を暫く動くことが出来なかった。彼女は万引きをしていたのだ。そして店を出た私、今あったことが本当に現実に起きているの?と思いながら彼女と歩く。そして店から離れたところで彼女は私に店から盗ったものを「これ、あげる」と私に差し出したのだ。私は喜ぶわけもなく、「あ、はぁ・・・」という感じでほぼ強引に渡されて受け取った。彼女は続けて万引きしたことについては「あ、これね。別に欲しいわけじゃないんだ。ただ盗ってるだけ」とも。

家に帰ってもしばらくその事が頭から離れなかった。「あの子が万引き・・・。万引きって泥棒じゃん!学校でもしちゃダメって言われているのに、どうして?」とずっとそんな事が頭の中をぐるぐるしていた。

そしてその数ヵ月後、私もその友人とともに万引きをするようになっていった。別に何かが欲しいわけでもない。万引きをすることが心の隙間を埋めてくれる、そんな気がしていたのだ。万引きをしたのもその物が欲しいわけでもなかった、だから盗ったものは気前よくいつも学校の友人にあげていた。無論盗んだことは伏せて。だが、それも長くは続かなかった。小学校5年生のある日、店員に万引きが見つかったのだ。結局店員さんに注意をされてその日は帰された。初犯ということもあり、店のご主人の一言で帰された。帰り道、そこで私は「私の万引きが親にバレたらこっちの言い分も聞かずにボコボコにして終わりだろう・・・。正直こんなことをしても嬉しくないのに。例えば私がこの先本当に万引きで捕まっても両親は私のことなんて微塵も考えないんだろうな。塀の向こうに入れられたとしてもきっと厄介払いが出来たぐらいにしか思わないんだろう」と思った。私は泥棒になってしまったのだ。だがこうして見つかるのも嫌、それに盗むのだって本当はしたくない、見つかってもボコボコにされるだけ、良いことなんてひとつも無い!もう二度とやるもんか!と心に誓い、それ以来盗みをすることは無くなった。

盗みをしなくなってからというもの、暫くは穏やかに過ごしていた。だが一人のクラスメイト(女児)に目をつけられてしまった。

着せ替え人形

「私は母にとって一体何だったのだろう・・・ただの着せ替え人形?」

 

母は私が物心付いたころには既に私の好みなどを無視して母好みの服を私に着せて喜んでいた。例えば一緒に服を買いに行っても母好みの服を選ばれて私が着たい服など着せてもらえないなど。幼少期なんて母の作った服しか着せてもらえなかったし。

そんなわけで小学生になった頃には完全に母の着せ替え人形と化していた。そんな中、私はやはり女子だけにスカートを履きたいと思っていた。だがある日母は出処が分からないお下がりのジャージの上下を持ってきて、私にそれを無理矢理着せたのだ。そしてそのジャージを無理矢理着せられた状態で私はそのまま母と兄と一緒に買い物に出かけ、出先で「そこのボク!」と見知らぬ男から男の子と間違えられたことにショックを受けた。それを見た母はひたすら爆笑するのみ。兄も笑う。

通学用の靴も兄とおそろいのかわいいとは言い難いものを勝手に買ってきて私に履かせたのだ。他の友達は赤やピンクのかわいいデザインのものを履いている、それなのに何でこんな男の子のようなデザインの・・・、履きたくない。そこで母に

「こんなの履きたくない!もっとかわいいのがいい!」

と訴えるも母は

「わがまま言うんじゃない!かっこいいんだから、これを履きなさい!」

と言うだけだった。それから兄のお下がりの服を着せるなど、私は到底世間一般の女の子が求めるものとはかけ離れた外見になっていった。スカートなんて履かせてくれない、いつも半ズボン止まり。そして学校へ行けば女子の友達に

「何ではる香ちゃんはそんな男っぽいものを着てるの?靴だって男の子のじゃない。可愛くないし」

と言われる始末。その都度泣きたくなるほど悲しくなったのは忘れない。無論その都度母に私は抗議する。だが聞いてくれない。いつも

「だってかっこいいじゃない?」

と言われるだけ。兄には好みの服を買い与えているのにどうして・・・?と子供心ながらにいつも考えていた。

 

母は私が小学校に入ってからは、幼稚園の頃のようなかわいい服を作ることもなくなった。幼稚園の頃にはしょっちゅうお姫様のようなフリフリしたかわいい服をよく作っては着せてくれた。それなのに今は私に服も作らなければ男の子のような格好をさせられて・・・。それだけじゃなく女の子のような格好をしたいならと、母は自身が若い頃に着ていた服を持ち出して私に着せ始めた。もちろんその服は時代遅れでださいデザインのものばかりで、とてもじゃないがこれもかわいいとは言い難いものだった。けれどここでも「嫌」といえば母が機嫌を損ねることは知っていたので、私は耐えることしか出来なかった。

 

ただ、全てが母や兄のお下がりばかりだったわけではない。たまに母方の親戚のお姉ちゃんからのお下がりで服を大量に貰うことがあった。だが殆どがサイズが合わない、私には大きすぎたのだった。それでも母は無理矢理私に着せようとしていた。私なりにも兄のお下がりを着るよりはまだいいと、大きいサイズのものでも無理に着ることも増えていた。正直、その親戚のお下がりですら私は嬉しかったわけではなかった。あくまでも「まだマシ」の分類だった。

私は私好みの服を着たい、ただそれだけだった。

それが毎度毎度兄や母のお下がりばかり、更には親戚のお下がりという・・・全てお下がりだけで間に合わせようとする母の心境を理解できずにいた。前記のとおり兄には兄好みのものや性別にあったものをちゃんと着せているのに、なぜ私だけ女なのに男の服を着せられて、更には母の時代遅れのお下がりばかり?本当に悲しくて仕方がなかった。買い物へ行ったときに同級生に会うのが嫌だった。それは「自分が好きな服を着られない」から。嫌々着ている服装で友達になんて会いたくない、こんな格好見られたくない、恥ずかしいとずっと思っていた。

だが母はお下がりを着る私を見ていつも「似合っている」と絶賛した。どれだけ母が絶賛しても私は嬉しくなかった。

 

そんなある日のこと。母と服を買いに行ったときに私はあるワンピースを見つけてそれを母におねだりした。白い柔らかい生地で出来たレースやリボンのついた女の子らしいかわいいワンピースだった。どうしてもそれが欲しかった・・・。

だが母は

「あんたになんて似合わない、こんなバカみたいなもの!試着してみなさいよ、どれだけおかしいか自分でも分かるはずだ」

と無理矢理試着をさせられた。私は無理矢理ではあったものの、実際に試着をしたそのワンピースを気に入ったのだ。だが、試着した姿を見た母はここでも

「ほら、似合わない!何だか服に着られちゃってる感じがするねぇ。それにこんなデブデブしたあんたがこんなもの着て歩いたら笑われるでしょ?豚がフリフリの服を無理矢理着たみたい、おかしいわ!それともチンドン屋?アハハ!」

と小ばかにしたように私に言い放った。それだけじゃなく、近くにいた私たちとは全くの無関係の買い物客や店員にも「ねー、コレ似合わないでしょう?」と同意を求めていたのだ。この日はショックで眠れなかったことを今でも覚えている。

これ以外にも学芸会などで女の子っぽい格好をしても「太ってきたからおかしい」や「ドレスを着たミニラみたいだ」などと散々バカにされ笑われた。

 

小学校の修学旅行やその他私服で行く学校の行事で着る服も母が勝手に選んで私に着せて行かされた。もちろんそんなもの嬉しくもない、他の友達はみんな自分で選んだものを着ているのに。そう思って服を買いに行く時にいつも「私が選ぶ!」と言っても母は聞く耳を持たず。勝手に陳列棚から母の好みの服を持ってきて買うというもの。それに納得できず抗議をしたこともあったが、私は母からいつも

「誰がお金を出していると思う?買ってもらってるくせに生意気!」

などと罵倒された。

 

そんな中、小学校6年生の頃の学習発表会にて私服を着る機会が出てきた。そこで自宅近くのスーパーへ行き、子供服売り場で服を探していた。だが、そこで買ってもらえたのはセール品。緑色の上下の服だったが、明らかに私が着たかったものとは全然違うものだった。そしてその緑色の服を着て翌日学校へ行ったら同じクラスの女児数名から

「あ、これ○○のスーパーで安売りされていたやつでしょ?」

「はる香ちゃんちは貧乏だから仕方ないか~」

などとバカにされた。

それだけではなく貧乏という単語が出てきた途端、今度は「家が小さいから貧乏」というところに結びついてしまい、貧乏一家とまで言われてしまう有様だった。周りの子たちは自分で選んだであろうかわいい服を着ていた。その中で私はセール品・・・、格好悪い。もう学校に行きたくない、バカにされるから。

それから母が好きな色は黄色。そこで私は黄色のものをよく身につけさせられていた。

「お母さん黄色って好きなの!」

としきりに話しながら・・・。その反動からか、今は黄色の服や小物は基本的に嫌いであり、あまり持ちたくないと思っている。無論身につけるのも嫌だ。

 

母がこだわっていたのは服装だけではない。実は私の髪型もいつもショートカットにさせられていた。実際に髪を伸ばすことを認められたのは高校入学後。それまでは無理にでもショート(刈り上げた髪型や虎刈り)にさせられた。

おかげで幼少期におしゃれな髪飾りをつけられなかった。ついでに前記の通り男子に間違えられて嫌な思いをするのだ。七五三が終わってからも私の意見など聞かずにすぐに髪はバッサリと切り落とされた。そして母のお気に入りのショートヘアにさせられた。周りの子たちは髪にリボンを着けていたりもしたが、私はそれも許されなかった。

少しでも伸びると「こっちに来なさい!」と無理矢理玄関に連れて行かれ、散髪用ケープをかけられて母が嬉しそうに髪を切るのだ。そして仕上がった髪型、ショートヘア。無論私は切って欲しくないと言ったのだが、母は

「あんたは髪の毛短いほうが似合うんだよね!髪が長い子を見てご覧よ、だらしないでしょ?ボサボサでお化けみたいで」

などと持論を私に聞かせて私を洗脳しようと必死になる。

 

「・・・私だって女の子だもん、お下げ頭だってしてみたいし、ひとつに結わえてポニーテールにだってしたい。それに可愛い髪飾りも・・・」

 

私は母に髪を切られるたびに泣いていた。ちなみに母はいつも坊主に近いショートヘアだった。母の髪の長さは長い時でも国会議員蓮舫ぐらいの長さだった。そして小学生の私の前でテレビを見ている母、いつも褒め称えるのは髪の短いタレントさんや女優さん。時には私を無理矢理美容院に連れて行って「荻野目洋子みたいにしてください!」と母が勝手に注文をつけて短くされたこともあった。だけど私は母とは反対に髪の長い女優さんやタレントさんが好きだった、中山美穂浅香唯、そして同年代の子役だったら間下このみちゃんやテンテンちゃん(80年代後半のキョンシー映画に出ていた台湾の子役)など。彼女たちみたいに長くきれいな髪になりたいとずっと願っていたのだ。それを両親に話したところ

「美人はみんな髪が短い。ブスだからみんな髪を伸ばすものだ」

などと訳の分からない持論を延々と私に話し続けるのであった。そんなある日、学校で髪を伸ばすことが流行り始めたのだ。クラスの女子はみんな可愛いヘアピンなどの髪飾りをしているが、私の髪にはそれは無かった。そう、髪が短かったから。周りからは「男女(おとこおんな)」などとからかわれることもしばしば。それだけじゃなく、和田アキ子だの東海林のり子(私は丸顔だったため)だのとまで言われる始末。少なくとも小学生女児からすればもっと若い人に例えられたいのだが。

それ以前に私はヘアアクセサリーというものには本当に強い憧れがあった。けれど髪が短く付けられないが、可愛いものが欲しいと思って安く売っているヘアアクセサリー類は少ないお小遣いで買っていた。だけど髪を伸ばすことも許されていなかったために着ける機会なんてそうあるわけもなく、結局は友人や従姉妹にあげてしまう。

そして従姉妹もいつも可愛いヘアアクセサリーを当たり前のように着けている。私はそれを見ていつも羨むばかりであった。何度も母に髪を切らないでほしい!と懇願したが母は私が髪を伸ばすことを許してくれることは無かった。

余談だが母は私が中学校2年の終わりから3年の前半頃に一度だけおかっぱ程度の長さに髪を伸ばした。だが正直言って似合わない・・・。本人は好きでそのヘアスタイルにしているのだろうが、どう見ても似合わないのだ。そこで私は今までの恨みもあって敢えて

「似合わない!」

「それってカツラ?」

「頼むからこの髪型で参観日に来ないで」と言ってやった。

ついでに母親に「沙悟八戒(髪型がおかっぱ、体型がブタということで孫悟空沙悟浄猪八戒を足した)」とあだ名まで付けた。実際に私は母に

「似合わないしどう見ても沙悟八戒だろ!」

と笑い飛ばしたら、母は真面目にキレ始めたのだ。

母が今まで私にしてきたことを考えればその「沙悟八戒」なんていうあだ名なんて数万分の一にしかならないだろう!それが当時の私の精一杯の仕返しだった。

「沙悟八戒」が功を奏したのか、母はその後間もなくして髪形を元の短い髪型に戻した。ついでにおかっぱだった母の髪が薄かったら恐らくその時付いたあだ名は「アルシンド」か「落ち武者」だっただろう。

 

靴も可愛い靴を相変わらず買ってもらうことは無かった。ボロボロになるまで履いて・・・しまいには兄のお下がりということも珍しく無かった。やはり周りを見ても女子らしい可愛いデザインのものばかり。私がここで買ってもらえた靴は、安売りになっていた緑色の女の子向けの靴。それと白い靴1足ずつ。

それでも嬉しかったが、私は本当はその時、あるメーカーの赤い運動靴がどうしても欲しかったのだ。だが母も私たちと一緒に靴を買いに行った兄も

「これはお前に似合わない」

などと言い始めて結局買ってもらえなかった。だが兄にはそれと同じメーカーの黒い靴を買ってあげていた。心の中では

「別に私はそれじゃなくても、自分で選ばせてくれてそれを買ってくれればいいのに。またお兄ちゃんだけ・・・」

と悲しくなった。

服も相変わらず母好みの服を買い与えられた。色も黄色とかそういうもので。その中で唯一私が選べたワンピースがあったのだ。私は気に入って着ていたのだが、母も兄も「安っぽい」「妊婦みたい」などとバカにするばかり。私は一体何なのだろう・・・。そういう気持ちになりながらファッション雑誌をみていた。そこで可愛い服が取り上げられていて母におねだりしても

「アンタには似合わない!こんな安っぽくて田舎くさい服。お母さんだったらもっと可愛いのを選んであげるのに」

と。そして母が選んだ服は到底可愛いと思えない時代遅れのものばかり。

 

ある小学校5年生の終わりに母方の親戚から大量のお下がり服を貰った。母は助かる!と大喜び。私にとっては好みのものも無い、母が喜ぶからとりあえず着るか・・・というような気持ちであった。

デザインも全て時代遅れで生地も古い。何度も洗濯をしているせいか色あせもありで。無論それらはブランド服でもない。小学校高学年にもなれば服や身につけるものは自分の好みがはっきりしてくるので自分で選ぶものだろう、それなのにそういう機会があっても母は決して私に服を選ばせる機会などくれなかった。

6年生になれば卒業アルバムの写真撮影もあるわけで、皆おしゃれをしてくる。中にはハイセンスなファッションセンスの姉がいる家の子だとそのハイセンスなお下がりを着ていたり、そうでなくてもアルバム撮影のために新しく服を買ってもらった子もいた。更にはヘアアクセサリーを仲良しの友達とおそろいにする子もいた。反対に私が着ていた服、それは親戚からのお下がりの時代遅れな服。ヨレヨレで色あせも普通にあり見るからに普通にお下がりだと分かる服をこういう大事な日に着せられてしまったのだ。無論教室に入って他の友達の服を見てすごく悲しい気持ちになった。

髪もカリメロみたいな変な髪形でヘアアクセサリーも付けられず・・・。私も可愛いヘアスタイルにしたかった。

 

この他にも母によって叔母が編み物の練習に編んだベスト(お世辞にも上手とはいえないシロモノ)や母の知り合いから貰ったセンスの悪いお下がり(小学校低学年の子が着るようなキャラクター物もあった)を何度も着せられた。その度にクラスメイトたちからはお下がりだとすぐにバレて

「貧乏」

こじき

などと呼ばれた。それだけじゃなく

「どこのゴミ捨て場から拾ってきたの?」

というような心無い言葉までかけられた。お下がりは中学校1年生ぐらいまで続くこととなった。中には生理用の下着まであったぐらい。しかもそれには油性ペンで元の持ち主の名前がデカデカと書いてあるというお粗末なもの・・・。人が見える場所に身につけるものではなくとも正直恥ずかしくて結局それは一度も身につけることなくこっそり廃棄処分となった。だいたい名前の書いてある下着などをお下がりとして誰かにあげようとする人の気持ちは今でも理解しがたい。

 

はぁ、もう完全に私は母の「着せ替え人形」・・・。小学生で既にこの気持ちは芽生えていた。

 

そんな小学生時代を過ごしていた私、さすがに少しは改善されるだろうと思っていたが、中学にあがっても高校に進学しても改善される見込みなどなかった。

兄にはナイキとかコスビーとかのブランド服をねだられた通りに買い与えるが、私には相変わらずワゴンセール品やバーゲン品。当時中高生の私にはその待遇だった。それについて母は

「お兄ちゃんは独り暮しをしているんだし、それだけにみすぼらしく見られては困るでしょ?」

と。それをいいことに兄は高価なものをおねだりするようになり、兄の周りはブランド物の小物や服、ナイキなどの高価なハイブランドの靴、それも履ききれない量の靴で当時兄の住んでいた下宿の部屋の入口の靴箱があふれかえっていた。一方私はブランド服が買えるほどの小遣いももらえず(月2~3000円ほど)。バイトをすることも許されなかった。

中高生ぐらいになればちょっとしたブランド物に憧れるでしょう、それなのに母はいつも私にはワゴンセール品やバーゲンで売られている安い服。私もブランド服への憧れもあってか仲の良い友人から安くブランドの古着を売ってもらうなどもした。

その友人も我が家の環境については理解していたのだ。そのせいか、度々

「ねーはる香、○○のカーディガンあるんだけど、買わない?」

などとよく持ちかけてきては安値で売ってくれた。その度にその友人には感謝していた。

 

ハイブランドの靴を履く兄とは反対に私の靴は穴が開くまで履いていたこともあった。そして買ってもらえたとしてもこちらも安売りされているものや、数年前のデザインであり今履くには既にダサいデザインに成り下がったものばかり。

バイトが出来るようになってから、やっと自分で学校のある地区の少しオシャレなお店で服や靴を買うようになったが、それも母に見つかると

「あんたにそんなもの似合うわけない!レシートある?お母さんそれ返品してくるから!」

と息巻いていたものだ。それだけではなく母からは私が選ぶもの買うものは全て「無駄遣い」認定されてしまい、バイトで稼いだお金も取り上げられそうにもなった。

 

社会人になってからも暫くは私が服を買うときに母は無理矢理付いてきては私が着たくない服を無理に選んで私に買わせていた。例えば少し高いブランドのスーツや紺地のブレザーにチェックの膝下スカートなど。靴もローヒールだったりローファーだったり。どう見ても「良家のお嬢様」にしか見えないようなもの。

母は「私は娘のスタイリスト」だと勘違いしていた。出かける際の服装や出勤時の服装をいちいちチェック。気に入らなければ「着替えてこい、これはダサい」などと出勤前でも無理やり着替えさせられることもしばしば。

いちばん困ったのはある出張の日の朝。スーツを着て出かけようとしていたところ、「このカバンはダサいし安っぽい。ブランド物に変えろ!髪形も田舎くさいから今すぐ結わえるか何とかしろ(当時ショートだったので、どう変えれば?となった。例えるなら韓国ドラマ「冬のソナタ」の成人したユジンぐらいの長さだった)!」と急いでいるのに無理やり呼び止めた。無論母は私がカバンや髪型を変えるまで玄関のドアの前から動かない。カバンも無理に小さい肩掛けのもの(母曰く「高級ブランドだから小さくても抵抗はない」)に変えさせられてA4の会議の資料が入らず困った。これについては会社に着いてから先輩に事情を説明してブリーフケースを借りることが出来て事なきを得た。そもそも母は出張の時の服装などについてはどう考えていたのだろう、仕事という以前にビジネスパートナーの会社に出向くわけでファッションショーに出るわけでもなければ雑誌の読者モデルになって撮影に出かけるわけでもない。当然遊びに行くわけでもないのでそれなりの服装は心がけていたつもりだったが、母からすれば出張も実はおしゃれして出かけるものだという認識だったのだろう。この時点で何か勘違いをしていたとしか思えない。

 

この反動なのか、私は社会人になってから一時期自分が稼いだお金は全てブランド服や靴や小物に費やすようになった。服を買うのはいつも決まってブランドのブティックやデパートのブランドのショップなど。18歳でシャネルのスーツを買って着ていた時もあった。高い買い物をしても私はそれを決して無駄遣いとも思わず、ただ母の言うとおりにしたくない一心で。

ただ、今となってはブランド服はあまり着ずファストファッションセレクトショップで服を買うようになった。ファッション雑誌も青文字系のものを好んでいる。そして着こなしやアレンジなど、自分で手を加えることも増え、周りからもおしゃれだと褒められることが多い。中にはどこで買ったのかを聞いてくる人も現れたぐらいである。

実はそのつもりは全く無かったが、夫にも服のコーディネートを任されるぐらいである。嬉しいことに夫は私が贈ったネクタイ、それから譲ったネクタイを出張のたびにずっと着けていてくれている。実はこれは私が自分で使うために買った某パンク系ブランドのメンズ物の紺色のネクタイと、同じブランドのゴールド系のネクタイだ。ある出張の前にネクタイの事で困っていた夫に「あまり使わなくなったから、もしよかったらこれを使う?」と譲ったものと父の日に贈ったものである。

 

さすがにもう私は誰の着せ替え人形でもない。息子を自身の着せ替え人形にするつもりも無い。息子が着るものはいつも息子に選ばせている。無論指図はしない。

彼はいつも私がよく行くファストファッションのお店やスーパーの衣料品売り場にあるような安くて良品なものだったりキャラクター物の服を選び、さらに少し可愛いデザインのものを選ぶが、それについても私は基本的に口出しをすることはしない。サイズさえ合っていれば良いと思っているから。靴にしても普段使いのものだってそう。幼稚園で使う小物類も本人に選ばせている。ネットで買う場合にも息子本人にちゃんとどういうものかを見せて、確認してから買うようにしている。

当然息子にも選択をする自由があり、息子にも好みがあるのだからそれを尊重していきたい。それは私と夫の希望でもある。